断章1

「薬……?」

 まるで小動物が作った巣のようだ、と最初は思った。食品庫に設置された籠の中には、職場で余ったものなのか、袋入りの菓子パンや惣菜パンが無造作に放り込まれていた。二日ぶりに目覚めてようやく口にするものがこれか、と内心で心配しないでもなかったが、毎日三食出来合いのパン、という可能性が浮上してきて、流石に引く。

 若い男性の一人暮らしなんて、存外こんなものだろうか。長らく人に仕えていないからわからない。人を避けるようになってから、人間の暮らし自体は外から観察できても、誰かの生活空間そのものに入ることは滅多になくなった。

 僕と契約を交わした人間は、一人の例外もなくすぐに死んだ。……壊れるように。その原因が自分にあると自覚してからは、人と契約を交わすのをやめた。そのうち人と関わりを持つこと自体がなくなった。

 だから、家主が仕事でいない間に家探しをしている、と言えば聞こえは悪いが、これも自分にとっては必要な作業だった。

 幸せにしてあげたい、と思う。きっと悪魔としての本能でしかないのだろうけれど。

 生活を共にする者として、この家の中のことを把握しておきたかったのだ。何を要求されても応えられるように。彼の悪魔として振る舞えるように。

 ……なのに、真っ先に彼の秘密を掘り当ててしまう。きっと僕は神に目をつけられている。

 巣の底に、食料で覆い隠すように埋められていたのは、ビニール袋ではなく紙袋だった。白地に薄い青色の枠。その中に印刷された、「のみぐすり」の字。真渕響様という宛名書き。

 尋常な量ではなかった。風邪を拗らせた時に処方されたのだという言い訳など到底立たないほどの錠剤が、中には入っていた。最近病院に行ったばかりらしく、袋はパンパンに膨らんでいる。毎日欠かさず飲むことを義務づけられでもしない限り、こうはならない。

 その予想を裏付けるように、紙袋に「一日二回 朝食後就寝時服用」と書いてあるのを見つける。……百日分。そっと元の場所に戻した。それを覆い隠す食料の配置も、できるだけ変化のないよう慎重に直す。

 巣の修復を終えて、ふと思い立って冷蔵庫を開けた。調味料すらまともに揃っていない、だだっ広い空間が僕を出迎える。自殺する前の人間の生活空間みたいだった。水だけはポケットに常備されているようで、それが余計に寂寥感を増幅させた。

 ──これに細工をすれば、すぐにでもあの魂を喰らえる。

 ありもしない……あってはならない思考がどこからか湧き上がってきて、咄嗟に頭を押さえた。一拍遅れて、猛烈な頭痛が襲いかかる。ずく、と槍でこめかみを一突きされたような鋭い痛みが脳を貫通し、視界にはたちまちノイズが混ざる。右側からじわじわと砂嵐が侵食してきて、思わず膝を折った。

 意識、が……遠ざか……、まずい、早く、早く戻さないと。

 はやく、元に。

 おなかを、いっぱいに、しないと。

 魂を──


 ──プルルルルル。


 突如として鳴り響いたけたたましい音に、意識が覚醒する。我に返って顔を上げた。……電話?

「……はい、」

 吸い込まれるように立ち上がってゆらゆらと前に進み、受話器を取った。……本当は少しぐらい悩むべきだったのかもしれない。この家には本来、真渕響以外の人間はいないのだから。

『カルドか⁉︎ 今から店に──』

 彼の声だと認識した次の瞬間、その背後に轟音が響いた。余裕のない叫び声。思わず名前を呼んだ。受話器を持つ手が震えている。

 ……血の気が引いた。「あいつ」だと思った。あまりにも早い。が、予測はしていた。人里に下りれば必ず見つかる。それは織り込み済みだったはずじゃないか。


『──人探しなど不毛です。合理的でない』


 もうあれから何年になるだろう。初めてあいつに話しかけられた日のことを思い出した。……思い出したくもないはずなのに。

『どうせ魔物に堕ちるなら、全て巻き込んでしまえばいい。心中です』

『人間も、悪魔も、全員まとめて不幸の渦に突き落とすんですよ。それこそ真の平等というものです』

『貴方と私の力があれば、この世界ごと終わらせることも可能というわけですよ。──どうです? そそられませんか?』


「……」

 早く彼を──響君を殺して、死ななきゃいけなかった。僕が殺さなかったから、彼は今、危険な目に遭っている。──そんな因果関係を当然のように頭の中に思い描いている自分に気づいて、自嘲的な笑みが零れた。助けなければ、と思う。殺さなかったことを嘆いているくせに。

 ……守りたい。でも。

 自分の手に、自然と目が行った。

 残りの魔力量を考えたらあまりにも無謀だ。この前の魔物を殺した時でさえ、限界だった。

 いや、むしろあの時は幸運だった。彼が一時的に意識をなくしてくれなかったら、僕は体裁すら保てなかった。……悪魔という体裁すら。

 地面に這い蹲りながら、獣のように呻く自分の姿。

 この自我を冒そうとする頭痛や耳鳴りと闘って、必死に歯を食いしばりながら正気を保って──そんな姿、彼に見せられるはずがない。

 まだ抑え込める可能性もある。けれど、何より自信がない。……怖い。

 自分が自分でなくなるのが怖い。本能のままに凶暴な姿を晒して、彼に襲いかかってしまうかもしれない自分が怖い。拒絶されるのが──怖い。

「…………ッ、」

 気づけば八つ当たりするように受話器を叩きつけていた。一歩も動いていないのに息が上がっている。

 助けなければ。じゃないと意味がない。ここまで生きてきた意味が。

 でも、ダメだ。今の僕ではあいつに到底太刀打ちできない。それどころか──

「………………いや待て、落ち着け」

 額に手を当て、一度深呼吸する。……あいつの仕業なら、電話は真っ先に使えなくなるはずだ。嗜虐心からわざと連絡手段を生かしておく可能性も捨てきれないけれど、それなら彼を人質に取って僕を呼び出すぐらいするだろう。人質を痛めつけることもおそらく、厭わない。単純な暴力だけを手段とするタイプではない。だとしたら……

 ──魔物堕ち、か。

 だったら頼れる相手がいないでもない。気は進まないが、今更関わる相手の選り好みなどしていられる立場ではなかった。背に腹はかえられない。

「……助けられなくて、ごめん」

 相手のいない謝罪を口にし、宙に向かって陣を描く。数百年ぶりに繋いだ生まれ故郷への扉は、異物を拒まず大口を開けた。




 魔物堕ちが処理され元通りになった事件現場には、大量の悪魔が待機していた。誰も彼もが聖職者の装束を身に纏っていて、色々な意味で気味が悪い。

 しかし、怯んで引き返すわけにもいかなかった。一定の歩調で集団に近づいていくと、異物を認めた集団の一人が悲鳴をあげて後ずさった。驚きと恐怖は黒衣の集団の間だけで伝播し、やがてざわめきが起こる。……予想通りの反応だ。

 銀の悪魔だ、同胞殺しだ──そんな声がどこからともなく聞こえてきて、改めて自分の境遇というものを思い知る。別に気を悪くしたりはしない。もう慣れたことだ。もちろん、嬉しくもないわけだが。

 黙っていると攻撃されかねないので、危害を加える意思はないと両手を挙げた。

「何しに来た! この死に損ないが!」

 勇敢な一人が声をあげた。僕のことを「死に損ない」と呼ぶあたり、なかなかの古株か相当な歴史好きだろう。つまり、僕を悪魔の住む世界から追い出した張本人か、遥か昔のその出来事を詳しく知っている歴史マニアか、という話だ。

「何って、お礼を言いに来ただけなんだけど。いらなかったかな?」

「今更復讐にでも来たつもりか!」

「お礼ってそっちじゃないんだけど……」そんなに物騒に見えるのか、僕は。「……まあいいや。キミじゃ話にならないから、隊長呼んでくれる? もともとルーラに話があって来ただけだし」

「貴様ッ──」

「やめなさい見苦しい」

 黒衣の海を割って姿を現したのは、赤い髪が目を引く修道女だった。黒いフードは頭の上から取り払われていて、天界の側についた悪魔の中でも相当不真面目なのがわかる。これが「悪魔狩り」の一つの隊を任されているのだから笑ってしまう。ある意味では、規範に囚われない人材の登用とも言えるのかもしれないが。

「今更戻ってきて、なんの用かしら。私には早く消えてほしかったんじゃなかったの?」

「あれは建前。──っていうのも半分建前だけど。……まあ、頭ぐらいは下げないと礼儀に反すると思ってね。……ありがとう。助かった」

 粛々と頭を下げる。それだけでルーラの後ろはどよめきだし、自分の背中には弱みという名の重圧がここぞとばかりにのしかかってくる。吐きそうだった。

「……あなたが事務所に駆け込んできた時にも言ったはずよ。頭を下げられる義理はない。これが私たちの仕事なの。気色が悪いから顔を上げなさい」

 お言葉に甘えて、顔を上げる。無表情が常のルーラの顔は、険しく歪んでいた。

「……あなたがあんなに必死になっているところ、初めて見た。『助けてくれ』なんて弱者の言葉もね」

「そうだったかな」

「カマトトぶらないで頂戴」静かに燃える怒りの熱が、僕に胸焼けを起こさせる。「人間界に拠点を移した時だって、ヘラヘラ笑って虚勢張ってたくせに」

「……何? もしかして嫉妬でもしてくれてるのかい。僕が彼のために動いているからって」

「──っ、」

 途端、ルーラの右手が動いた。その軌道を慎重に読んで、身を引く。悪魔が相手ならなおさら、触れされるわけにはいかなかった。

 無事にルーラの手が空を切る。

「……いきなり平手打ちなんて、ひどいな」僕は肩をすくめながら笑った。「僕に触ると死ぬよ?」

 掠られてもいない襟を整えて、忠告する。悪魔の世界では説明不要の常識だ。ルーラが右手を躊躇いがちに下ろして、視線を落とした。

「……火傷ぐらいだったら安いものなのだけれどね」

「キミも結構積極的なところがあるよねぇ。そんなに触りたい?」

「戯言ね。そのムカつく顔に一発入れてやりたいだけよ」

「ははっ、上等」反射的に笑って、急速に冷める。いつもこの繰り返しだ。常に洒落にならないような問題が頭にちらついているから、いかなる時も無防備になることを心が拒む。愉快になんてなりきれないから、薄く笑って体裁だけを取り繕っている。「……でも、そうだな。いざという時は頼むよ。その炎で」

「……なんで『いざという時』なんて言葉が出てくるのかしらね。あの人間と契約しているのなら、魔力の心配はないはずじゃないのかしら」

「カマトトぶるねぇ、キミも。さっき言ったはずだよ。想う力があればなんとでもなるって」

「それがどうにもならないから私で保険をかけているんでしょう。悪魔自身の精神力で魔力を作るなんて、聞いたことがない。……常軌を逸しているとしか思えないわ」

「後ろ指を指されてこその先駆者だよ。そのうち特許が取れるかもしれないねぇ」

 そう言った瞬間、辺りの空気が急激に熱を帯びた。溶けそうなほどの熱気。──気が狂いそうになるほどの魔力濃度。本当に刹那的に正気を失いかけて、その危機感から我に返る。

「…………お願いだから、私を怒らせないで頂戴」

 感情的になって震える声に、思わず息を呑んだ。……哀しませないでの間違いだろう。

「悪かったよ。泣かないで」

「泣いてなんかないでしょう!」

「わかったわかった。熱いからやめて」

 今や条件反射となった笑顔を浮かべながら、本当にどこか溶けているのではないかと頬を拭った。これが悪魔自身の精神力で増幅された魔力でないなら、一体なんだというのだろうか。

「お詫びにひとつ本当のことを言うよ。僕が想定する『いざという時』っていうのはいくつかあってね。ひとつはキミの言う通り、魔力切れによる魔物化。もうひとつは藤沢君の家の件で──」


 ──この程度で安心した気になるなんて、僕は本当に勝手だ。


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