第9話

「……とにかくイコマ、あなたの魂は多くの魔物に狙われる稀少な代物なの」

 頰を若干赤らめたルーラが、咳払いを挟んで会話を本筋に戻した。

「魔物だけじゃない。悪魔だってこぞってあなたの魂を自分のものにしたがるはずよ。悪魔と契約することに関してはあなたの自由だし、私も口出しはしない。でも魔物や魔物堕ちにだけは気をつけてほしいの。奴らに交渉の手段はない。あるのは実力行使だけ。だから、あなたにはこれから定期的に、魔術の講習を受けてもらう。自衛の手段としてね。講師は私か……手が離せない時には私の部下を代わりに向かわせるわ。信頼できる子がいるから、安心して。場所はあなたの家でも、どこか別の場所でも構わない。指定してくれればこちらが合わせるから」

「え! そ、そんなことまで……」

「随分と丁重なもてなしだね。少し過剰な歓待のような気もするけれど。いくら質がいいとは言っても、歴史上類を見ないってほどでもないだろう。広い範囲で見れば、これくらいの魂を持った人間はほかにいくらでもいる」

 恐縮なのか萎縮なのかわからないが、戸惑う藤沢に代わって、カルドが口を挟んだ。彼らの目には魂という物質の形が視えているのだろうが、ただの人間である俺たちには何のことやらさっぱりだ。

「まさか囲い込んで飼育でもする気?」

「悪趣味な発想を押しつけないでもらえるかしら。私には思いつきもしなかった。……感知担当の部下が言っていたのよ。イコマからは妙な匂いがするって。私やあなたでも確認できないような、高等な魔力の気配を感じ取ってる。おそらく下級の魔物じゃないわ。知性によって巧妙に隠された魔力の残滓なら……まず間違いなく悪魔でしょうね」

「ただ目をつけてるってだけじゃないのかい? 僕も、彼に契約を持ちかける前に何度か人間として接触したよ。人間だって自分が食べる食材の産地や成分表示は気にするものだし、多少見極めの期間があっても不思議じゃない。……ねぇ響君?」

「……悪魔ってのはどいつもこいつもこんな陰湿なのかよ?」

 絡め取るような視線とともに水を向けられ、俺はわずかな狼狽を隠しながら応答した。

「お前、今だから言うけど美形じゃなかったら割とマジで通報案件だぞ。自分の顔に感謝しろよ」

「嫌だなあ響君。僕ほど明け透けでわかりやすい男もそういないよ? だいたい、品定めしないうちから契約の話を持ちかける悪魔なんて、数打ちゃ当たると思ってるナンパ師と同じなんだから。急に『自分は悪魔なんだけど〜』なんて言って魂譲れとか迫られても困っちゃうでしょ? こういうのは気配を徐々に感じさせていくのが大事なんだって。『この人は普通の人とは何か違うな』って思わせるような気配。ホラー映画と同じ手法だよ」

「だったら悪霊レベルで陰湿だろ……」

「こんな奴らは放っておいて──イコマ。何か心当たりはない? 最近身の周りで不審な人影を見るとか、変なことが起こるとか」

 おそらく本気で言ってもいないカルドの主張を俺が両断したと見るや否や、ルーラが藤沢の方に前傾姿勢をとった。俺がカルドの処理係に回されているのも癪だが、それ以上に「こんな奴ら」と一括りにされているのがどうも腑に落ちない。閉口気味にルーラに視線を送ると、非難がましい視線を向けている人物は彼女の横にもいた。……同じことをするなよ。一緒くたにされても文句言えなくなるだろ。

「ええと、悪魔とか魔物とかの関係かはわかりませんけど……あるにはあります。家で停電とか、しょっちゅうで」

「その話、詳しく聞かせてもらえるかしら」

「はい。……でも、体感的に停電の回数が多いような気がするっていうだけで、身の危険を感じたことはないんです。ただ、ブレーカーが落ちるほどの電力は使っていないはずなので、不思議だなとは思っていて。同じマンションの人から似たような話を聞いたこともなかったので、たぶんうちの部屋だけなんだと思います。……ああ、あと、使ってないはずの家電の電源が気づいたら点いてるっていうのもたまにあります。テレビとか、あと使ってない部屋の照明とかですね。トイレとかならまだしも、風呂場の電気は流石に消し忘れないと思うので、間違いはないかと」

「藤沢……それ普通に事故物件なんじゃ……?」

 というか、それだけ変なことが起きて身の危険を感じない肝の太さに感心する。俺だったらすぐに引っ越しを考えることだろう。……まあ、そう簡単に引っ越しできるほど金と時間の余裕がないし、なんなら事故物件並みの家賃じゃないと生活できない可能性まであるわけだが。

「その、こんなこと皆さんの前で言うのもちょっと情けないですけど、今おれが住んでるのって親が用意してくれた部屋で。だからなんというか、ちゃんとしたところだとは思うんですよね。安上がりだからって黙って事故物件を選ぶ親ではないと思ってますし、知らず知らずのうちに事故物件掴まされてたとしたら、それはそれで別の事件になっちゃいますし」

「……そうね……、」

 ルーラが神妙な顔で思案している。こういう時、カルドだったら俺の揚げ足を取るなりして場を繋いだりしそうなものだが、それすらもなかった。特に今なんかは、俺の指摘が結果的に藤沢の両親を疑うなり貶すなりする形に落ち着いたとも言えなくはないわけで、俺を比較的弄りやすい状況ではあると思う。

 なんとなく不審に思って彼の方を見ると、カルドは──彼の顔は、静かに青ざめていた。

 見たところ、俺の血を見た時ほどの動揺はなさそうだった。だが、彼は確実に何かに怯えていた。振り切ったと思った脅威に背後から肩を掴まれ、硬直し、振り向くか否かの選択を極限状態の中で迫られているような──そんな鬼気迫る恐怖の感情が、彼の瞳の中には埋もれている。テーブルに肘をついたその両手で、不安に強張る顔の下半分を覆っていた。

 どうした、と咄嗟に喉まで出かかる。だが、駄目だ。ここにはルーラがいる。藤沢の周囲に潜んでいるかもしれない悪魔の存在を解明したがっている彼女の前でこの件を指摘したら、カルドは嫌でも恐怖の原因をこの場で話さなければならなくなるだろう。それはなんというか……気が咎めた。

 俺も近しい相手に隠し事をしている身だ、知られたくないことを根掘り葉掘り訊かれるつらさは簡単に想像できる。……それが自分にとって深刻であればあるほど。

 だから、俺は何も声をかけずに息を吸った。自然に見える程度に口角を上げ、声のトーンを上げる。

「……なあ、時間はどうなんだ? 停電とか、そういう電気トラブルが起こる時間帯。もし同じような時間なんだったら、気温とか電気使用量の条件によっては、本当に電気系統のトラブルかもしれない」

 言いながら、ホントかよと自分で自分に不信感を抱く。俺の学なんてたかが知れてるし、理工学系の分野なんかさっぱりだ。家電や携帯の買い替えも躊躇する程度には、俺は機械に詳しくない。

 それでも俺は、さも電気系統のトラブルの解決に覚えがある風を装って、テーブルの中心に身を寄せた。それから、テーブルの下で足を浮かせて、目的の方向に伸ばす。とん、とつま先に手ごたえがあったので、もう一度、さっきよりも少しだけ力を込めて蹴った。

 勝手に触れて悪いな──と、内心でだけ謝った。でも靴越しだから許してくれよと心の中で願う。

「ええと……まだ授業詰め込まなきゃいけない学年なので、基本的に家にいるのは夜だけなんですよね。それもバイトの日以外になっちゃいますし。家に帰ってきて六時過ぎとかが多くて、帰ってきた時に消したはずの電気が、っていうのはあります。それから……」

 俺は藤沢の話に適度に耳を傾け相槌を打ちながら、俺の悪魔の方向に視線を遣る。カルドは最初にふっと我に返ったように顔を上げ、やがて俺の方を見た。それから信じられないものを見たというように目を見開いて、ばつが悪そうにふいとその視線を逸らす。

 かわいくない奴、と俺は内心で悪態をつく。……でも、まあよかった。とりあえずは平気そうだ。強がりでもいい。表面を保てる気力があるなら、今はまだ。

 それからのカルドの振る舞いは、言ってしまえば恐ろしく感じるほど自然だった。気の合わない相手は隙を見つけるたびに挑発するし、真面目に質問をされれば冷静に、かつ論理的に答えてみせる。たまに悪趣味な言動をとり、嗜虐的な笑みを浮かべる。さっきの恩を忘れたかと指摘してやりたくなるぐらい、その遠回しな攻撃は俺に向いた。たぶん俺にだったら何を言っても許されると思っているのだ。こいつにとって俺は牙も鞭も持たない、ただの杭同然の飼い主で、耳に痛い指摘や揚げ足取りは全部甘噛みだ。……そう実感してしまう程度には、彼は「いつも通り」だった。


 ──まるで、偽ることそれ自体を日常にしているみたいだ。


 そう思いながらも、威勢よく振る舞うカルドの姿を見て、俺は心のどこかで安心感を覚えていた。

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