第4話

「もしかしてキミ……僕のこと結構好きだったりする? 一目惚れとか。参っちゃうね」

 息せき切らしてやっと追いついたと思ったら、いきなり戯言が飛んできた。まず最初に自分の耳を疑い、正常とわかるや否や向こうの意図を探った。冗談だろうと思ったが、実際の彼の目はそれなりに焦りの色で染まっている。冗談を言うだけの余裕は、あって平常時の半分といったところだろうか。

 それもそのはず、というか考えるまでもなく当然のことで、魔力を使い果たし反撃の術がないカルドは影の怪物に首を掴まれ、ビルの壁に押さえつけられていた。背面をビルの壁にめり込ませ、キリキリと気道を絞め上げられている。

 驚くべきはむしろ怪物の変貌ぶりだ。いつの間にか屈強に肥大化していたシルエットに、最初の頃の面影はない。ひ弱で猫背な、見るからに不健康そうな「真渕響」の輪郭は消え去り、それとわかる要素は光をも飲み込みそうな漆黒と、申し訳程度に残った人の形だけだ。

 理由はわからない。ただ、一度も日光に晒したことがないと言われても納得するほど白く細い悪魔の首が、いつ残酷にへし折られてもおかしくないことだけは明白だった。純白の革靴の底は地表から離れ、呼吸の合間には聞き覚えのある病的な気道の音色が漏れ出している。

 だが、そんな圧倒的な苦境の渦中にいてもなお、彼は重い腰を上げるように、いとも簡単に声を出すのだった。

「……全く、しょうがないな」

 抵抗のために敵の腕を掴んでいたカルドの右手が、不意に自らの腰に伸びた。大きく振りかざし、右手に掴んだ小ぶりの刃物を敵の腕に突き立てる。怪物が悲鳴をあげ、拘束を解いた。カルドは空中ですかさず蹴りを入れ、黒い影を反対側の壁に叩きつける。

 怪物の束縛から逃れたカルドは棒立ちの俺に近づくと、

「何突っ立ってんだよバカが。死にに来たの? 殺すよ?」

 銀食器のような形状のナイフを喉に突きつけてきた。おそらく先ほど影の腕に突き立てたのと同じものだろう。そこからナイフを抜いた動作も、新たに腰に手を伸ばした様子も、俺の動体視力では捉えられなかった。早業だ。

 ……と感心するより先に、俺はナイフの切っ先に屈して小さく両手を挙げている。

「ごっ、ごめんなさい……」

「……で、何か僕に用でもあるわけ?」

「! それは……」

「ないなら帰ってくれるかな。僕もキミがいない方がやりやすい」

 カルドは右手でナイフを弄びながら、壁にめり込んだ怪物に視線を移動させる。……警戒、してくれている。まだ戦いは終わっていない。

 ……確かにこいつの言う通りかもしれない。俺は非力な人間だ。あの怪物が俺を無視してどこかへ消えた時は、俺じゃなくカルドへと標的を変更したのだと思った。だからいても立ってもいられなくなったのだ。カルドは俺を守るために最後の銃弾を使ってしまっていたはずだから、俺の代わりにあいつが死んでしまうと思った。だから助けに走った。

 だが、実際はどうだ。魔力はなくても武器はある。反撃に出れば相手を壁に叩きつけられるだけの力がある。状況だけ見れば、この場で最も戦いに適さないのはどう考えても俺で、今の言葉が嘘でなければ、カルドは俺を庇いながら戦わざるを得なくなってしまう。役に立たないどころか足手まといなんじゃないのか。

 ──って違う、違うだろ俺。ここまで必死に走ってきたのは何のためだ。悔しがってたさっきの俺はどこに行った。欠片ほどもないわずかばかりのプライドは? 今しかないんだよ、取り返せるのは。

「──違う、カルド、待ってくれ!」

 再び怪物の元へ向かおうとする悪魔に、俺は必死で追い縋った。やっとの思いでその手を掴む──そう思った瞬間、真っ白い背中が、電撃でも走ったかのようにビクリと強張った。それとほぼ同時に、俺の手には鋭い痛みが走る。

「──っ⁉ 僕に触るな……ッ!」

 強い力で振り解かれた手のひらは、何が起こったか瞬時に判断できない程度には赤く染まっていた。……血だ。そう思った後、俺は半ば他人事のように、まじまじと自分の手を観察する。

 生命線だったか──親指と人差し指の間に刻まれた皺に沿うようにぱっくりと割れた切れ目からは、間違いなく俺の血が滴っていた。

 ここまでの出血ともなると日常生活ではなかなかお目にかかれないので、俺自身は意外と冷静に構えられていた。内心では「すげー」とか思っていたりするもので、身体上は問題があっても精神的にはそこまでの動揺はない。どちらかと言えば、問題があるのは俺ではなくカルドの方だった。

「……え、ぁ、嘘…………血……?」

 見る者の視線を鮮やかに引きつける赤い瞳が、小刻みに揺れている。その目が映す白い手袋は俺の血液に濡れていて、動揺に震える手からは銀のナイフが零れ落ちた。カランと乾いた音が、コンクリートの上に反響する。ナイフに付着していた血が飛沫のように細かく跳ね、灰色の地面に昏い染みをつくった。

「っ、また、僕は、………どうして………」

 カルドは自分が出血していないにも関わらず血の気を失っていた。半ばうわ言のようにそう口走り、数歩後ずさる。……一方の俺はと言えば、しばし言葉を失っていた。もしかしたら一人でも窮地を脱することができたかもしれない、この強い悪魔の──恐ろしいほど美しく、完璧にすら見えたこの悪魔の弱点を垣間見てしまったことは、俺にとっても何か致命的だったような気がした。ミロのヴィーナス像の欠損する前の姿を一人知ってしまったような、妙な罪悪感。だが不思議なことに後悔はない。快感や優越感に繋がる背徳すらもそこにはなく、俺はただ驚きに目を見張っていた。ただひたすらに、突きつけられる現実に時間感覚すらも奪われていた。

「……いや、俺こそすまん」

 遅れてやってきた手の疼痛に引っ張られるようにして、俺は意識を現実に定着させた。

「ちょっと切っただけだから大丈夫だ……たぶん。悪い、不注意で」

 怪我慣れしていない自分的にも「ちょっと」とは言えない傷なのだが、俺も必死だったがために周りが見えていなかった。……だが、流血ごときでどうこう言っている場合でもない。俺は一体何をしにここまで走ってきたというのか。この悪魔を困らせるためか。足手まといになるためか。……そんなわけがない。決意が揺らぎやすい男、真渕響の心の移ろいやすさは乙女もかくや。自分のミスで決意を潰すなど言語道断だ。

 妙に重苦しくなった空気に己が口までもが押し負けてしまう前に、俺は深く息を吸った。今までの俺自身を壊す追い風を、体内へと引き込んでゆく。

「……っつーかそんなことは後だ! 血なんてこの際どうでもいい、魂でも魔力でもいくらでもくれてやるから、俺の願いを叶えてくれ! ください! お願いします!」

 土下座までいかんばかりに、直角に頭を下げる。ここまでは職場での訓練ですっかり体に染み付いた完璧な動作だったが、差し出そうとした右手が血塗れであることに途中で気づいて、咄嗟に左手に入れ替えた。改めて自分の右手を視界に入れてしまったせいか、宙ぶらりんになった右手のぬめついた感触にいやに気を取られる。中指の先に溜まった赤い水滴が重くふくらみ臨界を迎え、皮膚から切り離されては指先がわずかに軽くなる──そんな気配を何度か味わう程度には長い時間を、俺は棒に振っている。

「………………」

 沈黙が、頭を下げたままの俺の想像力をかき立てる。主に悪い方向に、だ。ここまで無我夢中で何かを成そうとしたこと自体が初めてに等しいのに、「何言ってんだ消えろ」みたいな返答をされたらもうどうしていいかわからない。

 無言の時間と自分の負の妄想力に耐えきれず、恐る恐る顔を上げた。

 ゴミを見るような目を向けられるビジョンすら俺の頭の中には出来上がっていた。だが、視界に捉えたカルドの表情は、予想に反して「驚き」というその一点のみを凝縮していたように、俺には見えた。大きく開かれた目には思惑などは欠片も宿っていないようで、どこか子供っぽく──そして泣きそうにすら見える。

 今度はそんな悪魔の表情を目の当たりにした俺の方が泡を食ってしまい、最終的にどうしていいかわからないままあたふたとしてしまう。

「……ええ、と、ダメだったろうか……」

 自分で作り上げた真剣な空気を自分で緩めるという、絶妙に恰好のつかない愚行を犯しつつ、俺は姿勢をいつもの猫背に戻した。悪魔は俺が平常運転に戻って初めてその存在に気づいたかのように、赤い瞳の中に俺を映した。

「ぁ、いや……少し驚いただけ。……いいよ。じゃあまずは望みを言って。契約を始めよう」

「ああ。俺の望みは──」

 いざ声にしようと口を開いてみて初めて、その言葉のくすぐったさを自覚した。いっそこれが人間の意地汚さを全面に出した要求だったなら、もう少し気楽に開き直れていたかもしれない。

 とはいえ、これは重大な決断だ。今更踏みとどまるなんて許されない。これは契約なのだ。こんな出来損ないの俺が、この麗しい悪魔に人生を託す、契約。

 俺はいつもの癖で歪んだ薄ら笑いを浮かべそうになるのをぐっとこらえ、誤魔化しのない正直な「願い」を口にする。

「俺にあんたを助けさせてほしい」

 悪魔が、静かに息を呑んだ。その小さな反応ひとつで、俺は自分の願いがただの自己満足でないことを知る。

「あんたが助けてくれた命だ。あんたが必要としてるなら、俺は差し出す。──一緒に助かろう、カルド」

 改めて、まっさらで穢れのない左手を、伸ばす。

「…………まいったな、そっか。うん。じゃあ──」しばし俺の目の食い入るように見つめていた悪魔は、ゆっくりと破顔した。「仕方ない。キミのその願い、僕が叶えてあげるよ」

 そう言ってカルドは俺の手を──差し出していた左手ではなく、未だ傷口が塞がらない血塗れの右手を取って、顔の高さまで持ち上げた。

「丁度いいからこれでいこう」

 言うが早いか、彼は未だ血の滴る傷口に唇を当て、軽く吸った。反動で洩れ出た吐息が、血で濡れた皮膚にささやかな寒気を与える。

「うぉお⁉︎ 何、なな何してんの⁉︎ ちょっと──」

「あー、……相変わらず不味いな。もうちょっとどうにかなんない? 吐きそう」

 飲み終わった空き缶でも捨てるように俺の右手を放したカルドは、苦い顔で口元を雑に拭う。

「契約のために血ぃ飲むとかさ、誰が決めたの。吸血鬼じゃないんだよこっちは。はぁ……ほんと勘弁。何百年ぶりだろ、人の血飲むの。率直に言って気分が悪い」

「勝手に口つけといてなんだよその言いようは! 理不尽にもほどがあるだろ!」

 綺麗な顔は歪めても綺麗、なんて思ってうっかり溜飲を下げかけたりもするが、それよりも「何百年ぶり」という言葉の響きに動揺する。年の功とかはないのか。

「とにかく、」

 カルドは俺のとっ散らかった感情の全てを仕切り直させるようによく通る声を出し、緩やかに悪魔的に、笑んだ。

「これでキミと僕は契約関係。キミがその生を全うするまで数十年、僕はキミと共にある。……これからよろしく頼むよ、響君」

「──っ、……ああ、よろしく」

 向こうから差し出された左手を、ぎこちなく握り返す。ちらとその表情を窺えば、カルドはこの世のものならざる美しい微笑をたたえ、俺のことを見下ろしていた。身長差のせいで伏し目がちになった目元が、何かを憂うように儚く希薄な輝きを宿している。……そんな風に俺には見えて、思わず息を止めた。それは笑顔じゃないだろう、なんて薄暗い思考がわずかに心に影を落とす。だが、完璧すぎる目鼻立ちの仮面の前では、多少の疑問など無力でしかなかった。柄にもなく目を奪われ、頭の中を真っ白に上書きされる。

「……さて、あっちも準備万端かな」

 カルドが俺から目を離し、道路の反対側に視線を寄越した。それに倣って同じ方向に目を遣れば、砂煙の向こう側に動く影が見える。反対側のビルに身体をめり込ませた怪物が、その両足を地面につけ、咆哮をあげた。

「いける……んだよな、これで」

「ここまできて一緒に死ぬなんて言ってられないでしょ。やるんだよ。誰がなんと言おうと、僕は助かる。キミがそう願ったからには」

「……」

 揺らぐことのない決意の声色を肌で感じて、俺は閉口する。決して自分の発言の気恥ずかしさを認識したからではない。

「……だからって俺を見捨てたりするなよ? 俺も助かりたいよ?」

「それが契約内容に含まれるかは微妙なところだから……僕の裁量次第かな」

「おい」一緒に、と言ったのをまさか無視するつもりか。

「ふふっ」素直に相好を崩したところを初めて見た。……気がする。「冗談」

 それからカルドは、淀みない歩調で前に出た。背筋は凛とまっすぐで、……それでもなぜか、せつなく見えた。

「──キミなら本当に僕を助けてくれるのかもしれないね、響君」

 空耳かと思った。崩れ落ちる瓦礫の音と重なりそうで、聞き返すこともできなかった。

 そんな俺の戸惑いを断ち切るように、かつて俺の影だったものが猛進してくる。俺と悪魔のどちらを狙っているのかは、俺にももうわからない。

「来た!」

「わかってる」

 いつの間にか、カルドの手には拳銃があった。俺の血で汚れた白い手袋の中で、真新しい銀の光沢がきらめいている。

「もう終わりにしよう。……これで、全部」

 ただ静かに、祈るように──悪魔が引き金を引く。力強く銃弾が放たれた瞬間、俺の身体の中心の、心臓とも違う──きっと魂とでも呼ぶにふさわしい中核の部分が、確かに震えた。

 そうして俺の意識は事切れるように、深い眠りに落ちていく。

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