第5話
小鳥の囀りで目が覚めた。あり得なかった。
それは例えば、あまりにも理想的すぎる目覚め方だからとか、いつもは携帯のアラームで目を覚ますからだとかそういう次元の話ではなく、俺が起床する時間が小鳥もねぐらに帰るような時間だからというだけの話だった。何せ、夜勤だから。昼夜逆転が常なのだ。
だから、焦った。目が覚めたら朝なんて、寝過ごしているとしか思えなかった。
何も考えず叫びながら飛び起きたくなる衝動をぐっとこらえ、俺は薄目を開けて状況の把握に努める。今日は何日だ。今は何時だ。ここは俺の家か。シフト入ってない日とかワンチャンないかな。寝過ごしたとかシャレにならないんだけど。学生じゃないんだぞ。
そうやってしばし思考し、目が朝日に慣れ始めた辺りで、俺は眠りにつく前のことを思い出す。
わけもわからず怪物に襲われて、助けられて、でも結局は現場に戻って……なんだか大変なことを口走ったような気がする。
「…………」
やり直しがきくならやり直したいし、なかったことにできるならそれに越したことはない。ついでに言うと今が朝じゃなければいいし、仕事が休みだったら最高。
「………………夢か……」
「夢じゃない」
現実逃避に走ってもう一眠りしようと目を閉じかけたその瞬間、悪魔が目の前に現れた。
「うわぁぁ! いるぅう!」
「いるに決まってるだろ」ボロアパートの六畳一間に、白髪赤眼の正装悪魔が住み着いていた。「人を虫みたいに言わないでくれるかな」
虫だなんてとんでもない。面と向かって言いたくはないが、第一印象は一応「美形」なのだ。それも絶世の。……まあ、内面というか素の振る舞いは思っていたのとだいぶ違ったが。
「つーか俺……あの後どうなった……?」
観念してのそのそと布団から出た俺は、その上に胡座をかいて縦の感覚に身体を慣らす。
「どうなったと思う? 逆に」
「お前はめんどくさい彼女か……」彼女とかいたことないから知らんけど。
「ははっ、まあ間違ってはないかもね。僕は結構面倒な奴だよ? ──キミがいつ愛想を尽かすかわからないぐらいには、どうしようもない」
困ったことに、挑戦的な目で小首を傾げるのが様になりすぎている。これが女性だったら間違いなく魔性の女などと呼ばれる類に入るのだろうと思うが、それをそっくりそのまま男に適用していいものかどうか、俺は知らない。
「……自分で言ってるうちはまだどうしようもなくはない。たぶん」
「うわ、響君のくせにもっともなこと言うね」
「やかましい」
俺が顔をしかめると、カルドはくつくつと喉を鳴らす。こいつ意外とよく笑うな。
「……で、答えは」
無愛想にそう問うと、カルドはなんてことはないように穏やかな声でこう言った。
「丸二日眠ったままだったよ」
「………………はい?」
二日。つまり四十八時間。丸二日も寝て過ごすなんていつ以来だ。というか今まであっただろうか、そんなこと。丸一日でも滅多にないだろ。これでも廃人にだけはならないように気を遣って生きているのだ。
「信じられないなら確かめてみればいいよ。最後に意識のあった日がいつだったかぐらい、いくら記憶が曖昧でも覚えてるでしょ?」
言われるまでもなくそうするつもりだった。枕元の携帯に手を伸ばし、電源を入れる。表示された日時を目の当たりにして、俺は愕然とするより先に宇宙空間に放り出された猫みたいになった。
「…………まじ?」
「まじまじ」
「……え? なんで?」
我ながら語彙力が消滅している。寝起きだからしょうがない。
「『なんで』、ねぇ……まあ、そうだなあ」
どこから話すべきか、とばかりにわずかに唸ったのち、悪魔は一言、こう口にした。
「キミの心が弱いから、かな?」
弱い心が跡形もなく砕け散る音がした。
「まず、先日キミを襲った怪物は、僕たち悪魔の間では『魔物』と呼ばれている。簡単に言ってしまえば僕らの仲間だけど、悪魔と比べれば、一般的には力が弱くて知能も低い。というか、まず自我がない。人間と野生動物みたいに考えてくれれば大体はいいよ。野生動物に自我がないかは知らないけれど。……ともかくとして、悪魔は理性、魔物は本能で動いている。基本的には自我があって思考能力がある悪魔の方が高位だけど、場合によっては本能に任せて力を振るう魔物が優位な立ち回りをすることもある。でも、生きるために食べ物を必要とする部分は同じ」
「……そういえばお前、俺が寝てる間何してたんだ? ちゃんと食ったか?」
砕けた心を庇いながらキッチンへ逃亡し、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し飲んだところで、「見苦しいから身支度を整えてこい」と言われた。それもそうだと思って洗面所に向かったところ、人を何人か殺していそうでもあるし何回も死んでいそうでもある恐ろしい顔の男と目が合った。やばかった。これを相手に平然と話を振ったり笑顔を浮かべていられるあいつのメンタルが測り知れない。イケメンの精神力恐るべし。
そんな過程を経て、どうにかこうにか視界に入れられるラインの清潔感を保って戻ってきたところで、先の説明が始まったという次第である。
「僕に人間の食べ物は必要ないし、一日三食なんてコスパ悪いことも言わないよ。……まあ、キミが意識を失ってる間にキミを殺して魂を食べてもよかったって言うんなら、今からでも喜んでそうさせてもらうけど」
「それアリなのかよ。ビジネスじゃなかったのか」
「悪魔がまともに契約履行するとでも思ったの?」笑われる以前に呆れられた。「アリだよアリ。一度契約を結んじゃえば、契約者がいつどこでどんな風に死のうが、その魂は悪魔のものだ。悪魔に殺されたって例外じゃない」
「ひでぇシステムだ」
「悪魔と契約して幸せになったって話聞いたことある? どう足掻いたって破滅しかないんだよ。悪魔と契約した人間は軒並み短命だし、最後は不幸になるのが普通」
「……の割に、お前は俺を殺さないのな」
「道楽だからね」予想された指摘だったらしい。特に不快そうにするでも戸惑うでもなく、純白の悪魔は淡々と会話のボールを返す。「僕たち悪魔に寿命はない。ただ生きるだけならそれでいい。けど、ただ生きるだけに永遠を使うのは、なかなかにしんどいものだよ」
「…………そうか」
ただの人間だって、繰り返される毎日に嫌気がさす。成長しないまま──現状より上を目指そうともしないまま、ただ生きるためだけに毎日を使う俺には刺さる言葉だった。
「それで、さっきの話に戻すけど」
次の言葉を繋げられなくなった話題は用済みとばかりに、カルドは軽やかに会話の主題を乗り換える。
「魔物も悪魔も、食べるものは同じだ。人間の魂。……といっても、それが一番いいって話であって、必ずしも魂でなければならないってわけじゃない。──『意志』。それを使って僕たちは生きている。魂ってのは、要は意志の塊だ。それを喰らえば結構な力の源になるけど、悪魔の場合は人間と契約しているだけでも、契約者から意志の力──つまり魔力を分けてもらえる。それで最低限、僕たちは命を繋げる。でも魔物は契約という手段を持たない。共存を持ちかけられないから、一方的に奪うしかなくなる」
「ああ……」なんとなく先が読めてきた。「それで、俺を襲った化け物の話になるわけか」
「そういうこと。ただ勘違いしないでほしいのは、あの程度の魔物は人間の魂そのものを狙って人を襲うことはないってこと。彼らはあくまでも取り憑くだけだ。……強い感情を持った人間を狙って、ね」
指で拳銃の形を作った悪魔は、その照準を俺の心臓に合わせた。手袋が新品に替わっている。
「死を心から望んでいたとまでは言わない。けど、キミは思ってたんじゃないのかな。『自分は消えて然るべき』とか。自己嫌悪の強い感情を取り込んだ魔物はその場で力をつけて、こっち側の世界に関してはズブの素人であるキミにも視認できるようになった。……でも、残念ながら向こうも低級だ。さっきも言った通り、自我ってものを持っていない。だから魔物の意志は魔力の側に流される。つまり魔物の意志そのものが、宿主たるキミの意志に書き換わる」
そこまで流暢に話したのち、カルドは一呼吸置いて「わかるね?」と問うた。静かだが決して冷たくはなく、かといって同情的でもない。不思議な柔らかさを伴っていた。
「あの化け物が俺に『死のう』って言ったのは、俺がそうしたいと思っていたから……」
「……まあ、『死のう』なんて呼びかけられてたっていうのは、僕も初耳だから肯定のしようもないかな」
「おっ、と……」
気まずげに視線を逸らすカルドの姿を見て、俺は以前の彼の言葉を思い出した。俺が目の前で殺されたら狂ってしまう──なぜだかはわからないが、カルドが俺のことを何らかの目的で必要としていることは確かだった。「必要とされている」という重みに、心がわずかに軋みをあげる。
「…………悪い」
「僕に頭を下げてどうするの。キミが早めに死んだらそれはそれで、僕は早いところお腹いっぱいになれるんだからさ。儲けものだと思わない?」
「……」だったらなんで目を逸らしたんだ、と思う。用済みならば殺せばいい。そうじゃないなら、励まそうとなんかしないでくれ。無理に笑おうとなんか。
……なぜだろう、こっちまでつらくなってくる。
黙り込んでしまった俺を見かねてか、カルドが胸の前で一度手を叩いた。手袋越しの、くぐもった音が空気中を伝播する。
「まあそういうわけだから、あの魔物は一時的にキミ自身だったってわけ。簡単に言えばね。僕があの魔物を撃って倒した時にキミが気絶したのも、キミの魔力を取り込んだ『分身』が消滅したせいだろう。魔力は精神の力とも言い換えられるから、短時間で大量に失うと気絶ぐらいは普通にする。ただ……回復が遅いことに関しては、キミの心が弱い以外に挙げられる理由はない」
「うぐ……」
心の傷が再び疼く。皆まで言わないで欲しかった。察することぐらいはできるのだから。
まあ、それにしたって回復に二日かかるのは俺だってどうにかしたい。平均がどの程度かは知らないし、これから先に先日ほど過激な出来事が起こるのかどうかもわからないが、その度に仕事を休んではいられないわけで……ん?
「…………そういえば仕事……」
「それなら、キミは今四十度の熱がある病人ということになっている」
「おお!」合法。……いや合法ではないのだが。とりあえず無断欠勤を避けられただけでも御の字だ。「流石はイケメン……いや悪魔! マジでありがとう! お前がいてくれてほんと助かった!」
思わずテーブルから身を乗り出して、相手の両肩を掴んだ。その途端、カルドの全身が震えるように硬直する。直後、新品の手袋をはめた両手でもって身体を突き返された。一瞬強張った表情を見せた彼の顔は、既に疲弊したようにいっそう白くなっていた。
「あ、……すまん…………」
押し返してきたカルドの強い力に抗うことなく、俺は再び床に尻をつける。
触るな、と拒絶された時のことは記憶に新しかった。そもそもこの悪魔との古い記憶なんてものは一つも存在しないが、それでも、こいつが普段とあまりにも違う形相を見せたあの瞬間のことは、しっかりと脳裏に焼きついている。……焼きついていたはずなのに、その身に刻まれた傷がすっかり癒えてしまったみたいに、失念していた。
「………………ごめん」
カルドは怒るでも恐れるでもなく、忌々しげに奥歯を噛み締めてそう零した。たぶん、その感情の矛先は俺ではない。膝を抱えて塞ぎ込んだその様子は、凍えたヤマアラシじみている。
「僕はキミを──そのうち壊してしまうかも」
数日前の俺だったらまともに取り合わなかったかもしれないし、あるいは「いいよ」とでも口にしていたかもしれない。安請け合いなどではなく、本当に、心の底から。それは例えば「君のためなら死ねる」などという甘ったるい台詞から漂うロマンスの香りなんかは微塵も感じさせず、ただの自殺志願者の集会で仲間に向けるその場限りの感情と、全く同じ感覚で。
その意識からはもう抜け出せた──とはお世辞にも言えない。ただ、少なくとも自覚はした。
俺が内心で俺自身の死を願っていたこと。それを憂う悪魔がいること。
だから、俺は何も返さない。
黙って床から腰を浮かし、キッチンスペースの戸棚を漁った。思った通り、数日ぶんの食事として確保しておいたパンがいくつか見つかる。一方で問題もそれなりにあって、俺が二日間飲まず食わずで精神治療をしていたがために、消費期限が過ぎているものも散見された。もともと安かったから惜しいとまでは思わないが、食べ物を捨てるのは価格に関係なく忍びない。かといって客人に残飯処理をさせるわけにもいかないし、自分が無理をして今度は本物の体調不良になっても困る。
俺は先ほど目にした今日の日付を思い出しながら、戸棚の中の選り好みを進めた。そう数は多くないのですぐに終わる。二つの袋を手にして、定位置に戻った。
「お前、味覚とかある? ……あるか。煙草吸ってるぐらいだもんな」
「必要ないって言わなかった……?」
嫌味たらしい言い方ではなかった。単純に不思議に思い、呆れてすらいるのだろう。お察しの通り、道楽で他人の食費を差し出せるほど、うちは経済的な余裕を持ち合わせていない。定職にも就けない成人男性の生活だ。それがわからない悪魔ではないだろう。
「食えないとは言ってないだろ。それに、お前が食おうが食うまいが、俺はひとつしか食わないし消費期限は今日の十時だ。……ついでに言えば、俺は食べ物が粗末になるところは極力見たくない」
「…………わかったよ、全く」
カルドは観念したように息を吐くと、俺の手から菓子パンの袋をひとつ受け取った。
「……物好きというか、バカというか」
「そいつを勧誘したのは他ならぬお前だけどな」
「道楽に付き合わせるなら、聡明なのよりバカの方が向いてるだろう?」
薄く笑ってそう言うと、カルドは袋を開けてパンを齧った。
それからわずかばかり目を開いて、彼はこう独りごちるのだった。
「……最近のこういうのは、結構まともなんだな」
だからお前は何歳だっての。
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