第3話

 パァン、と軽やかな音が鼓膜を震わせた。

 早朝には似つかわしくない大きな破裂音に驚いて、ハッと我に返る。傍らで黒い怪物が金切り声をあげ、歪な足取りで後ずさっていた。ふと重量を感じて下を見ると、鉤爪の生えた真っ黒い手が、ちぎれて膝の上に乗っている。俺も怪物に続いて短く悲鳴をあげた。

「──やっぱりダメか。面倒だな」

 呟く声が、なぜか遠くからでもはっきりと聞こえた。……聞き慣れつつあるその声が。

 何事かと声が聞こえた方向に目を移すと、その先には白い人影が佇んでいた。人影は、俺の視線に気づくと「おーい、大丈夫?」と暢気に手を振る。先ほどのような独り言ではなく、遠くの俺に話しかける声量だ。誰かとコミュニケーションが取れているという事実に、これでもかというほどの安心感を覚える。

「…………ぁ、んた」

 悠然と歩いてくるその男は、怪物とは違って顔も表情もあった。想像した通りの、すらりと美しい立ち姿。

「また後で、って言ったはずなんだけど。何勝手に死のうとしてるんだよ。ひどいなあ」

 上から下まで真っ白な正装に、鮮やかに映える赤い瞳。ぞっとするほど端整な顔立ちは、何度見ても風化することなく鮮烈な印象を俺の脳に刻みつける。だがその一方で、店で接していた時の丁寧な言葉遣いは、当然のように砕けたものにすり替えられていた。一瞬だけ別人の可能性を疑うが、こんなに奇抜で見目麗しい男が同じ地域に二人といるはずがない。それに、あの男は「また後で」と言った。今も、つい先ほど、店を出る間際にもだ。覚えのあるやりとりが、この男と店の常連の男とをイコールで結んでいる。……名前は確か、ナツキだったか。そもそも本名なのだろうか。

「えっと、それは……」

 すみません、といつもの癖で平謝りしそうになるが、こちらが明確に返事をしたわけでもないのに約束が成立していると認識しているのはいかがなものか、という疑問が声を押し留めた。

 それに、別に好きで死のうとしていたわけではない。あくまでも俺は襲われていただけで……

 その考えに至った瞬間、先ほどまでの自分の言動が、脳の血液が逆流するみたいにフラッシュバックした。ふわふわとした心地よさ──に溺れて、全ての思考を放棄して頷く俺。影の鉤爪の先端が、胸の皮膚を破ろうとする感触。

 身体の芯から血の気が引いて、思わず口元を袖で覆った。……もしかしたら、死んでいたかもしれない。得体の知れない化け物に誑かされて、自分から喜んで血肉も骨も噛み砕かれにいく──望んでもいないのに、妙に生々しい想像が脳内を駆け巡っていた。自分の想像から生じた生理的嫌悪感に、顔を俯ける。

 すると、下に向けた視線の先で、男の白手袋が視界に入った。汚れひとつない純白の手袋をはめたその右手に、何かが握られている。注意深く輪郭を辿ると、それは銀色に光る拳銃だった。これといった特徴のない一般人の俺に銃のメーカーや真贋などわかるはずもないが、細かい装飾が施されたそれは美術品のようにも見えた。

 が。

「……えっ、銃刀法……」

 咄嗟に口を衝いて出た言葉は、あまりにも緊張感に欠けていた。自分で言っておいて「なんだそれ」と思う。男も「は?」と虚を衝かれた声を発していた。……いや、だって確かに発砲音は聞こえたのだ。その音がなかったら俺も正気に戻っていなかったかもしれないわけで──

「……法律気にしてる場合じゃないでしょ。あっちだって刃物持って振り回してるようなもんなんだから。……ったく、ほら」

「え」

ため息混じりに腕を掴まれ、俺は強制的にベンチから引き剥がされる。

「逃げるよ。立てる? 走れる?」

「そ、んなこと言ったって──っ」

 今の今まで命があるかないかの瀬戸際に立っていたのだから、いつも通りに体を動かせるわけがない。それも車の事故やなんかではなく、相手は得体の知れない化け物だ。唯一味方と言えるかもしれないこの男に至っては、当然のように銃を携帯して発砲している。非日常の塊だ。

 そんなものだから、実際、腰は抜けているし膝はガクガク笑っているしで、走ることはおろか立つことも簡単ではなさそうだった。──のに、身体は既に体重の預け所を失っている。

「ふざけんなよ……っ!」

 怒りの言葉は気合いの源とばかりに力任せに踏ん張り、引っ張られた勢いを推進力に変えてどうにか走りだす。

「お、なんだ。黙って殺されそうになってた割に意外とガッツあるじゃん。ダメなら抱えて走ってあげようと思ってたのに」

「はぁ⁉︎ おま……それ早く言え──言ってくださいよ」

「タメ語でいいよ」

「あ、じゃあ──じゃなくて! 死にそうだった奴走らせんなよって話!」

「だって身体的にはピンピンしてたじゃん。死に傾いてたのは心だけでしょ? なんでもかんでも弱気になるのはよくないね。そのうち自己否定に陥って、ドツボにはまると抜け出せなくなるんだから」

「なっ──」

 まるで今までの俺の思考を読み取ったかのような言い草だ。それをしれっと言ってのけるのだから腹が立つし、読まれるぐらい薄っぺらい考えでドン底の気分だったことを思い知らされたようで、きまりが悪い。

「……なんなんだよ、あんた」

 自分の中に渦巻く不甲斐ない感情の出どころを、全部相手の男に転嫁するように、俺は吐き棄てる。

 この男に関わってからというもの、今までとはまた違った形でロクな出来事に遭遇しない。これまではただ単に周囲に置いていかれただけの自滅と言って差し支えなかったのに、今となっては完全なる巻き込まれ人間だ。日常とはかけ離れた出来事ばかりが俺を襲っている。

 そんな俺の胸中を知ってか知らずか、男はさっきより幾分か弾んだ声で答えた。「よくぞ訊いてくれた!」とでも言い出しそうな雰囲気だ。

「僕? 僕は悪魔さ。名前はカルド・レーベン。カルドでいいよ。他にニックネームをつけてくれても構わない。とにかくこれからよろしく頼むよ、真渕響君」

「…………な」

「な? ……ああ、『なるほど! 悪魔には銃刀法なんて適用されないもんな!』だね。わかるわかる。その通りだよ。まあ確かにこの銃には色々と事情があるんだけど──」

「そうじゃねぇよ! ……え? マジで? あんたマジで言ってんの?」

 悪魔なんて簡単に受け入れられるはずがない。普通だったら空言か中二病で片付ける類の発言だ。

「マジだよ」

 カルドと名乗る男は、急に真剣味を帯びた口調で言った。

「最近、キミは人間の常識では考えられないような出来事をたくさん目にしてきたんじゃないかな。それは僕が人間の常識の範疇では受け入れきれないような世界の住人で、そんな僕にキミが興味を持たれたからだね」

「は⁉︎ それ、要するに全部あんたのせいってことかよ」

「まあ、簡単に言えばそういうことになるのかな」

 カルドは少しの罪悪感も抱いていない様子で言ってのける。

「あんたなあ……!」

「でも勘違いしないでほしいのは、あれに遭遇したのは完全にキミ自身のせいだってこと。僕の計画にはなかったイレギュラーだよ。助けてあげたことには感謝してもらいたいね」

 カルドはちらちらと後ろを振り返りながら喋り続ける。影からはだいぶ離れられたようだが、安心などできるはずがない。この自称悪魔も信用できなければ、あの化け物に襲われたのが俺のせいだという話もわけがわからない。化け物に恨みを持たれるような真似をした覚えも、あるいは獲物として目をつけられるきっかけを得た心当たりも、当然、ない。

「僕を信用できないのなら、何をしたら信じてくれるか教えてほしいものだね。できることならやってみせるけど」

 またしても心を読まれた。……のだろうか。読んだっていうならこの疑問にも答えてほしい。

「……いや、そう言われても、な……」

 そんな「○○をしたら悪魔である」みたいなチェック項目、誰も持ち合わせてなんかいない。

 俺がこの男の言葉を信じられないのは、「悪魔」という存在自体が人間の理解の許容範囲を超えているせいだ。だから逆に、こいつを信じきれないのは俺自身の問題であるとも言える。

「……っつーかさぁ、さっきの言い方だと、あんた、前々から俺をマークしてたように聞こえるんだけど。なんで俺なんか、構うわけ? 目的とかあんの?」

「うーん、そうだねぇ──」

 カルドはわざとらしく唸った。悩む仕草に合わせて走るペースを緩めるのは、考え事に集中するためというよりは、俺に気を遣ってそうしたように感じてしまう。さっきから足はもつれるし息は切れるしで会話も絶え絶えだったのだ。

無理に引っ張られていたこともあり、ついていくのがやっとで意識していなかったが、結構肺にきている。息を吸えば咳き込むし、喉はカラカラだ。ついに肉体的にも死にそうになった。

 そんな俺を見かねてか、カルドは緩めた歩をすっかり止め、「少し休もうか」と提案してくる。向こうは息ひとつ乱さず涼しい顔だ。……なんだか人間ではない何者かの側面を見てしまったような気がして、思わず目を逸らす。

「……それはありがたいけど、大丈夫なのかよ」

 駐車場のフェンスにもたれて休む気満々の俺が言っても説得力は皆無だが、状況把握を兼ねた社交辞令として一応訊いておく。

「しばらくはいけると思うよ。これでも僕の銃弾には毒が仕込まれていてね。傷口からじわじわと体力を奪うんだ」

 戦い慣れしているのか、何食わぬ顔でカルドは言う。……いや、笑みが若干歪んでいた。狩りを楽しむ貴族みたいだ。

「それよりもさっきの質問の答えだけど、僕の目的はキミと契約を結ぶことだ」

 煙草に火を点けながら、悪魔は事もなげにそう言った。こんな時に……と舌打ちの一つでもしてやりたくなるが、それぐらいの時間の猶予がある証拠なのだと勝手に解釈しておく。

「悪魔との契約ってのは人間の作り出した創作物にもよくあるだろう? キミは僕に魂を譲る。代わりに僕がキミの願いを叶える。色々条件はあるけど、回数無限、死ぬまで有効。悪魔は契約者の人生を見守り、サポートする存在だ。どこぞの童話よりずっと良心的で、ビジネスとして成立しているとは思うけど」

「……話が急すぎんだろ。それってクーリングオフ効くやつか? じゃなけりゃ詐欺師の手口そのまんまだ。あの化け物から逃げる状況作って、考える冷静さも時間も与えない」

「はは、ひどいな。マッチポンプなんて下準備が面倒なだけだよ」

 カルドは穏やかな表情を浮かべているが、俺にとっては悪魔に魂を売るかどうかの岐路に立たされているわけで、化け物に追われているという状況と合わせて全く穏やかではない。無論、その化け物だってカルドの手下かもしれない。

「でも、そうだな」

 カルドはくゆらせた紫煙越しに、蠱惑的な流し目を寄越した。それを視界に入れた瞬間に、俺の喉が勝手に生唾を嚥下する。

「これは単なる誘いじゃない。もちろん自作自演でもね。こんなつもりは毛頭なかったんだけど、奇しくもキミが僕と契約するかしないかを選択することが、キミの生死を決定づける分水嶺になってしまった。そこを含めてのイレギュラーだね。……でも、これはキミが思っている以上に大事なことだ」

「……? それってどういう、──ッ⁉︎」

 やっと戻ってきた平常時の呼吸が、またも寸断される。

 ──銀色の拳銃。

 その銃口が、今しっかりと、俺の眉間を捉えて離さなかった。言葉が出ない。

「こーゆーこと」

 何の迷いも慈悲もなく、ただ微笑だけを貼りつけた顔で、カルドは引き金を引いた。

「────っ! …………ん?」

 痛くもかゆくもなければ、あの鼓膜を震わす破裂音も生じなかった。

 どういうことだと今度は口でなく目で問うと、カルドはばつが悪そうに肩をすくめて苦笑した。悪魔と聞いた後だからか、その表情はやたら悪戯っぽく、魅力的に映る。

「弾切れなんだ。もっと正確に──悪魔っぽく表現するなら魔力切れ。だから今のままじゃ、あの化け物にトドメを刺すこともできない」

「えー……」

 拍子抜けもいいところだ。掻っ攫うように命を救われたかと思えば魂を差し出せと言われ、ひとまず助かったかと思えば今は敵を倒せないと無力を明かされる。理不尽にも程がある。

「だったら最初からヘッドショットかますなりなんかあっただろ。なんで腕なんか……てか、やっぱりあの化け物とグルなんじゃ……?」

「考えてもみなよ。頭を撃ってあの化け物を一撃で殺せたとして、化け物の生命活動が停止した瞬間に全ての動きが止まるとは限らないでしょ? ロボットじゃないんだからさ。僕があれの頭を撃ち抜いても、化け物の腕は惰性で少しの間動き続けてたかもしれない。そうしたらキミは今頃どうなってたと思う? 死体の爪が心臓をグサリだ。そうじゃなくても、あの化け物はキミの身体に覆い被さるぐらい前のめりの体勢だったからね。即死した死体の爪が体重で食い込んで──なんてこともあったかもしれない。それでもよかったっていうんなら気の済むまで僕を責めるといいよ。……もっとも、僕の方は全然よくないんだけどさ」

 それまで身振り手振りを交えて上機嫌に語っていたカルドが、最後のひとことだけを神妙な顔つきで零した。重たく立ちのぼる紫煙に乗せて、悪魔は呪詛を練り上げるように、こんな言葉を紡ぎ出した。

「キミを目の前で殺されたら、僕は間違いなく狂ってしまうよ」

「……」

 俺がこの男に好かれるようなことをした覚えなんて、全くない。相手の──それこそ人間の理解の域を超えた美しさも相まってか、新手の詐欺を本気で疑った。

 俺が死んだ程度で狂ってしまうなんて、馬鹿げすぎていて笑い飛ばしてやることもできない。ショックを受ける人だって数えるほどしかいないだろうに、バイト先の常連風情が何を動揺するというのか。……馬鹿馬鹿しい。

 俺はあんたみたいな奴に構われていい人間じゃない。

「僕が身の潔白を証明する術は、現時点では何もない」

 カルドは煙草を一口吸い、白い息を吐き出しながら、銀色の携帯灰皿に手元の全てを押し込む。そして、俺が瞬きをしたわずかの間に、彼の手の中の灰皿だけが消えていた。体勢は一ミリも変わっていない。俺は思わず目をしばたいた。

「僕があの化け物とグルじゃないことをキミに証明するには、僕はあの化け物をキミの目の前で殺して見せなきゃならない。そして、僕が自分の利益だけを考えていない、公正なビジネス目的で契約を迫っている悪魔だってことを証明するために、僕はキミの願いをなんでも叶えてあげないといけない。……一生をかけてね」

 気がつけば、悪魔は俺に向き直っていた。赤い視線が、一段高いところから俺に注がれている。……俺だけに。一心に。俺はそれをただ茫然と見上げている。

「──僕はあなたの全てが欲しい。だからあなたに僕の全てを捧げさせてください。僕の持ちうる全て、叶えうる全てを」

 ……何と表現したら伝わるだろうか。この瞬間の俺の気持ちを。

 ものすごく簡略化して言うなら、怖かった。この世の理に反していると思った。

 この世界では与えたぶんだけ与えられる。成したぶんだけ還元される。

 その点、俺という人間は生産と無産の境界線ギリギリを彷徨っている存在だった。日々消費するぶんだけを生産で補い、「生きる」という消費をゼロ地点に戻す人生。一度でも止まってしまえば、俺は「生きていること」それ自体にすら言い訳を立てられない。生きること自体を世界から否定される。それが、真渕響という人間。

 だのに、こいつは俺に全てを与えると言う。──いや、違う。全てを与えさせてくれと。懇願してくる。泣きそうな声で。喉を震わせて、掠れてしまったその声で。

 こんなの間違ってる。本気でそう思った。正当じゃない。何もかも。

 だって、こいつは──この悪魔は、あまりにも美しい。美しいことは価値だ。そこにいるだけで人の心になんらかの感情を呼び起こさせる。喋らなくていい。微笑みかけてくれなくたっていい。反応さえしなくても、こいつは人の心に安寧と幸福を与えることができる。

 ──今の俺がそうであるように。

 そんな悪魔が、俺なんかに頭を垂れて言うのだ。捧げさせてくれと。いなくなったら狂ってしまうと。なんでも願いを叶えると。

 もちろん、その対価は支払わねばならない。相手が求めているのは奉仕ではなくビジネスだ。俺は目の前の悪魔に魂を捧げる。……だが、魂がなんだ? 

 俺は死後の世界にも、来世にだって期待なんかしちゃいない。仮にこいつと契約して、望むがままの人生を貪り、その後に苦痛だらけの転落人生が待ち受けているのだとしても、何も持っていない、色なんかついちゃない今の生活に比べたら何倍もマシだ。俺には、俺の不幸すら愛せる自信がある。一番怖いのは無だ。何も持たずに生きることだ。愛憎だって地獄だって、俺がそこにいることの証明になる。

 最大限の幸福か、死か。選ぶまでもない二択だった。

 ……だから、そう。

「──わっ、かんねぇよ、そんなの……」

 わからない。そう、理解できない、のだ。もはや詐欺だとかいずれ自分が害されるかもしれないだとかそれ以前の次元で、理解が及ばない。わからないことは怖い。気持ちが悪い。

 接し方がわからないから、拒絶するしか手立てがなくなる。

「……信用してない? 僕のこと」

 気づけば俺の身体は小刻みに震えていた。ゆっくりと顔を上げた悪魔の視線が、まっすぐに刺さる。途端に申し訳ない気持ちになって、この震えをできる限りこの男の目に晒さないように、一歩後ずさった。

 それを見て、彼はふ、と透明な息を吐いた。それがなぜか安堵するような柔らかさを伴っていて、俺は一瞬だけ言葉という概念を忘れる。騙そうとしていた……とは、思わない。でも、今までとは決定的に何かが違う彼の態度に、俺は少しだけ、たぶんショックを受けていた。

「なんてね。冗談だよ」

 彼は朗らかな笑みを浮かべていた。手振りが途端に増える。

「僕としては魔力をもらえるなら誰でもよかったんだ、……本当はね。売り上げを伸ばしてくれるなら誰が商品を買っても喜ぶのと同じことだよ。何しろビジネスだから」

「……あの、」

「キミはもう終わりたいんだろう? この器での人生を」

 思わず、息を詰めた。この器での人生──この身体での、この肉体での人生。

 カルドにとって、その言い方に他意はなかったかもしれない。彼は人間の魂を労働の代価として求める身だ。ならば、本来の人間の魂は肉体を替え、記憶を失って生まれ変わるというのが、彼ら悪魔の常識なのだろう。

 だから、これはただの錯覚だ。

 俺の魂を──心からの嘆きを見透かされたなどと。そう感じてしまうのは。

「なんだって構わないさ。僕は次のクライアントを探すだけだからね。キミが何か、僕に対して罪悪感みたいなものを感じる必要もない。僕だって同じさ。誰が死んでも、誰が生き延びても僕には関係のないことだ。もともと僕は人間にも同族あくまにも興味がない。ついでに言えば──自分にも」

 真正面から向けられた視線が交差する。相手の眼力に耐えかねて顔を背けようとするが、なぜか目が離せなかった。

 空っぽに見えた。だからかわいそうだとか、だから惨めだとか、そういった付随する感情は一切ない。ただただ空虚だった。つくりもののように端整で、寒気がする──底なしの瞳。

「一応、キミの疑問に答えておこうか。キミを構った理由は『面白そうだったから』だ。実際、少しの間だったけど楽しかったよ。……じゃあ、僕は行くから。せいぜい来世に期待して頑張って」

 言い終わらないうちから背を向けて歩きだす。俺はそんな悪魔の姿を半ば呆然と見送ることしかできない。この期に及んで、気の利いた返事も、皮肉のひとつだって思いつきはしなかった。


「──!」

 遠ざかる革靴の音がほとんど聞こえなくなった頃、背後からやってきたのは黒い影だった。足取りは依然として重く、先ほどカルドに撃たれたらしき歪な右腕の断面を大事そうに抱え、時折痛みに呻くように震えていた。

 だが、それでもただの人間が太刀打ちできるかと言えば、答えは限りなくノーに近いだろう。手負いとはいえ、人智を超えた何かに立ち向かえるほど、俺は蛮勇でも丈夫でもない。

 ……だから、逃げる。恥も外聞もなく敵に背を向け、走りだす。

 手のひら返しが過ぎることは俺自身もわかってはいる。

 ただ、なんというか……悔しかった。

 何かが起きることは明白だった。大した彩りも変化も、展望すらもない俺の人生の中で、あの悪魔とのやりとりは間違いなく最大の転機だった。それでも俺は、拒絶を選んだ。与えられる幸福の質量に負けたのだ。挙句全てを棒に振るような真似をした。この世に生きる誰もが必死の形相で手を伸ばし、「代われ」とせがんだであろう最大のチャンスを、俺は捨てた。

 でも、だからって何も変わらなかったわけじゃない。逆恨みじみていてカルドには申し訳ないが、あいつが最後に言った通りに来世に期待して何もせず死んでいくのは、どんなにプライドのない俺でも悔しいと思えた。

 だから、せめて逃げる。あいつのやったことは無駄ではないと証明してやる。別に頼まれても願われてもいないだろうけれど。それでもあいつは俺のために、貴重な魔力を使い果たしてくれたはずなのだから。

 ……ああ。わかってる。矛盾していることぐらいわかってる。

「恐れてるんだか、惹かれてるんだか……」

 自分でもわかんねぇんだよな。

 繰る足を止めずに、独り自嘲したその時だった。

「────え?」

 凄まじい風が、アスファルトの上に巻き上がった。──いや違う。猛烈なスピードで地面を駆ける風の塊が、俺を追い越していった……のだ。

 思わず足を止めた。恐る恐る振り返った。

 後ろに置いてきたはずの俺の影は、どこかに消えていた。

 もう一度前を向く。ホラー映画だったら正面に立っていてもおかしくない。だが、どうやら今の俺を取り巻く環境はホラーの世界ではないらしかった。

「……助かっ、た…………?」

 本来ならこんな安い言葉だってフラグだ。なのに、もう一人の俺はどこにも現れない。

 助かった。でもどうして──

 直後、脳内に閃光が駆けた。俺と怪物の進行方向。その遥か先にあるのは──

「まさか、あいつ……!」

 弾かれたように足が動く。自分の影から逃げていたさっきよりもずっと速く、景色が流れていくような気がした。

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