第2話
この時期になると、仕事が終わる頃にはすっかり朝日が昇っている。夜の時間帯に勤務し始めてからというもの、すっかり昼夜逆転の生活が板に着いてしまった。
こんな俺でも実は健康に気を遣っている節がある。職場はコンビニというどこにでもあってなんぼな店だが、勤務先に選んだのは俺の自宅から少し離れた店舗だ。職場が家に近いと精神衛生上よくないというのもあるが、ただでさえ出不精な俺が外を出歩くのは通勤ぐらいだと自覚していたから、というのが大きな理由だ。要するに、運動不足を少しでも解消しようという魂胆である。
しかし、こうも生物としての生活習慣の逆を行くと、その少しの気遣いも水泡に帰してしまいそうだ。
「──はああぁぁぁ……」
緊張の糸が途切れ、一気に肩の力が抜けた。すぐに倒れてしまいたい気分だが、そこをグッとこらえて、俺はいつものベンチにゆっくりと腰を下ろした。
そこにある二人がけの木製のベンチに座って、帰宅前に缶コーヒーを飲むのが一種の日課になっていた。はじめは疲れた日の自分へのご褒美みたいなものだったのだが、なんだかんだでほぼ毎日ここに座っている。ぶっちゃけ仕事から解放されて疲れていない日なんかないので、仕事帰りのルーティーンになってしまうのも仕方のないことなのかもしれない。
「…………」
ぼんやりと辺りを見回せば、そこには人気のない静かな町の風景が広がっている。
ただでさえ利用者の少ない小さな駅で、まだまだ早朝と呼べる時間なので、通勤通学の人波に呑まれることも、周囲に邪魔に思われることもない。時折散歩やランニングをしているご高齢を見かける程度だ。この日も例に洩れず、独りだった。
「…………」
静かで静かで、うっかり項垂れてしまう。なんだか今日は──いや、日が昇ったのだから昨日か。昨日は疲れた。濃い時間だった。あれほど衝撃的な体験を、人生のうちであと何回経験するだろう。今まで驚くほど何も成してこなかったツケが回ってきたのかもしれないとすら思う。
──もしそうだとしたら、これは天罰だろうか。それとも、忠告?
この先の人生、お前程度の、何も持っていないような人間が何をしても上手くはいかないぞ、という忠告。全ては手遅れだという現実を突きつけに。
今回ばかりは謎の人物の謎の力でどうにか丸く収まったが、問題が起こった時に常に誰かが助けてくれるなんて保証はない。むしろ、自分の身に何かが起こった時、手を差し伸べてくれる人がいるほうが幸運なのだ。
そして、俺はたぶん、この世界に生まれた瞬間から、貧乏くじを引かされている。
親やきょうだいには恵まれた。大学にも行かせてもらえたし、苦労はあったが卒業もできた。
だが、違う。もっと根本的なところだ。社会生活や自己実現とはかけ離れたところに俺の問題は巣食っていて、俺の人生を頭から尻尾まで蝕んでいる。
もし仮に俺をそういう風に創った神がいるのなら、俺はたぶん、神にこそ虐待されている。
だから、俺の運は続かない。俺は人よりも生きるのに誰かの助けが必要な人間だけれど、助けをこそ与えられない。
俺は俺の人生で、特段、何かを間違えたとは思わない。だが、人生がはじまる前から、俺という存在は何かを間違えている。だからずれているし、不具合が多い。社会に敷かれた正規品のレーンに、俺は乗れない。どうにかこうにか乗れたとしても、いつかはボロが出て弾かれる。所詮は無理をして得た正規判定だ。足りないぶんを嵩増しするのはいつだって努力や時間で、それが続かなくなった瞬間に、全てを懸けて得た「可」の判子は取り消される。俺という存在が弾かれる。
いつまでこれが続くだろう、と、ふと思った。時給労働、安アパートの一人暮らし。別に潤った生活を求めているわけじゃない。金のかかる趣味どころかそれらしい趣味の一つだって持ってはいないし、将来的に家庭を持ちたいといった願望もない。誰かの迷惑や負担になるぐらいなら、一人の方がずっといい。だが、なにぶん俺は生きるのに金と時間がかかるようにできているから。狭い安アパートで不自由なことは何もないけれど、その部屋にエアコンや加湿器がなければすぐに体調を崩してしまう。カビやホコリは少量でも身体に不調を訴えかけるし、仕事に穴を開けないと病院にも通えない。割と冗談抜きで、温室じゃないと健康の維持すらまともにできない身体だ。健康じゃなければ、仕事ができない。仕事ができなければ、金がなくなる。金がなくなれば──
……それに、仮に運よく健康を維持できたとしても、老いは必ず、誰の身にも降りかかる。今は二十代だから体力もあるが、これが三十代、四十代と変化するにつれて、話も同様に変わってくるのだ。
時給労働、安アパートの一人暮らし。たったこれだけで説明できる俺の人生が、生活が──時間を経るだけで不確定な贅沢に姿を変える。いつまで続くだろうか、この必要最低限の贅沢が。続かなくなった時に俺はどうなるんだろうか。
いずれ細っていく未来なら、いっそのこと──
ジジ、と、体の近くで音がした。……気がした。耳元でゼンマイを巻くような、機械的で小さな雑音。聞いていると、かすかにだが不快感を抱くような粗さがある。音の発生源と思しき耳のあたりと肩口を擦り合わせるように身じろぎするが、異物感は何もない。それでも断続的に──不快感の塵を積み上げるように、そのノイズは耳元で鳴り続ける。
耳鳴りの一種だろうか、と思って放置してみたり、そうでもないなと思って肩を手で払ってみたりするものの、改善の気配は窺えなかった。次第に思考の大半がそのノイズのことで埋まっていき、そういえばあの白い男がおっさんの何かを蒸発させた時の音に似てるよなとうっすら思ったところで、ズンと肩に重みが加わった。骨が軋むかと思うほど強く、垂直にかけられる負荷に心臓が跳ねた。痛い──のに、声が出ない。動転、恐怖、痛苦──赤黒白と視界の色が目まぐるしく切り替わり、息が詰まる。
「何──……っ、」
かろうじて首を傾ける。誰かのイタズラにしては加減というものを知らなさすぎる。だったら加減を知らないヤバい人か──もしかして俺、殺される?
ともかくとして正体が知りたかった。人だろうが大岩だろうがなんだろうが、正体不明の恐怖と戦うよりはだいぶマシだ。無理やりに下を向かせようとする負荷に抗って首の角度を調整し、背後にいるであろう犯人の姿を視界に捉える。
「────、」
呼吸困難に喘ぐ身体で、ひっそりと息を止めた。それでも気づいた時には本能が俺に呼吸を強いていて、戦慄いた喉から吸う息がひゅうと鳴った。
なん……だ? これは。
俺の視界に入ったものは、まさしく「人」の「影」だった。人間の輪郭を真っ黒に塗り潰したような外見で、よく見ればその場に留まってすらいられないかのように輪郭自体が揺らめいている。立体的で、実体がある。質量だって、今こうやって苦しいほどに感じている。なのに、得体が知れない。
一目見て異質だと理解した。これは人間じゃない。……生き物ですらも。
『…………コ、こ』
影が喋った。口も目もない顔で。でもなぜか輪郭だけはのっぺりとしておらず、服を着ているかのような──わずかな襟の段差や衣服の膨らみが見えた。髪のシルエットまでも。確実にどこかで見たことがある姿なのに、合成音声のようなザラついた声のせいで、考える気力が湧いた先から失せていく。
『……イたい?』
…………いたい? ……痛い。痛いに決まってる。痛すぎて視界が霞むぐらいだ。それだけじゃない。この危機感。どうしようもない不安と焦り。それから恐怖。グラグラと揺れる心が呼吸を阻害し、視界と思考を曇らせる──この感覚。
この感覚を味わうのは、今にはじまったことじゃない。初めてなんかじゃない。だからわかる。……この恐怖と焦燥は、「寂しい」に繋がっている。俺にはそれが一番怖い。だから毎日ここに来てるんじゃないか。外は他人で溢れているから。だから寂しくないかもしれない。助けてと言ったら誰かが本当に助けてくれるかもしれない。……そんな都合のいい人間、滅多にいないことなんてわかってる。でも家は他人から隔離された密室だ。「助けて」さえも聞こえない。俺はあそこにいたくない。……いたく、ない。
──ハッとした。
『いタい? ココ』
途端に握力が強まり、影の爪が肩に沈み込む。言葉の体をなしていない悲鳴が口からまろび出た。痛い……! 爪が、……爪なんか最初からあっただろうか? こんな、人のものじゃない、
……獣のような、鉤爪。
『いたイ? イタイ? ねェ、イタい? ほントに? ネぇ……』
──居たくないでしょ?
一気にまくし立て、影は最後にそう言った。背後に立っているはずの「それ」の顔が、なぜか真正面にあった。返事をせがむ子供のように、顔を押し付けんばかりに覗き込んでいる。
逆さまに、闇が。
視界一面の闇が。
俺を。
「…………いたく……ない」
気がつくと俺は答えていた。口が無意識に言葉を紡ぎ出した瞬間から、俺の意識は口に引っ張られている。泣き言のように──しかし心ここにあらずのうわ言のように、震える声が細く長く洩れ出していく。
「嫌だ……たすけて、……助けてくれよ。もうこんなところにはいたくない。こんなはずじゃなかった。何が好きとか何が得意とか……時間内に見つけられなかったのはそりゃもちろん俺のせいだけどさ。何になりたいとかどうなりたいとか今の俺だって知らないけどさ、でも違うんだよ。違うってことだけは痛いほどわかってんだよ。なのになんで俺は生きてるんだ。……俺はもういたくない。こんな世界にいたくない、何も残さず消えてしまいたい、もう二度と生まれてなんかきたくない。生まれる前に帰りたい。息をしなくても苦しくない無になりたい。いたくない、いたくない…………いたく、」
滝のように止めどないのに、俺の声は低く掠れていた。こんな声を出したのはいつぶりだろうと頭のどこかで思う。大学入学以来ずっと一人で暮らしてきたし、実家にいた頃だって、弱っているところは極力見せないようにしてきた。家庭の歪みなんかではない。単純に男だからとかいい歳だからとかいうのもあった。でも、それ以上に、俺はただでさえ弱い人間だったから。ただでさえ荷物だったからだ。
自分のことを重荷だと思って生きてきた。だから、これ以上面倒はかけられないと。
思って。
「いやだ、もう苦しいのは嫌だ、寂しいのも全部…………助けて……」
俺は『俺』の目を見てそう言った。……見慣れたこの姿形に。それもそのはずだ、毎日鏡で見ていたシルエットそのものじゃないか。どうして今まで気がつかなかったのだろう。
心の澱を全て吐き出すと同時に、急に肩が軽くなった。狭まった視界が徐々に光を取り戻し、呼吸が楽になる。
何が嫌なのか、何から助けてほしいのかなど、もはやどうでもいいと思った。俺は今、この瞬間に、救われたのだ。俺は寂しくなんかない。もう苦しくなどない。俺には『俺』がいる。泣き言も助けを呼ぶ声も、全部こいつにぶちまければいい。
そうしたら、『俺』が全部解決してくれる──
『ウン』
『俺』はゆっくりと、そして素直に頷いた。
『イタクナイコトしよ、イッショに』
最高の気分だった。心の通じ合う友達が、初めてできたような。ふわふわとした多幸感が俺を包んでいる。俺の言うことを全部叶えてくれる、最高の親友がここにいる。
もう何も考えなくていい。
「うん」
『いっしょにしの』
「うん」
『たべてあげる』
「うん」
鉤爪がそっと、心臓にかかる。
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