三つめの贈りもの



 ある街の片隅に、ニルワナという少女が住んでいた。

 両親はニルワナに対してやたらに厳しかった。彼女はしばしば怒鳴られ、殴られ、食事を抜かれ、寝ているところを叩き起こされ、寒空の下に放り出された。何が理由かは分からない。彼女が粗相をしたときはもちろん、何も失敗していなくても親の気分次第でそうなるのだった。だから、ニルワナが親に怯えることは並大抵ではなかった。

 そんなニルワナの心の支えとなったのは、心優しい祖母であった。祖母はどんな時でも変わらずニルワナをいたわり、愛してくれた。

 祖母はたびたびニルワナに言ったものだ。

「おまえは愛される値打ちのある子なんだよ。だからお前も、気の毒な人たちを愛しておやり」

 その言葉がどれほどニルワナの自尊心を育んでくれただろうか。ニルワナは祖母を慕い、いつも祖母の後をちょこちょこついて回った。祖母の目の届くところにいる間は、両親に殴られることもなかった。祖母のそばだけが、真に安らげる安全地帯だったのだ。

 ところがニルワナが14歳になったある日、祖母は急な病で亡くなってしまった。ニルワナは悲しくて、悲しくて、あまりにも悲しすぎて、涙を流すこともできなかった。自分の居場所が、世界が、いきなり音を立てて崩れ去ってしまったように思えた。

 祖母がいなくなってからというもの、両親はこれまで以上にニルワナに辛く当たるようになった。日を追うごとに彼女の体には青黒いアザが増えていった。それでも不思議と涙は出てこなかった。涙を流すという肉体の機能が、祖母の死をきっかけにして壊れてしまったかのようだった。

「おばあちゃんに会いたい」

 いつの頃からか、ニルワナはそう渇望するようになった。

「おばあちゃんの所へ行きたい。何を犠牲にしてでも」

 ニルワナはついに意を決し、街を飛び出て西へ走った。

 荒野を西へ三昼夜進んだところに、『女皇のとばぐち』と呼ばれる暗い洞穴が口を開けている。この穴の奥底は冥界へ繋がっているらしいと、古くから言い伝えられていたのだった。

「行こう。もう二度と戻れなくていい。私はただ、おばあちゃんに会いたい」

 ニルワナは襤褸ぼろを木の枝に巻き付け、樹液を塗って松明を作った。その弱々しい灯りだけを頼りに、ニルワナは洞穴へ潜っていった。

 暗い暗い坂道を、どれほどの時間下っただろう。湿った鍾乳洞の中はどこもかしこもぬめって気味が悪いうえ、奥に行くほどに寒さが増していく。ニルワナは歯の根も合わぬほどに震えながら、執念に突き動かされて歩き続けた。

 手足が冷え切って歩くことも難しくなり始めた頃、不意に視界が開けた。長い洞窟の奥に、広大な空間が広がっていたのだ。

 どうやらそこは、地底に掘られた巨大な丸い穴の中であるようだった。広さは街が三つおさまるほど、高さは木を百本継ぎ合わせたほどもあり、あたりには鳥さえ飛び交ってけたたましい鳴き声を響かせている。そしてはるか頭上の天井には暗闇色をした太陽が黒々と燃え、下では黒い陽光を浴びながら無数の亡者たちが蠢いている……

「間違いない。ここが冥界なんだ。このどこかにおばあちゃんがいるはずだ」

 ニルワナはいてもたってもいられず、冥界に飛び込んだ。そこらにいた亡者どもが、すぐさまニルワナを見咎める。生きた娘の肉を喰おうと、呻きながら詰め寄ってくる。ニルワナは夢中で松明を振り回し、亡者たちを払いのけて、一心不乱に駆け抜けた。

 どうにか亡者たちを振り切ると、今度は目の前に巨大な竜が現れた。冥界の竜は肉が腐り落ちた酷い姿で、臓物を引きずりながら獲物を求めてさまよい歩いていた。灯りに目をつけたのか、竜がニルワナの方を睨んだ。ニルワナは息を呑み、とっさに松明を投げ捨てて踏み消した。竜はニルワナを見失い、諦めてどこかへ行ってしまった。

 さらに奥へ進むと、今度は数人の亡者が座り込んでいるのに出くわした。亡者たちは悲しそうにすすり泣きながら、ひたすらこう呟き続けていた。

「寂しいよう。つらいよう。喉がかわいて死にそうなのに、死ぬこともできなくて寂しいよう……」

 それを聞くと、ニルワナは、きゅっと胸を締め付けられるような思いに駆られた。ニルワナもあの亡者たちと同じだった。愛という水にかわききって、こんな冥界にまで降りてきたのだ。そのときニルワナの胸に、祖母の言葉が蘇った。『お前も気の毒な人たちを愛しておやり……』

 ニルワナは亡者たちに寄っていった。

「もし良かったら、私の水筒から一口お飲みなさい」

 亡者たちは喜びの溜息を漏らし、ニルワナの差し出した水筒から、清らかな水をむさぼり飲んだ。

「ありがとう。ありがとう。百万回もありがとう。あなたのことは忘れない。

 ああ、寂しいよう。つらいよう。でも、今はちょっとだけ嬉しいよう……」

 空になった水筒を持って、ニルワナは冥界の奥へ進んだ。

 すると不意に横から彼女を呼び止める者があった。

「ニルワナ! お前はニルワナじゃないのかえ」

 声の主は、祖母であった。ニルワナは泣きじゃくり、祖母の胸に抱きついた。祖母は昔と変わらぬ優しさでニルワナを抱き返してくれた。

「ばかだね、この子は。まだ若いのに、いくらでも生きられるのに、こんなところに来ちまって」

「ごめんなさい、おばあちゃん。私、どうしてもおばあちゃんに会いたかったの」

「謝ることはない。お前のその気持ちを、嬉しく思わないはずがあろうか……」

「おばあちゃん、私、ここに住んではいけないかしら?」

「いけないよ。ここは死者が住むべきところだ。生者が生きたまま冥界に留まれば、生きてもいない、死んでもいない、亡者のとなって永遠に苦しみ続けることになる。それは死ぬよりも、生きるよりも、ずっとずっとつらいことなんだよ」

 その時、凄まじく恐ろしい竜の咆哮が冥界じゅうに響き渡った。

「いけない! 生者が入り込んだことが、冥界の王に知れたらしい。早く逃げねば大変なことになる」

 祖母はそう言って、奥の暗闇から二つの物を持ってきた。

「お前に三つの贈りものを贈ろう。

 一つめは《砂糖よりも甘い菓子》。懐にしっかり入れておおき。

 二つめは《炎よりも熱い酒》。その空になった水筒に満たしておいてあげようね」

「三つめは?」

「それはね、もうとっくにお前に渡してあるんだよ。

 さ、お行き。おばあちゃんは、お前の幸せだけを、ずっとずっと願っているからね……」

 後ろ髪を引かれる思いだった。せっかく会えた祖母と別れたくなかった。だが祖母に何度も背を押され、ニルワナはとうとう、泣きながら走り出した。

 すると、ニルワナを見つけた亡者たちが、怒涛のように追いかけてきた。ニルワナは恐怖し、必死に駆けた。だがここまでの旅で疲れ果てていたニルワナの足ではとても逃げ切れない。

 いよいよ追いつかれようかというその時、ニルワナはがむしゃらに、懐にあった《砂糖より甘い菓子》を背後の亡者へ投げつけた。

 《砂糖よりも甘い菓子》、その正体は《賞賛》であった。亡者は菓子をひとめすると、たちまちその甘さに取り憑かれ、夢中になってむさぼり始めた。周りにいた亡者たちも菓子を求めて群がって来、とっくみあいの奪い合いが始まった。

 その間にニルワナは逃げることができた。

 ところが今度は恐ろしい大きな竜が、空からニルワナに襲いかかってきた。ニルワナは悲鳴をあげ、持っていた水筒の中身を、竜めがけてぶちまけた。

 《炎よりも熱い酒》、その正体は《正義》であった。竜はたちこめた酒の香りに酩酊し、誰彼構わず悪者を罰したい気分になった。そして近くに亡者を見つけると、頭の上から手当たり次第に炎を吐きかけ、炎上させることに熱中しはじめた。

 その間にニルワナはまた逃げることができた。

 そこへ、さらなる脅威が迫ってきた。天井で燃え盛っていた黒い太陽がニルワナめがけて落下し、人の形をとった。黒い太陽の正体は、冥界の王だったのだ。

「生と死の国境を踏みにじった愚かな娘よ! 貴様は生きて返さぬ。死なせもせぬ。生者でも死者でもない中途半端なけだものと化して永遠に苦しみ続けるがよい!」

 身のすくむような恐ろしい声で叱りつけ、王が黒い腕を伸ばしてきた。だがニルワナには、もう投げつけるべき贈りものさえ残っていない。どうすることもできなくて、ニルワナはただただ震えあがった。

「お待ち下さい!」

 そこに割り込んできた者がいた。さっきニルワナの水筒から水を飲んだ、あの亡者であった。

「恐れながら申し上げます。この娘は、かわきに苦しんでいる私たちに、愛という名の水を恵んでくれました。愛は冥界では最も貴重な宝。それをもたらした功績によって、どうか罪一等を減じてくださいませ」

 冥界の王はうなりました。

「ふーむ、愛か……ふーむ……ふむむ……

 まあ、そんならいいか。

 娘よ! この者たちに免じて罪一等を減じ、向こう60年間冥界入国禁止処分とする! 貴様のような馬鹿者は、死ぬまで幸せに生きるがよいわ!」

 こうしてニルワナは、危ういところで地上に戻ることができたのだった。

 戻ったニルワナは、以前よりもずっと強くなっていた。両親の仕打ちにも負けず、日々を強く生き抜けるようになっていた。

 もうニルワナは、どんな苦難にもくじけないい。

 なぜなら彼女の心には、祖母からの三つめの贈りもの――《愛》が満ちているのだから。



THE END.

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