「香奈恵さんっ!」

 友樹が口にした名前に、梨音は目を丸くする。

 その名前こそ、梨音に友樹が自分のことを気持ち悪いと言っていると教えてきた子の名前だ。

対局たいきょく途中とちゅう失礼しつれいだよっ!」

 友樹が突然とつぜん非常識ひじょうしき行動こうどう抗議こうぎするけど、香奈恵は、盤面ばんめんと梨音を見比みくらべると、あやまることもなく言う。

「こんな下手へたくそ相手の碁、対局たいきょくの数にも入らないでしょ」

「……」

 そんなふうに言われてくやしいのに、事実じじつなだけに返す言葉が見つからない。

 梨音が何も言えずにいると、香奈恵は、周りにいる囲碁部の部員をにらんで言う。

仁藤にとうは囲碁部員じゃないんだから、こんなくだらないことに時間を使わせないでくれる」

囲碁部顧問いごぶこもんの鈴木先生に頼まれて、僕が自分の意思いしで引き受けたんだよ」

 立ち上がった友樹は、地面にひざいて、散らばった碁石をひろう。梨音もそれを手伝おうと地面にしゃがみむ。

 でも香奈恵は、友樹のうでを引いて強引ごういんに彼を立ち上がらせる。

「お父さんから、友樹を連れてこいって電話があったの。行くわよ」

「……」

 友樹が困り顔で、梨音と碁石を見比みくらべる。

 その表情で、彼にとって急がなきゃいけない要件ようけんなのだとわかった。

「大丈夫です。行ってください」

 囲碁部の部員らしき男女の生徒も、梨音と一緒に碁石を拾い始める。

 香奈恵にしつこく腕を引かれる友樹は、梨音に「ごめん。続きは今度……」と謝りその場を離れていく。

 当然のように友樹の腕をひっぱて歩く香奈恵は、一度梨音に視線を向けて、わざと聞こえるように言う。

「受かるかどうかわからない見学の子なんて、真面目に謝る必要ないわよ」

 香奈恵のその言葉は、碧海学院附属のレベルの高さを考えてのことだろう。

 確かに梨音の成績では、合格はきびしい。

 自分自身、合格なんてありないと思っていたのに、香奈恵に言われると腹がたつ。

「せっかく参加さんかしてくれたのに、ごめんね。後は僕らがやるから、君ももういいよ」

 碁石を拾う男子生徒が、梨音に言う。

「あの女の人は?」

槙九段まきくだんって、プロ棋士きしがいるのは知ってるかな? 彼女、その槙九段の娘さんで、仁藤君は槙九段の門下生もんかせいだから、彼女のわがままにいつもまわされているんだよ」

 そのまま石ひろいを手伝う梨音の質問しつもんに、男子生徒がそう教えてくれた。

「それだけじゃないわ。槙さん、仁藤君のこと好きだから、他の女子が彼と仲良なかよくしていると、その子に『仁藤君が迷惑めいわくしているから話しかけないで』とか、平気でうそをついてくるんだよ」

 そう不満の声を上げるのは、碁石拾いを手伝ってくれる女子生徒だ。

 石を拾い集めながら、女子生徒は「きっと、今のも嘘に決まってる」とぼやく。

(な、なんですと!)

 心の中で叫ぶ梨音の頭の中で、昔の記憶きおくよみがえる。

 確かにあの時も、友樹に直接ちょくせつ何かを言われたおぼえはない。

 ただ小さかった梨音は、友樹と仲良くしていた香奈恵の言葉をうたがうことなく、それが彼の本音ほんねなのだと受け止めてしまった。

 今も昔も香奈恵の言葉に振り回されて、友樹との関係を邪魔じゃまされているのだと思うと腹が立つ。

(一度逃げて、くやしい思いをしたから、もうめたいんです)

 さっき、友樹に宣言せんげんした言葉がむねよみがえる。

「すみません、後お願いします」

 梨音はそう言って立ち上がると、そのまま二人の背中を追いかけて走り出す。

「梨音君?」

 全速力ぜんそくりょくで自分のわきをすりけていく梨音に、芽衣がおどろいて声をかけてくる。だけど梨音は、それに応えることなく地面をった。

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