「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしく」

 イスを引いて挨拶あいさつする梨音に、友樹もお辞儀じぎをする。

「あの……院生いんせいってなんですか?」

 イスにすわる梨音の質問しつもんに、友樹がおしえてくれる。

「プロ棋士きし目指めざす人が所属しょぞくする団体だんたいのことだよ」

「……プロを目指めざしていたんですか?」

 「今も」という言葉をどうにかむ梨音の顔を見て、友樹はれくさそうに耳の後ろをかく。

「うん。親にも反対はんたいされているし、無謀むぼうかもしてないけど、子供の頃からの夢なんだ」

 もしかしたら友樹は梨音がバカにしていると思ったのかもしれないけど、もちろん梨音にそんなつもりはない。

 てっきり囲碁をめたと思っていた友樹が、変わることなくプロの夢を追いかけていてくれたことが素直すなおに嬉しいのだ。

「えっと、おう……」

 「応援おうえんしています」と言おうとした梨音の声に、芽衣の声がかぶさる。

「梨音君、がんばってっ!」

 はしゃぐ芽衣の声に、また「坊主頑張ぼうずがんばれよ」と言った、見ず知らずの人たちの面白半分おもしろはんぶん声援せいえんが続く。

「カノジョ? 可愛かわいいね」

 赤面せきめんしてうつむく梨音に、友樹が言う。

 そんな質問しつもんをするということは、やっぱり彼は梨音がだれなのかわかっていないのだ。そしてそれ以前に、男の子だと思われている。

ちがいますっ!」

「そう。ごめん」

 あやまる友樹の声は、「てれれなくてもいいのに」と言いたげだ。

 このまま男の子と思われているのはいいけど、芽衣と付き合っていると思うのはめてほしい。

「本当に、違いますから」

 梨音は、声を低くしてねんす。

 梨音のうったえを聞き流す友樹は、先ほどの対局たいきょくに使った碁石ごいし碁笥ごけに戻していく。

 それを手伝おうとすると、友樹はつくえのすみに置いてあるノートに視線しせんを向ける。

「碁石は僕が片付けるから、それに名前を書いてもらってもいい?」

 ノートと一緒にボールペンが置かれていて、「一局目」「二局目」と書かれたワクの中に名前の他に、有段者ゆうだんしゃの人は自分の段位だんいも書き込んでいるようだ。

対局表たいきょくひょうですね」

 梨音の言葉に、友樹がうなずく。

苗字みょうじだけでもいいよ」

 昔、梨音と友樹がかよっていた碁会所ごかいしょでも、行くたびふだに名前と自分の棋力きりょくを書いて碁会所の人に渡すことになっていた。そうすると、実力じつりょくに合った人と打てるように相手あいてを選んでもらえるのだ。

 子供の頃、全くレベルが違う梨音と友樹が対局たいきょくしていたのは、年齢ねんれいが近い方がいいという判断はんだんからである。

なつかしいな。あのころはひらがなしか書けなかったんだよね)

 まだ両親りょうしん離婚りこんする前、小さな梨音も、覚えたて下手へたくそな字で「さくら」と書いていた。

「えっと、梨音君より、一ノ瀬いちのせ君って呼んだ方がいいのかな。……一ノ瀬君、もしわかるなら自分の棋力も書いてね」

 ノートをのぞき込んだ友樹が言う。

たしか……」

 子供の頃の棋力を書く。

「わかった。六級だね」

「下手くそで、すみません」

 ボソリとあやる梨音に、友樹が首を横に振る。

「大丈夫だよ。まずは囲碁を楽しんでもらうことが、大事だから」

 ニッコリと笑って話す友樹に、子供の頃を思い出す。

 昔もこうやって優しく笑って、梨音に囲碁の楽しさを教えてくれたのに……

(友樹君を思い出すのが嫌で、囲碁自体やめちゃったんだよね)

 こうやって碁盤をはさんで彼に向き合うと、囲碁まで止める必要はなかったのではないかと思えてくる。

 友樹は、梨音の目を見て少し考えてから口を開く。

「六級だといしは……」

「いりませんっ!」

 置き石とは、レベルが違う人が勝負しょうぶする時にハンディとして先に石を何個なんこか置かせてもらうことだ。

 梨音と友樹の実力差じつりょくさを考えれば当然とうぜんのことなんだけど、それがみょうくやしい。

 梨音の声に、友樹は少しだけおどろいた顔をする。

「わた……僕の実力に合わせる必要ひつようはないです。それくらいなら、実力で勝負して負けた方がスッキリして気分がいいです」

 彼に嫌われたからと、ねた気分で囲碁を辞めてしまった自分が、彼に手加減てかげんしてもらうのはちがう気がする。

 それに、自分が囲碁を打たなくなった後も、努力を続けていた友樹の実力じつりょくを見てみたい。

「だけど……」

 友樹はこまり顔で、盤面ばんめん視線しせんを落とす。

 二人の実力差では、勝負にならないと思っているのだろう。

「手加減してもらわなくても、囲碁の楽しさは知っています。だから、わた……僕に、ちゃんと努力してきた仁藤さんとの実力を知るための勝負にしてください」

 梨音の言葉に、友樹は納得なっとくした様子で笑った。

「一ノ瀬君は、強いね」

「え?」

「負けて悔しい思いをするのが嫌だからって、言い訳の準備じゅんびをしないで、正面からぶつかってくる。それはすごく勇気ゆうきのいることだよ」

「それは……」

 そのとおりだ。

 梨音も、友樹に嫌われて、彼のことを思い出すのが嫌で囲碁をめた。

 でも今、昔と変わらない気持ちでプロを目指す彼と再会して、梨音のむねには、いいようのないくやしさがあふれている。

「一度げて、悔しい思いをしたから、もうめたいんです」

 碁石を戻し終えた友樹は、そう断言した梨音を真っ直ぐに見る。

「わかった。じゃあ、にぎりから」

 そう言って友樹は、白石の入った碁笥ごけに手を入れて石をつかみ、その手を碁盤ごばんの上に置く。

 それに応えて、梨音が黒石の入った碁笥ごけからり出した石を一つばんの上に乗せると、友樹は、にぎっていた手を広げて出した石の数を数えていく。

「……四、五。じゃあ、僕が白石で」

 それだけ言うと、石を碁笥に戻し、おたがいに一礼いちれいする。

 初手小目しょてこもく。友樹は、基本に忠実ちゅうじつな場所に碁石を置いた。

 それに応えて、梨音は反対側の同じ場所に白石を置く。それに応えて友樹は次の石を置けば、梨音も少し考えて次の石を置く。

 言葉を必要としないやり取りに、梨音はずっと忘れていたワクワクした感覚かんかくを思い出していた。

(子供の頃、人と話すのが苦手にがてな分、こうやって石でお話しするように囲碁を打つのが好きだったな)

「……さくらちゃん?」

 お互いに作戦さくせんを立てながら石をならべていくと、友樹が不意ふいつぶやいた。

「――っ!」

 両親が離婚する前の苗字みょうじを呼ばれて、おどろいた梨音が顔を上げると、友樹も驚いた顔をする。

「ごめん。一ノ瀬君の打ち方を見てたら、初恋はつこいの子を思い出して……」

 梨音の反応を見て、初めて自分が呟いていたことに気づいたらしい。

 言い訳するような友樹の言葉に、梨音の指から碁石が落ちる。

「に、仁藤さんの初恋の相手は、……さくらちゃんて名前だったんですか?」

「そう。苗字は知らないんだけど、さくらって名前の子で」

 その言葉に、梨音はあることを思い出した。

 二人が通っていた碁会所は、名前と棋力を書いたふだを使って、受付の人が対戦相手を決めていた。あの頃の梨音は、ひらがなしか書けなかったので、札に「さくら 6きゅう」と書いていた。

 確かに、「佐倉さくら」という苗字は、ひらがなで書くと、女の子の名前に思える。

「その子も囲碁を打つんですか?」

 友樹の言う「さくらちゃん」は、自分とは別人かもしれないと考えて、確認かくにんする。すると友樹は、大きくうなずく。

「小学校の頃、同じ碁会所に来ていていたんだけど、すぐに囲碁にきて、通うのをやめたんだ」

「へ?」

 身に覚えのない話にキョトンとしていると、梨音のとした石を友樹がひろう。

「変な話をしてごめん。多分僕はまだ、彼女のことが好きなんだ。だからつい……」

 拾った石を碁笥に戻す友樹は、対局を再開しようとするけど、梨音としてはそれどころではない。

「あの、さくらちゃんが囲碁を嫌いになったっていうのは、誰から聞いたんでしょうか?」

 梨音の質問に、友樹はなんでそんなことを聞くのだろうかと、不思議そうな顔をする。それでも自分の呟きがもとで始まった話だからか、素直に答えてくれた。

「通っていた碁会所ごかいしょの先生のむすめさんだよ。僕の師匠ししょうの娘さんにも当たるんだけど」

 友樹のその言葉に、梨音のふる記憶きおくよみがえる。

 梨音に、友樹が自分のことを嫌っていると話したのも、友樹と同い年くらいの女の子で、確か名前は……

「友樹、こんなところで何にしてるの?」

 突然とつぜん不機嫌ふきげんな女の子の声が降ってくるのと同時に、碁盤の上に手がたたきつけられて、碁石があっちこっちに飛びっていく。

 驚いて顔を上げると、碧海学院附属の制服せいふくを着たかみの長い女子生徒と目が合った。

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