篠原悠希 1

 俺がこの病院――清水病院に配属になったのは、20××年、4月21日だった。

 俺にとっては初めて務める病院であり、ウキウキと云うか、そう云う嬉しいに属する気持ちで病院に入ったのは確かだ。

 関係者以外立入禁止のテープが貼られた扉を開けて中にはいると、何人かの医者が笑いながら何かが書かれている紙を整理していた。

「おっ、新人さん?」

 最初に声をかけてきたのは清水康則しみずやすのり、この病院の医院長だった。

「あ、はい、はじめまして、宜しくお願いします」

「まぁまぁ、そう云う堅苦しい挨拶は抜きにしてさ、気軽に行こうや」

 そう云って、清水は俺を病棟へと連れて行った。

 清水が何やら云っていたが、病棟の方から聞こえてくる音や奇声で全く聞こえていなかった。

 何故この病院に来たのか、それはこの病院が抱えていた人材不足だった。そのため、ほぼ無理矢理この病院に勤務することになった。

 しかし、乗り気ではなかった。この病院は、訳ありの病院として裏で有名になっているからだ。どこが訳ありなのか、それは圧倒的な死亡者の数だった。

 清水病院は精神科病院として有名なのだが、圧倒的に生きて退院した患者が少ないのだ。逆に云えば、死亡者の数が異常に多い。

 そのため、裏で手に負えなくなった患者を殺しているだとか、実際は犯罪者を拷問する場所だ、なんてことが呟かれていた。

 それに、清水病院には別名があり、それが「廃人病院」だった。

 どう云うことかと云うと、全国にある無数の精神科病院の中で手に負えなくなった患者を受け持つのが清水病院、と云うことである。

 つまり、全国の廃人と称された患者が清水病院に次々と流れ込んでくる訳である。

 そして――次々と患者が死んでいくのである。

 さて、着いたよ、と云いながら、清水が「203」と書かれた扉を開けた。

 清水が先に入り、それに続く。奇声は一層強くなって耳に届いてきた。

 その部屋には真ん中の通路を開けて、左右に六個ずつベッドが並んでいた。ざっと辺りを見回すと、全てのベッドに患者が入っていて、寝ている者もいれば上半身を起こして何やらブツブツ云っている患者もいた。

 その時、「ガチャッ」と、何やら金属と金属がぶつかる――鎖を引っ張ったような音が聞こえた。

 音のした方を見ると、一人の患者が寝ていた。しかし、寝ている格好が変だ。なんと、膝を立てて寝ているのである。

 それに、その足はとても人の物とは思えない程細かった。そう、まるで骨と皮だけのように見えた。

「ガチャッ」再び音がした。やはり、このベッドに寝ている患者が出している音らしい。

 問うた。「あの、」

「ん?」

「さっきからしている、ガチャッって音は何なんですか?」

「ガチャ? あ、ああ、あの音だよ」

 そう云うと、清水は俺が目星をつけていた患者のベッドの方へと進んで行った。やはり、あの患者が出している音なのか、と思った一方、何の音なのかが無性に気になっていた。

 しかし、そんな考えは一気に吹き飛んだ。それは、あまりにもショッキングな事実だった。

 清水がその患者の布団を剥ぐと、目に飛び込んできたのはチェーンだった。そして、そのチェーンはその患者の両手首と両手足を、ベッドの縁に固定するためにつけられていた物だったのだ。

 しかし、精神科病院での体の拘束は原則禁止になっていたはずである。何故こんなに堂々と拘束をしているのだろうか。

「あの、拘束の許可は取っているんですか……?」

「いいや、取ってないよ」

「じゃあこれは……」

 清水は俺が何を云おうとしているのか分かったらしく、俺が思ったことを云う前に答えた。

「じゃあ君が一日中この患者を押さえつけててくれるのかな?」

 清水は笑いながら云った。こんな当たり前が分からないのか? と云うような笑みで。

「いや、それは……」

「出来ないだろう? じゃあ仕方ないんだよ。拘束が駄目なんてルールに従っていたら、こっち――医者が死んじまう」

「は、はぁ……」

 なんと俺は、あの裏の噂をこの病院に来て一時間もしないうちに信じてしまうことになった。

 それから清水は色々な部屋を見せてくれたが、先程のことがあまりにショックで殆ど頭の中に入ってこなかった。

 なんとかふらつく足で清水に着いていき、なんとか最初の医師部屋まで戻ってくることが出来た。

 部屋に入ったと同時に吐き気が襲ってきて、トイレの位置を聞いて駆け込んだ。

 蓋を開けたと同時に苦いようなすっぱいような物が喉を駆け上がってきた。俺は抵抗することなくそれをそのまま駆け上がらせ、水に着地させた。すると、つんっと鼻をつく匂いがトイレに充満した。それがさらに吐き気を後押ししそうだったので、窓に付いている取っ手を押し引きしたが窓は開かなかった。

 三分間吐き気と窓と格闘した結果、その窓の開け方は取っ手を押し引きするのではなく取っ手を捻るんだと分かった。

 取っ手を捻って窓を開けると、外の新鮮な空気が入ってくる――筈だった。しかし、そこからは重いと云うか、憂鬱とも感じられるような空気が入ってきた。そして、それに続くように患者の奇声が聞こえてきた。

 その奇声のせいで気が少し飛んでいたのか、油断していて胃液をうっかり吸い込んでしまい、盛大にむせて胃液が鼻に入ってしまった。

 鼻と喉の境目のところがヒリヒリして、思わず涙が出て来た。

――俺は何でこんなところに来てしまったんだ?

 自分に問いかける。勉強が足りなかったのか? いや、そんなことはない。医科大学では毎回ほぼトップの成績を取っていた。勉強――学力に問題は無い筈だ。では何だ?

 もちろん、答えは出てこなかった。

 分からないのだ。何故こんな治安の悪い、悪すぎる病院に来てしまったのか。

 なんとかポジティヴ思考に切り替える。そうだよ、俺が優秀だったからこの病院をどうにかしてくれるだろう、と考えてこの病院に配属されたんだ。そうだよ、俺が優秀すぎたんだ。

 しかし、それと同時にネガティヴ思考の声が聞こえてくる。違うだろ、お前は全て、非の打ち所がないように生きてきたのか? 出来てないだろう。その、どこかでほころびが出来て結果としてこうなったんだ。それに、お前がこの病院の何を変えられると云うんだ? 夢を見るのもいい加減にしろよ。

 夢か……。

 そう云えば、俺の子供の頃の夢は何だっただろうか。

 ああ、そうだ。子供の頃、警察官になりたかったんだ。皆を救って、笑顔にさせる実在する最高のヒーローに。

 では、なんで医者になったんだっただろうか。

 そうだ、医者になったのは俺の本望ではなかった。理由は、俺がたまたま医者の方の勉強が出来て、教師に医師方面に行ってはどうかと云われたのだ。さらに俺が目指していた方面の勉強が上手くいっていないのも後押しになり、医師方面に切り替えたのだ。

 本望ではないなら、こんな病院さっさと逃げ出したらどうだ?

 そんな声が聞こえた――と思ったとき、ドアがノックされた。

「もしもし、大丈夫ですか?」

 大丈夫ではなかった。第一、この病院がこの吐き気の原因だ。

 今すぐにでも巫山戯るな、と叫びたかったが、なんとか気持ちを静めて冷静に返した。「ええ、大丈夫です」

「ここにはこんな奴らしかいないからね、大変だろうけどどうにか慣れて頑張りましょうや」

 誰が頑張るか――。

 水を流してトイレを出、洗面所で口をすすいだ。

 申し訳ない程度に、薄暗く洗面所を照らしている裸電球を睨んだ。

 俺は、これからどうすればいいんだ――。


 勤務二日目となった。

 ここ――清水病院に来るのを拒んでいる足をなんとか動かし、電車と徒歩で病院まで辿り着いた。

 二日目、最初にやったことは書類の整理や作り方、その他諸々の必須事項だった。

 並べられたカルテを見てくと、患者のが見えてきた。

 異常さと云うのは、障害などと云った物ではない。

 普通、患者が入院する場合はその家族との連絡先がカルテに記入される。そして、家族の確認が必要となる事例などの時はその連絡先に連絡が行く。

 しかし、今俺の手の中にあるカルテの連絡先のところには最初に書いてあった電話番号などが斜線で消され、「不明」と上から赤で書かれていた。 つまり、これはカルテに書かれていた連絡先が使えなくなったと云うことである。

 もちろん、家族がスマートフォンなどを買い換え、連絡先が変わったのを報告していなかったという事例もある。と云うより、殆どがそう云った事例だ。

 しかし、この病院は違う。どう見ても、あえて連絡先を変えた、もしくは偽ったようにしか見えない。現に、確率で云えば三枚に一枚が「不明」と書かれている。

 周りに人にどう云うことか問うても、誰もが、そんなの普通だろう、と云う雰囲気で話してくる。

 半分諦めの気持ちで医院長に聞きに行った。だが、身体拘束を平気でする病院の医院長に聞いても、それらしい答えが返ってくるとは思っていなかった。

 果たせるかな、答えは巫山戯た物だった。

 清水曰く、ここにいる人間は人間ばかりらしい。 誰の手に負えなくなり、家族に見捨てられた人間が集まる場所――それがこの病院らしい。

 だが――。

 そうなると病院とは何なのだろうか。

 見捨てられたと云うことは、もう家に帰ることが出来ない――帰る場所がないと云う訳である。ならば、と云う病院の存在意義が根本的にひっくり返る。

 つまり、この病院は患者引き取り所と云う訳だ。

 だが――それなら。

 俺は問うた。「老人ホームとか、そう云った預かりを目的とした場所の方が適切なのではないですか?」

「うん、ここにいる患者はそう云う場所を殆ど全て回っただろうね。

 見捨てられた――それは家族だけじゃない。老人ホームや他の病院に見捨てられた人間も来るのさ。と云うより、そうやって見捨てられた人間の方が多い。

 現に、この病院の五割、つまり半分以上――いや三分の二以上が他の病院からの転院要請で来た人間ばかりだ」

「し、しかし、病院は人を治して返す場所では……」

 清水は俺が云い終える前にきっぱりと云った。

「ここでは人間を人間として扱っていないんだ。そうだな、怪我をした動物とでも思えばいい。そして、その動物はもう完全回復が見込めないから獣医は苦しまずに死ねるように手を尽くす。

 それをこの病院でやっていると思えばいい。

 清水は胸ポケットから煙草を取り出して咥え、慣れた手つきで火をつけると思いっきり吸い込んで、不味そうに煙を吐き出した。

「慣れなさい、ここはそう云う場所なんだ」

 慣れる――犯罪を当然のように出来るようにしろと云うことか。

 それがこの世界の正解なのか? 正義なのか?

 否。

 そんなことがある筈がない。

 そう思っているのが顔に出ていたのか、清水が付け加えた。「あと、この病院があるのをこの世界だと思わない方がいい。どこか、現世とは違うどこかにある物と考えた方がいい。法律も、ルールもそんな物がないどこかだと」

 無理があった。慥かに俺が今生きている場所はこの世――現世であり、銃を撃ち合って戦う世界でも、パズルを解いて脱出する世界でも、天国でも、地獄でも、境界でもないからだ。

 つまり、ただただイカれた場所としか思えないのだ。

 吸うか? と、清水が煙草を差し出してきたが、手を振って断った。別に吸えない訳でもないし、ストレスのせいで、逆に吸いたい気分だった。

 だが、ニコチンにストレスを任せると、いつしか清水の――この病院のに浸食されそうで怖かった。

 一礼してから清水の元を離れた。


 そうそう――と清水が話しかけてきたのは、俺が清水の元を離れてから三〇分程した頃だった。

 俺に担当の部屋をつける。

 それが清水の話の要点だった。

 どうやらこの病院は、四、五人で一つの部屋を見るらしい。事務の人間以外は、基本割り当てられた部屋で患者の様子を見たり、洗濯をしたりするようだ。

 そして、故意か偶然か――割り当てられた部屋は、俺が最初に見た部屋、203号室だった。

 一緒に行こうかと云われたが、道は覚えていますと断って一人で来た。 相変わらず奇声は鳴り止まず、鼓膜がそれを捉えないように耳に力を入れていた。

 扉の前に着いた。初日と同じように白いテープに黒い文字で「203」と書いてあるシールが貼られている。

 一応ノックしようと思って手を上げた瞬間、「うあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」と、嫌いな虫を見たときのような声が中から聞こえてきた。

「う、う、うああああああああ、わううう、あああああ、あぐっ、うううううううううううううううああああああああああ……」

 言葉――そう呼べるのかは分からない――によって、発音の大きさが違い、今の場合だと「う、う、」は小さめで、「うああああああああ」のところは、真ん中が大きく、最初と終わりが小さく発音されていた。それと、一番大きく発音されていたのは「あぐっ」だった。

 この患者は知的障害などで、こう云った奇声を上げるのか。それとも、身体的な障害で上手く声が出せず、奇声を上げるのか。

 どちらにしろ、聞いていると頭が変になりそうだ。

 とにかく、覚悟を決めて扉をノックした。

 はい? と、語尾にハテナが付いた発音で返事が来た。

 失礼します、と云って扉を開けると、男性一人と女性二人が出迎えてくれた。「お、新人さん、配属この部屋になったの?」

「ええ、そうです。宜しくお願いします」

「よろしくー」「よろしく」「よろしくね」

 そう云って三人は何やら書類のような物を書き始めた。男性の方が椅子を引いて、ここ座んな、と手で合図した。

 プラスチックと鉄で出来ている、決して座り心地のよくない椅子に座った。

「あの、」名前を聞いて着なかったことを思い出した。「仕事中申し訳ないんですけど、名前教えてもらっていいですか?」

「ん、ああ、ごめんごめん、忘れてた」男性の方は持っていたペンを投げて、ペン立てに入れた。「俺は中村弘雅なかむらひろまさ

 二人の女性はペンを動かしたまま云った。「私は佐々木由奈ささきゆな」「僕は海老名結衣えびなゆい

「俺は与那嶺信吾と云います」そう云うと、すぐに中村が質問してきた。

「君何歳?」

「二十一です」女性達の目がこちらを向いた。

「若いねぇ」中村は長い髭をガリガリと掻いた。

「失礼ですが、中村さんはおいくつですか?」

「俺?」中村は少し云うのを渋った。「三十六だよ」

 中村は親指で佐々木の方を指さした。「こいつは三十二」次に海老名を指さす。「こっちは二十六」

 海老名がペンを置いた。「中村さん、年齢勝手に云わないでくださいよ……」

 中村は悪びれもせず「いいだろ、若いんだから」

「本当、あなたは若いんだから」これは佐々木。

 口調が喧嘩っぽくなったことに気が付いたのか、中村が話題を変えた。「にしても、二十一とはねぇ……随分優秀なんじゃないの?」

「周りからはよく云われますけど、上には沢山人がいますので……」

「ほらぁ、秀才は皆そう云うんだよ。いいなぁ、優秀な頭脳、俺も欲しいなぁ……」

「あれ?」佐々木が云った。「与那嶺が二十一なら、海老名の二十四の最年少記録超えられたんじゃない?」

「ああ、そうか」

 分からない、と首を傾げている俺に中村が「この病院に配属になった年齢の話さ。この海老名が二十四歳で配属されて最年少記録だったんだけど、お前が……おっと、与那嶺が来たから最年少記録は二十一に塗り替えられたな」

「それはどうも」

 と、その時、再び患者によって奇声が上げられた。しかし、中村達は何もない――何も聞こえないかのように振る舞った。

「ここに来てみて、どう思った?」

 狂っている――そう云いたかったが、初っぱなからそんなことを云っていいのか、と云われてしまうのではないか、そんな不安が脳裏を駆け巡り、口は動かなかった。

 云うことを渋っているのがバレたのか、中村が「遠慮せずに云ってみ。多分、俺らも思ってることだから」

 本当か? と云う目線を中村に送ってみた。俺の云いたいことを察したのか、一度頷いてから、手で「かかってこい」と云って来た。

「狂ってますね」

 く、を発音した後は流れるように言葉が出て来た。

「どこでそう思った?」

「第一、ここに来る前から噂は聞いていました。……実際そうではないだろうと思っていたんですが。

 身体拘束に始まり、患者が見捨てられたとか……そんなことばかり聞かされて、二日目で頭が狂いそうです。

 何なんですか? ここは」

 中村は下を向いてふっと笑い、前を見た。「やっぱり君は秀才だな。ルールやらが、しっかりと頭の中でとして働いてる。

 俺はさ、そう云うルール何かを学んだ。それで、ここに来た。その時思ったよな、共通ルールなんて物は存在しない、ってな。

 その場その場にルールがあって、それに従えば物事は進む――俺はそれをここで習った。

 つまりどう云うことかっつーと、学んだことは役に立たない。今所属している枠内のルールに従えってことだ。そうすれば、どうにかなる」

 思わず云った。「その枠内のルールが犯罪でも、ですか?」

 中村はすぐに頷いた。「その枠内の奴らはそれがルールだと思ってる。あれだ、中学、高校の悪のガキが煙草吸ってたりするだろ? 大体グループで。

 そのグループの中では未成年で煙草を吸ってはいけないなんてルールはない。そいつらは、吸っていいと思っているから、誰かがそれを密告することもない。つまり、バレない。そう云うこと」

「つまり、バレなきゃ犯罪じゃない、って奴ですか」

 中村は人差し指を立てた。「自分が所属している枠内のルールがならな」

 どうやら、ここにいるならば、ここのルールに従わなければいけないようだ。それがだとしても。さもなければ、俺が扱いを受けるかも知れない――そうは云われていないが、中村の言葉にはそれが隠れているようにしか思えない。

 中村が立ち上がり、「例を見せてあげよう」そう云ってさっきから奇声を上げ続けている患者に近寄った。

 そして――。

「パァンッ!」派手な音が鳴り響いた。「うるせぇんだよ、黙ってろ」

 なんと、中村が患者の顔を思いっきり平手打ちしたのである。

「いーたーい、いだぁい、ああ、いたい、いたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい……いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい」

 患者は赤ん坊のように、いたい、を繰り返した。

 すると中村は、患者の口元を手で覆って――当然鼻は覆わなかった――そのまま顔ごとベッドにぐっと押しつけた。顔の肉が引きつり、可笑しな顔になっていた。

「んー、んーーーー、んんんんんんんんんーーーーーーーーー」

 中村は手を離した。「ばああああ、くるしいよおおおお」

 こっちを見て、中村が「こう云うことだ」

 中村の行動を見て、やっと決心――諦め――がついた。

 そう思うと、体はすんなり動いた。患者はまだ奇声を上げている。

 中村の横を通り、患者の真横に来る。

「パァンッ!」中村が叩いた方とは反対側の頬を叩く。「黙ってろ」

 中村の方を向く。「こう云うことですね?」

「流石秀才、飲み込みが早い」

 すると、海老名が「ようこそ、清水病院へ」

 中村と佐々木が続いた。「ようこそ」「ようこそ」

 俺は一礼した。「お世話になります」


 203号室にはベッドが十六個あって一つ一つに番号が振られており、患者は名前で呼ばれることはなく、その番号で呼ばれる。

 その中でも俺が一番注視していた患者は、7番――最初見に来たときに身体拘束がなされていた患者だ。相変わらず骨と肉だけの体で寝ていた。

 身体拘束は暴れたら、と云うルールがあるらしく、年中無休で身体拘束をしている訳ではなかった。

 俺の最初の仕事は部屋の掃除だった。床がタイルのため、掃除機プラス雑巾が必要だった。

 掃除機は業務用――病院用?――なのか、殆ど音が出ない物であった。それを使い、ガーガーと寝ている患者達のベッドの横、下を掃除していく。その後、雑巾を挟んで使う道具を使って床を掃除していく。雑巾を挟んで使い道具というのは、棒の先にクリップのような物が付いていて、そこに雑巾を挟んで直接手で雑巾を触らずに雑巾がけができる画期的なアイテムで、病院などは患者の唾液や吐瀉物が多いため、このアイテムは必須である。

 掃除が終わると、次は患者の経過観察用紙記入である。

 本当なら患者がどう云った状況なのかを詳しく書く物なのだが、この病院は違う。

 中村は、で、と云って来た。

 意味を問うと、とにかく『現状維持』や『異常無し』と書けばいいらしい。何故てんぷら――つまり隠蔽である――と云うのかは分からないが、状態をでっち『上げる』とてんぷらを『揚げる』をかけているのだろうか。

 とりあえず、全ての観察用紙に『異常なし』と書き込んだ。

 お次は患者の風呂である。

 とは云っても、患者を湯船に入れるのは危険なため、専用のシートで体を拭くだけである。

 1番から順に体を拭いていく。海老名は逆に16番から始めていた。

 俺も海老名もほぼ同じペースで終わらせていき、俺は例の7番の患者に取りかかった。

 服を脱がせ、背中をシートで擦る。すると――。

「ああああああああああああああああああああああああああ!」不意に7番が暴れ始めた。

 すぐさま海老名が「そのまま押さえつけといて!」と叫んだ。

 7番の肩をベッドに押しつけると、足をバタつかせ、腕を引っ掻いてきた。

「つっ」痛みで思わず手を引っ込めると、7番が掛け布団を放り投げてきた。「うわっ」

 掛け布団が覆い被さって視界が閉ざされた瞬間、顔面に衝撃を食らった。 何がどうなったのか、安易に予想が付く。7番に殴られたのである。

 当然、あの骨と皮しかない体では力のこもったパンチは繰り出せず、殆ど痛みはなかった。布団をなぎ払い、視界に入った7番の両手首を握って押し倒した。

 海老名が駆け寄ってきて、俺が押さえつけている手首にベルトを巻き付けて、ベッドの端の手すりに固定した。両手首を固定し終えると、今度は足を固定しにかかる。俺が足を押さえつけ、その間に海老名が同じようにベルトで固定して手すりに固定する。

「ごめんね、7番のこと注意しとけばよかった」

「いつもこうなんですか?」

「なんかね。知らないけどすぐ暴れるんだ」

 7番は四肢をバタつかせ、手すりとベルトが当たってガチャガチャと音を立てている。

「腕、大丈夫? 絆創膏いる?」そう聞かれて、腕を引っ掻かれたことを思い出した。

 腕を見てみると、肘から手首にかけて皮が剥がれ、血が指先まで垂れていた。「こんなに長い絆創膏あります?」

 海老名は笑いながら「ないね」

「とりあえず、ティッシュもらえます?」

「おっけー」

 海老名はティッシュ箱から二、三枚ティッシュを取って手渡してくれた。お礼を云って腕の血を拭う。「痛っ」

「そりゃぁ、傷口にティッシュ当てて擦ったら痛いわ」

「じゃあ、どうするんです?」

「ポンポンって、上から押して血を吸わせていけばいいじゃん」

「ああ、そうですね」

 云われたとおりにやってみる……が。結局傷口にティッシュが張り付き、剥がすと痛い。「どっちも痛いですね」

「そか。じゃあ……頑張れ」

 何を頑張るのかは分からないが、とにかく「はい」と答えておいた。

 痛みを堪えながらティッシュで血を拭い、どうにか血が止まった。

 血で染まったティッシュをゴミ箱に放ったが、縁にはじかれて床に転がった。しゃがんで拾い、しっかりとゴミ箱の中に納めた。

 すると、後ろから「おーい」と呼ばれた。海老名だ。

 振り向いて「はい?」

 海老名は何やらいろんな物をポケットに突っ込み、手に持っていた。

「そんなに長い絆創膏はないけど、代わりならあるよ。座って、腕、出して?」

 椅子に座り、傷口を上に向けて机に置いた。

 海老名は紙やペンを端に追いやり、持ってきた物を机に広げた。

「痛いかも知れないけど、我慢しなよ」そう云うと、傷口に黄緑色の軟膏を塗り始めた。

「つっ⁉」消毒液くらいの痛みか、と思っていたが、それ以上に痛かった。思っていた三倍は痛かった。

 海老名は全体に軟膏を塗りおえると、ガーゼをちょうどいい大きさに切って上に被せ、包帯を上から軽くぐるぐると巻いた。

「腕だけゾンビみたい」

「そうですね、どうも、ありがとうございました」

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