第25話 冴やかな記憶

 歌うことは、身体を寄せあわずともできる愛情表現である。

 接近禁止令を受けたあたしは、これまでのように中庭に続く階段に座り、レイとはお友達程度の距離を保ったまま、彼に相応しい曲を選んでは歌う日々を送った。

 よもぎ茶は忘れず飲んでいるか。体調に変化はないか。二言三言、問診のようなやり取りをし、水連池を眺めながら一曲か二曲、歌を聞いて去ってゆく。それがレイの習慣になったのだ。

 レイは、メロディーに複雑さよりも安定感を求めているようだった。そこに、爽やかさや爽快感。力強さといった要素が加わった曲調を好むのだ。そこが分れば、選曲でハズレを出すことは無くなった。

 シャイな日本人のあたしにしてみたら、毎日のように会って歌を楽しむ関係も、十分疑われそうだと思う。しかし、それすら無くなってしまっては、あたしの方が恋人渇望症を起こしかねないので、そこは指摘しないでおいた。

 平成の初め頃にキラキラとした旋律の名曲を沢山世に出したロックバンド。ぽつんとした独特の存在感の中に迫力を感じる男性シンガー。桜をテーマにした曲をきっかけに、感情を揺さぶる旋律と秀逸な歌詞でその名を轟かせたデュオ。

 彼らの曲を聞いている時のレイの表情は柔らかく、それでいて楽しげで。指先すら触れ合えないのは不満だったけれど、明るいお日様の下で見る、レイのそういった穏やかな様子を眺めているひと時は、あたしも不満を忘れていられた。

 しかしあたしはやがて、徐々に歌う事を躊躇うようになったのだ。心配したシトレが、レイに相談するほどに。

「宴会用の練習を渋っているというのは、本当ですか?」

 いつもの水連池の前で、歌わない理由をレイが訊ねる。レイは怒っている様子でも、呆れている様子でもなく、ただ不思議がっているようだった。

 あたしは俯くと、ペンケースに加えて、マスクと靴の片方が消えたと伝えた。残っているのは、もう片方の靴と、財布と、制服と、リュックである。

「歌えば歌うだけ、日本に帰ってく。このペースだと、数カ月も経たないうちに、あたしもあっちに帰されちゃう」

 あたしはその場にしゃがみこむと、頭を抱えた。帰還を少しでも遅らせたくて、練習の時に暫く指輪を外して歌ってみたけれど、結局指輪は歌った分、きちんとカウントしているようだった。しかも、翻訳機能が働かないから、歌詞がまるで伝わらないのだ。外すだけ損である。

「未来に帰りたいんじゃなかったんですか?」

 レイからの問いかけに、大事なものはここに全部できた、とあたしは返した。

「帰る覚悟はできてるよ。でもあたしまだ、ここでやらなきゃいけない事があるんだもん。……レイに、何か残してあげなきゃ」

「私に? 何故」

「だってあんた、何も持ってないでしょ!」

 メリトアテンと話をした時からずっと胸にあったやるせなさが、今になって感情を強く揺さぶってきた。むしろ溜めこんであった分、余計に膨れ上がったと言える。

 この国で、レイがこのまま楽に生きられないであろうことは、能天気なあたしでも察知できた。自分の人生などそっちのけのこの人が、遷都も旧宗教の復権もやり終えて、幼い王や王女達の将来に不安が無くなった時。気が緩んだその時には、きっとどこかに落ちる。陥れられるのか、自ら落ちるのかは分らないけれど、レイに平穏安らかな余生が待っているとは思えなかったのだ。レイがどこかに落ちたその時、自らの危険を省みずレイに手を伸ばす人間は、この国にはいないだろう。引っ張り上げてくれる人もいなければ、自ら這い上がる力となる物も、レイは持っていない。だからあたしはせめて、這い上がる助けになる物を残しておきたかったのだ。

 それは同情かというレイからの問いかけに、あたしは首を横に振る。

「悔しいんだよ。力になるって言ったくせに、肝心な時に役に立てないから」

 滲んだ涙をぬぐっていると、隣にすとん、と何かが降りた気配がした。見ると、レイがあたしの横に胡坐をかいて座っていた。

「安直な貴方にしては明察だと言いたいところですが。二点、大きな勘違いをしています」

 レイが、赤い水連の花が浮かぶ水面を眺めながら、指を二本立てる。

 まず、自分はイネブヘジには随行せず、アケトアテンのアテン大神殿に残るつもりであること。それはアテン神官として遷都後の後処理を担う他にも、アイやホルエムヘブをはじめとした重役との軋轢を避け、暗殺から逃れる準備をする為なのだと。

 二つ目に、落ちても這いあがれるだけの物は、既に私から得たということ。

 レイは二本立てた指のうちの一本を残し、それで自分の側頭部をトントンと叩いて

「ここと――」

 と示してから、次に掌で

「――ここに」

 と、胸に触れた。

 つまり『思い出』ということか。あたしがそう解釈すると、そうではなく『記憶』だと、レイは訂正する。

「記憶は思い出よりも冴やかです。貴方は自分が記憶力に優れていると以前言っていましたが、私も同じく覚えはいいので。あなたの歌は目にした分、耳にした分、全部残っているんですよ。それに、この体も。ちゃんとあなたを覚えていますので」

 実に穏やかな表情で、レイは超絶タラシな台詞をさらりと口にした。接近禁止令を出されているあたしは、悶え苦しむ。

「今のあたしに、なんでそういう事を言いますか! このサディストめ!」

 口惜しさのあまり、血反吐が出そうだった。

「ほんとにあなたは煩悩まみれですね」

 レイが、同情がこもった目であたしを見下ろす。

「とにかく、陛下がイネブヘジでの戴冠式を終えて、そこで遷都と改宗宣言をなされば、新しい時代が始まります。ミツに心配されずとも、私のような工作員は、生き延びたければさっさと田舎にひっこんで静かに暮らすのが一番だと心得ていますよ。ご安心を」

 微笑んだレイが、長居をし過ぎたから今日はもう行く、と立ち上がる。あたしはレイの服の裾を掴んで、引きとめた。確認しておきたい事があったのだ。

 もしあたしが、アイから受けた宴会の仕事を放棄したら、あたしの雇い人であるレイやツタンカアテンは恥をかく事になるのか、と。

「いいえ。むしろザマぁみろといった感じですが」

 レイは即答した。

 腹黒っ。

 流石は、あの大古狸と互角に渡り合えるだけの性悪である。先程までのエモーションが吹っ飛んでしまった。

「あなたは、分っていないようですが――」

 そもそもアイの宴会は、帰還祝いとは名ばかり。真の目的は、遷都とアメン神の復権について市民に王命を下す前に、上位貴族に通達することにあるのだと、レイは説明した。ゆえに、宴会場は貴族のみならずぺル・アアをはじめ、重鎮が出揃う厳粛な場になるであろう、と。

「議論も起こるかもしれません。そうなれば、誰も楽士の音楽を楽しむ余裕などありませんよ」

 狡猾なアイのことだから、帰還してから今日までの四日間で、ある程度の重役や大貴族への根回しは怠っていないと思われる。しかし遷都となると、国を上げた一大事業である。反対する者も出てくるだろう。

 煩わしげに語るレイに、それじゃあ楽士なんていないほうがいいんじゃないか、とあたしは言った。国会中継みたいな場所に、音楽隊は不要だろう。

「歌うのが嫌なら、神殿の楽士やダンサーに依頼し直しても良いですよ」

 レイが提案する。

「アイは現在、アテン大神殿の最高司祭の位も持っています。だから、外注など面倒なことはせずに、神殿の楽士や踊り子を呼ぶほうが事実、簡単ですから」

「神殿の楽士……」

 聖歌隊みたいなものか。ケメトに来て二カ月。そんな人達がいたとは、知らなかった。あたしは少なからずの興味をそそられる。

「一応、飾り程度に楽士は必要でしょう。その辺の立ち回りは、神殿に属している者の方が心得ています。――しかし、ミツはそれでいいんですか?」

「なんで?」

「あなたは唯一、歌にだけは誠実なので」

 つまり歌以外は、スッカラカンて言いたいのか。

 褒めているとみせかけて扱き下ろすのがレイである。言葉に悪意は感じなくなったが、恋人になっても、この棘立った毒舌は健在だった。

「ご心配なく。ちゃんと仕事しますよ」

 あたしは立ち上がって、せすじを伸ばす。

「受けたからには誠実に、お仕事させてもらいます」

 しかしこれまでとは別のスタイルをとりたいから、神殿楽士とダンサーは至急発注してくれ、と頼んだ。それから、一緒に仕事をしたいから早急に会わせてくれ、とも。

「今度は何をやらかす気ですか」

 不信感しかない眼差しを向けられたが、痛くも痒くもなかった。DVDデッキが誤作動を起こすほどに何度も見入った名作のあの場面が、頭の中で連続再生されていて、ワクワクが止まらなかったからである。

「任せんさい! 議論なんてそっちのけになるくらい、最高の余興を提供してやろうじゃないの」

 それはもはや余興の域を超えている、と意義を申し立てられたが、あたしは「大丈夫大丈夫!」と押し通した。宴会の間、ずっと歌っているわけではないのだから、と。

「宴会まであと三日しかありませんが」

「プロの楽士とダンサーでしょ。三日もあれば十分よ」

 あたしは歌わず指揮に徹すれば、帰還までの時間も稼げるし、求められている未来の歌も披露できる。完璧ではないか。

「分りました」

 レイが渋々承諾した。あたしは嬉しさのあまり、接近禁止令を忘れてレイに『ありがとう』のチュ―をすると、演目の変更をお願いするため、急いでねえや達の元へ走る。

 かますぞ! ケメト聖歌隊!

 ついさっきまでの悲壮感はどこへやら。あたしは浮かれまくっていた。

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