第24話 前腕一本分の距離

 ツタンカアテンの戴冠式は、レイの努力の甲斐あって、一か月先に延びた。レイ曰く、その時に名前も変わるらしい。トゥト・アンク・アテンから、トゥト・アンク・アメンへと。つまり、日本語読みで発音するとツタンカアメン。いよいよ、数千年後の人々が知る少年王が誕生するわけである。

「でも大変なことになったねえ。仲間外れにされちゃったんでしょ?」

「仲間外れというのは、仲間意識があった者同士がする行為です。我々には、元からそんなものは存在しません」

 あたしとレイは、楽士用にあてられている部屋に向かって、宮の回廊を歩いていた。とりあえず落ち着くには、そこへ行くのが一番だと判断したからである。

「アイもホルエムヘブも、アクエンアテン陛下が御存命であられた頃からの重鎮です。彼らが我欲を挟まず、ケメトの為に動いているのは間違いありません。しかし、国の為には現王家を潰すことを厭わないのもまた事実です」

 潰す、というのはつまり……。

 言葉を選んでいるうちに、下剋上ですよ。とレイがずばり言う。

「国力を保つには、それも選択の一つでしょう。しかし、私にも私なりの情がある」

 ツタンカアテンとその姉達を守りたい。レイはケメトの厳しい伝統のあり方と共に、切実な想いを語る。

 もし、遷都や信仰復権が志し半ばの状態で、アイやホルエムヘブに王権が移れば、アクエンアテン王の直系卑属にあたるツタンカアテンと五人の娘達は、宗教改革に失敗した汚名を着せられ、その存在を歴史から抹消される恐れがある。彼らの平安な暮らしを維持し、名誉を守る為には、ツタンカアテンには国を立て直した賢帝として、世に名を知らしめる必要があった。

「アイはその点、祖父の情がある。彼がぺル・アアに即位したとしても、孫を悪いようにはしないでしょう。しかし、ホルエムヘブは違う」

 あの男は謹厳実直だが、良くも悪くも厳しい。

 レイは憂いをため息に代えて、そう言った。

「ミツも気をつけておきなさい。宴にはホルエムヘブも間違いなく出席します。奥方であるムトノジメットの砕けた宴会とはまるで違う。決して、敵方として認識されぬように」

 つい先ほど、あたしはアイから帰還祝いと慰労会を兼ねた宴会の余興を依頼されたのである。

 誰をもてなす宴か。それは、アイ自身であった。



 何カ月もの間、戴冠式と遷都の準備に不休で勤めてきたというのに、誰一人彼の帰還を祝い、労をねぎらおうとしないので、いっそ自分で宴会を開きたい、と彼は言った。

「本来ならば、陛下や陛下の顧問であるレイや、将軍のホルエムヘブが主催するのが筋なんだが。誰も労おうとしてくれないのでね。見た所、君が噂の歌うたいだろう。外国の歌を是非聞かせてくれ」

 アイはちょっと悲しそうに、白髪交じりの眉を下げて、物言いたげな視線をレイに向けた。当然ながら、レイには綺麗に無視されて終わったが。

 レイの政敵は、人望が皆無の寂しいオッサンなようだ。うっかり同情してしまったあたしは、思わず『いいですよ』と承諾しかけて慌てて口をつぐんだ。

「二つ返事でお受けしたいのはヤマヤマなんですが」

 日本人が大得意とする営業スマイルを全開にしたあたしは、次のような説明をした。

 現在はツタンカアテン王と契約中の身である為、独断では受諾できないこと。加えて、その前にツタンカアテンの顧問であるレイを通す必要があること。よって、まずはレイの許可を得てくれ、と。心底残念そうに振る舞いながら、あたしはアイにそう頼んだのだ。

 勿論、これは仲間を爪はじきにしたアイへの、あたしなりの意趣返しだった。しかし実際、あたし達はマネージャー同然であるレイの許可が無いと仕事ができないのだから、全く嘘でもなかったのだ。

 アイは作り笑いに悔しげな色を浮かべながら、レイに楽士を借りる賛否を伺った。



「あなたにしては、気のきいた対応でしたね」

 楽士の貸し出しに対して首を縦に振ったマネージャーが、笑いを噛み殺しながら褒めてくれる。 

 そうでしょうとも! 

 あたしは誇らしげに胸を張りながら、楽士用の部屋の扉を開ける。

 横に並んだ低めのベッドが四つ。それから、ベッドの足元に人数分の衣裳箱。窓際には小さな椅子とテーブル。壁にはきちんと立てかけられた楽器が並んでいる。

 二週間ぶりに帰って来た部屋に、ねえや達はいなかった。レイの雷を恐れて、宮のどこかに隠れてほとぼりが冷めるのを待っているのだろう。

 あたしはレイに椅子を勧めると、部屋の隅の小さなテーブルに置かれた水差しを手に取った。有難い事に、女官さんが毎朝お茶を届けてくれるのだ。

「お偉いさんだらけの宴会だって、いつも通り歌ってればいいだけでしょ。楽士がお客と喋ることなんて、殆どないんだから」

 傍に伏せてあったカップに赤いお茶を注ぎ、レイに手渡す。

「あなたの場合、その『いつも通り』が問題なんです」

 渋面でお茶を飲むレイの隣に椅子を置いたあたしは、蠱惑的な微笑みを意識してターゲットの顔を覗きこんだ。さあマイダーリン、今は二人きりですよ、と。

 レイはテーブルに飲みかけのお茶をコトリと置くと、自分が座る椅子を移動させた。信じられない事に、あたしから距離を取る方へと。その距離なんと、レイの前腕一本分。

「宮中や街中では、ミツはこれまで同様、私とは一歩引いた距離感を保って下さい」

 これくらいは。

 レイは、自分の考えている距離感として、作りたてほやほやの前腕一本分の距離を指し示す。

 戦慄いたあたしは、立ち上がって確固たる意思の元、叫んだ。

「嫌や!」

 と。

 レイが呆れ顔であたしを見上げる。

「せめて理由を聞こうという発想は出せないんですか」

「理由なんかどうでもええわ! 実物が目の前におるのにお触り禁止って、そんなん拷問やん!」

 これをセクハラ根性と言わず何と呼ぼう。しかし、ようやっと実った恋に浮かれまくるあたしにとっては、セクハラ行為も愛情の証なのだ。むしろセクハラしてくれ! と全力で求めたい気分である。

「まったく。親の顔が見てみたい」

 セクハラ被害者が頭を抱えて悲嘆する。

 会ってくれるなら全力で会わせてあげたい!

 一方、お花畑状態だったあたしの脳みそは、ポジティブシンキングで奇跡的な勘違いを引き起こした。恋人になりたての一番楽しい時期に距離を取るなど、あたしにしてみたら言語道断。とはいえレイの気持ちも尊重するべきだと考えたあたしは、断腸の思いで妥協案を出す。

「人前でイチャつくのに抵抗があるなら、誰もいない時なら問題ないでしょ」

 だから、今は誰もいないし大丈夫! 距離を詰めると、また前腕一本分、離された。

「いやだから、二人きりでこの距離必要ないでしょ!」

 あたしは頑なにキープされ続ける悲しい空間を指差しながら、涙目で訴える。

「尾行、盗み聞き、覗きの常習犯が何を言ってるんですか」

「覗きはやってません!」

 言いきると、上目使いにじろりと睨まれた。慄いたあたしは、一回だけレイの水浴びを覗いたことを、速攻で白状する。

 レイはとうとう、ロダンの『考える人』に似たポーズを取って、こめかみを揉みはじめた。

「あなたと関係を持った事を、今もの凄く後悔していますよ」

 やべえ、ふられる。

 戦々恐々としたあたしは、プライドをかなぐり捨てる。

「せやかて! 日本じゃ、あたしぐらいの女の子は彼氏と手ぇ繋いで歩いてるんやもん! 寒い日に彼氏のポケットに繋いだ手入れてもらって、『も~、歩きにくい~』とか言うてる子とか、実はめっちゃ羨ましかったんやもん! 市民プールのど真ん中でチューしはじめたカップルの隣で息継ぎすら忘れて派手なバタ足かましたった後の自己嫌悪なんかハンパ無かったし! そのくせ『歌に人生捧げてるから、恋愛は不要』とかリア充気取って、ごめんなさい~っ!」

 両手に顔を埋めて、大声で泣く。

「誰に謝ってるんですか」

 レイが冷静につっこんだ。そして、手を繋がせろハグさせろチューさせろ! と泣き喚き続けているあたしに、「恥ずかしいから近づくなと言っているわけではありません」と語りかける。

「私は今、危うい立場にいます。私との関係を知られて誘拐や毒殺の憂き目に遭いたくなければ、色欲まみれの行動を慎み、軽いその口をしっかり閉じて――何か?」

「関係、関係ってぇ。恥ずかしいなぁもう」

 会話の中で幾度か繰り返された『関係』という単語に熱い一夜を思い出したあたしは、泣き喚いていた格好のまま赤面してニヤけた。

「私は貴方が恥ずかしいです」

 レイは白ける。

 結局あたしは、愛しいダーリンとの接触を、その愛しいダーリンから週一回に制限されてしまった。

「七日ごとに、私の診療所にマラリアの定期検診に来てもらいます。くっつくチャンスを狙っているなら、その時にどうぞ」

 言い方よ。

「あたしゃオナモミか」

 こいつは、あたしを虫か葉っぱ程度にしか認識していないのではないかと不安になる。

「じゃあ、ねえや達にレイとの進展具合を聞かれたらどうするの?」

『壁に耳あり障子に目あり』を恐れて距離をとるのなら、必然的に三人との会話内容にも気をつけなければならないはずだ。嘘を言うのか? それとも、誤魔化すのか? どちらも嫌だと言ったあたしに、レイは「そのどちらも必要ありません」、と立ち上がった。

 つかつかと衣裳箱に歩いて行くと、おもむろに一つ目の蓋を開ける。

 中には、蹲ったティイが入っていた。

 続いて、二つ目、三つ目、と蓋を開ける。

 シトレとヘンティが出てきた。

「この程度を察知できないようでは、私達の関係はすぐに明るみに出るということです」

 レイがあたしに振り向いて言った。

 お見それしました。

 あたしはバツが悪そうに衣裳箱から出て来るねえや達を眺めながら、レイの勘の良さに畏れ入った。



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