第22話 あなたに届ける

 次の日。あたしは本当に退院する運びとなった。前日のうちに、マヌを通じて『うちに居座り続けようとしている迷惑な入院患者を、明日中に迎えに来い』と保護者三名に通達が行ったからである。

 本日昼前に、マヌがねえや達を迎えに登城。ねえや達は三人そろって昼過ぎに、迷惑な患者を回収しに来てくれた。

 そうだった。レイはやると言ったら本当にやる奴だった。

 あたしはベッドの上で荷物をまとめながら、前日の失態を心から悔やむ。

 あたしが変な欲をかかなければ、レイを怒らせることもなく、あと数日はこのベッドで並んで眠れたかもしれないのに、と。

 これではまるで、メリトアテンの二の舞ではないか。

「同じ轍を踏むどころか、更に悪路を進んじゃって。何やってんだろ」

 リュックのファスナーを閉めながら、あたしは深いため息を吐いた。



 レイはぬかりなく、マヌに治療費の請求もさせていた。

「ちょっとぼったくりじゃない?」

「格安ですよ」

 退院の準備が整ったあたしの前で、シトレからレイに治療費が支払われる。医療保険など存在しない古代世界。レイの手に渡ったのは、ハンドボールサイズの麻袋だった。中は金目のもので、ずっしりだ。

 あたしはシトレに大出費を謝った。

 労わるような微笑みであたしの頭を撫でたシトレが何かを言う前に、レイが「では出費分、体で返したらどうですか?」とブラックジョークをかます。どうやらレイは、前日の問答をまだ根に持っているようだ。あたしは乾いた笑いをもらした。

 シトレが目を丸くする。

「なあに? マキノあなた、レイにそんなこと言ったの?」

 呆れられたと思ったが、シトレは「やるじゃない」と称賛してくれた。ティイとヘンティも、ニヤニヤ笑っている。

「それでぇ? レイ。マキノとはうまくいったのかしらぁ?」

 ティイが両手を腰の後ろに組んで、その柔らかな身体をすくい上げるようにレイの目下に滑り込ませると、上目づかいに覗きこむ。

 あんじょう上手くいっていたら、レイはもうちょっと愛想がある対応をしているだろう。 

「薪割りはこちらが怪我をさせられそうだったので、雑巾がけをしてもらいました。雑巾がけの分は代金から引いてありますので、ご心配なく」

 レイが超然とした態度を崩さず、実に事務的な口調で、ありのままを公表してくれる。 それを聞いたヘンティは鼻根に皺を寄せて、あからさまに嫌な顔をした。

「うっわ! お前最低! 労働分きっちり引いてんのもなんかアレ……アレだわ」

「鼻につく?」

「分ってんじゃん」

 ヘンティがレイの腕をパチンと叩く。ねえや達とレイのやり取りは、随分気心が知れたものになっていた。例えるなら、ただの同級生から、お友達に昇格した感じだろうか。あたしの看病という共通目的を通して、一種の仲間意識のようなものが芽生えたのかもしれない。レイとの距離をなかなか縮められないどころか溝を深めてしまったあたしとは対照的に、この四人は順調に絆を強めているようだ。

 散々世話になっておきながら、こんな事を思うのはワガママだと自分を諌めながらも、あたしはレイと距離を縮めたねえや三人を、とても羨ましく感じた。

 


 離宮までの坂道は、病み上がりさんには辛かろうと、ねえや達はロバを借りてきてくれていた。

 荷物はリュック一つだったので、誰の手も借りず一人でロバの尻に乗る。腰じゃなくて、尻なのだ。腰に乗るのは、ロバへの負担が大きすぎるのだそうだ。

「じゃ、世話になったわね。また離宮で会いましょ」

 シトレがレイに軽く手を振ってから、手綱を引いて出発する。ロバの背に揺られながら、あたしは何となくドナドナの気分で後ろを振り返った。

 振り返った先には、誰もいない。薄情な事に、レイはさっさと診療所内に引っ込んでいたのである。

 セールスマン相手じゃあるまいし。せめて十mくらい見送らんかい! 

 みじめな気持ちになったあたしは、両手で顔を覆った。

「どうした? また頭が痛むのか?」

 あたしは見上げてきたマヌに、頭じゃなく心が痛い、と返す。

 ティイがあたしの太腿をやさしく叩いた。

「大丈夫よマキノ。ああいう偏屈さんはねぇ。正直にゆーっくり、心をほぐしてあげるしかないのよぉ」

「ていうか、別にあいつに拘んなくていいじゃん。むしろやめときなよ。あんな性格も身の上もヤヤコシイ奴なんかさ」

「軍資金はたっぷりあるし、ツタンカアテン陛下との契約期間を終えたら、別の街へ移動してもいいわよ。帰るまではちゃんと面倒見てあげるから、旅行気分で色んなとこ回るのはどうかしら」

 シトレの提案を聞いたマヌが、ええっ? と仰天する。 

「お前らどっか行っちゃうのかよ!」

「そりゃあ、あたしら旅楽士だからね」

「ついて来てもいいわよぉ」

「その代わり、何か楽器覚えなさいね」

 マヌはまんざらでもなさそうに頬を赤めながらも、「無理だよそんな」と唇を尖らせた。

 あたしはロバの背に揺られながら、シトレの提案について考える。古代エジプト旅行。それもいいかもしれない。歌はどこででも歌えるし、ねえや達が一緒なら間違いなく楽しい旅になる。アバンチュールはもう、これくらいで諦めて――。

「あ」

『あばんちゅ〜る』

 あたしは、大事なことを思い出した。婆ちゃんからレイへの伝言を、すっかり忘れていたのである。別に次に会った時でいいかな、という考えもふとよぎったが、いやこれは早く伝えねば、という使命感に駆られたあたしは、ロバの尻からするりと降りた。忘れ物をしたから先に帰っていてくれと四人に伝えてから、診療所目指して走りだす。

 後ろでマヌがあたしを呼びとめる声がして、続けてそれを止めさせるねえや達の声が聞こえた。

「ロバちゃんに蹴られたくなければ、止めちゃ駄目!」

 ティイがマヌを諭している。

 馬だよ! 正しくは! 

 あたしは指輪の翻訳にいちゃもんをつけながら、レイの診療所へと急ぐ。背中で跳ねるリュックが、邪魔だった。


 

 診療所に到着すると、ホッとしたせいか軽い眩暈をおぼえた。やはり、病み上がりの身に全力疾走は堪えたのだろう。息も苦しいくらいに上がっている。茶色く変色してざらついた壁に手を突き、走っている途中で背中から下ろしたリュックを引きずるようにしながら中に入ると、「ミツ?」と呼ばれた。

 汗が滴る顔を上げると、作業台の上で、すり鉢とすりこぎ棒を使って薬草を粉砕しているレイの姿が目に飛び込んできた。

 ああやっぱ、何してても男前に見えるわこんちくしょー……。

 好きになった人を諦めて古代エジプト周遊に乗り替えようとしていたさっきの自分を、張り倒したい気持ちになる。

 忘れ物でもしたのか、と訊いてきたレイに、あたしは頷いた。

 そうだよ。思い出せてよかったよ。婆ちゃん、あれで結構怖いんだよ。

 息切れが少しずつおさまって、声が出せるようになったあたしは、話しはじめる。

「夢の中でね、婆ちゃんが言ってたんだよね。レイは政治の為に神様をないがしろにした行いに罪の意識を感じてるみたいだけど、そんな必要はない、って。レイも、神様に祈って助けを求めたり感謝したりする権利があるんだよ、って。それを伝えに来たんだよ」

 当然と言えば当然の反応だが、レイはポカン口を開けた。

「ミツのお祖母さまが、ですか? 夢の中で?」

 何者ですか。

 普通の死人だよ。

 端的に答えたあたしに、レイが目を丸くする。

「死者と話したということですか?」

「ええはいもう、あたしもビックリよ」

 あの劇場は、三途の川のような場所だったのかもしれない。婆ちゃんはあたしを、現世に送り返そうとしてくれたのだろう。

「それでね、あたしも婆ちゃんと同じ意見なんだよね」

 婆ちゃんがいたから、あたしは三途の川を渡らずに済んだ。だから、婆ちゃんから託された役目は、きちんとこなさねばならない。あたしはリュックを床に残して、レイの前まで進み出る。

 基本、ふざけているのが好きなあたしは、真面目な話をするのは気恥ずかしくて苦手だ。けれど、ここは頑張りどころだという認識もちゃんとある。だから気持ちをシャンとさせて、自分より頭一つ分高いレイを見上げた。

「あたし無宗教だし、平和ボケした人間だから、あんたが成し遂げた事の大きさなんて十分の一も理解してないかもしれないけど。それでも、あんたはずっと人の為に生きてきたんだから。それを神様が咎めるわけがないんだよ」

 それに神様は、あんたが一生懸命祈る声をあたしに届けてくれたんだから。そのお陰で、あたしはこっちに戻って来れたんだから。

 あたしがそこまで言うと、レイは脱力したように、後ろの椅子にぺたんと座った。レイの視線があたしの胸元まで一気に下がり、今度はレイに見上げられる形になる。

「あの状態で、私の祈りが聞こえていたんですか」

 あたしはレイの揺れる瞳を見つめて、「そうだよ」と肯定する。

「言ったでしょ。あんたの声を頼りに、あたしはこっちに帰って来たんだよ」

 ついでに、ネフェル・イウヌにも会ったと伝えた。

「ネフェル・イウヌ。そうか。彼女が……」

 視線を落としたレイが、茫然と独り言を呟く。

 ちょっと色々一気に喋り過ぎたかなと思いながら、あたしは床に両膝をついて、レイの顔を覗きこんだ。目の前にある大きな右手を両手で包むと、驚くほど冷たい指先が掌に触れる。それほどに、レイは動揺しているのだ。

「分った? あたしの命はね、ヨモギ汁のお陰じゃなくて、あんたの祈りがあったから助かったんだよ」

 レイの冷え切った指先をぎゅっと握ったあたしは、だからね、と、最も伝えたかった言葉へと繋げる。

「もしあんたが、これまでやってきた事でどこかに落ちなきゃなんないんなら、その時はあたしが引っぱり上げてあげることにしたよ。あんたに助けてもらった、この命のお返しに」

 口を閉じて、レイを見つめる。伝え忘れていた事も伝えたかった事も全部言えたので、あたしはレイの手を握ったまま、反応を待った。

 レイは暫く何も言わず、作業台の端を見ていた。けれどやがて、その鳶色の瞳に涙の膜を張った彼は、最初の一滴が溢れ出る前に、あたしが握っていない方の手で眼元を覆う。

 はっ。という短い呼気が、レイの口からこぼれ出た。

「いずれ、手の届かない世界に帰ってしまう人が、何を言ってるんですか」

 両目を覆っていた手を下ろすと、レイはあたしと視線を合わせた。長い睫毛に縁取られた目尻から溢れた涙の一粒が、頬を伝って顎から滴り落ちる。

 レイはそれから、とても美しく笑った。美しく笑って、涙を流した。

 あたしはレイの栗色の髪を撫でた。その手触りは、想像以上に柔らかかった。

 レイがあたしを腕に抱いて、大きな吐息を落とす。体温をそのまま吐き出したようなそれは暖かく、あたしの首筋を優しくくすぐった。

「首尾よく、あなたの傍に生まれ変われたとしても、その身に私の心をどれほど残せるかは、分りません」

 涙で掠れた声が、耳に届く。その涙声は、あたしの相槌を待たず、「だから――」と先を続けた。

「甘んじて、思い出の一つになることにします」

 あたしはこの時、マヌが言っていた男心というものを、レイが折ったのだと悟った。

 こうして、あたしの退院は、一日延びる運びとなったのだ。

 その夜、久しぶりに歌を歌った。手を繋いで寄り添う相手に、物語を聞かせるように穏やかな調子で。

 レイは眠たげに不規則な瞬きを繰り返しながら、あたしの鼻唄に耳を傾けている。

 婆ちゃんが好きだったこの昭和歌謡曲。自分や誰かを元気づけたい時。元気づける勇気が欲しい時。婆ちゃんは決まってこれを歌っていたような気がする。あたしも、心が頼りなくなった時には、不思議とこの曲が欲しくなる。

 手に入れたこの幸福は、すぐそこに終わりが見えている。ぷっつり切れる終着点に向かって共に歩く覚悟を決めてくれたレイと自分自身に、あたしは歌いたかった。

 頭のすぐ上から、微かな寝息が聞こえてくる。

 見慣れたひび割れ天井を眺めながら、あたしは天国の婆ちゃんに向かって拳を突き上げ、「がんばるぜい」と小声で宣誓し、微笑んだ。


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