第21話 誘惑、はぐらかされて失敗して

「ここに埃が残ってますよ」


 レイが、薬棚に人差し指を滑らせた。


 診察室の雑巾がけを終えて、マヌと薬草をまとめていたあたしは、テンプレな駄目出しをしてきた診療室の主に「お前は姑か」と毒ついた。すると、せめて舅と呼べと返された。


「治療費を身体で払うと言って来たのは貴方です。手抜きはしないでください」


 レイはそう言って、あたしに雑巾を投げてよこした。

 雑巾がけをやり直せ、という意味である。


「身体で払うって、こういう事じゃないっつーの」


 悔し紛れに乾きかけの雑巾を捻りながら、あたしは小声で文句を垂れた。


 確かに前の日の夜、あたしはレイに、治療費は身体で払うと言った。レイが、諸々の治療費の請求先はシトレでいいのか、と確認してきたからである。

 あたしはこれ幸いと、『身体で払わせていただきます!』と元気よく申し出た。これを機会に惚れた相手との関係を一気に詰めてしまおうという算段のもとで。


 一緒のベッドで眠り始めて五日。触れられた事といえば、イビキが煩いと鼻を摘ままれた程度。もういい加減、本腰を入れて手を出してくれてもいいんじゃないかとヤキモキしていたのである。 


 治療費の支払いに乗じて心願成就! これは実に名案だ! 一石二鳥だ! 


 あたしはレイに乙女を差し上げる気満々だった。体力もかなり戻ったし、どんとこーいヘイカマン! と。


 で、「分りました」とあっさり返事をしたレイの翌日の行動がこれである。

 どこのトウヘンボクが、あの台詞を労働で返すと解釈するのか。これは、わざとに違いない。あたしは確信していた。


「お前なあ。もうちょっと自分を大事にしたほうがいいと思うぞ?」


 昨夜、あたし達のやり取りを聞いていたマヌが、心底呆れた様子であたしを諭してきた。

 十歳のお子様があの会話の意味を正確に理解していたのは意外だったが、同じ土俵に上がって説教できるほど精神的に大人びている事にも驚かされた。


「乙女を捧げてもいいと思える相手が見つかって脈もあるのに、大事に取っとく方が勿体ないでしょうが」


 あたしは七つも年下の少年相手に、同級生同士でするような調子で言い返した。


「『脈あり』って。お前なぁ」


 マヌは額に手を当てると、『やれやれ』とでも言いたげに頭を振った。


「そりゃ勘違いだって。不眠不休で治療したのは、医者として当たり前の事なんだよ」


「違います! 治療じゃないんです! レイは、あたしにちゃんとチュ」「もう結構」


 既成事実を暴露し終える前に、レイに間に割って入られた。

 このタイミングも絶対、わざとに違いないと確信した。


「これ以上、マヌの情操教育に悪い発言をすると追い出しますよ」


「駄目。あたしまだ完治してないからね」


 まだ時々貧血を起こすし、食欲も完全には戻っていない。

 追い出されてたまるものかと、あたしは入院継続の必要性を訴えた。

 レイが、あたしの鼻をぎゅっと摘まんで引っ張り上げた。


「いーたいいたいいたいいたい!」


「医者を誘惑する元気があるならもう大丈夫です。明日にでも保護者の元へお帰り下さい」


 退院を許可すると、レイはあたしの鼻からぱっと手を離した。


 入院継続の必要性を訴えたつもりが、やぶ蛇になってしまった。しかも、ねえや達を保護者呼ばわりする事で、レイはあたしを間接的に子供扱いしたのである。


 ほらみろ、と言いたげにマヌが横目であたしを見た。それから、まとめた薬草を籠に入れて棚に上げると、


「あー忙しい忙しい」


 わざとらしく言いながら、パタパタと外へ出て行った。


 華の十七歳を子供扱いするなと憤慨すると、ならもっとお年頃らしく発言と振る舞いに気を使えと間髪置かず叱られた。


「何にしても、あなたは貞操観念をもっとしっかり持つべきですよ」


「じゃあどうしてチューしたんですか!」


 あたしが詰問した途端、洗って干し終えた包帯を籠に入れて戻ってきたマヌが、その手から籠を滑り落とした。

 せっかく綺麗になった包帯が、ばらばらと床に散らばって土で汚れた。


 レイが厳しい語調で洗い直すようマヌに指示した。


 マヌは慌てて包帯を拾い集めてから、再度煮沸するために、診察室の隅にある大鍋を取りに行った。


 あたしとレイは、マヌが自分のお腹と同じくらいのサイズの鍋を右脇腹に抱え、反対の腕で拾い集めた包帯の籠を抱えて診察室を出て行こうとしたところで、問答を再会した。


「あれはただの前払いです」


 レイが言った途端、マヌがその両腕から鍋と包帯の入った籠を落とした。


「さっきから何をやっているんですか」


 弟子の注意力散漫を叱責したレイは、問答を中断して、散らばった包帯の回収を手伝った。あたしも足元にひらりと落ちてきた包帯を拾い上げ、マヌが抱えている籠の中に放り込んだ。


「ど、どうも」


 ぎこちない笑顔をあたし達に向けたマヌは、鍋と籠を抱え直して、足早に外へ出て行った。レイが歌の前払いとしてあたしに口づけした事が、相当動揺を誘ったらしい。

 ただ悲しい事に、あの『前払い』は本当にただの『前払い』でしかない可能性が高くなった。


「あんたそれでよくヒトに貞操観念を語れたもんだな」


「あなたよりマトモだという自覚はありますので」


 あたしの減らず口に対し減らず口で返した医者は、外へ出て行った。


 あたしはレイを追いかけた。日中、治療所でこんな風に話せる機会はあまりなかったからである。

 昼間レイがここにいると、ひっきりなしに患者がやって来るのだ。ナツメヤシの木から落ちたとか。ワニに噛まれたとか。農作業中に足を切ったとか。パンを焼いている最中に火傷をしたとか。

 ケメト人は、思いのほか外傷患者が多かった。


 その日は珍しい事に、食中毒と思わしき腹痛の患者が午前中に一人、運ばれて来た程度だった。


 レイは作業小屋から薪割り用の斧を取り出すと、原木が転がっている薪割りスペースに移動した。

 薪割り用のスペースはマヌが火を焚いているすぐ隣りだった。


「そもそも、私とねんごろになってどうするつもりですか。あなたは未来に帰るんじゃないんですか?」


 言いながら、レイは原木を立てると斧を振りかぶり、パカリと半分に割った。

 実に簡単そうに見える薪割りだが、これが案外難しい。ちなみにあたしは、原木に斧を命中させる事すらできなかった。


 あたしは転がって来た半分の原木を拾い上げると、レイに手渡した。これを更にもう半分に割るのである。


「帰りますよ、そりゃ。帰りたくないってゴネたって、いずれは問答無用で帰されるんだから」


 あたしはふてくされて言った。

 実は、目覚めた翌日にリュックの中を確認すると、スマホとハンカチ、そして筆箱の中身が消えていたのである。

 ラムネの容器が消えてから、路上や宴会などで随分歌ったし、マラリアで倒れた日にもアカペラパフォーマンスをしていた。その分、指輪に宿ったネフェル・メスェティの無念を晴らせたという事なのだろう。


 夢で婆ちゃんが言っていた事が本当なら、消えた荷物が時空のひずみに漂っているという心配もなく、あたしはいずれ、日本に帰れるのだろうと推測できた。

 順調、と言えるのかもしれない。しかし、あたしはあまり嬉しくなかった。


 喜べない理由は、レイが次の台詞で言った通りだった。


「なら離別が見えている以上、後ろ髪引かれる要因は作らない方がいいでしょう」


 パカンという小気味いい音とともに、原木が更に半分に割れた。


 薪が割れる軽い音とは対照的に、あたしの胸はずんと重くなった。


 離別。というダイレクトな単語は、容赦なくあたしの心をえぐった。


 ケメトへの出征も、日本への帰還も、指輪任せ。そこにあたしの意志はまったく反映されていない。ここで結んだ絆を手放さない為にケメトで一生を終えたいと望んだところで、あたしは指輪が満足し次第、現代の日本へ強制的に送り返されるのである。


 それなら、ケメトで何をするか。何を残すか。何を持ち返るか。それくらいは自分で決めたかった。


「じゃあ逆に聞かせてもらいますが。一度ねんごろになった相手と一生添い遂げる人が世界には、一体何人いるんでしょうね? そんな拘り持ってぐずぐずしてるよりは、好きな相手とちゃっちゃと寝て、潔く思い出にする方が、よっぽど健全だと思いますけどね」


 あたしが言った途端、レイの後方で、包帯を煮えたぎった鍋の中に投下していたマヌが飛び上がった。小さな顔を引きつらせ、『駄目』と言わんばかりにあたしに向かって大きく首を横に振ってくる。


「若い割に随分達観した事を言いますね」


 あたしがマヌにジェスチャーの意味を確認する前に、二つ目の原木を薪状にしたレイが、あたしに渋面を向けた。


 従兄の受け売りだ、と白状したら、だと思った、と嘲笑された。


「それじゃあ、ネフェルホテプの宴で売春から逃げ回っていた人とはまるで別人ですよ」


 レイはまた、原木をパカリと割った。


 あたしはまた足元に転がって来た半分の原木を拾い上げると、薪割り用の台の上に乱暴に乗せた。


「アホボンは嫌だったの! あたしにだって選ぶ権利はありますよ!」


「その権利なら私にもあります」


 どけ、というジェスチャーとともに、にべもない台詞があたしを拒んだ。


「ああそうかい」


 口では気丈に返したが、両目にじわりと滲んでくるものを感じ、あたしは俯いた。


 沈黙が落ちた。包帯を煮込む音だけが鳴っていた。


「私があなたの従兄なら、こう言いますね」


 あたしが乗せた原木を割る音の代わりに、レイの声が近くに聞こえた。

 あたしの正面に大きな影が立った。


「潔く思い出に出来る程度の相手ならやめておけ、と」


 レイは、あたしの耳元に苛立ちがこもった台詞を残すと、薪割り用の斧をぽいと放り投げて、診療所に戻って行った。


 薪割り場に散らばった薪と斧と一緒に取り残されたあたしは、両の拳を強く握った。

 悔しいが、レイの勝利だと認めざるを得なかった。


「あ~あ、先生怒っちまった。お前のせいだぞ」


 木の棒でグツグツと包帯をかき回しながら、マヌがあたしを非難がましく見てきた。


「あたしかてスペシャルショックやわ!」


「人の気持ち考えて喋れよ。男心もてんで分かってねえし。お前、ニホンとやらでもモテなかっただろ」


 現代では小学生のお子様に、あたしの高校生活の何が分る! そう怒鳴って返してやりたかったが、誠に遺憾ながら……大正解だった。

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