第20話 手当の効果

 手当というのは、古今東西に共通する治療法である。投薬や手術のように確実に症状を緩和できるわけではないけれど、誰でもできるし副作用もない。おそらく、人類最古の治療法と言えるだろう。成すべき治療を全て施し、それでもまだ自分に出来る事は無いかと考えた末に、人は祈りと共に病人の患部に手を当てるのだと思う。

 あたしが目を覚ました時も、額に手が置かれていた。そう。『当てる』ではなく。あくまで『置く』であった事を強調したい。

 なにせ、その手の主は寝ていたのだ。あたしの顔面に手を置いたまま。下手をすれば窒息死だ。実際かなり苦しかった。

 あたしは素潜りから水面に顔を出す時のような声を上げて、呼吸を妨げている手を払いのけた。

 誰だ、重病人にトドメ刺そうとしている奴は!

 払い落とした手を辿ると、あたしの枕元で眠る中東系美男にいきつく。床に座り、上半身だけベッドに突っ伏して静かな寝息を立てているレイの顔は、広場で昼食を分けあった時と比べて、いくらかやつれているようだった。

 レイの診療所に担ぎこまれてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。自分が寝ていた期間も、今寝かされているこの場所がどこなのかも分らない。とりあえず上体を起こし、情報収集の為にぐるりと周りを見回す。

 そこは、小さな寝室だった。あたし達に宛がわれていた離宮の部屋ではなく、飾り気の無い、六畳ほどの空間だ。部屋の出入り口に暖簾のような茶色い布がかけられてあり、染みの形に見覚えがあった。レイの診察室から隣の居住スペースらしき部屋の出入り口にかけられてあった布である。

 ならここは、レイの寝室か。あたしはいつの間にか、処置台からレイのベッドに移されていたようだ。

 戸板の隙間から差し込む光で、日中であることは認識できた。また、頭痛をはじめとしたマラリアの諸症状は、完治まではいかないにせよ、劇的に楽になっていることにも気がつく。

 婆ちゃんの言っていたことが本当なら、あたしはレイの祈りに救われたのだ。この手をあたしの額に当てながら、レイはあの疲れきった声で、ずっと祈り続けていたのかもしれない。

 あたしは一度払いのけた大きな手の上に自分の手を重ねると、骨ばった手の甲を優しく撫でた。

 と、レイの瞼が震える。お、お目覚めか? と綺麗なお顔を覗きこんだところで、金属製のものが落ちる音がした。見ると、シトレが出入り口に立っていた。シトレの足元には水溜りができていて、青銅製の洗面器と布が、その上に転がっている。

 シトレは両手で口を覆い、震えていた。大きく見開かれたアーモンド形の目が鈍い輝きを放ち、そこから涙がボロボロこぼれだす。

「マキノ!」

 叫んだシトレが、洗面器をまたいであたしに駆け寄った。邪魔だと言わんばかりにレイを押しのけベッドの下に落とすと、あたしを抱きしめる。

「もう、駄目だと思った~! この馬鹿が、『今夜が峠』なんて言うから~!」

 シトレがおいおい泣きながら、床に頭を打ちつけた痛みで起き上がれないレイの足を、サンダルの裏でゲシゲシと蹴る。

 レイが忌々しげにシトレの足を蹴り返した。むくりと起き上がり、あたしの右腕を取る。

「峠は越えたようですが、楽観はできません。症状が完全に消えても、暫くは薬を飲み続ける必要があります。完治したとみせかけて数カ月から一年以上経ってから再発するケースもありますから、経過観察も怠れません」

 あたしの脈をとりながら、淡々と説明する。

 どれくらい眠っていたのか訊くと、一週間、という答えがシトレから返ってきた。マラリアの診断を受けた日から、あたしはずっとレイの診療所で眠り続けていたのだそうだ。薬湯を口に入れれば飲み込むことは辛うじてできたらしいが、会話は全く無理だったという。昼間はねえや達とマヌが、夜はレイが交代で看病にあたっていたと、シトレは説明してくれた。

「じゃあもしかして、レイは殆ど寝てないんじゃないの?」

 日中は医者や神官の務め。夜は看病。それを休まず一週間続けていたとすると、このやつれ具合も頷ける。顔つきと全体のシルエットを見る限り、明らかに五キロ以上は体重が落ちている様子だ。

「仕事ですから」

 レイはあたしを引き寄せると、胸に耳をあてた。

「おわっ! なになになに!」

 驚いて悲鳴を上げたら、静かにしろと叱られた。どうやら聴診をしているらしい。この時代に聴診器など存在しない。呼吸音や心音は、直接耳をあてて聴取するしかないのだ。

 聴診を終えたレイはあたしの両目と舌をさっと観察すると、自覚症状の中で最も辛かった頭痛の有無を訊いてきた。

 まだ少しあると答えると

「それだけ元気なら、後は回復するだけですね」

 とレイは満足げに微笑む。

「昏睡に近い状態でも歌っていた貴方です。強い体に生んでくれたご両親に、感謝して下さい」

 あたしが寝ながら歌った時の様子を思い出しているのか、レイの声は少し笑いを帯びている。

 そうか。実際、あたしは歌っていたのか。

 夢の中でレイの為に歌った曲を現実でも聞いてもらえていたのはよかったが、寝言ならず寝歌を披露してしまったとは。恥ずかしくなったあたしは、笑ってごまかした。

 一週間薬湯しか口にしていないので、まずは回復食を作らなければ。レイはそう呟いた後、大きな欠伸をした。

 ひとまずつきっきりの看病をする必要はなくなったので、自分は寝る、と言う。

 シトレはレイに感謝の言葉を伝えると、あたしの頭痛が寛解した事をとても喜んでくれた。

「眠っていても凄く痛そうに唸ってたけど、レイが額に手を当てた時は、不思議とマキノの顔が穏やかになったのよ。やっぱり医者だなって感心したわ!」

 感心しないでいただきたい。

 あたしはつい、異議を唱えそうになった。

 煮え湯を飲ませた事といい。おそらく手当の最中に眠ってしまっただのろう、あたしの顔面にデカイ掌を放置して窒息させかけた所業といい。医術を施す人間にしてはちょっと迂闊が過ぎるのではないだろうかと思う。

 しかしこの場でそれを言うのは非常に無粋だと承知していたので、後に勃発するであろう口喧嘩などに取っておくことにする。

「いいから。端に詰めるか、とっととどいてください。こっちは疲労困憊で不整脈まで出てるんです」

 レイがイライラした様子でベッドに上がってきた。もう眠さ限界、といった様子だ。レイはあたしを壁際に追いやると、パンのミルク煮を作ってあたしに食べさせるようシトレに言いつけて、ごろんと横になる。

 シトレは頷くと、食事が出来たら起こすから、あたしも寝るよういいつけて、部屋を出ていった。

 え。並んで寝るの? この狭いベッドで? マジで?

「えっと、その。よろしいんでしょうか?」

 あたしの方を向いて横向きに寝ているレイにおずおずと訊ねる。どう頑張ってもひっついて寝るしかありませんが、と。

「お好きなように」

 もの凄く投げやりな口調で返答されてしまった。心底どうでもよさそうだ。

 はあ。それでは失礼して。

 あたしは壁とレイの間でごそごそと体をのばすと、レイの胸の前あたりに頭を横たえた。 バルの香りはしない。代わりに、ヨモギの香りがあたしを包みこむ。

 この香りは、ずっとヨモギ汁を煮込み、あたしに飲ませ続けてくれていた証だ。ヨモギ汁を飲ませた後は、あたしの頭に手を当てながら、夢の中で聞いたように神様の呪文を唱えてくれていたのだろう。

 静かな寝息が頭上から聞こえてきた。あたしは非情に満たされた幸せな気持ちに浸りながら、目を閉じた。



 シトレに揺り起こされた時、あたしはレイを抱き枕のようにして寝ていた。言うまでもなく抱き心地は最高。

 あたしの手足は重かっただろうに。それでもレイは爆睡していた。

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