第19話 マラリアの脅威

 懐かしい香りで目を覚ました。


 なんだこの臭い。ヨモギ餅? 


 目を開けると、ぼんやりとした視界に、塗装が剥がれた部分から、木材らしき骨組みが覗いている天井が見えた。


 続いて、シトレとレイの話声が横から聞こえた。


「でも、マキノは若いし体力もあるから、回復する見込みも十分あるでしょ?」


「我々ケメトの人間ならばそうでしょう。しかし彼女は外国人です。マラリア耐性には期待できません。最悪の場合も、覚悟しておいて下さい」


「何よそれ! 後遺症が残るってこと? それとも、死んじゃうってこと?」


「少なくとも、死亡リスクは我々よりもずっと上です」


 お前ら……本人の前で滅多な事言うなよ……。


 頭が動かせる範囲で周囲を確認すると、レイの診察室だと分った。ならば、今寝ている背中に硬いこの場所は診察台なのだろう、と推測できた。


 岩のように重くて粘っこい体を上半身だけ何とか起こせたが、頭が割れそうに痛んだ。両肘をついて体を支えたところで、マヌの甲高い叫び声がした。


「マキノが起きたよ! 先生!」


 マヌの大声を聞いた途端、頭全体が鐘つき堂の鐘になった気がした。鐘つき棒でおもくそぶったたかれたような痛みが走り、あたしは頭を抱えて寝台の上で丸まった。


 ボリュームを落とせー!


 怒鳴りたかったが、「ボリュームはぁぁぁ」というミミズの様な声しか出せなかった。しかも、続けざまに誰かに上体を起こされて、あたしの頭はまた鐘つき棒でどつかれた。


 もはや悲鳴は声にならなかった。


「飲みなさい。早く」


 切迫したレイの声と共に、あたしの口に液体が流し込まれた。


 先程香ったヨモギが、鼻にがつんときたかと思ったら、口の中が大火事になった。


 あっちいいぃ! これ熱湯ぉぉ!


 飲み込んでしまったので、喉から胃が焼けた。あたしは頭痛も忘れて悶絶した。


「ちょっとレイ! それ煎じ終ったばかりよぉ。熱すぎるわよぉ!」


「え? ああ。これは失礼」


「あんた医者だろ。それくらい気を付けなよ!」


 雑すぎる処置を叱る声から、ティイとヘンティも近くにいるのだと分った。

 みんな来てくれたんだなと思うと、文句を言う元気が出た。


「お前それでよく……国王の主治医やってんな……!」


「減らず口がきけるなら大丈夫ですね」


 レイはあたしをまた診察台に寝かせると、顔の傍に薬湯が入ったカップを置いた。吹き冷まして全部飲むよう、あたしは言いつけられた。マラリア原虫を殺す薬湯とのことだった。


 薬湯って。ヨモギ茶じゃないの? これ。


 その薬湯の匂いは以前、健康志向のカフェで飲んだヨモギ茶を濃くしただけに思えた。

 これは実際、ヨモギ茶だった。ニガヨモギという種類だったのである。ニガヨモギにはマラリア原虫を殺す効能があった。


 適温になったヨモギの薬湯は、ほんのり甘くて苦かった。


 鉛のように重い身体と、ガンガン鐘つき棒でどつかれまくる頭痛に悪戦苦闘しながら、必至のパッチで薬湯を飲み切ったあたしは、また意識を失うように、深い眠りに落ちた。





 ふと目を開けると、劇場の舞台に立っていた。ベルベットの様な質感の、ルビー色の緞帳が左右に大きく開かれ、その向こうには同じくルビー色の観客席が二階席までずらりと並んでいた。

 舞台にも客席にも、誰もいない。

 あかあかと照らされているだけの、がらんどうだった。


 あたしは学校の制服を着ていた。

 冬用のブレザーを羽織って、カッターシャツのボタンも一番上までしっかり留めて、タイも綺麗に結んである。


 そうか、劇場の舞台にいるんだもんな。正装しなきゃ。


 妙に納得した。


 こんなに立派な劇場で、しかも舞台に立っていて、何もしないのは勿体ない。

 誰もいないけれど、あたしはそこで、前払いで代金をもらったリクエストの一曲を歌う事にした。


 一歩前に出ると、ライトが顔に当たり、眩しかった。

 目を閉じて、観客席に座るレイを想い浮かべた。

 ルビー色の席に座っているレイは、古代エジプトの長衣ではなく、白いボタンシャツと黒いパンツに身を包んでいた。

 何を着ても様になるなとニヤけながら息を吸い込み、あたしは歌い始めた。


 故郷を想ったこの童謡は、あたしが最初に人前で歌った曲だった。幼稚園の音楽会。それは小さな劇場を借りて、毎年催された。


 あの時の、涙ぐんでいた両親の満たされた笑顔。まだ生きていた婆ちゃんは、立ち上がって誰よりも大きな拍手をくれた。

 その成功体験が、あたしを歌の道へ一直線に導き、将来の夢までもたらしてくれたのである。


 誰も居ない大きなホールで、あたしは高らかに歌った。会場中に響く自分の歌声を聞きながら、たった一人で、好きな人からのリクエスト曲を歌いきった。


 あたしはレイが大好きである。

 見た目や声の良さは勿論のこと。義理がたいところも、ストイック過ぎる性格も、攻撃的でユーモアに富んだ毒舌も。

 褒められ、認められ、笑顔を向けられると、最高に心が華やいだ。

 レイの為に歌う曲は、これまで歌ったどの名曲よりも生きていると自分でも感じていた。

 

 歌声が会場に全て吸収されると、がらんどうだったはずの劇場に、一人分の拍手が響いた。


「みぃつ!」


 いつの間にか、一番前の列の真ん中の席に、婆ちゃんが座っていた。


 婆ちゃんはあたしが幼稚園の音楽会で歌った時と同じように、立ち上がって拍手をくれながら「ブラボー!」と叫んだ。


「婆ちゃん! こんなとこで何やってんの!」


 婆ちゃんは、十年以上前に死んだはずである。

 あたしは思わず、婆ちゃんを指差して叫んだ。


 その豹柄の服、ホンマめっちゃ見覚えあるし! と。


「死んでるからって会いに来たらアカンのかいな!」


 婆ちゃんは、目をまん丸にひんむいて、下腹がぽっこりでた腹の横。つまり、腰に手を当てて垂れた胸をむんと張った。


 いやいや。ええも悪いも、物理的に無理やし。


 あたしが呆れると、婆ちゃんは「そらごめんやっしゃ~」と歯を見せてケケケと笑った。


 ああこの妖怪みたいな笑い方、懐かしい。

 不覚にも、あたしは少しホロリとしてしまった。


「あんたはいずれに帰ってこなあかんけどな。それまでしっかり、あばんちゅ~る楽しんだらええわ」


 タコの様な口で『あばんちゅ~る』と発音しながら、婆ちゃんはあたしをからかった。

 お陰で、あたしの両目にホロリときていた感動は、ものの見事に引っ込んだ。


「海外旅行と一緒にせんといて。あたし今、マラリアで死にかけてんのよ」


 大丈夫大丈夫。死なん死なん。


 下膨れた顔の前で手を振りながら、婆ちゃんは舞台脇の小階段を使って舞台に上がってきた。


 あたしの前に立った婆ちゃんは、その肉付きのいい手で、あたしの両腕を「よしよし」と強くさすった。

 家族が不安になっている時や悲しんでいる時には、婆ちゃんはよくこうやって身体を強く擦って励ましていた事を、あたしは思い出した。


「あの男前のお友達が、エジプトの神さんにあんじょう頼んでくれてるさかいな。安心しいや」


 お友達って、レイの事か?


 確認すると、婆ちゃんは、芋虫が整列したみたいな指先で口元を隠しながら、「そう、そのレーさんや」と微妙な発音で『男前のお友達』の名前を口にしてムフフと笑った。続いて天井を見上げると、


「あんたの為に、一生懸命祈ってくれてはるなあ」


 眩しそうに目を細めた。


 そうなのか? 何も聞こえない。


 あたしが首を傾げると、そのうち聞こえる聞こえる。と、また妖怪みたいな声で笑った。


「それまでその人が案内してくれるで。ちゃんと着いて行くんやで」


 婆ちゃんがあたしの後ろに目をやったので振り返ると、あたしよりも少し年上くらいの古代エジプト人女性が立っていた。


 黒い直毛の鬘を被り、染み一つない真っ白なリネンのワンピースを着た女性。左手首から先が無かった。


「ああああ! あんた、もしかして指輪の人!」


 大声を上げて指を差したら、婆ちゃんに高速で手を叩かれた。


「人様を指差したらあかんいうてるやろ! 行儀悪いなあんたは!」

 

 すんません。


 謝ると、その女性ネフェル・メスェティは微笑み、右手を胸に当てて深くお辞儀をしてきた。


『いつもありがとう』


 そのジェスチャーは、そんな風に言っている気がした。


 古代エジプトに連れてきた事。あたしをからかってるような、ここ最近の翻訳。この人に対して言いたい事は色々あったけれど、その敬意のこもったジェスチャー一つで、あたしは苦情を口にするのをやめた。


 ネフェル・メスェティが右手を差し出してきた。握れ、と言っているのだと察し、あたしは彼女の手を取った。

 はちみつ色をした彼女の手は柔らかく、温かかった。


 婆ちゃんが、あたしの背中をぽんと叩いた。


「レーさんな。なんや、『政治の為に神さん利用しまくった自分は神頼みなんかできる立場やない』とか思うてるみたいやけどな。『そんなことあらへん!』て婆が言うてたて、伝えといてや」


 優しく微笑むと、婆ちゃんは次に、ネフェル・メスェティに手を合わせて頭を下げた。


「蜜は底力のある子です。どうぞ、お願い致します」


 ネフェル・メスェティは目を細めて頷くと、あたしの手を引いて歩きだした。婆ちゃんが上って来た舞台脇の階段を下り、誰も居ない観客席の間の通路を進み、真っ直ぐに劇場の出口を目指す。


 あたしは婆ちゃんが一人残された舞台を振り向いて、叫んだ。


 婆ちゃん! 一緒に来てよ! 


 婆ちゃんはそこに立ったまま、またケケケと笑って、あたし達に向かって手を振った。


「頑張りや、蜜」


 息を引き取る前の日にあたしの手を握って言った遺言とそっくり同じ言葉で、婆ちゃんは元気に送り出してくれた。


 劇場の重い扉が開かれると、真っ黒い空間が広がっていた。

 扉が閉り劇場からの光源が無くなると、上も下も分らなくなった。

 けれど、ネフェル・メスェティの姿は、はっきりと見えた。


 彼女は立ち止まると、あたしの手を離し、右手を耳の後ろに当てて見せてきた。『耳をすませろ』と言っているのだと分った。


 言われた通り耳をそばだてると、男性の声が聞こえてきた。レイだとすぐに分った。


「ジェフティよ。あなたは知恵と癒しの神である。願わくば、その偉大なる力によって、この者の身体を癒し、病気を取り除きたまえ。この者に健康と幸福をもたらし、私の感謝の心を捧げる事を、許したまえ。

 セクメト女神よ。あなたは疫病の鎮圧者であり、力強き女神である。願わくば、あなたの聖なる力によって、この者を守り、この者の健康を取り戻したまえ。私の感謝の意を、あなたに捧げる事を許したまえ……」


 必死に祈るその声は、いつも耳にしているレイの声よりも重く掠れていて、酷く疲れているように聞こえた。


「この声を頼りにお行きなさい」


 突如、ネフェル・メスェティが口をきいた。


「喋れるんかい!」


 あたしが驚くと、彼女は鈴を鳴らすような声で笑った。


「あなたの歌、ともて好きよ。もう少し付き合ってね」


 そしてネフェル・メスェティは、闇に溶けるように消えていった。

 彼女は本当に、婆ちゃんが言った通り、レイの声が聞こえる所まであたしを案内しただけだった。


 真っ暗闇に一人残されたあたしは、急に心細くなった。


「なんなんよ。最後まで送るくらいのサービスしてくれてええやんか。こっちは慣れへん古代生活でヘトヘトやのに」


 寂しさを紛らわせるために、消えてしまった指輪の持ち主にブツブツ文句を垂れながら、あたしはレイの声がよく聞こえる方へ向かって歩き始めた。


 ネフェル・メスェティの本名を聞き忘れた事に気付いたのは、目覚める直前だった。



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