第18話 これはデートか武者修行か ~これは多分デート~
広場の隅の階段で、あたしとレイは並んで座りながら、投げ込まれた食べ物をお互いの間に並べて昼食にした。
飲み物を獲得できなかったので、それだけはレイが自腹を切ってビールを御馳走してくれた。自分からの投げ銭代わりだ、と理由をつけて。
レイは砂だらけのパンをもぎもぎと千切っては口に入れて、平気な顔で咀嚼していた。
あたしは干し無花果を咥えながら、頼むその調子で全部食ってくれ! と砂入りパンを消化してゆく男に心の中で手を合わせた。
どらどろビールには随分慣れたが、この砂入りパンだけは、現代人のワガママな舌が、どうしても許さなかったのである。
五歳くらいの子供が一人、おずおずと寄って来た。体は全体的に汚れていた。伸ばしっぱなしの髪は根本がベッタリとしているのに、毛先は乾いて四方八方に広がっていた。人差し指を咥えている仕草で、空腹なのだと分かった。
あたしがその子に何か食べるか聞く前に、レイは自分のビールを飲み干すと、淡々とした動作で果物や千切ったパンを、空いたビールジョッキの中に盛りつけた。
「食べ終えたら、器はあそこに戻してください」
ビールを買った屋台を指差し、食べ物を詰め込んだジョッキを子供に持たせた。
子供は顔を綻ばせて頷くと、食べ物を満タンにしたビールジョッキを抱えて走り去った。
人間的にアレなこの男が当たり前のように食べ物を分け与えた事も意外だったが、幼児相手に敬語を使ったのには危うく吹き出しかけた。もしやこいつは、産まれたての赤ん坊相手でも『です・ます』口調で話すのではないか、と。
「最初の曲は、生まれ変わりを詠ったものですか?」
革工房らしき建物の奥へ消えていった子供を見送ったレイが、あたしに訊ねた。
「さあ。どうだろう」
まだ治まりきらない笑いを噛み締めながら、あたしは答えた。歌詞の解釈としては、そのように取れない事も無いが。
もしレイがあの曲で生まれ変わりを連想したのなら、それはあたしが中庭での会話を思い出しながら歌っていたからだろう、と考えるほうが正解な気がした。
「今も昔も、頑張ってる人ほど自分の無力を嘆くのは変わらないんだね」
再び中庭のやり取りを思い出したあたしは、思ったままを口にした。
途端、レイが不愉快だと言わんばかりに眉を寄せた。
「あなたにそれを言われると腹が立ちますね」
「能天気に歌ってばっかですんまへんな!」
どうせ自分はキリギリスである。あたしはヤサグレながらビールを呷った。
呷ったが、何口目かで過発酵の風味を感じて、慌てて口から離した。喉にカッとくる刺激からも、アルコール度数が高い事がうかがえた。
やばい。一気飲みしてしまった。中ジョッキくらいのやつを、三分の一も。
勢いに任せた行動を後悔しながらジョッキの中身を覗いていると、隣から「ははっ」という軽い声が聞こえた。
見ると、レイが拳で口元を押さえていた。
何度か瞬きを繰り返した後で、あたしはようやく、レイが笑っているのだと気付いた。
「いいえ。あなたがあそこで楽しそうに歌っていた姿は、見ていて気持ちが良かったですよ」
さっきまであたしを中心に人だかりできていた場所を見つめながら、レイは目を細めた。
褒められた? あたし今、褒められたの?
悪意毒舌が標準であるレイからの称賛は、リュックに詰め込んだツルペタサイズの服よりも、目の前に並ぶ昼食よりも、あたしにとっては価値があった。
有頂天。なのに、何故か寒気がした。
あたしは両腕を抱えて、ぶるっと一回身震いすると、恥ずかしさを紛らわせる為に広場の顔である石像のオジサンを指差した。
「あのオジサンの像の前で歌うと、声の伸びがいいんだよね。見守られてる? みたいな安心感があるっていうかね」
言った途端、レイの笑顔が消え去った。地元民がその土地の常識を知らない来訪者にするような顔で、あの石像が誰か知らないのか、と問いかけて来た。
知らないと答えると、レイは頭を振って「まったくあの三人は」とねえや達に文句を垂れた。
「あの石像は、アクエンアテン陛下ですよ」
出てきた名前に、はい? と首を傾げたが、盗み聞きをしていた時に聞いたシトレの講釈を、うまい具合に思い出せた。
ああ、あの無理くちゃな宗教改革をやったというツタンカーテンの父親か。
そう言うと、レイが残念そうな微笑みを浮かべて目を伏せた。
「民からは、アクエンアテン陛下は宗教にのめり込んだ愚王だと思われがちですが、実際のところあの方は、実に現実的でしたよ」
アテン信仰への改宗は、信心によるものではなく、政治的理由だったのだとレイは語った。宗教改革とアケトアテンへの遷都は、先の国家神アメンに仕えていたアメン神官団の増長を阻止するための緊急措置だったと。
「アメン神官団の権力の激化は、お父上であらせられたアメンホテプ三世陛下の時代から既に問題視されていたのですが、これといった対策はとられなかったのです」
あたしは成る程、と頷いた。
つまり、ぐうたら親父のツケが息子に回ってきたということか。
噛み砕きすぎたあたしの解釈に対し、レイは顔をしかめながらも、「まあ、そういうことです」と、とりあえず認めた。
ヌスウェトは神の子としてケメトに君臨する。そして神官は、ヌスウェトの代理人として、それぞれの神殿に祀る神々に仕える存在である。
しかしアメン神官団は、徐々に財力をつけ、それに伴い政治的影響力も高めた。
これ以上アメン神官団の増長を黙認し続ければ、いずれ王権を脅かす存在になりかねないと危惧したアクエンアテンは、アメン神殿の力を削ぐ為に、改宗という大胆な手段に踏み切ったという。
この都を見て何か気付いた事は無いか、とレイが聞いてきた。
面倒くさい質問の仕方だなと思いながら、あたしはぐるりと広場を見渡した。
吹き抜ける熱風に砂粒が舞い上がった。埃っぽい景色の中にはいつも通り、露店や屋台が並び、店主達は客引きに勤しんでいた。工房や商業用の建物には、職人や客がせわしなく出入りしていた。
古代エジプトの風景など、現代の日本と違いすぎて何にどう気付いていいのか分らないが。
「そうですねぇ。位の高い男の人ほど、腰巻だけじゃなくて、神官のあんたみたいな長い服を着るんだと、最近気付きましたかねぇ。女はたまに平気でおっぱい出してるし。あと、蚊が多くてうっとおしい、とかでしょうか?」
「それはどこへ行っても同じです」
あたしが答えると、レイは呆れた様子で不正解を言い渡した。
なんだよ。アケトアテンから出た事無い人間が、他の街と比較できるわけないだろ。
膨れるあたしに、レイは幾つかの建物を指差した。
「建物のほとんどで、漆喰が禿げて基礎のレンガが見えているのが分りますか」
「はあ、言われてみれば。でも、経年劣化でしょ?」
言ったあたしにレイは、その通り経年劣化です、と頷いた。
「本来ケメトにおいて、重要な建造物には石材が使われます。経年劣化を最小限に抑えるためです。しかし、ここでは殆どの建物が日干しレンガと漆喰でできています。だからこの都は容易に、更地に戻す事が出来るんです」
更地に戻せるからなんやねん。
あたしのテンションは、だだ下がりだった。せっかく武者修行を終えてデートらしい雰囲気になったというのに、これではまるで社会科見学ではないか、と。
退屈な話題ばかりが続く状況にすっかり辟易していたあたしは、レイが国家機密レベルの話をし始めた事にも、気付くのが遅れてしまった。
「陛下はいずれ、旧宗教体制に戻る事を見越しておられた。だからアメン神を迫害する一方で、私をアテン神官の一人に任命し、秘密裏にアメン神官団と連絡を取らせ続けたんです」
「うん、うん……んん?」
あたしは膝の上で頬杖をつきながら適当に相槌をうっていたが、『秘密裏に』という下りで面を上げた。
ちょっと待てコアな話になってきたぞ、と。
しかしその時には、レイは既に、自分は私生児だと明かしていた。
「私の母は女官でした。側室ですらなかった。本来なら私は捨て置かれてもおかしくない子供でしたが、アメンホテプ陛下は書記学校へ私を通わせ、多くの支援をして下さった。お陰で私は医学を学べました」
情勢が荒れた最も危険な時期に、ヌスウェトの名を背負ったのは、自分なりの恩返しだと。レイはそのように結んで、口を閉じた。
レイとアクエンアテンは異母兄弟だと長女メリトアテンは言っていたが、まさか私生児だとは驚きだった。
しかし成程。国王と異母兄弟でも王族でないのなら、私生児という答えは本人の口から聞かずとも、少し推理すれば簡単に導き出せたかもしれない。そこを、あたし自身が追求する気がなかったのだからどうしようもない。
だって、これ以上知りたくなかったのだ。怖くて。
「長女もあんたも、雇われ楽士相手に込み入った話しないでくれる? 口封じに殺されちゃたまんないわ」
「この前の盗み聞きに関しては、他言無用を約束する事でお咎め無しにしたはずです。むしろあなたは少し、この国について学ぶべきですよ」
だからって、裏事情までは知りたくない。
秘密厳守も仕事のうちだろうと注意したあたしに、レイは鼻で笑った。
「あなたは、あなたが思っている以上に我々と距離が近い。面倒事を避ける為には必要な知識だと思っただけです。しかし鳥頭な貴方の事だ。どうせすぐに忘れるでしょうね」
「とりあたま!」
指輪てめえ! 原文がどうなってんのか知りてえもんだな!
レイも気遣いつつコケにするとか、器用なことしやがって。
レイと指輪の双方から馬鹿にされている気がして、あたしは立ち上がって恫喝した。
「あたしこれでも頭いいんやぞ! あんたが吐いた愛の無い毒舌なんかなぁ、全部まるっと記憶してるんやからな! 覚悟しとけよ!」
眩暈がした。
大声で叫んだせいか、喉の渇きを覚えたあたしは、酔わないよう注意しながら発酵させすぎのケメトビールをちびちび飲んだ。
「それであんたは、なんで王様やめちゃったの? 国民にとっちゃ、子供に任せるよりもあんたが仕切ってる方が安心でしょ」
「私がヌスウェトで居続けるには、メリトアテンとの婚姻関係も続けなければならない。私は、近親婚は望んでいないので」
素朴な疑問を口にすると、レイはレタスを千切りながら、丁寧な答えを返してきた。答え終わると小さく折り畳んだレタスの葉を一枚口に放り込み、もぐもぐと咀嚼した。続けてもう一枚千切ると、あたしに渡してきた。
マヨネーズが欲しいな、と贅沢な事を考えながら、あたしはレタスを受け取った。
レタスを飲み込んだレイは、近親婚を避ける理由を自ら語った。
「近親婚を繰り返すと、生まれる子供は高確率で病弱で、早世します。骨格にも先天的な異常をきたしやすい。今朝、あなたが言っていた事と同じです」
ちゃんと知っていたのか。と驚くと、ちゃんと知っていましたとも。という答えが返ってきた。
「十やそこらの少年が、日々体の痛みに耐え、駆け回る事はおろか、歩く事すらままならない。こんな悪習、早く無くすべきです」
ツタンカーテンの事を言っているのだというのは、すぐに分った。
では何故ヌスウェトになった時に廃止しなかったのか。訊ねると、根づいた風習を止めるのはそう簡単な事ではないのだ、とレイは瞼を伏せた。
「よほどの決定打が無ければ。それこそ、未来の医学に裏打ちされたような確固たる証拠が必要なんです」
そうか。だからレイは、歯切れの悪い説明に対してあんなに失望していたのか。
怒っていたレイの心情を理解したあたしは、自分の不勉強を申し訳なく思った。
「ごめん。歌ってばっかいないで、もっと真面目に学校の授業を聞いとけばよかった」
肩を落としたあたしに、レイは八つ当たりを謝罪した上で、こう言った。
「マキノ。あなたは優しい人です。歌はあなたにとって、その優しさを他者に伝えるに最適な方法なのでしょう。これからも大事にして下さい」
アタシ今この瞬間、死んでも悔いはないかもしれない。
「ありがとうございますぅ。マキノミツは幸せです」
涙ぐみながら、あたしはレイから貰ったレタスを口に押し込んだ。
レイが「ん?」と何かに気付いたように、あたしを見た。
「さっきも歌う前、同じように名乗っていましたね。それがあなたの正式な名前ですか?」
マキノミツ? と、レイの口からたどたどくあたしの氏名が復唱された。
マキノは家の名前で、あたし個人の名前がミツだと説明すると、レイは感心したように何度も頷いた。ケメトには苗字が存在しないのである。
苗字でも名前でも好きに呼んでくれと伝えると、レイは「分りました」と言ってから
「ミツ」
と個人名を選んだ。
あたしはこの時、冗談抜きで鼻血が出るかと思った。
婆さんみたいだと敬遠していた名前が、レイのぬくもり感たっぷりの声を借りて、あたしの全身に電気刺激みたいな快感をもたらしたのだからさあ大変、である。
こらヤバい! ホンマにヤバい! かなりヤバい!
あたしはまともに働かなくなった頭で、『ヤバい』を連発し続けた。
なにせ寒くてたまらないのに、顔だけが火が噴いたみたいに熱いのである。ついでに頭痛まで起こり始めた。
あたしは残りのケメトビールを一気に飲み干すと、ジョッキを乱暴に地面に置いた。
「嬉しいのでミツはもっと歌います!」
あたしが上機嫌で高々と挙手をすると、レイは呆気にとられながら、もう十分歌っただろう、と言ってきた。
「いえいえ!」
あたしは顔の前で手を振って、力いっぱい否定した。
「だって今日はまだ、レイの為に歌ってませんので。あたしの優しさとやらを、お伝えしていませんので!」
気持ちの良い浮遊感を覚えたあたしは、これが『酔っぱらう』という現象か、と脳内に僅かに残った冷静な部分で分析した。
浮遊感のついでに、頭痛も悪寒も動悸もあったし、体中が痛かった。しかし、興奮のあまり、あたしはそれらの不調をご機嫌に無視してしまった。
「何でもいいデスよ。言ってみんしゃい」
両掌を上にして『カモンカモン』とすくい上げながら、リクエストを求めた。
レイは諦めたように「はぁ」と応じると、思い出に残っている日本の古い歌を、と注文した。
「はい喜んで!」
「代金はどうするんです?」
「チュー一回でよろしおま!」
「では前払いで」
レイはそう言うと上体を寄せて、本当にあたしの唇に口づけをした。
これぞ、青天の霹靂。
浮遊感も頭痛も悪寒も動悸も全身の痛みも、全てが吹っ飛んだ。ついでに思考も飛んで行った。
気付くと、あたしは逞しい両腕で抱え上げられていた。
え、なに? ここからまさかのお持ち帰りですか?
オメデタイ頭で不埒な事を考えていたあたしに、レイは緊張した声で伝えた。
「熱がある」
そして立て続けに、筋肉痛は? 倦怠感は? 頭痛は? 息苦しさは? 寒気は? 吐き気は? と問診してきた。
あたしの回答から吐き気を除く全ての症状がある事を知ったレイは、腕の中のあたしに怒鳴った。
「未来人はどうしてこうも自分の体調変化に疎いんですか!」
面目ない。
あたしの意識は一旦、ここで途切れた。
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