第15話 失意の巫女
いたいいたいいたいいたい!
あたしはその時、片耳を引っ張られながら廊下を進んでいた。どこの廊下かというと、ケメト軍を統括する総司令官ホルエムヘブの邸宅である。
ホルエムヘブの奥方、ムトノジメットがあたし達の噂を聞きつけ、レイを介して宴会の余興を依頼してきたのだった。
ちなみにこのムトノジメットは、女豹達の母方の叔母でもあった。
それで、私の耳を千切れんばかりに引っ張っている人間は誰かというと、そんなもの一人しかいない。レイである。
流石は軍総司令官の邸宅。敷地の広さはネフェルホテプの家の倍以上。あたし達は、ちゃんと控室を頂いていた。
レイはそこにあたしを放り込むと壁際に追いこみ、壁と両腕の間に挟みこんだ。
牧野蜜。人生初の壁ドンである。しかし、その目的は悲しいかな、チューでもハグでもなかった。
「まっっっっっっっ――たく、あなたという人は!」
「そんなに溜めなくても。とんでもなく怒ってることはお顔を一目見たらわかりますので」
顔を背けても、あり得ないほどドスの効いた声が、べらぼうな怒りを恐ろしいほどに伝えて来た。
「あなたは『程々』という言葉を知らないんですか!」
「知っておりますわよ、勿論。『程々』くらい」
「意味はちゃんと理解しているんですか? 適当に反復しているだけでは?」
こいつ、私が九官鳥か何かだと思ってるんだろうか。
あまりの言われように、あたしは背けていた顔を戻してレイと睨み合った。
睨み合った途端、美しい御尊顔のアップに怒りが吹き飛び、頬が緩みかけた。
「レイ落ち着いて! 宴会は無事に終わったんだからそれでいいじゃないか!」
「そうよぅ。貴方が思ってるより、喜んでもらえたのよぉ」
「最後の一曲はちょっと悪乗りが過ぎたとは思うけど。でも可愛いものじゃない」
曲が終わるなり問答無用でレイに連行されたあたしを追い掛けて来たねえや達が、三者三様の言い分で庇ってくれた。
シトレが言った通り、最後の曲でノリに乗って、招待客のネックレスを取り上げて振り回したのは、反省すべき所業だと思う。
様子見で訪れたレイに丁度その場面を目撃されてしまうとは、あたしも運が悪かった。
しかし、とにもかくにも、である。
「『終わりよければすべてよし』!」
あたしは親指を立てると言いきった。以前、茶会の仕事でレイが使った諺をそっくりそのまま引用して。
「いつも事をややこしくする己の所業を棚に上げて第三者面はやめてください」
レイは間髪いれず一呼吸で言い返した。
こりゃ駄目だ。格が違う。
あたしは負けを認めた。
しかもレイの指摘は身に覚えがあり過ぎるだけに、ぐうの音も出なかった。
「素直じゃないわねぇ」
ティイが笑いを含んだ声で、意地悪そうに言った。
「レイは、マキノが心配なんでしょぉ?」
え、そうなの?
あたしは目を輝かせて目の前の毒舌美男を仰ぎ見たが、あたしとは対照的に彼の瞳は真冬のティベリアス湖みたいに冷たく静かだった。
若いくせに酸いも甘いも知り尽くした老人の如く落ち着いた表情からは、恥じらいや動揺は、微塵も感じられなかった。人間を超越して、半眼の観音立像と似たものすら感じた。
ティイの見立てが間違いである事を察して、あたしは肩を落とした。
「この人個人に関心はありません。この人のせいでケメトの民度が低下するのが心配なんです」
「みんど!」
あたしは思わず、声を裏返えらせた。
てめえ、日本人相手によくも言ってくれたな。
「日本人の
「そうですか。では、あなたがいなくなって更に強度が増した事でしょう」
「むっ――」「むかつく」
レイは機先を制してあたしの台詞に被せると、壁ドンを解いた。
あまりの敗北感に我慢ならなくなったあたしは、壁を拳で殴りまくった。
レイは付き合ってられないとばかりにあたしから離れた。
「大丈夫よ、マキノ。この人はね、何のかんの言いながら、あんたの事ちゃんと気にかけてるから」
シトレがニヤニヤしながら言った。
どういう事かと聞き返したあたしに、シトレは、レイはあたしの指輪の事を聞いてから、ずっと『ネフェル・メスェセティ』が何者か調べてくれていたのだと教えてくれた。
本当に?
あたしはレイを振り返った。
レイは頷くと、今日はその事でここまで来たのだ、と言った。そして、こう続けたのである。
「ネフェル・メスェティの正体が分ったんですよ」
指輪の呪力でタイムトラベルをしたのならば、この時代にやってきたのも偶然ではないはず。そう考えたレイは、『ネフェル・メスェティ』という歌に関係する人物について、テーベやメンフィスをはじめとした大都市に加え、その他の地方都市に手紙を送って調査を依頼していた。
ホルエムヘブの邸宅を後にし、レイの診療所に移動したあたし達は、またあの暗い診察室で怪談話みたいな報告を聞く羽目になった。
あたし達は控室で話せばいいと主張したが、いつかの時のようにどこで誰が聞いているか分らないので、とレイがチクリと刺して来たので、従う他なかったのである。
レイの診察室。左中指の指輪は、必要最低限のランプの灯りに照らされて、自分の存在を主張するかのように不気味に輝いていた。気持ち悪さのあまり外してしまいたくなったが、外すとレイの話が分らなくなるので堪えた。
「先程一名、該当したとテーベから手紙が届きました」
レイは、地方の神殿に仕えていた巫女の一人がそのような指輪を持っていたと明かした。
彼女はハトホル神殿の楽士だったらしい。
「非情に
その歌声の噂は地方だけにとどまらず、首都テーベまで轟いたという。ヌスウェトであるアメンホテプ三世の耳にまで届き、彼女は王宮に招かれた。
「あら、ちょっと前なのね」
シトレが目を瞬いた。
アメンホテプ三世とは、アケトアテンに遷都を行ったアクエンアテン王の父親だった。故に、その巫女は少なくとも二十年以上前の人物ということになる。
彼女の歌声をいたく気に入ったアメンホテプ三世は、褒美として金の指輪を贈った。その指輪には、『ネフェル・メスェティ』と刻印されていたという。
「まさにこの指輪だな」
ヘンティがあたしの左中指を見た。
「良い話じゃないか。王様に認められたんだから、大出世だよ」
続けて言ったヘンティに、レイは首を横に振った。それが、そうでもなかったのだ、と。
「アメンホテプ陛下は、彼女にしばし、テーベでの逗留を求めました。彼女はそれに応えた。しかし、予定していた逗留期間が終わりを迎える頃、陛下は彼女に命じたそうです。『これからは側室として私に仕えろ』と」
「好色な方だった、って話だものねぇ」
ティイが頬に指先を添え、ため息をついた。
「それで? その巫女さんは側室になったの?」
シトレからの問いに、レイはまた首を横に振った。彼女は断りました、と。
「巫女であり続けたい。神殿と市民の為に、自分はこの声を捧げたいのだと、彼女は陛下に許しを請いました」
そして、激昂したアメンホテプ三世に指輪をはめた腕を斬りおとされた。
「きりおとされた!」
大声でリピートしたあたしに、レイは頷いた。
「私が知るアメンホテプ陛下は、基本的には穏やかな方でした。だから私も驚きました。ただ晩年は色々と病に侵され、アクエンアテン陛下の宗教改革も始まったばかりでアメン神官団との軋轢はとにかく酷いものだった。精神的に不安定だったのかもしれません」
メンタルがやられてたからって、人の腕を切り落とす暴挙が許されるわけではあるまい。
あたしはその王様に怒りと嫌悪を覚えたが、ねえや達は違っていた。その巫女に同情する気持ちはあっても、腕を斬りおとした暴君に憤りを覚えている様子はみられなかった。
これだから独裁国家はよ!
民主主義国家の人間としては、理解に苦しむ反応だった。
それで、彼女は今どうしているのか。
訊ねると、腕を切られた傷が原因で死んだとレイは答えた。切り取られた腕は、彼女が務めていた神殿に送りつけられ埋められたとも、ナイル川に捨てられたとも言われていると。
「じゃあこの指輪は、持ち主の所へ帰りたがってる、ってこと?」
「多分、違うでしょう」
口元に手を当て考えながら、レイは答えた。
「彼女は死ぬ間際、こう言ったそうです。『私はもっと人々の為に歌いたかった』と」
もっと歌いたかった。
歌へのとてつもない執念を示すその言葉が、あたしの胸にずしりと乗っかった。
「ここからは、私の勝手な想像ですが」
そう前置きしてから、レイは自分の見解を話しだした。
「その指輪に巫女の念が宿っているのだとしたら、恐らく何千年も待っていたのだと思います。再びこのケメトで歌わせるに足る人物との出会いを。巫女の無念を晴らせるだけの力を持つ人間、つまりあなたを、指輪はここに連れて来たのでしょう」
あたしは、ショー・パブで銀子と食器を拭いていた時にテレビで、博物館の展示品が盗難に遭ったというニュースが流れていた事を思い出した。
ならば、歩道橋でぶつかった人物は窃盗犯。壊れた鞄から飛び出て来た沢山の黄金色は、盗んだ展示品。この指輪は、展示品の一つだったのかもしれない。
目の前に飛んできたからって、なんで掴んじゃったかなぁ~。
あたしはうな垂れた。
「じゃあ、この指輪が満足しない限り、マキノは帰れないって事?」
ヘンティからの質問に、レイが「私の想像が正しければ」と答えた。
多分正解だ。
これで、ラムネの中身に続き容器まで消えた理由が説明できる。
あたしはレイとねえや達に、持ち物が段々消えていっている事実を伝えると、こう結論付けた。
あたしが歌えば歌うほど、日本から持ってきたものが返還される。最後は多分、あたし自身だと。
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