第14話 貴方の幸福とは 望みとは

 翌朝。リュックの中を見たら、ラムネの容器が消えていた。中は空っぽだったから、別に惜しくもないのだが。けれどこの出来事はなんとなく、あたしの心にしこりを残した。

 盗まれた? 何の為に? 珍しかったから? 盗んだとしたら、誰が?

 中庭に続く階段に座って一人悶々と考えたが、ラムネの容器一つの為に誰かを疑うのも馬鹿馬鹿しくなり、早々に考えるのをやめる。

 空を見上げると、本日も見事なまでに快晴だった。太陽はもう、てっぺんに到達しかけている。

 遮る物が何もなければ、鋭い陽射しが痛いくらいに肌を焦がすのが、ここケメトである。このまま階段に座り続ければ、焼き肉の塊になりそうだ。

 ならば日陰を求めて移動すればいいのだが、あたしはどうにも体が重かった。いや。重いのは体ではなく、気持ちなのだ。どん底まで落ち込んだ気持ちが、身体を重くしていたのである。

 気落ちの原因は明らか。

「尾行なんか、しなきゃよかったなぁ」

 色とりどりの掌が沢山広がっているような水連池をぼんやり眺めながら、後悔を呟いた。  尾行などしなければ、あたしの中でレイは、ただ僧侶を兼務する医者であり続けたし、洗濯洗剤みたいな名前の王女 (メリトアテン)との関係も知らずに済んだ。

 たった一年間の即位。その短い統治がいかに重要であったか。メリトアテンとレイの絆が、どれほどに強かったのか。メリトアテンを追いかけた昨日、あたしは知らしめられたのである。



「私達は昨年まで、弟に王位を譲る為の土台づくりをしていました」

 ただでさえ情報過多でパンクしそうになっていたあたしの頭。そこにメリトアテンは、通勤ラッシュの電車に乗客を押し込む駅員の如く、お国の裏事情を投入してくれた。

 王を務めた人間が。信用の無い、雇われ歌うたいのあたしに。超マル秘情報を。

 それほどに、その時のメリトアテンは精神的に追い詰められていたのだ。彼女が追い詰められたのは、あたしの歌にそそのかされた結果である。強烈な罪悪感に苛まれていたあたしは、中庭のテラス席で彼女と向かい合わせに座りながら、彼女の話をただ聞くしかなかった。

「父は先行きが短いことを悟ると、私ではなく異母弟のレイを共同統治者に定めました。父が行ってきたアメン神への迫害によって、予想以上に深まってしまったアメン神官団との溝を埋めるには、水面下でアメン神官団への根回しを続けていた彼の手腕がどうしても必要だったのです。しかし彼にはアメン神官団と対等に渡り合える力量はあっても、即座に従わせるだけの肩書きがありませんでした。なので私を妻に迎え、ぺル・アアに即位したのです。最低限の土台作りを終えると、レイは早々にぺル・アアの座を私に明け渡しました。しかし実際私は名ばかりの王で、内政を整えていたのはレイでした」

 あいつ、裏ボスかよ。

 不謹慎とは思いながらもあたしは、弟がやっていたゲームの、ボスキャラの後に出て来た強敵をレイと重ね合わせる。しかし、あたしの緊張感に欠けた頭の中を知らない王女様は、一途な思いを語り続けた。

「私達が婚姻関係にあったのは、彼が王位を退くまでのたった一年。結婚は儀礼的なものでしたし、彼は常に方々を巡っていて夫婦の時間など殆どありはしませんでしたが。帰還のたびに特別にくださるちょっとした心遣いが、私はとても嬉しかったのです」

 それは、一袋分の菓子であったり、花の種であったり、小さな装飾品だっだりしたという。

 いいなぁ……。

 あたしはメリトアテンを羨ましく思った。あたしもレイからそんな気遣いをされてみたいものだ、と。

 その時メリトアテンが、ふ、と明後日の方向を見て笑う。

「実は私は幼い頃、トゥトの母親であるキヤに苛められていたのです」

 出し抜けに暴露されて、あたしは思わず「ええっ!」と声を上げた。

 キヤは、多くの子供を儲けていたメリトアテンの母ネフェルティティを妬み、その負の感情の矛先は、ネフェルティティの娘達の中で最も気弱だったメリトアテンに向けられたのだという。虐待は、ツタンカアテンがキヤの腹に宿るまで続いた。

 言葉の暴力以外にも、こっそり抓られたり、ひっかかれたり。敵意がこもった傷は、治癒する間もなく小さな王女の体に刻まれ続けた。しかし誰もが、アクエンアテン王のお気に入りだったキヤに逆らえなかった。母親のネフェルティティ以外は、見て見ぬふりをする者ばかりだったという。

「レイは私が傷つけられるたびに、薬を塗って励ましてくれたわ」

 メリトアテンは、うっとりとした表情を浮かべてレイとの思い出を語った。

「どろどろな環境、だったんですね」

 女の嫉妬の恐ろしさを聞かされドンビキしていたあたしは苦笑いを浮かべたが、当事者であるメリトアテンは意外にも、「よくある事よ」と達観的に返してきた。

 聞いている分には、レイとメリトアテンは良好な関係を築いていたように思えた。それでもレイが彼女の願いを聞き入れ、よりを戻そうという考えに至らなかったのは、彼のメリトアテンへの感情が親族愛を上回らなかったゆえなのだろうか。

 ――いやいや。娘と父親が結婚するくらいなんだから、叔父と姪なんて余裕じゃねえか。親族愛があればやってけるくらいのノリなんじゃないの? この国じゃ。

 本人から気持ちを聞かない限り答えが出ないであろう疑問にあたしが頭を悩ませていると、メリトアテンが声を低くして言った。

 私、弟が嫌いなの。

 と。

 暴露の次は爆弾発言である。ただならぬ負の感情を感じ取り、あたしは笑顔を引きつらせた。

「それはまた、どうしてそんな」

「トゥトがいなければ、レイはぺル・アアでい続けてくれたのかしら。例え形だけでも、私と夫婦でいてくれたかしら……」

 薄いドレスの裾をギュッと握りしめ、自分のつま先を見ながら呟いたメリトアテン。やがて堪え切れなくなったように両手に顔を埋めた彼女は、すすり泣き始めた。

 これは、いたたまれない! ものすごーっく、いたたまれない! 罪悪感が半端ない!

 あたしは目の前で静かに泣くお姫様を前に、自分が思っていた以上にとてつもない失敗をしたのだと自覚した。

 あたしが歌で変な入れ知恵をしなければ。そうすれば、大人の事情に傷つけられ振り回され続けたこのお姫様は、レイとの美しい思い出と復縁という淡い期待を糧に、父親の宗教改革がもたらした難局を乗り切れたかもしれない。早まったがゆえに相手に幕を下ろされ、自分の気持ちに終止符を打たずに済んだのかもしれない。恋心と淡い期待を抱きながら時を過ごし続ければこの先、何かの拍子で心が通じ合い、本当の夫婦になる未来もあったかもしれないのに。

「私、レイの優しい手が欲しかった!」

 メリトアテンは、いよいよ本格的に泣き声を上げはじめた。あたしは彼女の丸まった背中をさすりながら、心の中で『ごめんなさい』と謝り続けた。

 


 メリトアテンの恋が破れ、ライバルが減ったというのに、この焦燥感は何だろう。昨日の事を思い出すと、腹が立つのはなぜだろう。

 あたしは中庭に続く階段でぽつんと一人、スッキリしない思いを抱きながら、鼻歌代わりに『ナイル讃歌』を歌って自分を慰める。『ナイル賛歌』は、ねえや達から最初に教えてもらった、ケメトの歌だ。

 中ほどまで歌ったところで、レイがやってきた。

「今日は広場へは行かないんですか?」

 階段下からあたしを見上げた彼は、逆光に目を細めながらそう訊ねてきた。

「誰かさんの剣幕に恐怖したマヌがハープを蹴り飛ばしさえしなければ、今頃広場で歌えてましたよ」

 嫌味をたっぷり込めて、予定変更の原因を述べてやる。壊れたハープは今、シトレが必死に修理中だ。

「勝手に慄いて逃げ回ったのは、あなた達です。ハープの弦が切れたくらい、デバガメの報いにするには軽すぎると思いますが」

「『出歯亀』て」

 脳に響いた死語同然の単語に驚く。

 指輪よ、こんな古い言い回しをよく引っ張って来れたな。

『終わりよければ全てよし』といい、指輪の翻訳機能が上がっているのは明らかだ。どうやらこの呪いの指輪は、進化できる代物らしい。

 まあ、それはそれとして。

「尾行はそこまで変態じゃないと思いますが」

 あたし達を痴漢と同列にしてきたことに対し、撤回を求める。

「失礼。変態の貴方だから変態行為に思えたのかもしれませんね」

「あたしだけが変態なんかい!」

 ああもう。ああ言えば悪意を上乗せして、こう言ってくるのは分っていたはずなのに。自分からブッ刺されに行くとは、あたしも学習しない。

 自己嫌悪に陥り、頭を抱える。レイはそんなあたしを放置して、無言でその場を去りかけた。

「あ、ちょっとちょっと」

 あたしはレイを呼びとめた。せっかく顔を合わせたのだから一曲聞いていかないか、と。

 要らん。と断られるかと思ったが、レイは足を止めて、戻ってきてくれた。落ち着いた足取りで階段を上ると、驚いた事に、あたしの隣に腰を下ろす。

「品性に欠けると判断した場合は黙って立ち去りますので」

 こいつはホント毒舌が余計だ。

「ご自由に」と応じて、レイに相応しい曲を探す。やがてある一曲に思い至ったあたしは、ついと気付いた。

 ああ、この焦燥感と腹立ちは、こういうことだったのか、と。

「……では、歌わせて頂きやす」

 選んだ曲は、魂の叫びを音に代えたような、重々しく愛情に満ちた旋律を持つ。

 どんなにその身を尽くして人生を捧げても、レイには何も残っていない。レイを頼って、求めて、愛しはしても、実は誰一人として、レイだけの幸せを望む人はいないことを、あたしは昨日、知ったのだ。レイは報われていない。なのに、『これが当たり前』と言わんばかりの彼の静かな横顔が、あたしは寂しくてやりきれなかったのだ。

 歌い終えると、レイは良いも悪いも言わず、一つ問いかけてきた。

「その歌を選んだ理由は?」

「別に。ぱっと浮かんだだけでございやす」

 あたしは曲に込めたメッセージをごまかした。

 だって、そういう偉そうな事を考えていたあたしだって、じゃあお前は何をしてくれるんだ? って聞かれたら、結局何も浮かんで来ないだろうと思ったから。

 それくらいレイは、ケメトの平安以外、何も望んでいないように見えたのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る