第8話 少年王の前で爆唱する ~序~
それから約束の日になるまで、あたし達はレイと会わなかった。路上ライブや買い物の途中で姿を探しはしたものの、とんと見なくなったのである。あたしは、あまりにも熱心に探しすぎて、もはやにおいでレイを発見できてしまうんじゃないかという域まできていた。
ケメトの人達は、乾燥と厳しい直射日光から肌を守るために、乳香やオイルを身体に塗る習慣がある。ねえや達はオリーブオイルで肌を保護するので、常にフルーティーな香りを身にまとっている。もう少し階級が上の女性は、もっといい香りがする上質なクリームを使っているらしい。アンティウ、という樹脂が使われているのだと、ねえや達は買い物中に実物を見せてくれた。あたしは正直、その匂いにお寺を連想したけれど。
レイからは、路上ライブの時も宴会場の時も、大人っぽい落ち着いた香りが漂っていた。ねえや達に香りの正体を聞くと、バルというお香だと教えてくれた。神殿では日常的に焚かれるのだそうだ。
そんなわけで、あたしの中では、バルの匂い=レイ という安直な公式が出来上がってしまった。あたしの世界の、なんとまあ狭いことだろう。
約束の日の正午、広場に佇む面長オジサンの石像の足元で待っていると、レイが灰色のロバを一頭引いてやってきた。
ここに来たばかりの頃は、犬の散歩みたく当たり前にロバを引いているケメトの人達が珍しかった。けれど、数日もするとすっかりその光景に慣れてしまったので、あたしはロバには目もくれず、やっとこさ数日ぶりに拝めた男前に「まいどー」と笑顔で挨拶した。
あたし達の前で立ち止まったレイが、親しげな微笑みを向けてくる。
「万全ですか?」
「勿論よ」
レイからの質問に大きく頷いたシトレの隣で、ある事に気付いたあたしはレイに近づく。これまでと同じ形の長衣をまとっている彼の胸元でくんくんと鼻を動かし、においを嗅いだ。
「何の真似ですか」
棘を含んだ声が、頭上から降ってくる。見上げると、先程までそこにあったはずの友好的な笑顔は、すっかり消えて無くなっていた。
宴会場や診療所でのやり取りで、レイからの冷遇にいくらか免疫をつけたあたしは、毛虫を見るような眼差しを向けられても、ヘとも思わない。
「いや。今日はにおいが薄いっていうかね。ほぼ無臭なような」
「はしたない真似はよしてください」
レイが氷点下の声色で、あたしから身を引く。
「今日は神殿じゃなかったのぉ?」
ティイからの問いかけに対しレイは、今日は一日中仕え先で働く予定になっていると答えた。そして、連れて来たロバを前に引いた彼は、荷物をロバの背中に乗せるようあたし達に言う。あたし達は、楽器や衣裳やらの商売道具を麻袋に入れて背中に担ぎ、そこに入らない大きなものは腕に抱えていたのだ。
「楽器は命同然よ。自分達で持つわ」
不安定なロバの背中にくくりつけるなど言語道断だと、シトレが鼻息を荒くする。楽器の中でも最重量であるハープを抱えているシトレだが、彼女はハープを守るように上半身を捻ってロバから身を離し、断固お断りの意を示した。
「坂道が続きますが、本当にいいんですね?」
レイが確認する。これが、レイの親切心だと知ったのは、広場から目的地まで本当にレイが言った通り、ずーーーっと坂道を登り続ける羽目になってからだった。
街の南にある広場を出たあたし達は、北の離宮まで一直線に延びている坂道を、荷物を担いでえっちらおっちら登る。
アケトアテンの構造は、単純だ。基本的に道は碁盤目状で、直線的な道路が東西南北に走っている。最北には離宮。そして、少し南に下ると、アテン大神殿。道の反対側には王宮があり、大神殿と陸橋で繋がれている。中心部から北には役所などの公共施設と、上流階級の邸宅が並んでいた。ネフェルホテプの邸宅や、レイの診療所はこの区画にある。あたし達が寝泊まりしているヘトウは、街の最外周。都の外側に点在する郊外の内側にあった。
今あたし達が登っている坂道は、都の重要施設や上流階級の邸宅が集まっている区画の一部だ。両側に並ぶ建物がどんどん豪華になってゆく道のりをレイに先導されながら、ねえや達はうきうきした様子で歩いている。これはかなりの上客を捕まえたようだぞ、と鼻歌混じりで。
しかし残念なことに、その鼻歌も長くは続かなかった。歩けど歩けど、目的地に到着する気配が無かったからである。しかも、坂は急になるばかり。
「もう駄目! どこまで行くのよう。少し休憩しましょ」
ハープを抱えていたシトレが最初に音を上げた。ヘンティとティイも、膝に手をついて肩を上下させている。あたしはねえや達より若いからなのか、まだ少し余裕があった。
レイが立ち止まり、振り返る。
「だから荷物をロバに積めと言ったんです。今からでも乗せますか?」
「駄目よ。もし落ちたら大変だもの」
シトレは頑なに、ハープを離そうとしない。
見よ、我が校のヘタレ吹奏楽部員よ。これがプロ根性というものだ!
あたしはシトレを誇らしく思った。
「誰か一人が楽器抱えてロバに乗ろうよ。そしたら落ちないし」
「そうしましょ~」
ドゥフを抱えたヘンティが提案し、シタラを背負ったティイもそれに賛同する。
で、全ての楽器を抱えてロバに乗ったのは誰かというと、それはあたしだった。理由は単純。一番軽かったからである。ちなみにあたしの身長は、ねえや達とそう変わらない。どこで差が出ているかというと、乳と尻だ。
「今日だけはマキノの貧乳と小尻に感謝するわ」
やかましいわ。
上半身にこれでもかというほど楽器をぶら下げた状態で、あたしは心の内でシトレに突っ込みを入れた。
誓って言うが、あたしは貧乳ではない。ブラはCカップである。
「脱いだらちゃんとあります!」
「どうでもいいです」
自由な右手で胸を叩いて力説したあたしに、レイは心底興味なさげに答えた。楽器まみれで自力でロバに乗れないあたしを、ひょいと抱き上げる。
レイの肩に触れた瞬間、あたしは「お」と目を瞬いた。ねえや達のあったかくて柔らかいお胸も大変素晴らしいが……。
うん、服の下から確かに感じる、この弾力も悪くない。
レイの首に右腕を回してぴたりと身体をくっつけると、あたしを運ぶ動きが止まった。
「何の真似ですか」
広場で聞いた時とそっくり同じ台詞だったが、今度は棘よりも怒気を多く含んでいるようだ。
「いやあ、もう少しこの隠れマッチョを楽しみたいなと」
返事を聞くなりレイは、あたしを乱暴にロバに乗せると、間髪いれずロバのお尻をひっぱたいた。
ロバなんて、小学校低学年の時にふれあい動物園で一度乗ったきりである。ゲートが開いた競走馬のように爆走をはじめたロバの上で、あたしは絶叫した。
「あいやぁあああっ! フザケてすみませんでしたごめんなさい堪忍やーっ!」
手綱を握る暇さえ与えられなかったあたしは、ロバの首にしがみつき、楽器と一緒に坂道を駆けあがる。
「マキノ! この馬鹿ーっ!」
「楽器と落としたら怒るわよ! 壊したらあんたの取り分減らすわよ!」
「いやぁん、まってぇぇぇ~っ!」
必死であたしを追いかけるねえや達の声が、遥か後ろに聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます