第6話 影を生きる男

「無理でございます無理でございます! 後生だから帰らせて~っ!」

「馬鹿言うんじゃないよ!」

 一曲目が終わって中庭に引っこんだあたしは、ヘンティに両手首をがっちり掴まれて、再び散歩を嫌がる犬になり下がっていた。

 ティイがあたしの後ろにゆるりとした動作で回りこみ、両肩を抱く。

「いいことぉ? マキノ。あれはレイじゃなくて、別人なの。そっくりさんなのよぉ」

 暗示をかけるように、耳元でねっとりと語りかけてくる。

「あんな超絶男前が、二人も三人もいてたまるかーっ!」

「この子、あいつのこと苦手なの? 好きなの? どっち?」

 首を左右に振って喚くあたしの前で、ヘンティが呆れる。

「どっちでもいいわよ」

 シトレが大きなため息をついた。

「おい何してるんだ! 早く次を歌え!」

 宴会場に続く出入り口からネフェルホテプが顔を出し、手招きする。何か変だと思ったら、鬘が若干ずれていた。

「ただいま参ります!」

 シトレが満面の笑顔で応じると、あたしの背中をどんと押す。

「はい、女は度胸! しっかりなさい!」

あたしは泣く泣く、宴会場へと戻った。

 ガチガチになっているあたしに代わって、ハープ奏者のシトレが選曲をリードしてくれた。メロディさえ流してもらえれば殆ど自動的に歌うことができるのは、ショーパブで培ってきた杵柄だ。ゆっくりとした曲調ばかりだったので、徐々に余裕を取り戻したあたしは、歌いながら会場を観察できるまでになった。

 レイは医者のようだった。代わる代わるレイに話しかけている人達が口にする言葉の大半が、「お陰さまで元気で働けています」「すっかり痛みが取れました」といった、患者が医者に言うようなものばかりだからだ。

 中には酔っぱらったフリをして、しなだれかかる女もいた。

「せんせ~。二日酔いに効くお薬くださ~い」

 という妙齢の女性の、甘えた声が聞こえてくる。

 『先生』『お薬ください』

 これで医者確定である。絶対、死んでもケメトでは病気にだけはならないでおこう、とあたしは心に決めた。

 宴も中盤にさしかかると、料理よりも酒が多く運ばれてくるようになった。女性達が頭に乗せている、においの強い謎物体は随分小さくなり、宴会場は苦しく感じるほどの熱気と香気で満たされている。

 あたしはもう、何曲目を歌い終えたか分らなくなっていた。召使いの男性が用意してくれたビールを一気飲みすると、仕事終わりの最初の一杯を飲み干したサラリーマンみたいな声を出して、空のカップを床に置く。

「似たようなラブソングばっかで吐き気がしてきた」

 手の甲で口を拭き、不満を口にした。

「そうねぇ。わたしもちょっと退屈だわぁ」

 ティイが同意してくれた。

 最初はあたしたちの歌を珍しそうに聞いてくれていた宴会客達も、兄弟姉妹のような曲ばかりが続いて、流石に飽きてきた様子だ。

「そろそろ違う雰囲気のやつも入れようよ」

 ヘンティが嬉しい提案をしてくれた。

「いいけど。注文からあまり離れた曲調のやつは駄目よ」

 シトレは唇に人差し指を当てて数秒間思案すると、しなやかな手つきで撫でるように弦を掻き鳴らし始める。

 切なくも美しい。感情という流れの川底の、ほの暗い部分をかきまわすような旋律。

 一小節目を歌い終えたところで、これまで楽士に見向きもしなかったレイが、おもむろに顔を上げてこちらを見た。それからは、じっと歌い手のあたしを見つめて聞き入り、やがて目を伏せて、酒も口にせず床の一点をぼんやり眺め続ける。

 聞き手のこういった反応を、あたしはよく知っている。大抵は、思い出の鎮魂歌として歌詞に共感しているのだ。

 でもこの曲、殺人者の物語を詠ったやつじゃなかったっけ? どんな人生送ってきたんだ、この男。

 あたしは訝りながらも、レイの鎮魂歌を少しでも長く届けられるように、最後の一音を息が続く限り延ばして曲を終えた。

 ようやく終宴を迎えた時、あたしは酌のしすぎと歌いすぎで、ヘロヘロになっていた。 部屋の隅で泥酔している人達は召使いの世話になり、自分で歩いて帰れる人達は主催者のネフェルホテプと挨拶を交わして宴会場を出ていく。

 召使いの男性からもらった最後の一杯を飲み干しているあたしの肩を、シトレがポンと叩いた。

「じゃあマキノ。上手くやりなさいね」

「上客見つけるんだよ」

「また後でねぇ」

 ねえや達は謎の声掛けをあたしに残すと、男性の招待客達の元へ向かう。それぞれ仲良く宴会場を出ると、どこかへ消えてしまった。

「え。帰んないの?」

 まだ仕事が残っているとは思えなかったあたしは、ぽつんと残されたまま、ねえや達が出て行った出入り口を困惑ぎみに見つめる。そこに、「おい」と声がかかった。振り返ると、白味ががった緑色の腕輪らしき物を指先にぶら下げた青年が立っていた。横に同じ年頃のオニイチャンが、もう一人。

「これでいいか?」

 腕輪を持った青年があたしに訊いてきた。あたしは訳も分らず、腕輪を受け取る。

「なにがでしょうか?」

 首を傾げて訊き返した。



「待てコラー!」

「待てるわけあるかーっ!」

 あたしは屋敷中を、先程の青年二人から逃げ回っていた。まさかの売春を要求されたからである。

 上手くやれってそういうことだったのか! と、ようやくあたしは、ねえや達の言葉と行動の意味を理解した。ねえや達は今頃、この屋敷のどこかでお客とよろしくしているに違いない。

 でもあたしはお断りだ。

「そういうサービスはしておりませんのでー!」

 振り返って叫ぶ。

「馬鹿言えそういう約束だろ!」

 青年が怒鳴り返してきた。

 知らんがな! なんも聞いてませんがな!

 あたしは涙を散らした。

 大体、あたしの操はなあ! こんな鼻息ばっか荒くて、金品出して押し倒そうとしてくるアホボンじゃなくて、逞しい両腕で真綿のように包みこんで大事にだーいじにしてくれるジェントルマンに捧げるって決めてるんだよ!

「息づかいから勉強しなおせハズレ野郎ども!」

「なんだと! アバズレ!」

 あたしは逃げ続けた。

 アホボンは嫌や。成り金も嫌や。だからお前らは絶対嫌や! 温め合うならシックスパックで優しい男前がええんやー!

 あまりの動揺に、思考と言葉使いの両方が、中学生まで暮らしていた大阪訛にすっかり戻ってしまう。廊下をだだ走って、宴会場の真ん中で転がっている酔っ払い男を飛び越え、中庭を駆け抜け正門に出たその時、玄関先に一人の男性を見つけた。

 その若々しくも凛とした佇まいから、絶対に二枚目だと、あたしは確信する。

 イケメン発見!

 ここはひとつ、この紳士に助けてもらって、あわよくばお近づきになってしまおうと、その男性に手を伸ばした。

「すみませんそこのお方、おたすけくださーい!」

 大声で呼びかけると、その人はこちらを振り返った。

 レイだった。

「違うお前やないーっ!」

 イケメンでも毒舌家は御免こうむる。しかし、全力疾走していたあたしは急停止できず、そのままレイに向かって突っ込んだ。

 二人仲良く地面に倒れ込み、あたしはレイを下敷きにする。走り過ぎと興奮で、頭がくらくらした。

「何の騒ぎですか!」

 頭上から、レイの息巻いた声が聞こえた。続いて、青年二人のドタバタとした足音が。

「ああもう終わりや~っ! こんな事になるんやったら銀の言う通り街頭で適当にイケメンとっ捕まえて万札餌に乙女卒業しとくんやった~っ!」

 アホボン退散! アホボン退散! アホボン退散っ!

 あたしはレイの膝の上で即席の呪文を唱えながら、若造二人に向かって毒虫を払うかのように手を振り回す。

「お前、歌うたいの分際で!」

 青年の一人が低く唸った。パニックになっているせいか、もうどっちのアホボンの声か判別がつかない。

「鬼ごっこならあっちでやりなさい」

 学校の先生のような口調で、レイがあたし達を叱った。あたしはレイに掴みかかる。

「遊んでるように見えますか!」

「遊んでいるようにしか見えません」

「泣いてますよあたし! よく見てよ!」

「目から鼻水が出ていますね」

「そんな器用ちゃうーっ!」

 レイの胸倉を握りしめ、渾身のツッコミと共に、あたしは号泣した。

 暫くあたしの汚い嗚咽を黙って聞いていたレイだったが、やがてため息をつくと、あたしの肩に手を乗せる。

「この体たらくじゃ、貴方達の相手は無理でしょう。今日は許しておあげなさい」

 浦島太郎を連想させる台詞で、レイがアホボン達を宥める。

「じゃあ、返せ」

 青年が息を切らせながら、あたしに右手を出してきた。何を? とあたしが訊き返すと

「ファイアンスの腕輪だ! 返せ!」

 とあたしの右手を指差し、顔を真っ赤しにして怒鳴る。

「これは、あなたの物なんですね?」

 レイは青年に確認すると、あたしの手から腕輪を取り上げ、青年に渡した。腕輪を取り返した青年二人が、ブツブツ文句を言いながら帰って行く。

「ううう。あの礼儀知らずども」

 青年二人が消えてもレイの膝の上から動けないまま、あたしは鼻水を垂らしてベソベソと恨み事を吐いた。

「礼儀知らずは、あなたの方ですよ」

 レイが厳しい口調であたしを窘める。

「彼らは、あなた方が主催者と契約した通り、金品であなたを買おうとしただけです。腕輪だけ受け取ってとんずらしようとした、あなたの方が悪い」

 あたしは涙を拭いて、レイを見上げる。

「仕方ないじゃん。おひねりの類かと思ったんだから」

 レイが驚いたように目を見開いた。

「あなたまさか、今日の仕事内容を知らなかったのですか?」

 あたしが頷くと、レイは、にわかに信じがたい、といった風に口をパカリと開けた。次いで、ぎゅっと柳眉を逆立てる。

「まったく!」

 と一言。あたしを膝から下ろして立ち上がったレイは、ずかずかと屋敷に入って行くと、ノックもせず正面の部屋に押し入った。

「きゃああ! なになに!」

 シトレの悲鳴が聞こえる。数秒後、半裸のシトレの腕を捕まえたレイが出て来た。あたしが座りこんでいる玄関先に放り出す。ヘンティとティイも同じように、あたしの前に転がされた。

「え、ちょっと、どういうことぉ? 何があったのぉ?」

「仕事の邪魔すんじゃないよ、レイ!」

 当たり前だが、お仕事中に問答無用で引っ張り出されたねえや達は、状況把握が追いつかず、目を白黒させている。

 女も見惚れるほどの見事なオッパイをあらわにしているねえや達の前で、レイはその逞しい身体をすっと伸ばすと、半裸の美女三人を睥睨した。そして、屋敷中の人間がすくみあがるほどの大声で、特大の雷を落としたのである。

「馬鹿者ども!」

 と。いや本当、レイの怒鳴り声は恐ろしすぎて失禁するかと思った。小学生時代の鬼校長の、百倍怖かった。

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