第2話 ケメトの都アケトアテンで熱唱する

 目が覚めて、熱い砂の上に寝ていたらどうだろう。

 夕焼け空が、真っ青な晴天に変わっていたらどうだろう。

 体を起こして周りを見たら、アラビアンナイトの一幕の様な古代の街並みが広がっていたら、どうだろう。

 肌寒かったはずの初秋の空気が、肌を突き刺すような熱を帯びていたらどうだろう。

 道行く人が殆ど全員褐色肌で、男は腰巻きを纏った半裸スタイル。女はシンプルな長めのワンピースを着ていたらどうだろう。


 異世界。


 流行りである。大体の人が、異世界転生をしたと思うのではないだろうか。

 

 嘘だろ。異世界なんてホントにあったのか。


 あたしも、目覚めた大通りの道端でそこを異世界だと思いこみ、しばし茫然とした。


 道の両側には、塗装が一部剥がれて基礎のレンガが覗いている白く高い壁。その向こう側には沢山のヤシの木が並んでおり、生命力に溢れた緑色の尖った葉を重そうに垂らしていた。


 通りを真っ直ぐ進んだ突き当りには、縦にも横にも一際大きな建物が、太陽光を浴びて白く輝いていた。その建物のシルエットは屋根が平らの四角形。オアシスの中に建築したように、周りを緑で囲まれていた。

 目に見える建造物は、全て兄弟姉妹のように似通った四角形をしていた。しかしどれも、道の突き当たりに聳え立つその巨大な建物ほど大きくはなく、風格も無かった。

 突き当りにある建物は城なのだろうと、あたしは推測した。


 ヤシの木の間から見える、向かって右側の景色には、赤茶色の断崖が霞んでいた。

 

 舗装されていない砂だらけの大地に、土を捏ねて作ったような白塗りの四角い建物。半裸スタイルの現地人。それらは、あたしに既視感を覚えさせた。


「なんだっけ。世界史の教科書?」


 ロッカーに置きっぱなしの教科書の中身を思い出しながら、ぼんやり景色を眺めていると、ガチョウに似た鳥が一羽、のんびりとした足取りで通りを横切った。

 一方、モンスターや耳の長い人間など、異世界には必須である生物は見当たらない。ファンタジー要素に乏しい世界だった。


 右手が何かを握っている事に気付いて開けてみると、金の指輪がころんと姿を現した。階段から転落した時にとっさに掴んだ金色の塊だと分るまでに、さほど時間は要さなかった。

 その指輪は、ハンコの様な飾り部分に、幾つかの象形文字が彫られていた。当たり前だが、解読は不可能。

 とりあえず左中指に指輪をはめた。


「す、てーたす、オープン?」


 弟のお付き合いで見た異世界転生もののアニメで主人公が言っていた呪文を唱えてみた。

 目の前には何も現れなかった。


「ふぁ、ふぁいあ?」


 火を出そうとしてみた。

 伸ばした右手からは、煙すら発生しなかった。

 

 もう二度と口にするまい。

 通行人にじろじろ見られただけで、何も収穫を得られなかったあたしは、一人赤面して口を閉じた。


 とりあえず移動しようと、リュックを拾い上げて肩にかけた。

 かけたのだが、また下ろしてカーディガンを脱ぎ、リュックの中に突っ込んだ。

 物凄く暑かったからである。

 通行人がどいつもこいつも真夏の浜辺の如く薄着なのは、その土地の気候が日本の猛暑より厳しいが故だった。

 正直カッターシャツも脱いでしまいたかったが、下着姿は流石にまずかろうと、腕まくりをする程度に止めておいた。


「異世界、きっつ」


 あたしは早くも弱音を吐いた。


 とにかくその日一日、あたしはそこを異世界だと信じたまま、街をさ迷い歩いたのである。





「ここはケメトだよ」


「ここはアケトアテンだよ」


 とうとう夕日を拝む時刻を迎えた頃。公園のような開けた場所に辿り着いたあたしは、面長のオッサンの石像の足元で露天を広げていたオバサンと、通りすがりのオジサンに、ここはどこですかと訊ねた。

 返って来た答えが、これである。


「ケメトってなにさ。アケトアテンてどこさ」


 汗と砂まみれのカッターシャツを体に張り付かせ、ボザボサのポニーテールを直す気力すら無いみじめな女子高生、つまりあたしは、オバサンの露店前でどんよりと呟いた。


 なにせアケトアテンときたら灼熱のくせに、自動販売機もスーパーもコンビニも無いのである。当たり前なのだが。

 街中の水路を流れている水は混濁していて、飲もうものなら下痢は確定。果物や野菜を売っていた八百屋らしき店の商品は、蠅がたかっていて買う気が失せた。

 郊外の田園地帯には、葡萄に似た果物が実っている果樹園や、レタスに似た青物が植わっていた畑も見つけたけれど、泥棒するわけにもいかず、泣く泣く諦めた。

 喉はカラカラ。お腹は空っぽ。

 もはや歩く事すら嫌になったあたしは、商売の邪魔だとは自覚しながらも、オバサンの露店前から動けずにいた。

 路上ミュージシャンらしき女性三人が見た事もない楽器でエキゾチックなリズムを奏でていたが、興味すら湧かなかった。


「あんた旅○☆行者かい?」


 オバサンが首を傾げて訊ねて来た。

 

 はい?


 テレビの二重音声を聞かされたような気がして頭を上げると、「旅行中、なのかい?」と今度ははっきりと聞き取れた。


「ケメトはブツブツ交換だよ。なんか交換できるものはあるかい?」


 オバサンはご親切にも、買い物の仕方を教えてくれた。あわよくば自分の商品を無知な旅行者に売りつけたかっただけなのかもしれないが。


 リュックを探ったあたしは困った。何を売ればいいのやら。

 リュックに入っていたものといえば、スマホ、ラムネ菓子、小銭が入った財布、筆記用具、マスクにハンカチ、カーディガン。


 唸っていると、オバサンがあたしの左中指を指差した。


「それくれたら、この布全部と、晩御飯を買ってきてあげるよ」

 

 とんだぼったくりババアだった。なにせ金の指輪だ。これ一つあれば、大貴族の家で数日は贅沢三昧させてもらえる代物である。

 それを薄い布切れひと山に加え一食分の夕飯とトレードとは。あたしも、なめられたものだった。


 しかし実際、その時のあたしは物の相場など知らない無知で可愛い時間旅行者だったのである。現地人が安全だと判断した食べ物にありつけるのならば、と指輪を左中指から引き抜いた。


 途端、耳に違和感を覚えた。何となく音の響きが変わって聞こえたのである。違和感の正体を探って辺りを見回していると、オバサンが右手を出してワニャワニャと喋り始めた。


 あたしは愕然とした。


 オバサンの喋っている事が、分らなかったのである。まるで聞いた事のない外国語だった。

 周囲で会話する人達の声に耳をそばだてると、他の人達もオバサンと同じく外国語を話していた。

 

 あたしは恐る恐る指輪を見ると、それをまた中指にはめた。


「ちょっと、売るの? 売らないの? どっちだい」


 突然、オバサンが日本語を喋り始めた。いや、よく聞くと、喋っているのは日本語ではなかった。しかし、脳がちゃんと日本語として理解していたのである。


 何このレアアイテム! 翻訳器だったわけ?


 これだけは絶対に渡しては駄目だと確信したあたしは、指輪をはめた左手を守るように胸の前で握り締めた。


「自分で何とかします!」


 さよなら、と大慌てで露店の前からずらかった。


 そこからは無我夢中で走った。魔法のアイテムを手に入れた興奮と、今後が見えない焦りで、いてもたってもいられなかったのである。


 息切れを覚えて立ち止まった時、あたしは大きな建物の前に居た。

 漆喰が塗られた外壁と平らな屋根は、他の建造物と同じだった。その建物が他と比べ一線を画していたのは、鮮やかさだった。外壁の奥に見えるその建物の上部には、人や植物や象形文字など美しく着色されたレリーフが、物差しを当てて描かれたように綺麗に横並びになっていた。


 四角く開いた外壁の出入り口には、ひっきりなしに人々が出入りしていた。何かの公共施設のようだと、あたしは判断した。

 

 あたしは公共施設の出入り口を前に、道を挟んだ反対側の壁に背中を預けると、ずるずると座りこんだ。


 はっきり申し上げて、あたしは異世界転生によく登場する小説や漫画の主人公とは正反対で、現代の生活にとても満足していた。某大手劇団に入るという将来の夢もあったし、学生生活も人並みに満喫していた。アルバイトも、あの眼鏡が来るまでは楽しかった。

 好きなだけ歌って、腹が空けば適当に買って食べて、飲んで、何の心配もなく暮らしていた。

 週末にはバイト先で新しい衣裳を身にまとい、新曲を歌わせてもらえるはずだった。吹奏楽部の生演奏で独唱できる文化祭も、もうすぐだった。


 なのに、全部潰えたのである。あたしの大切なものが。歌だけ残して。


 こんちきしょー!


 あたしは膝を抱えて丸まった。

 背中にのしかかって来た絶望感に、涙腺が崩壊寸前まで追い込まれた。


 ここで死んでしまうんだろうか。自分の死体が頭に浮かんだ。ご飯にありつけず、水も飲めず、汗臭い体で風呂にも入れず、変なレアアイテムを指にくっつけたまま、ごつごつした道の端っこで。


 日が沈みかけていた。少し肌寒くなった気もした。

 夜になったらこの国はどうなるのだろうと不安になった。もしかすると、極寒になるのだろうか。だとするとこのままでは、確実に凍死する。


「どうせ死ぬなら」


 どうせ死ぬなら、どうしたい?


 自問自答した。幸い、答えはすぐに浮かび上がって来た。

 あたしは、心が導き出した回答に従い立ち上がると、目の前を通り過ぎる通行人達を睨み回した。


 あたしにはもう、歌しか残されていない。


 ほんならおもくそ歌ったるわい! 最後の客はお前らだ!


 根性はある方だと自負している。

 リネンを纏う褐色肌の地元ピープルと夕焼け空に向かって、あたしは声を張り上げた。

 バイト先で歌うはずだった楽曲を、熱唱したのである。


 先にも述べたが、がなり声を使った歌唱法は得意だった。この曲が使われた映画を観てから、これを歌う為だけにボイストレーニングに通って散々練習したからである。

 パワフルで、セクシーで、ピンヒールのボンテージが似合う(あたしにはさっぱり似合わなかったが)素晴らしき挿入歌。


 それをまさか、こんなワケの分らん砂だらけの国で歌う羽目になるとはな!


 込み上げて来た怒りも相まって、あたしの歌声は一層迫力を増した。


 第一声で足を止めた通行人が、徐々にあたしの周りに集まりだした。

 あたしの手拍子に併せて、観客も手拍子を始めた。

 流し目を送り、腰をくねらせれば、若者二人がニヤニヤしながら顔を見合わせて喜んだ。お若い奴のこういった反応は、世界を変えても同じなようだった。


 足首まで届く長さの、チュニックみたいな服を着た身なりの良いイケメンが一人、しかめ面で目の前に開いていた公共施設の門を力いっぱい閉めた。けれど同じタイミングで、左右から楽器を鳴らしたお姉さん三人が路上ライブに加わってくれたので、あたしの気分は急上昇した。


 ケメト、さいっこうー!


 ゲンキンなものである。

 最後に拳を高く突き上げると、拍手と歓声が沸き起こった。

 あたしの前に、沢山の金品がバラバラと投げ込まれた。これが『おひねり』というやつか、と初めての投げ銭に興奮した。

 飛び込み演奏してくれたお姉さん達があたしの周りを囲んで、観客達に手を振った。


「ありがとう! ありがとう!」


「私達の新しい歌い手にもっと拍手を!」


「明日は正午から広場で演奏しまぁす!」

 

 え、明日もこれやんの?

 

 あたしの両腕は、お姉さん達にガッチリ抱えこまれていた。

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