ネフェル・シュマトは歌う

みかみ

第1話 かくしてLove Storyは始まった。

 バスケットの中に手を突っ込んで引き抜いたカトラリーは、銀色のティースプーンだった。目の前に持ってくると、スプーンのこんもりした腹の部分に、色白黒髪の少女らしき人間の顔が、ぼんやりと映る。あたしだ。

 ぼんやりとしか映らないのは、表面が汚れているからだ。飲食業を営んでいる以上、食器の手入れは怠れない。

 あたしは布巾を手に取ると、指先に力を込めて、曇った部分を磨きはじめた。

「あたしはねぇ、食う・寝る・遊ぶに加えて、歌えたらそれでいいんだよ」

 夜の開店準備をしながらの雑談中、「彼氏は作らんのか」という質問をされたので、そう答えたのだ。

「キリギリスかよ」

 質問者であるママが、鼻で笑う。

 ショーパブ『Silver』の店主。あたしの従姉(従兄)でもある『銀二ぎんじ』改め『銀子ぎんこ』ママは、真っ赤な唇の片端を吊り上げると、華やかな顔の前に落ちて来たワンレンロングを、無駄に体をくねらせながら掻きあげた。

みつが恋愛をおざなりにするのは、中身がガキだからよ~。早く大人になんなさいな。あたしみたいないい女に~」

 狭いバーカウンターの中で大人の色香をだだ漏らせている彼女は、アンティーク風のペンダントライトが発する柔らかな光を浴びながら、歌うように言った。大きめのワイングラスの一つを手に取ると、真っ白な布巾で飲み口を拭いてゆく。彼女の前には、大小様々な形のグラスが飲み口を上にずらりと並んでいる。開店までに、これを全部拭き上げるのだ。

 グラスを拭きながら、銀子が勝ち誇ったような微笑みを浮かべた。

「タイ人はいいわよぉ。大らかでね、優しいの」

 最近、タイで男を捨てたついでに性転換に一役買ってくれた形成外科医を捕まえた銀子は、大海をまたぐ遠距離恋愛真っ最中である。事あるごとに充実ぶりをアピールしてくるうっとおしいニューハーフに、あたしは『早く別れちまえ』と内心で呪いの言葉を吐きながら、拭き終えたティースプーンをチェックした。

 曇りがとれたスプーンの背には、あたしの顔の細部までがちゃんと映っている。銀子と同じ派手素材の目鼻立ちに、洗いざらしの黒いミディアムヘア。右側頭部の一房が不自然に盛り上がっているのは、今朝からだ。化粧っ気がないのは十七歳という年齢上仕方ないとして……寝癖を直さないのは乙女として少々まずかったか。

 あたしは、拭き終えたカトラリーが並ぶ布巾の上にティースプーンをうつ伏せに寝かせると、スカートのポケットからヘアゴムを取り出した。寝癖を隠すために、後ろで一つにまとめる。

「はいそれで? 女になったらちゃんとバイト代くれるの?」

「昼間のウィトレスの分はあげてるでしょ。夜八時以降の分は、今は趣味って事でやらせてやってんだから我慢しなさい。酒飲める歳になったらまとめて払ってあげるわよ」

 その日も同じ文句で、彼女はあたしからの待遇改善の訴えを退けた。

 学校には内緒で夜の部で週末歌わせてもらう代わり、高校卒業までは無給というのが最初に交わした約束なのだ。

 ならばせめてウィトレスの分を上げてくれ、と主張したら、「いい感じにガキを卒業したらね」と矢継ぎ早に返された。

 上司が身内というのは便利だが、時には辛いものである。結局、昇給は望めなさそうだと判断したあたしは、大人しく引き下がった。

 暫く食器類を拭く音だけが、あたしと銀子の間に流れる。

 銀子がおもむろにテレビのリモコンを取ると、あたしの後ろ側にある小さな壁掛けテレビに向かって、電源ボタンを押した。銀子は沈黙が嫌いなのだ。

 昼に市内の博物館で窃盗があった事を伝える、女性アナウンサーの硬い声が聞こえてくる。

 ふいに、銀子がムフフッといやらしい笑い声を上げた。

「もうさあ。手近な男捕まえてさあ。万札握らせて処女捨てちゃえば?」

「はあ?」

 女子高生に売春すすめちゃ駄目でしょ。しかもあたしが金払う側って、どんだけ可哀想なのよ。

 言い返したが、銀子は聞いていなかった。空中に目を泳がして、何かを選別するように人差し指を左右に振って考えていた彼女は、やがて指をひっこめて、にやりと笑ってくる。

「とりあえず、ピアノ君にお付き合いしてもらうのはどう?」

 手近な男の中でも最悪の人選だ。あたしは、バスケットから引き上げたばかりのフォークをテーブルに叩きつけた。

「あんな苛めっこ嫌や!」

「わからへんよぉ。『恋は突然始まる』っていうやんか。ピアノと一緒で、あっちの方も上手かもしれんしぃ」

 興奮すると、あたしはまだ生まれ故郷の関西訛が出てしまう。それに乗っかって、銀子も銀二だった頃のお国言葉でからかってきた。

 あたしは、開いた口がふさがらなかった。アルコールも入れずに。陽が落ちる前から。よくもまあ、こんなコテコテしい話題を楽しめるものである。

 隣の椅子に置いてあったリュックを掴むと、コンビニに行ってくる旨を伝え、あたしは従姉の下ネタから逃げた。

「もうすぐ練習の時間よ。リープリープ!」

 なんやねん、リープリープて!

 ネットで検索すると、急げ、というタイ語がヒットした。



 地下一階にある店を出たあたしは、階段を駆け上がって地上に出た。初秋の日暮れ時の冷たい空気が、雑に結ったポニーテールを梳いてゆく。

 大きめの呼吸を一つして排ガス臭い外気を肺に取り込むと、道路を挟んで向こう側のコンビニに行く為に、歩道橋へと向かう。

 歩道橋の階段を登りながら、考える。

 先程、銀子が口にした、『恋は突然に始まる』という文句はどの曲の歌詞だったか。もしくは曲のタイトルだったか。それとも、小説の一節だったか。楽曲のレパートリーに自信はあったが、思い出せなかった。腹を立てている事も、少なからず想起の邪魔をしていそうだ。

「銀め。あたしがあいつと仲悪いの知ってるくせに」

 憤怒に任せて、橋を踏み抜かん勢いで左の踵を落とした。衝撃で、歩道橋が軽く揺れる。

 加齢に伴う坐骨神経痛で、開店当初から務めてくれていたピアニストの松岡さんが引退する事となり、「自分の代わりに」と連れて来たのが、あいつだったのだ。銀子はあいつのエキゾチックな見た目と、軽やかなピアノの音色を気に入り、履歴書のチェックもそこそこに、ニューフェイスとして招き入れた。

 確かにあいつのピアノの音色は悪くない。猫が歩くように柔軟で、軽やかだ。それは認めよう。しかしあいつは、出会ったその日、練習初日から歌うたいのあたしに、「中身がない」だの「薄っぺら」だの「表現力に欠ける」だの「情緒が無い」だのと、優しいピアノの音色とは程遠い悪口雑言を吐いたのである。

 あいつが口を開くたび、あたしのハートは焼き鳥みたいに次々とブッ刺された。

 そして今日、あたしは二度目の練習を迎える予定なのである。

「ちっくしょー!」

 前回の屈辱的な練習を思い出したあたしは、腹にありったけの恨みを込めて吠えた。

 場所は歩道橋のど真ん中。身にまとうは県下有数の進学校の制服。真下には車が行き交い、歩道には仕事や学校帰りの老若男女が黙々と歩みを進めている。

 しかしそれがどうした。一度爆発させたら最後。羞恥心など、ちっぽけな感情だ。我慢という蓋の下で溜まりに溜まっていた毒舌ピアニストへの怒りは、怒涛のように溢れて止まらなくなった。

 あたしは欄干を掴むと、ビルの谷間に沈み行く夕日に向かって、自慢のがなり声を使って不平不満を叫ぶ。

「陰険メガネ! 若造! 音大生だからって偉そうにすんじゃねえ! あたしなんか、(学校に内緒で)もう二年も(身内の)酒場で(無給で)お抱え歌手やってんだぞ! (ヤジ食らいながらでも負けずに)歌って踊ってんだぞ! 今年の文化祭じゃダンス部と吹奏楽部バックにソロで歌うんだぞ! お前に、それが、できんのかーっ!」

 近くを歩いていた通行人達が足を止めて、あたしに注目した。向かって右側の道路を歩いていた一人のおじいさんが、大きく頷いて親指を立ててくれた。

 どうだ、私の声量よ。半径百メートルの世間様をどんびきさせる牧野(まきの)蜜(みつ)の、このパワーよ。

 あたしは、小鳥のような胸を張った。

 タイミング良く、パトカーがサイレンを鳴らしながら走って来たので、迷惑行為をしたあたしを捕まえに来たのかと一瞬身構えたけれど、歩道橋を通り過ぎて行ってしまったので、内心ほっとする。そして、往来のど真ん中で吠え声を上げたことで少し気が晴れたあたしは、今晩のご飯のおかずが好物の海老フライだったことを思い出した。

 頭は悪くないはずだが思考がやや単純なあたしは、口腔内に蘇ったサクサクの食感に幾分気分を良くし、コンビニへと続く歩道橋の下り階段へと向かう。

 が、その時。背中に重たい衝撃を感じた。振り返った時には、あたしの体は前へ傾いでいた。下り階段へと、緩やかに。

 月並みだが、そこからの光景はスローモーションとなって進行する。カーディガンの裾が、黒い何かに引っかかっているのが視界の隅に見えた。古びた黒いボストンバッグのジッパーヘッドだった。続いて、履き潰す寸前だった右足のローファーが、階段の一段目を踏み外す。カーディガンの縫い目に引っ張られた相手の鞄のジッパーヘッドがぶちりと千切れ、噛み合わせが大きく開いた。なんちゅう脆い鞄だと思いながら、あたしは掴む物も見つけられず前へ倒れ続ける。そんな中、相手のボストンバッグの中から溢れ出て来た沢山の黄金色が広がり散る様子が、視界の片隅で見えた。体は片足を踏み外したことで反転し、赤い綿飴を千切ったような夕焼け空が目の前に現れる。その夕焼け空の真ん中に、飛び込んできた物があった。金色の丸い物体である。

 あたしはそれをとっさに掴んだ。

 掴んだ瞬間、唐突に思い出す。

 突然に始まるのは恋ではない。ラブストーリーではないか。

 銀め。ややこしい勘違いを。平成の名曲やぞ。

「きっちり覚えとけ、ドアホー!」

 あたしは叫びながら、落ちていった。

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