30日目
屋上。
昨日訪れたばかりの場所に私は立っていた。
階下ではまだ華やかな喧騒が聞こえる。昨日までの作業に追われた慌ただしいざわめきとは違う、文化祭を全力で楽しんでいる人たちの心からの賑わいの声。校舎の端の奥まった場所にある上に、見るべきものも特にないこの空間には、文化祭真っ盛りと言えど、訪れる者はいない。
もう十月に差し掛かろうかという時節、まだ時刻は五時を回ろうかという程度だが既に日は沈み始めている。照明もなく周辺のマンションに日光が遮られるこの場所は、既に夜と言っても差し支えない暗さだ。
私が失恋してから、もう二十四時間が経とうとしている。
間もなく、キャンプファイヤーの火がくべられるはずだ。
文化祭の一日目と二日目を繋ぐメインイベント。これを一緒に見たカップルは一生幸せになれるという陳腐なジンクスがある。
でも、今の私には誘う相手などいない。
私の恋は終わったのだ。
報われないままに終わった私の恋は、きっと誰の記憶にも残らず、語られることもないまま消えていく。そもそも、恋心の存在を知っていた人すらほとんどいないのだ。場合によっては、キミに恋したという事実そのものがこの世界の記憶から消え失せる。
もしかしたら、かろうじてキミの記憶の中にだけは残るのかもしれない。なかったことにはしたくないという我儘を聞いてくれて、ちゃんと告白として受け止めてくれたことには感謝している。
でも、それだって結局は一時的なものにすぎないと思っている。キミが将来、どんな人生を歩んで誰と歩んでいくにせよ、私の告白が大事な想い出の一ページになることは絶対にない。あったらそれはキミがよほど人生に失敗して追い詰められた時ぐらいだ。結局、キミからすれば、それは数多くある捨てた選択肢の中の一つに過ぎないのだ。
私の恋は忘れ去られる。
それはきっと、自分の中ですら例外ではない。
私はきっとこれから――どれぐらいの年月がかかるかは知らないが――失恋と向き合っていくことになる。そして、最終的には失恋を乗り越えて、新しい恋を探して、その人と結婚するのかもしれない。あるいは、生涯誰のことも好きにならないのかもしれない。
それでも、今この時のようにキミを愛することはできないだろう。
未来にいる私が見るキミは――私が失恋の痛みを乗り越えた先からフィルターを通すキミなのだから。
しいちゃんは前に、恋はそうやって成功と失敗を繰り返して形を変えていくものなのだって、私に語ってくれた。
その言わんとしていることが、今ならわかる気がする。人間は学習する生き物だから。次の恋に出会った時、おそらく私は同じようには狂えない。同じように絶望することもなければ、同じように傷つくこともない。――でも、きっと、同じように喜ぶこともない。
惚れた腫れたを繰り返していく恋のエコサイクルにおいて、私を飲み込んだ初恋という名の病的な魔物は、明らかな異分子だ。だから皆、傷ついていく中でこの魔物は段々と鳴りを潜め、環境に溶け込んで爪や牙を失い――最後は大人になっていくのだろう。
でも、それはとても悲しいことだと思った。
私が体験したあの恋は――このどす黒くも甘い狂おしい炎の誘惑は――確かに存在したのだ。
だから私は、そこで受けた傷も喜びも痛みも悲しみも、否定したくない。
私はその証が欲しいと願う。
*
私には、小学生の頃からルーズリーフに日記をつける習慣があった。もともとは姉の見よう見まねで親に泣きついて始めたものだった。飽き性の姉は一ヶ月と経たずに辞めてしまったのだが、一方の私はというとなんとなく辞める理由がなくて、今日まで続いてしまっている。
今、私の手元には二十九日分の日誌がある。
それはちょうどキミと委員会で出会った新学期のあの日から、つい昨日の文化祭準備での失恋に至るまで――その時見たことや感じたこと、喜怒哀楽のひとつひとつまで――私が恋の病に侵された時の様子が克明に記された一か月間の記録だった。
最初の方をパラパラと見返すと、SNSを探るだけで一日悩んだり、ずっと海外ドラマの話をしていたりと、なんだか可愛らしくて笑えてくる。
……そして、先ほど書き終えた今日の分を加えて、ちょうど三十日。
偉そうに、一日目の末尾に「これは、私の恋が始まり――そして、終わるまでの闘いの記録だ」なんてカッコいい文言を追加してみる。
こうしてみるだけで、なんだか一気に立派な人の回想録っぽい貫禄が出てくる。
三十日分の日記と言うと大層な量に思えるが、いざ束にしてみると拍子抜けするほどに薄っぺらい。
実のところ、書いた日記を読み返す機会なんてほとんどない。大抵は字の汚さに辟易とするか、今の年齢となっては幼稚すぎる発想に赤面するかが関の山だ。
もし、将来の私がこの箇所を読み返したら、どんな反応をするだろうか。
一心不乱な恋をした自分の若さを懐かしむかもしれない。下手くそ極まりない恋をした自分の愚かさを笑うかもしれない。あるいは、あまりの小っ恥ずかしさに黒歴史として、ビニールテープでぐるぐる巻きにしたクッキー缶に永久に封印してしまうかもしれない。
色んな可能性を考える。
そして、やはり確信する。
この日記の処遇は未来の私には託せない。
運動場に設けられたキャンプファイヤー会場は、点火を今か今かと待ちわびる生徒たちでごった返していた。
火の元については教師の管理の下、実行委員が責任を持って執り行うことになっており、くべられた薪の周囲にはいかにも誠実な好青年といった感じの実行委員長を中心にお偉い方々が集まって何かを話し込んでいる。
このキャンプファイヤーを、キミも――あの人と待機しているのだろうか。それとも、さすがに彼女の体調を考えるとここまで付き合わせるのはさすがに酷だろうか。
たとえ車椅子がわかりやすい目印であったとしても、この人ごみの中で探すのは難しい。
が――それも今となってはどうでもいいことだ。
周囲が突如ざわつく。
点火時間が来たらしい。
実行委員長がマイクを取り、その役目を拝命してから今日という日に至るまでの、長きにわたる準備期間で起きた様々な苦労を語る。そして、協力してくれた仲間たちや保護者たち、見守ってくれた教師たち、何より今ここに集まってくれた生徒たちへの感謝の言葉を述べる。
実にドラマティックで感動的な演説だ。
いつもは口うるさい生徒指導が号泣するという一幕もありつつ、大勢の生徒が見守る中、遂に緊張した面持ちの委員長が恐る恐る薪に火種を放り込む。
最初はマッチほどに小さかった灯だったが、瞬く間に炎の連鎖を繋いで膨れ上がり、数秒もすると幻想的な炎のタワーへと成長していった。周辺は昼なんじゃないかというぐらいに明るく照らされ、焔の熱気がチリチリと頬を焼く感覚がする。
まさに生徒の熱気の集大成と言わんばかりの情熱的で壮大な光景だった。
でも、今年はここで終わりじゃない。
運営陣が大役を果たして、周囲の緊張が一瞬緩んだこの時しかなかった。
私は一気に篝火の中心部へと駆け寄って、委員長のマイクを奪い取る。
「あーあー、テス、テス。……聞こえてるかな」
「ハロー、こんにちは、こんばんは? 皆さん。文化祭、楽しんでる?」
突然見知らぬ生徒がマイクをジャックするという不測の事態に、その場にいた人間はただ困惑しているようだった。委員長は何が起きたかわからないと言った間抜け面で私を見上げているし、教師たちも介入すべきかどうか気難しい顔をして話し合っている――思ったよりも時間はなさそうだ。
炎を取り巻く生徒たちの方から、あいつは誰だという野次馬丸出しの噂話が聞こえてくる。中には私の個人名がしっかりと入っている声も聞こえる。帰宅部で他クラスにほとんど友達もいなかったはずだけれど、案外あっさりバレるものだ。
一部、骨の髄まで陽気そうなお茶らけた集団だけがヒューと浮かれた挨拶を返してくれたので、とりあえずそちらに向けて投げキッスを送っておく。
「キャンプファイヤーの伝説――知ってるよね。キャンプファイヤーを一緒に見たカップルは将来結婚するっていう、正直どこの学校にでもありそうな伝説。……中には知らないでここに来た人もいるのかな?」
私が再び話し始めるころには、気が付けば周囲は多少は静かになっていた。どうやらこの乱入者が何をしでかそうというのか見届けてやろうという魂胆らしい――それならば都合がいい。
「ここに来てる中には、本当に将来を誓い合ったカップルも、片方しか将来のことまで考えてないカップルも、片想いの相手を狙ってなんとか騙してこの場まで連れ込んできた人も、実は両片想いな幸せカップルも、ずっと待ってたのに待ち合わせ場所に誰も来なかった人も――色んな人がいると思う」
やだー、とかお前まさかー、とか様々な声が聞こえてくる。
結局、高校生というのは――それもこんなお祭り騒ぎまで来てるような連中というのは、どこまで行っても色恋沙汰が好きだ。
「でもさ、知ってるよ。みんな、みんな、真剣なんだって。真剣すぎて、狂って――頭がおかしくなっちゃうぐらいの恋をするんだって」
そんなことねーよってヤジが飛んでくる。
でも、あなたの隣にいる人に実は好きな人がいた時……魔物が姿を現さないといいね?
「だから、これはそんな皆へ――恋の病に浮かれたあなたたちへの、私からのちょっとした選別」
そう言って、私は持ってきた日記を景気よく炎の中に放り込む。
私の血と汗……が滲んでいるかはわからないけど、ここまでに至る色んな想いが染みこんだ日記――その愛おしい記憶を背負った繊維と黒煙の塊は、瞬きする暇もなく焼け焦げて小さくなっていき、気が付いたころには燃え盛る炎に飲み込まれて姿を消してしまう。
予期せぬ異物を取り込んだ焚火は一瞬だけ、より強い光を放ったような気がした。
「あなた達の恋が成就することを祈ってる……じゃ、そういうことで」
そう言うと、私は腰を抜かしたままの委員長にマイクを返してとっとと会場を後にする。
人の海の中を悠々と歩いていると、あれだけの大立ち回りをしたのだ。良いものも悪いものも含め、あらゆるヤジが私に直接飛んでくる。――中にはクラスメイトもいた気がするが、一切興味がないので無視する。
拍子抜けしたパフォーマンスに文句を言ってくる輩もいれば、いい余興だったと褒めてくれる人もいる。彼氏いるのと下品でどうでもいいことを聞いてくるやつもいるし、今起きたことを何も見なかったふりをしてバカ騒ぎをしている集団もいる。
でも、そんな混乱もただの祭の空気感が生んだ変な幻と解釈したのか――すぐにそれぞれの熱狂が覆い隠して、元の平穏な混沌へと戻っていく。
結局、この会場にキミはいたのだろうか。中央に立ったにもかかわらず見つけることはできなかった。
いたとしたらどんな反応をしていたのだろう。
さすがに気にならないと言ったら嘘になるけれど――でも、きっとその答えはもう必要ない。
人混みを抜け出した私は、お気に入りのスリーピースバンドの曲を口ずさみながら、校門を後にする。
さあ、燃えろ。
私の愛で、熱で、全て全て燃えてしまえ。
恋の熱も、片想いの甘酸っぱさも、苦しかった記憶も、幸せだった束の間の想い出たちも。
私を焦がした恋の炎が、その病の毒牙が、目の前の熱に浮かれている人たちをほんの少しでも余分に狂わせてしまえ。
キミに恋した三十日間の記憶が、一片の跡形もなく燃やし尽くされるその時まで。
コイ、ワズライ〜キミに恋した30日間の記録~ ヤスダトモキ @tmk_423
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