26日目

 諦めるのが幸せだなんて、わかっている。

 それでも、恋の病に根元まで侵食されてしまった私はもう止められない。


 今日のお昼は、キミと一緒に食べた。

 トイレに行くところだったキミを偶然――と言いたいところだが、しっかりと待ち伏せして誘ったのだ。

 少しでもキミの側にいたかった。少しでもキミとの時間を過ごすことで、なんとか私だけのキミを探そうとした。


 お昼を食べて、いつもように餌付けもして、そして他愛のない話をした。クラスの出し物のこと。体育のサッカーで男子が起こした奇跡みたいなゴールのこと。お姉ちゃんの彼氏に対する愚痴が止まらなくて最近困っていること。

 そのひとつひとつを、キミは笑って聞いてくれる。

 たしかに、以前は見せてくれなかったような自然な笑顔が増えてきているとは思う。きっと、キミがひとつ笑うたび、私とキミの距離は一段と縮まっているのだろう。私という人間に対する好感度は、ピコンピコンとゲームみたいにひとつずつ上がっていくのだろう。

 でも、それはあくまで友人としての範囲だ。

 私がどれだけ平凡な時を積み重ねても、キミがあの人と過ごした特別な時間の一秒にも劣るのは、明らかだった。


 この穏やかで平和な時間のまま、隕石が落ちて世界が滅びちゃえばいいのになんて、不謹慎なことを考える。キミの将来も私の未来も――そして、あの人の運命も全部ぐちゃぐちゃになって滅びてしまえばいい。そして、私は傷だらけになって、キミに看取られながら最期を迎える――素敵じゃない?


 何も知らないまま、無邪気にこの時を過ごせていたら、どれだけ幸せだったことだろう。

 このささやかな幸せに満足できるぐらいの淡い想いであったら、どんなに楽だったことだろう。

 キミの世界はまだ遠く、まだ指の先っぽすらも届いている実感がない。


 それでも、私の武器はこれしかない。

 たった一ヶ月だけれど、この学校という日常を一緒に時間を過ごすことでしか、私はキミを見つけられない。


 *


 放課後、私はキミの教室へと向かった。

 ここまで来るといい加減しつこいと思われるのではないかという不安もよぎるが、今回は文化祭の物品管理についての連絡事項を伝えるためという大義名分があるため、一応言い訳は立つ。なので、私はそれを存分に利用させてもらう。

 腐れ縁だって立派な縁なのだ。


 隣のクラスは文化祭前ということもあって浮足立っており、いつもの放課後とは違ってせわしない。慌ただしく通話でなにかやり取りをしている人もいれば、工作用の模造紙を取り出して何やら作っている人もいる。

 そんな雑然とした空気の中、キミを探すが姿が見当たらない。しいちゃんもいないので、適当に近くにいた男子に話を聞く。すると、一つ前のコマがロングホームルームで、三十分早く終わったので、どこか別の所にいるんじゃないかとのことだった。


 そうして私はキミを探して校舎内を駆け回ることになった。キミの連絡先を知っているので、呼び出すこともできたのだが、少しでもキミのために時間を使っている実感が欲しかったのだ。


 しかし、捜索はそう長くはかからなかった――というよりも、第一の心当たりとして真っ先に浮かんだ図書室にキミはいた。

 これでもキミの行動パターンには詳しくなってきたと思う。

 少し前だったら、嫁力高くない? なんて無邪気にはしゃいでいたと思う。


 キミは図書室入ってすぐのところにある長テーブルに突っ伏して、眠っていた。そろそろ日も沈みかけようかという眩しいぐらいの西日の下、校内を覆う喧騒とは無縁といった様相で熟睡していた。路上でこうやって寝ていたら、間違いなく救急車を呼ばれていたと思う。


 本来ならば、さっさと起こしてプリントを渡せば済むだけの話だった。

 でもそうしたらこの時間は終わってしまう。この静寂の中にキミと私だけがいるという現像的で特別な魔法は終わってしまう。なんだか勿体なくて、私は向かいの席に座ってキミを眺めることにする。

 今は、少しでもキミといられることに、同じ空気感を共有することに喜びを感じるのだ。


 キミの机には数学や英語の参考書が平積みされていた。どれも長く使い込まれているのか、角が取れてすっかりとボロボロになっている。中には医学部絶対合格みたいなド派手な大きさのゴシック体が踊っているものもある――どうやら、キミは受験に備えた勉強をしていたらしい。

 開いたままになっていたノートは、几帳面にびっしりと数式が書き込まれている。キミらしい、角ばって真面目そうな文字だった。そんなノートが何冊も横に積み上がっていて、シャーペンの粉がついてしまったのか手は真っ黒に汚れている。

 壮絶な勉強量だと思った。一体、キミはどれだけのノートにどれだけの軌跡を積み重ねてきたのだろう。


 おそらく、あの人の病気が発覚する前だったら、ここまで一生懸命に勉強してはいなかったのかもしれない。もともとは、医者という目標はあくまで、親の夢の肩代わりでしかなかったのだから。

 でも、今はもう違う。キミには明確な目的がある。キミ自身の意志で、キミが選んだ進路に向かって邁進している。


 何もない空っぽの私とは大違いだ。

 だからこそ、私はキミに強く惹かれるのかもしれない。大切な人のために、ここまでひたむきに――その奥底に少年の素顔を封じて――努力できる人なんて、そうそういない。


 そして、キミという人間を知るたびに、あの人の存在が今のキミを作ったんだという事実を改めて突きつけられる。

 表の顔も裏の顔も、全部その人が守り――その人のためにキミが努力したものだ。


 ――ずるいよ。


 私の中を傍若無人な嫉妬が渦巻く。

 だって、私よりも先に出会ったというだけで、私よりもキミの好み――かどうかまではわからないけど――に近いというだけで。

 そして――私よりも大きな不幸を背負ったというだけで。

 あの人は、彼にこんなにも想われている。空き時間を縫ってまで擦り切れるぐらいに勉強して、疲れ果てて眠ってしまうぐらいに。


 キミもまた、恋の病を患っている――そう思った。


 それほどまでにキミの想いは真っすぐで綺麗で――病的だった。

 でも、その向かう先は私じゃない。

 最近出会っただけの何の取り柄も特徴もなく、大きな不幸のない私では、キミを恋の病に堕とすことはできない。


 全て全て、あの人のためなんだ――。


 今、目の前でキミは無防備な姿をさらしている。

 まるで恐れるものなど何もないというほどに、安らかな寝顔だった。ここが戦場だったら今頃キミは死んでいるところだ。

 普段、肩肘を張って生きているキミであっても、寝ている時だけはこんなに緩んだ表情を見せるのだ。恋の病に侵されて、虎視眈々とキミを狙っている私の前でそんな隙だらけの姿を晒すなんて、貞操がどうなっても知らない。


 ……いっそ本当にキスしたろか。

 そう思った時、キミは目を覚ました。


 キミはキョロキョロと左右を見渡して、今自分が置かれている状況を理解する。

 そして、私が目の前にいることに気付いた。


「あれ、いたの? 起こしてくれたらよかったのに」

「……お疲れだったみたいだから、起こすのも申し訳なくて」


 そう言いながら、私は本来の目的であるプリントをキミに渡す。

 キミはその内容に軽く目を通して、即座に対応する必要のないものであることを確認すると、丁寧に半分に折りたたんでクリアファイルに挟み込む。


「勉強、頑張ってるね」


 山積みされた参考書とノートの束を指差す。


「僕は要領がそんなに良い方ではないから……こうでもしないとなかなか、ね」


 キミはバツの悪そうな顔をして笑う。

 そんなことないと思う。これほどまでに真っすぐに努力できるのは、努力する才能に恵まれた者か――狂気に取り憑かれた者だけだ。


「そんなに好きなんだ……あの人のこと」


 私の問いかけにキミは一瞬驚いた顔をして――黙って頷く。


 見たくない表情だった。

 認めたくない答えだった。

 それでも、私はこの残酷な現実を知らなければならない。


「その通り――でも、これはあくまで僕の自己満足だよ……彼女はきっと、僕の事なんか……」


 そう言ってキミは遠い目で窓の外を眺める。西日がキミの表情を照らし、その中に眠る諦観を暴き出す。

 そうして私は気付く。キミもまた、片想いに身を委ねている存在なんだと。

 届くかわからない恋のために、時に泥臭く、時にみっともなく走り続けているのだと――きっと、私と同じように。


「あの人は、キミのことなんとも思ってないってこと?」

「僕はそう思ってるよ……まあ、怖くて聞けないだけだけどさ」

「それでもいいの? もし、報われない恋だったとしても……キミは走ることをやめないの?」


 私は報われないとわかっていて、それを受け入れるなんて考えられなかった。

 だからこそ……今ここにこうして立っているのだ。


「うん。それでも僕は――彼女を救いたいんだ。」


 私の問いに曇りない目で宣言するキミを見て、私は確信する。

 やっぱり、キミもまた恋の病に侵されている。

 狂気的な愛に身を委ねて、身を焦がすほどに自分を燃やして――キミはキミの信念を貫いている。


 でも、私の病よりも、キミの病はもっと破滅的だった。

 キミは、たとえ想いが叶わなくても構わないという。叶わぬ想いを抱えたまま――死んでも構わないと言っている。

 想い続けている――それだけがキミの愛の証明。


 羨ましいと思った。

 私もそんな愛を捧げられたいと思った。

 私なら――それを受け止めてあげるのに。


「そんなの駄目だよ……恋は一方的じゃ駄目」


 自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。 


 憎いと思った。

 キミにこれほどまでに想われて、私がずっと欲しいものを手に入れられるのに。

 病に侵されるまで、キミを閉じ込めているのに。


 キミの恋の病を――私のものにしたい。


「私は――そんなキミ、見ていたくないよ」


 私の恋の病は、身体を狂気に包み込み――思考を骨の髄まで溶かしていく。


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