23日目
寝て、起きて、ぼーっとして、またちょっと起きて、そして寝て。
そうやって今日という一日は訪れる。
身体はまだ重たいけれど、這って動ける程度にはなってきた。
社会復帰の準備を整えなければければならない。一晩経って少し冷静になる。
昨日はこの世の終わりと言わんばかりの精神状態で、もうこのままじゃ生きていけない、この世から消えてしまいたいなんて考えていた。
でも、私の人生、恋愛が全てではないはずだ――ちゃんと、切り替えていかないといけない。
カーテンを開けて、窓を開けて換気して。シャワーを浴びて、髪を乾かして。ラフなパーカーとジーンズに着替えて、汗だくの寝間着を洗濯機に入れて。
だいぶん、人間らしい姿を取り戻したなと独り言ちながら、棚にあったクリームパンをかじる。
お母さんは体調が治ってよかったわねと喜んでいたけれど、それに関しては、さすがに申し訳ない気持ちになった。
新鮮な光と空気を取りこんだ私の部屋は、昨日とはまるで別世界のようだった。
窓から差し込む日光が、棺桶のようだったベッドを照らして、ちゃんと人間の寝床としての姿を取り戻している。部屋に微かに舞う埃が白いカーテンのようになっていて、
並の人間だったら窒息してたんじゃないかと思うような湿気も、今はもうない。外の空気と混ざり合って、私の部屋の空気は外の世界と繋がる。おそらくほとんどは排気ガスだと思うけど、それでも昨日よりはましだと思う。
これでチュンチュンと小鳥のさえずりでも聞こえてくれたら完璧だったのだけれど、残念ながらガァガァとカラスの鳴き声しか聞こえない――これは土地が悪い。
ここにいるだけで私という存在を肯定されている心地がして、ちょっと安心する。私はまだこの世に居ていいんだと思える。
私は石とかコンクリ―トとか、よくわからないけど多分そのへんで作られた壁によって守られている。
昨日から切りっぱなしだったスマホの電源を入れた。
しいちゃんからの通知数は三十を超えていた。画面を開くと、ややニッチなボーカロイドのアイコンと一緒に、通話失敗を示す電話のマークがずらりと並んでいる。
どうやら、律義に一時間おきに電話をかけてくれたようだ――本当に申し訳ないことをしてしまったなと思う。
「ありがとう。ごめん」
短いメッセージを送ると、即座に既読がついた。
十秒ほどしてからポン、ポンと立て続けに二件のメッセージが届く。
「何があったかわからないけど、絶対に味方だから」
「話せるようになったら、ちゃんと聞かせてね」
その言葉で私は再び泣きそうになった。
こんな勝手な恋をして勝手に傷ついている自分に。
私は人の優しさで生かされている。
何か動かないと。せめて、人並みの生活を取り戻さないといけないと思った。
せっかくだから、部屋の片付けでもしてしまおうと考えた。今はとにかく何かを変えたかった――正確には、何か手を動かしていないと、また不安が押し寄せてきてつぶされそうだった。
机の上にたまっていたプリント類をごっそりとゴミ箱に捨てる。
それと、タンスの上に放置されていた化粧品の空き瓶も回収していく。
これだけで部屋は見違えたようになる。私の部屋は存外、捨てなきゃいけないとわかっているもので満たされている。
これをしているだけで、過去の自分を否定した気分になれて、ちょっと気持ちよくなる。
意味のない恋にしがみつこうとした私を、捨てられた気分になれる。
ゴミ袋を玄関前に出そうと部屋を出ようとした瞬間、あるものの存在に気付く。
キミとゲームセンターで取った、不細工なぬいぐるみだった。
私とキミが絆を交わした唯一の物証。
一時でも私とキミの心が通っていたという証拠品。
キミが私のために、くれたもの。
これを捨ててしまえば、多少は楽になれるんじゃないかなんて、頭によぎる。
そう思ってぬいぐるみの頭をわしづかみにする。外国産の安っぽい布と粗悪な綿で作られたであろうそれは、私が指を立てるとぐいっとめりこんで、不細工な顔が余計に歪む。
これをゴミ袋に放り込めば、全ては終わる――私とキミは最初から関係もなかったも同然の、ただ装飾係の同級生になれる。
私がキミに恋をした記憶ごと……捨てられる。
それだけなのに。
できなかった。
崩れ落ちるように床に座り込んで、縋りつくようにぬいぐるみを強く、強く抱きしめる。
破けちゃうんじゃないかってぐらいにきつく抱きしめて、ぺしゃんこに押しつぶして、その匂いを嗅ぐ。
キミの名残に私はしがみつく。
何が切り替えなきゃだ――結局は空元気だ。
この気持ちを捨てることなんてできない。
そんな簡単に捨てられるぐらいつまらない恋だったなんて、認めたくない。
これだけ好きなのに。
馬鹿な私は諦めきれない。
好きな人がいるキミでも、私は好きなんだ。
そんな時、スマホの通知音が鳴った。
またしいちゃんからだろうかと、何の気なしにスマホを手に取ると――。
心臓が止まるかと思った。
ラインの主はキミだった。
慌てて中身を開く。既読を早くつけすぎるとよくないとか、ちょっとぐらい焦らすのがコツだとか、何かのコラムで読んだ記憶があるけど、そんなものは今となってはどうでもいい。
メッセージの中身は、昨日ずる休みしてしまった文化祭の装飾係についてだった。
「中庭のオブジェが全然間に合ってないみたいで、日曜に来れる人は来てほしいらしいけど、どうする?」
一気に肩の力が抜ける。
知っている。キミはそういう人だ。
空気を読まずにやらなきゃいけないことを淡々とする。
その愚直さを愛してしまった私は、こんなメッセージひとつでときめいてしまうのだから救いがない。
キミが想像通りのキミであることに喜んでしまう自分がいる。
私はこんなにもキミのことを理解しているのに。
私のことなんて、私の気持ちなんて、何一つ知らないくせに。
そんな無邪気なキミを、私の欲望が一方的に犯して、穢す。
「キミが行くなら行く」
それだけ返事をして、キミのラインの表示名を「ばか」に変えた。
それが今のキミに一番ふさわしい名前のような気がした。世間がキミをどう呼ぶかは知らないが……この私が抱えている小さな箱の中ではキミは「ばか」だ。
しばらくして「ばか」から返事が届く。
「わかった、僕も行く」
愛しさで胸が爆発しそうになる。
「ばか」が私のために話してくれている。
人の気も知らないで――弄んでいることも知らずに。
無邪気にいつも通りのそっけない返事を返してくる。
キミが行くなら行くというメッセージの意味だって絶対にわかっていない。
その態度が私を喜ばせているとわかっていないのだろう――やっぱりキミは本当に「ばか」だ。
キミがくれたぬいぐるみと見つめ合って、たっぷりとキスをする。
このマスコットの不細工な表情もまた、「ばか」にはふさわしいような気がして、愛しさがこぼれる。
恋は病だ、患いだ。
鎮めようと思っていた、忘れようと思っていたこの気持ちに、また火が付いていくのを感じる。
不毛な恋は、終わらない。
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