22日目

 学校に行きたくない。


 朝目覚めて、ガンガンと痛む頭でまず考えたことはそれだった。

 これでも半年間、一応皆勤賞を続けていて、そのことに若干の誇りがあった。

 でも――そんなこと今となってはどうでもいい。


 体調が悪いと告げると、すぐに母は休むことを許してくれた。

 額に手を当てて、熱はなさそうだけどねえと心配するお母さんの姿を見て、私の心は罪悪感で押しつぶされそうになる。

 本当はこっぴどく叱られて、無理矢理学校に叩きだしてほしいだなんて、口が裂けても言えない。

 馬鹿な娘でごめんなさいと、心の中で何度も謝る。


 ずる休みした私の部屋は、憎たらしいぐらいにさっき見た光景と一緒だった。

 戻ってきたら獣に襲われた廃墟みたいにズタボロになっていたらよかったのに。

 いつもの平日の朝そのままの光景で、部屋にいるという事実が、私という存在の違和感を加速させる。


 鏡を見ると、寝間着のまま髪をボサボサに降ろした、寝起きのままの私がいた。

 目にくまができて、唇はカサカサに乾いて、肌も荒れ放題――我ながら酷い顔をしている。

 シャワーを浴びてこようか、と思ったけれどそんな気力もわかなかった……それに今は一応病人ということでもある。

 ひとつ言えるのは――こんなに気分はどん底なのに、まだ涙は一滴も出ていないということだ。


「僕の手で治したい人がいる――僕の大切な人なんだ」


 不意にキミの言葉がフラッシュバックする。

 思い出すだけで吐きそうな感覚に襲われ、頭に鈍い痛みが走る。

 言葉のひとつひとつが、ナイフのように身体を荒々しく切り刻み、胃の中に鉛の銃弾のような衝撃を落としていく。

 私は身をよじって床にしゃがみ込む。

 このまま消えてしまいたい……いっそ、本当に血まみれになっていたら少しは気が晴れたのだろうか。 


「へえ、そんな人がいるんだ」


 そう返事をした私は、一体どんな表情をしていたかわからない。

 驚愕と羨望と憎悪と嫉妬と――全部混ざった酷い表情をしていたと思う。

 喉だってずっと熱くてヒリヒリして、声もカラカラだったに違いない。


「僕のことをずっと気にかけてくれた人だ」


 でも、キミはそんな私のことなんて気にも留めない。

 キミは表情を抑えているつもりだったかもしれない。――けれど、周囲に目も暮れずやや興奮気味に語る姿は、間違いなく恋している人のそれだった。

 恋は盲目とはよく言ったものだと思う……私にはわかるもの。だって、その瞳が紛れもなく恋をしている人のものであると――キミが私に教えてくれたんだから。


 その人はキミの幼馴染だという。

 近所に住んでいた裕福な家の年上のお嬢さんで、昔から何かと面倒を見てくれるお姉さんみたいな存在だった。

 最初は近場の公園で遊んでいたところに偶然出くわして、一緒に遊んでいただけの関係だった。でも、幾度となく出会いを繰り返すうち、段々と二人は親しくなっていった。

 彼女は親との関係に悩むキミの境遇を理解してくれて、何かと気にかけてくれたばかりでなく、よく避難所として使ってと自宅に招いてくれたそうだ。

 もはや、一蓮托生と言ってもよい関係だった。


「そこにいる間だけは、僕は肩ひじを張らずに自分らしくいられた」


 そう語るキミの表情は心からの安堵が滲み出ていた――見たことのない表情だった。


 ――ずるいと思った。


 どうやったってかないっこない。

 私はつい最近知り合っただけの同級生で、三枚二千円のシーツで寝てる庶民で、身長も体型もお姉さんというにはほど遠い――むしろ精神年齢に関してはキミよりもずっと幼いと思う。

 私とは何もかもが正反対じゃないか。

 最近少し親しくなれただけの隣のクラスの人間が、特別になろうだなんて聞いてあきれる。

 積み上げてきた年月の重さが、私の元から薄っぺらいプライドをぺしゃんこにする。


 私だって、もっと早くキミに出会いたかった。

 私だって、たくさんキミの心に触れたかった。

 私だって、キミの救いになりたかった。


 私が一番に会っていたら、キミの手を掴み続けてみせるのに――。

 意味のない仮定をし続ける。何かに縋るように枕を抱きしめて、その角をわしづかむ。

 何度も何度も、キミが伸ばした手を取るふりをして――虚しくなる。


 何を今から願おうが、結局、キミを救ってきたのは彼女なのだ。

 私はそこを偶然通りがかった部外者に過ぎない。


 ――だがそんな彼女に数年前、ある病気が発覚した。


「とある遺伝性の疾患――簡単に言えば、身体中の筋肉が弱っていく病気だよ。しかも、単に筋力が低下するだけじゃなくて、それに伴って、呼吸器や内臓にも深刻な影響が出始める。……完全な治療法はまだ見つかっていない難病だ」


 そう語るキミの姿は悲痛だった。

 家族同然に過ごし時には救いともなった幼馴染が、死すらありうる不幸に襲われた時、キミは、どれだけ絶望したことだろう――部外者の私には想像すらできない。

 でも、キミは絶望するだけではなかった。彼女から受け取った強さで、キミは立ち上がった。

 大切な人に恩を返し、あらゆる面で支えていける人になりたい――それが、キミの夢だった。


 キミはとっくに覚悟を決めていた。

 それがキミの中にある根強い芯だった。


 ――私は、馬鹿だ。


 私はキミの何を知っていたというのか。


 私が見つけた、不器用なくせに器用に生きるキミの姿。

 私が惹かれた、澄ました外面の中にある少年のような表情。

 私が恋をした、普通の人に擬態しようとして隠せていない強烈な自我。


 私だけが知っていると思っていたキミという人間の根っこは全て、キミの大切な人がずっと大事に守って――その人のために研ぎ澄まされたものだった。


 最初から。

 全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部――。

 私は誰かのためのキミを好きになっていた。


 ならばいっそ捨ててしまえばいいのに。

 とっとと諦めて、馬鹿な恋をしたと笑い話に出来ればいいのに。

 それでも、弱い私はそれを捨てることさえできない。

 わずかに残ったキミとの絆に縋り続けている。


 もっとも救えないのは、大切な人のために頑張るキミの姿に、ときめいてしまったことだった。

 これ以上不毛な気持ちを積み重ねて、何の意味があるのか。

 それでも、信念を抱えたキミの横顔はものすごくかっこよかった。

 ますます好きという気持ちに溢れた。


 恋に溺れた私は、どこまでも愚かで救えない生き物だった。


 *


 どれぐらい時間が経っただろうか――気が付けば眠ってしまっていたようだ。

 目が覚めたら実は全部夢で、滑稽な笑い話で終わっていたらいいのになんて思うけど、そんな上手い話がないなんてことは、馬鹿でもわかる。


 ピコンというスマホの通知音に私は起こされた。

 誰とも話したくない気分なのに、このまま誰にも悟られず消えてしまいたいのに。

 そうやってほのかにイラつきながら、呑気にゴシック体の文字を躍らせるメッセージウインドウを見やる。


「今日、学校休んだって聞いたけど、大丈夫?」


 しいちゃんだった。

 気が付けば時刻は午後四時半――既に放課後だった。

 部屋に引きこもっているうちに学校が始まって終わり、人生初のずる休みは何もすることなく終わった。

 秋の日は釣瓶落としとはよくいったもので、ついこの間まではこの時間帯でも明るかったのに、もう外は暗くなり始めている。

 私が一人悲劇のヒロインを気取っている中、世界はお構いなしに動き続けている。


 世界で最も不要な私の気持ちを放り出して、世界は歩み続ける。 

 いっそ、このまま取り残されて、消えたら楽なのかもしれない。

 このまま誰とも関わることなく、この薄暗い部屋のまま永遠に放り出されたほうが、誰のためにもなるような気がした。


 でも、それはどうしようもなく寂しいことだ。

 みっともない私は、世界につなぎとめられたいと願ってしまう。

 誰かに私を見つけてほしいと欲してしまう。


 目の前に蜘蛛の糸がたらされていた。

 見られることを拒絶し暗闇に染まる部屋の中で、四角い形をした液晶画面がぼんやりとした光を放っている。


 私は迷わず、通話ボタンを押した。

 場違いなほどに明るい通話音が、つい先ほどまで音というものを知らなかった部屋に響き渡る。

 三十秒ほどコールが続いただろうか。


「もしもし? 急に学校休んだって聞いたから心配したよ?」


 しいちゃんの声が聞こえた。

 いつもと変わらない彼女の声を聴いて、私は深く安堵する。

 通話音声はノイズだらけな上に、雑踏のざわついた音やらアナウンスの機械音声やらが聞こえてくる。ちょうど、電車に乗っている途中だったようだ。

 わざわざ私のためにいったん電車を降りて繋いでくれたのだろう――もちろんそうさせたのは私なんだけど。

 その温かさに触れて、スマホを握る手に力がこもる。


「ねえ、私……ずっと邪魔な人間だったみたい」


 突然こんな話、ごめんね。

 今だけはあなたの優しさに甘えさせて。


「え、それってどういう――」

「彼には最初から大切な人がいたの」


 彼女の言葉を遮って私は言葉を続ける。

 今は、ただただ私の抱えているものを、聞いてほしい。


「私は――誰にも望まれない恋をしていたの」


 私の罪が言葉になった瞬間。

 ずっと出なかった涙が、瞳を濡らした。

 一度出た涙は、あとからあとから、まるでずっと蓋をされていた噴水のように、とめどなく湧きだしてくる。

 こぼれた涙はどんどんと溢れてこぼれだし、砂漠のように枯れた頬を濡らしていく。


「聞いてくれてありがとう、それだけ」


 それだけ言って私は通話を切る。

 ただ行き場を失った気持ちを誰かにぶつけたいというだけの、破滅的で暴力的な衝動。

 そんなものに付き合わせてしまって、本当にごめん。

 本当にありがとう――いつか、この埋め合わせ必ずするから。

 通知の鳴りやまないスマホの電源を切って、物言わぬそれをベッドの脇に放り出す。


 再び静寂の戻った部屋で、私は一人立ち尽くす。

 色のない世界が、無色で埋め尽くされる。

 歩みを止めていた私の鼓動が動き出して、身体中を真っ赤な血で染め上げる。

 ずっと閉じ込めていた感情が一気に溢れ出して、手足の先っぽまで真っ黒な悲しみが覆いつくしていく。


 そして――。


「う……うぅっ、うああああああああぁぁあああぁあっっっ!」


 言葉にすることで、私と世界は再びつながる。

 止まった刻は動きはじめ――私の恋は終わりへと走り出す。

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