21日目

 昼休み、進路面談なるものがあった。

 高校に入学してはや半年。我が校では二年生から文理で授業が別れるため、この時期から進路面談と称して将来の希望を聞いていくルールが存在する。

 されどわずか半年。ようやく学校にも慣れてきたかなぐらいの人間に対して、将来のことを決めろというのもハードルが高い。

 ただひとつたしかに言えそうなのは、私は暗記が苦手なので文系は嫌かもしれないということぐらいだった。

 私がそうやって曖昧な態度をとったら、担任教師からぐちぐちと小言を言われたけれど、わからないものはわからないのだから仕方ない。


 そうやって、煮え切らない想いを抱えたまま職員室を後にした私は、出たばかりの廊下でキミとばったり出くす。

 こうして連日会わせてくれるとは、神様もなかなか粋なことをする。


「いま職員室から出てきたところ?」

「うん、そうだけど……キミは?」

「進路面談」

「ふうん、ちょうど入れ替わりなんだ」


 厳密にはクラスが違う以上担任も違うので、入れ替わりという表現は恐らく正しくないのだが、それでも同じタイミングに同じ目的で職員室に呼び出されたことに違いはない。


「ねえ、この後よかったら一緒に食べない?」


 説教をくらった直後というのは、自分の抱えたモヤモヤを吐き出したくなって、無性に誰かと話したくなる。

 それがキミだというならばこんなに嬉しいことはない。


「ああ、構わないよ」


 私の突然の提案に、キミは二つ返事で快諾してくれる。

 まあ、どうせ一緒にご飯食べる友達もいないだろうし、断られるとは思っていなかったけど。


 ――馬鹿にしてるわけじゃないよ。キミへの信頼、すなわち愛情。オーケー?


「よかった――じゃあ、またあの階段の上で」


 前に一度だけお昼を一緒に食べた屋上手前の階段を指定して、私は教室へと戻る。

 僅か数十分の想い出だけれど、私にとっては大切な場所だ――そういえば、あの時も偶然鉢合わせたんだっけ。


 屋上手前のドアに腰掛けてキミを待つ。

 人が通過する以外の機能を期待していないこの場所は、相変わらず、日のあたりが悪く薄暗い。当然エアコンが効いているわけではないため、教室に比べると快適性には劣るが、意外にも窓を開けていれば風通しはよく、また日陰にもなっているため以外にも過ごしやすい。

 何よりも、昼休みという学校全体が落ち着きをなくしざわつくこの時間帯ですら、人通りが一切なく、騒音がないというのが素晴らしい。

 まさに隠れ家と呼ぶにふさわしい空間で、思いのほか気に入っている。


 キミは私がここに来て十分ほど経ってからやってきた。

 片手には例によって総菜パンが一袋だけ握られている――今日はメンチカツのようだ。

 キミは相変わらず、食に頓着がない。日常に執着がないとも言う。


「はい、栄養」


 キミが袋を開けるや否や、私はお弁当に入っていたブロッコリーをパンの中にねじ込んだ。キミはそれを拒絶することもなく受け入れ、ブロッコリーごとパンをかじる。中でどんな味になっているのかよくわからないが、そこそこ噛み応えがあるようで、じっくりと咀嚼している。

 言われるがままに与えたものを食べるキミを見ていると、なんだか餌付けをしているみたいで面白い。

 一応は、私の前で早死にしそうな生活をされると不安になるという要因が大きいのだけど、この感覚がクセになると変な性癖に目覚めてしまいそうで困る。


「もしもし、キミの心はお元気ですか?」

「どうしたの、突然」

「進路面談で、何も決めてませんって正直に言ったらむちゃくちゃ小言を言われて萎えてます」

「あー……」


 図星なことをわざわざ言われることほど、萎えることはない。

 苛立つでも納得するでも不愉快になるでも反省するでもない――ただ、萎えるのだ。


「そのむしゃくしゃをぶつけたくて、キミをここに呼びました。私のストレス発散に付き合うことを命じます」

「理不尽だなあ」


 キミはそう言って苦笑するけれど、心から嫌がってはいないことを私は知っている。

 そうやって、周囲の要求にやんわりと答えていくことがキミの生き方だから。

 そこに喜びも悲しみもないことを私は知っている。

 だから私は今、キミのその生き方に甘えて、利用する――その生き方を内心どう思っているかも知らず。


「まだ遊びたい盛りの一年坊主にそんなことわからないて」


 私は軽口のつもりで言ったんだけど、それを聞いたキミは神妙な顔で頷く。


「実際そのとおりだと思うよ」

「そうなの?」

「心理学の話だけどさ。ちょうど十二歳から十八歳、日本なら中学から高校にかけてをモラトリアム期間って言って。自分の社会における居場所――アイデンティティを確立する時期のことを言うんだ」

「あ、それ何かの雑学系解説動画で聞いたことあるかも」


 雑学系解説動画。それは見るだけで賢くなった気になれる魔法の暇つぶし。

 ただし内容は次の日には忘れている。


「これは普通に倫理の授業でもやってたはずだけど…….。とにかく、エリクソンは思春期は将来を納得して決めるためにトライ・アンド・エラーを繰り返す期間であると定義していて。だから、そのほとんど真ん中にいるはずの十六歳の段階で、曲がりなりにも希望を言えと迫るのは、確かに自分たちで教えておきながら矛盾してるよね」

「そうそう、理不尽だよ理不尽。私、まだ十分に青春しきってないもん」

「希望はあくまで希望、というのは建前としてはあるけどね」

「心の中で思うのと、調査用紙に書くのじゃ全然違うからなあ……ま、結局は従うしかないんだけどさ」


 私はこういう将来を希望をしている人ですと大人向かってに宣言することは結構な重荷だと思う。だからこそ、曖昧にぼやかして逃げたくなる。

 とはいえ、ぼやいたところで何かが変わることを期待しているわけではない。

 文句を吐き出すことで満足して、結局は誰かの決めたレールに従っていく。

 それもまた、大人になるということなのかもしれない。


「そういうキミはどうだったの? 進路面談」

「あっさり終わったよ。僕の場合ははっきりと進路が決まっていたから」

「へえ……いいなあ、どんな進路にするの?」


 あわよくば、同じ進路にしてしまえばいいと思っていた。

 だって、今の私の中で確かに言えそうなアイデンティティはそれだけだから。

 もちろん、そんなこと調査用紙には死んでも書けないけれど――それでまたお説教くらうのもなんだか不条理な話だと思う。


「医者を目指すって決めてるんだ」


 キミの言葉は想像の範疇といえばそうだったかもしれないし、予想外といってもそうだったかもしれない。

 医者。つまりは医学部。

 すごく頭のいい人が行くところ。

 随分と大きなスケールの単語が飛び出してきて脳の理解が追い付かない。

 なので、おそらくはこれを聞いた九割以上が取るであろうものと同じリアクションを取ってしまう。


「すご、頭いいんだ」

「そこまでいい方じゃないよ――だからこそ頑張らなきゃいけないんだけど」


 言われてみれば、成績上位者としてキミの名前を見た記憶はないし、それで噂になっている光景も見たことがない。見ていたらさすがに惚れる前に記憶している。

 とはいえ、十位前後の無難に上位だったとしたら、記憶していなくても不思議はないわけで――。

 でもそんなことよりも私は、そんなキミの実際の頭の出来の話ではなく、それをはっきりと決めていると断言したことの方が気になった。


「どんな目標でも、はっきり目指しているって断言できるのはすごいよ。私なんてこんなふにゃふにゃなのに」


 そういって、私は二の腕をつまむ。

 想像の五倍ぐらいふにゃふにゃだったので焦ったけれど、話に水を差すわけにはいかないので黙っている。


「いや、さっきのモラトリアムの対極にある話だよ」

「どういうこと?」

「面白くもない動機だよって話」


 そう言って、キミはキミ自身について語り始めた。


「うちは厳しいというか――外面をすごく気にする家でね」


 キミの親は簡単に言ってしまえば、すごくコンプレックスが激しい人らしい。

 そこそこ裕福な家に生まれたにも関わらず劣等感の多い人生を送ってきたキミの親は、自らが上流階級という幻想に異様なこだわりを持つようになった。しかし、自分で何をなそうとも惨めな結果にしかないため、その妄執はいつしか息子に対して向けられるようになる。

 だが、上品な習い事や立ち振る舞いでそれを表現するような財力もなかったため、その評価軸は主に"他所様に恥のない生き方をしているか"という減点方式になった。

 だから、キミはおかしいことをしないということを常に求められた。当たり前に勉強をして、当たり前に友達がいて、当たり前に趣味があって――少しでも"普通"の範疇から外れると嫌味を言われ、時には手が出ることもあった。どんな素晴らしいことをなすよりも、ケチがつかないことの方が重要だった。

 友達を連れてくれば、キミの親はその振る舞いの下品さを論評した。何か趣味を始めてみれば、その娯楽の程度の低さについて論評した。何の科目で上位を取っても、平均点より下の科目について何時間も説教を食らった。

 そうして、キミはいつしか文句をつけられない生き方を会得していった。


「本ばかり読んでいるのは、ある種の現実逃避みたいなものだよ。自分ではない誰かのことを考えているのが、僕にとっての癒しなんだ」


 そして、そのコンプレックスが最も向かっていく先が、親が医者という生き物だった。詳しくは語らなかったが、医者に頭を下げる仕事をしているということだった。

 だから、キミは医者になることを求められた。子に、本来あるべきだった自分の姿を体現させようとした。

 それがキミの親の、失われたアイデンティティの拠り所だった。


「あそこに生まれた以上は逆らえない――一応、親だから」


 キミはそう言って苦笑する。

 仕方のないことだと言い聞かせるように。

 でも、私は全然キミが納得していないことを知っている。その心に自我を燻ぶらせていることを知っている。


 キミは不器用な人だ。もっと上手に一般人に擬態する方法なんていくらでもあるはずなのに、中に眠る激しい自我がそれを許さない。

 皆は気付いていないかもしれないけれど、そこには隠すことのできない自分らしさへの渇望があった。

 私は、愚直にポストイットにメモを取る愚直さの中にキミの不器用な擬態を見た。そして、ポストイットを貸したときに見せてくれた、無邪気な笑顔の中に――キミを見つけてしまった。


 やはりキミは愛しい人だ。

 心からそう思う。


 私に何ができるかはわからないけれど、それでも私は、キミがキミらしくいられる拠り所でありたいと思った。

 キミの中にいる子供じみた笑顔を抱きしめたいと思った。

 ――これが私の恋心なのだと、ようやく理解した。


「それならさ、医者にならないっていう選択肢は考えたことはないの?」


 キミの言葉を借りるならば今は最後の猶予期間――モラトリアムである。

 キミは雁字搦めにされた人生の中で何を願ったのだろう。

 閉じ込められた部屋から、たくさん本を通じて覗いた窓の外で、何を夢見たのだろう。

 その疑問が質問となって口をついて出た。


 それを聞いたキミは逡巡して、


「昔はそれも考えたけど……今は、それは全くないよ」


 そう、きっぱりと断った。


 ――その揺るぎない表情を見た瞬間、最悪の予感が頭をよぎった。


 キミを保つアイデンティティ、終着したモラトリアム、そして、医者という職業の役割。


 これ以上先を聞いてはいけない。そう直感した。


 ――だって、この予感が本当に正しかったとしたら、私は――?


 全身が怖気立ち平衡感覚が失われていく。猛烈な吐き気が思考を拒絶する。

 呼吸は荒くなってヒリヒリとした吐息が漏れ出し、細胞という細胞が沸騰したように熱くなって汗を吹き出す。踊り場の空気の蒸し暑さと座っている石段の冷たさが私の感覚を蝕んで気が狂いそうになる。

 

 たった今――時が止まってしまえばいいのに。


 心の底からそう思った。

 どこにいるかも、どんな宗教かもわからない神様に対して、強く強く願う。


 私はもう、これ以上の幸せは望みません。

 キミと二人きりで語らう、この幸せな時間のまま、今すぐ世界が終わっちゃえばいい。

 全部むちゃくちゃになって、取り返しのつかなくなった世界で、虚ろでもいいから笑っていたいです。

 お願いします、お願いします――。


 ――でも、どんなに願っても世界は残酷だった。


 キミの口から、無慈悲に真実が語られる。

 そうして、世界は――私の恋は動き出す。


 光のない終着駅に向かって。


「僕の手で治したい人がいる――僕の大切な人なんだ」

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