16日目
私にとって、土曜日の朝とは午前の十一時から午後の三時ぐらいまでの時間を指している。
むしろ、世間にとってはそれが普通だと思っている。
しかし、今日に限ってはそうではない。
私は八時に目が覚め、即座にカーテンを開けた。
慣れない土曜の朝日は想像以上に眩しく、私の日々の怠惰を洗い流してくれる心地がする。
昨晩は緊張して全く寝付けなかったものの、なんだかんだでトータルの睡眠時間は五時間――まあ、許容範囲だろう。
朝ごはんはトーストと目玉焼き――それは確かに、いつも通りの朝食かもしれない。
だが、そもそも休日に朝ごはんを食べているというだけでも革命だ。
しかも、それだけでは終わらない。
いつもはバターだけ塗ってお茶で流し込んでいるトーストにも、今日はいちごジャ ムを塗った。
そして、飲み物も冷蔵庫の水出し麦茶ではなく、ティーバッグで入れた紅茶に氷を入れてアイスティーにした。
なんと優雅な朝だろうか。
娘の想定外の行動に母も困惑している。
なんといっても、今日はキミとの初デートという、下手をすれば人生で大切かもしれない一日だ。
だからこそ、振り返った時に後悔のないよう、完璧な一日でありたい。
私は一挙手一投足に神経を張り巡らせる。
待ち合わせの時間まで残り四時間。
移動するのに三十分、そして待ち合わせの一時間前に到着することを考えると、まだ二時間半ある。
何度も何度も、服装を確かめる。
夏休みの終わり、近所のモールの入れ替えセールで奇跡の出会いを果たした、品の良い花の刺繍のついたベージュのワンピース。
着てしまうのがもったいなくて、まだ試着以外で袖を通したことのないそれを身にまとう――サイズもぴったり、ダイエットの成果は、多分出てる。
いつも参考にしているインフルエンサーが動画で紹介していた、派手すぎないけれどちょっと大人っぽく見えるピンクブラウンのリップをつける。
眉の形に変なところはないか、鏡とにらめっこして入念に形を整える。
言うまでもなく、私服でキミに会うなんて初めてのことだ。
いつもよりも着飾った私は本当の私じゃないかもしれないけれど、それでもめいっぱい背伸びした私を見てほしいと思う。
自分の部屋じゃ物足りないような気がして、お母さんの部屋にある全身鏡を使って自分の姿を再度確認する――まるで、自分じゃないような錯覚がした。
今日の私は、自分史上一番に可愛い。
待ち合わせは学校の最寄りの駅前広場。
街の規模に比べたら、いささか豪華過ぎる気もする巨大な噴水の前。
私は路線検索で前日から決めていた電車にも乗り遅れることなく、ぴったり時間通りに一時間前に到着した。
当たり前だけど、キミの姿はまだない。
二人して予定の一時間前に到着して偶然鉢合わせたら――なんて展開を妄想しなかったといえば嘘になるけど。そこまではさすがに求め過ぎというものだ。
――キミも本当はちょっとぐらい早くついてくれたら嬉しいけどね。
汗で髪型や化粧が崩れても嫌なので、歩いて三十秒ほどのところにある空調の利いた本屋に入った。
同級生にばったり出会ったらどうしようかと一瞬不安になったけれども、それはそれでキセージジツができるということなので、悪くはないかもしれないと思いなおす。
恒例行事として新刊の漫画のコーナーをフラフラと歩いて、目ぼしい新巻がないことを確認した後、ファッション誌にあるデート必勝法の特集をパラパラと見ながらイメージトレーニングを重ねる。
昨日のうちに何度も調べた内容の焼きなおしで新鮮な発見こそなかったが、復習にはなる。
夜景をバックに今にもキスをしようとしている美男美女のショットに思わず赤面する。もちろん、そこまでは求め過ぎだし期待なんて全然してないけど――してないけど、ね?
やがて、待ち合わせ十分前になったので、駅前の広場に赴く。
まだそこにキミはいなかった。まだ十分前だ。慌てるような時間じゃない。
電車が到着して人の波がやってくるたびにキミのことを探す。前に帰った時、同じ方向の電車だったので、どちらから来るのかはわかっているはずなのだけれど、反対方向の電車から降りてくる客たちの中からもついキミの面影を探してしまう。
そして、待ち合わせ時刻ちょうどに到着する電車でキミはやってきた。
わざわざ調べたのか、それとも偶然なのかはわからないけれど、その律義さがキミらしいと盛り上がってしまう自分が悲しい。
キミは飾り気のない紺のジャケットに黒のインナー、そして藍色のジーンズというシンプルな出で立ちをしていた。カジュアルな普段着を着たキミは、いつも学校で見る学ランをぴしっと決めている姿と比べたら、少し幼く見える。
これがキミの素顔なんだろうか?
私の外見も残念ながら大人っぽいとは程遠いので――ちょっと安心する。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たところ」
下手にプレッシャーを与えず、自然体に。
私がデート必勝法で学んだことだ。
ファミレスに入ってクイズを考える前に、ひとつ、私はキミに作戦を提案しようとしていた。
それはクイズの本を買っていこうというものだ。
実際に売れているクイズ本を参考にすれば、キミが悩んでいた正解の塩梅がわからないという問題は解決される。最悪、本にある問題をアレンジすることでもクイズが作れるし、一石二鳥のアイデアだ。
――ついでに本屋をぐるりと一周して、オススメの本について語るキミを隣で眺めたかったという下心がなくもなくもなくもなくもない。
その提案が喉の入り口まで出かかって、私は気付く。
さっきまで本屋に一時間も入り浸っていたということに。
ただでさえ店員に怪訝な目で見られていたのだ、こいつまた来たよという視線に耐えながら、キミとデートができるほど、私の心臓は強くない。
駅の周辺にある他の本屋に自然に誘導できないかというプランも考えたが――どの本屋も微妙に遠いうえに、私たちが通常本屋と言ったら学校への通り道に隣接しているあの本屋以外にありえないので、現実的ではない。
私は泣く泣く、楽しみにしていた本屋デートプランを諦め、さっさとファミレスに向かうのだった。
完璧な一日を送るはずが、急な予定変更によって狂ってしまったが、それならばここから挽回するしかないのだ。
山盛りフライドポテトとドリンクバーを注文して四人掛けのゆったりとしたテーブルに腰掛ける。
休日の昼間の割に意外に繁盛していないようで、全体を見渡しても半分ぐらいの席しか埋まっていない。
子供が走り回っているということもないし、ほどよい喧騒がいいムードを作り出している。
――ムードという表現が正しいのかはわからないけれど、私にとってはこれが大事なムードなんだよ。
目の前にキミが座っているという現実にまだ身体がついていっている感覚がしない。
他の誰も知り合いのいない空間で、私たちは二人だけの時を過ごしている。
日常という空間の中で、知らない人々が生み出す喧騒に取り囲まれながら、私とキミだけは隔絶されている。
キミはまるでそれが日常と言わんばかりに、リラックスした態度でぼんやりと窓の外を眺めている。
この特別さ、わかっているのかな――わかってないんだろうな。
クイズ作成は思ったよりも順調に進んだ。
というのも、キミが前もってリングノートにびっしりと問題の候補を書いてきてくれたのだ。
好きな人のノートを見る機会というのは、おそらくありそうで滅多にないことなんじゃないかと思う。キミが普段使っているノートに、キミが普段使っているシャープペンシルで、キミの几帳面な字が並べられている。キミの日常をシェアしてもらっているという特別感に、私は酔いしれる。
「……で、この問題だけど」
ノートに見とれている私を尻目に、キミはクイズ作りの話を進める。
正直、問題としては十分なクオリティで、それを並べるだけでクイズとしては完成しそうなように見えたが、わざわざ呼び出しているのに何もしないわけにはいかない。
それっぽい理由で私は「難しそう」や「面白いね」などの無難な感想を述べていき、キミはそれを熱心にメモして修正を加えていくのだった。
真剣にクイズと向き合っているキミの姿は――なんというか、可愛かった。
私の意見ひとつでキミの表情が変わって、あくせくとノートに書きこみを始める姿が、なんだか犬みたいだと思った。
きっと、私が内心こんなことを考えているなんて、キミは想像もしていなかっただろう。
「ありがとう。すごく参考になったよ」
結局、キミの事前準備のせいで――おかげで、作業は一時間ほどで終わった。
キミは大きく伸びをした後、伝票をレジに持っていって清算を始めた。慌てた私は、飲み賭けだったメロンソーダを飲みほして、後をついていく。
そして、店員のありがとうございましたの言葉を背に聞きながら、私たちは隣り合って駅まで歩いている。
つまり、このまま黙っていれば今日のデートは終了してしまう。
そんなの嫌だった。
だって、まだクイズ作りしかしていない。
もっとキミのいろんな表情が見たい。
キミが喜んでくれることをもっと知りたい。
自慢のワンピースを着て、キミの隣に寄り添って歩きたい。
キミの生きている日常の風をもっと感じたい。
――キミと同じ一日を過ごしたんだと言いたい。
「ねえ――このあと時間あったら、少し寄り道していかない?」
キミは嫌な顔一つせず受けてくれた――躊躇も緊張も恥じらいも、何ひとつなく。
商店街を一緒に歩いた。
入荷したての新作の秋服を見て、買う気もないのに羨む私を、キミは笑って見てくれた。
ペットショップで愛くるしい顔をこちらに向けてくる犬や猫に癒されている私を、キミは笑って見てくれた。
楽器屋でうっかり押した電子ピアノの自動演奏にびっくりする私を、キミは笑って見てくれた。
CDショップで密かに推しているスリーピースバンドの魅力について熱弁する私を、キミは笑って見てくれた。
他にもいろんなところに行った。
キミは本屋――さっきとは別の本屋――で読んだ本の感想を楽しそうに語ってくれた。
ゲームセンターで私が欲しがったクレーンゲームに陳列された不細工なマスコットのクッションを、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら一緒に挑戦してくれた。
ゴテゴテした派手な装飾の屋台で、クレープを一緒に食べた。店主にカップルとからかわれたけれど、キミは涼しい顔でそういうのじゃないですからと断った。
いっぱい、いっぱい、遊んだ。
間違いなく、私とキミは最高の一日を過ごした。
――とても、楽しい、一日だった。
「今日はありがとうね、楽しかった」
「僕も楽しかったよ――じゃあ、また学校で」
「うん――またね」
帰りは同じ電車に乗って、私が先に降りていく。
二三の短い挨拶を交わすと、自動ドアが無慈悲にプシューという音を立てて私とキミの間に壁を作る。
私が惜しむように手を振ると、キミはそれに気付いてひらひらと手を振って――カバンから本を取り出した。
遠ざかる電車を見ながら、私は立ち尽くす。
キミの乗った電車は段々と小さくなっていき、夕日の向こうへと遠ざかっていった。
不意に、涙が流れた。
おかしいな。
今日は最高に楽しい一日だったのに。
今日の私は間違いなく一番可愛かったのに。
今日で私とキミの仲は深まったはずなのに。
本屋のミスこそあったけれど――それでも文句なしのデートだったと、胸を張って言えるはずなのに。
流れる涙が頬をつたり、ぽたりぽたりと駅のホームのコンクリートに黒いシミを作る。
キミにとって、今日という一日は、当たり前の今日のひとつだった。
きっと、私が感じた緊張もときめきも喜びも苦しみも興奮も――その半分も、キミは知らない。
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