13日目


 昼休み。

 私はしいちゃんに誘われて中庭でご飯を食べていた。

 屋外とはいえ、日除けが直射日光を抑制してくれるのと、近くに池や噴水など水場がある恩恵もあって、残暑が続く九月でも意外と居心地がよい。

 やっぱり屋上は人が過ごすのに向いていなかった。この快適さを知ったうえでわざわざ屋上に行くやつは全員馬鹿だ。


 しいちゃんとは、あれから結構親しくしている。

 連絡席も交換しており、時々夜中にメッセージが飛んでくることがある。彼女は結構なボーカロイドマニアで、話題の新曲情報を共有してくれる。

 私もマニアという程じゃないけど人並みには音楽好きなので、知らない名曲に出会うのは楽しい。普段聞かないようなタイプの曲もあって、彼女のオススメする楽曲は新鮮な気持ちにさせてくれる。

 元をたどれば、キミに会うための出汁として教科書を借りにいったことがきっかけだと思うと、縁というのは不思議なものだ。


 しいちゃんのお弁当はごましおの乗ったご飯にレンコンとかしいたけとかが入った煮物。それと肉団子。別の小箱にはキウイやさくらんぼが入っていたり、味噌汁の入ったポットがあったりと何かとパーツが多い。

 一方の私のお弁当は、ふりかけご飯と焼き鮭とほうれん草のおひたし。それと、父の出張先の土産であるよくわかんない煮干しみたいなやつ。

 お弁当にはそれぞれの生活が詰まっている感じがして、見比べるだけで楽しい。


 私たちはイヤホンをシェアして、しいちゃんが最近ハマっているという気鋭のボカロPの楽曲を聴きながら、口々に感想を語り合う。ちなみに、しいちゃんは特別誰かの曲を推しているというよりかは、幅広いジャンルの曲を聴くタイプだそうだ。おかげで、切ないバラードからバチバチの電波系まで、幅広い曲を選んでくる。

 お返しというほどではないけれど、私も最近密かに推しているまだ結成四年目のスリーピースバンドの曲をシェアする。人気のCMソングのオススメのオススメで表示されたのが出会いで、そのけだるげだけど前向きな音楽を初めて聴いた瞬間、射抜かれてしまったのだ。


 そうやってお互いの好きな曲の話題で盛り上がっている最中、


「そういえば、彼とは進んだの?」


 突然そう聞かれたせいで、お茶を吹き出しかけた。

 本来は食堂に流れこむはずだった水出しの麦茶が、あらぬ穴という穴に入ってむせかえる。

 体感にしておよそ一分――でもおそらく実際は十秒程度――咳き込んで、ようやく正気に戻った私は、


「なぜそのことを!?」


と、三流の悪役みたいに叫んでしまった。

 しいちゃんは私の死ぬんじゃないかと言わんばかりのオーバーリアクションに困惑するも、


「さすがにわかるよ。今日もずっと彼の話題切り出そうとソワソワしてるし」

「うっ……!」

「それに前にうちのクラスに来た時、ずっとチラチラと彼の方見てたし」

「ううぅぅっ……!」

「何より、面識もほとんどない相手の恋愛関係なんて、普通いきなり聞いてこないし」

「もうやめて……っ! 私の負けだから! 負けでいいからぁっ!」


 これ以上の恥辱には耐えられそうにない。

 まさか、ここまで筒抜けだったとは。

 これまで懸命に好意を隠してきたつもりだったのがバカみたいだ。


「じゃあやっぱり……」

「うん…………好き、だよ……」


 この言葉を絞り出す前に、空気がカビたかのような長い沈黙があった。

 肺が思うように息を吸ってくれず、鉄の塊を吐き出すような心持ちでその言葉を口にした。

 それほどまでに、この言葉を誰かに向かって発声するというのは重たいものだった。


 初めて、自分以外の人間に好意を明らかにした、と思う。

 少なくとも、自分の口から「好き」という単語を発するのは初めてのはずだ。

 だって――それを口にしてしまうのが怖かったから。


 私の中の好きが、世間一般のいう好きと同じなのかはわからない。

 もしかしたら恋と呼ぶには不十分なものかもしれない。不完全なものかもしれない。

 あくまで恋愛ごっこ遊びをしているだけなのではないかという不安は、私の意識の底で常に波を打っていた。

 それでも、心の中にしまい込んでいるうちは問題がなかった。

 私は私の思う好きの形と戯れているだけでよかった。キミの側で形の見えない好意に憧れながら、これは密かな夢に過ぎないからといつでも言い訳をして逃げることができた。

 私だけの「好き」という宇宙に酔っていられた。


 でも、言葉として外の世界に放り出されたら、そのままではいられない。

 ふわふわと存在していた霧のように曖昧だった私の恋は、「好き」というガラスの器に閉じ込められる。

 私の気持ちは、もう夢では済まされなくなってしまう。


 しいちゃんは隠れる穴を探そうと目を泳がせている私の様子を愉快そうに頬を釣り上げながら眺めている。


「面白いなあ、なんでそんな自信なさげなの」

「だって、ほら……私なんかが、彼を好きになっていいのかなって」

「え、別に彼、そんなモテるタイプじゃないし、気にしなくてよくない?」

「おい、口を慎め」


 そうこうして、彼女にせっつかれるがままに、たどたどしくしいちゃんにこれまでのことを話し始める。

 キミを好きになった日のこと、そして今日にいたるまでの亀よりも遅く先の見えない道のりのことを、少しずつ。


「へー、むっちゃ好きじゃん!」

「そうかな?」

「そうだよ」

「やっぱり変じゃないかな。たかがポストイットをもらったぐらいで、好きになっちゃいましたなんて」

「うーん、そんなものじゃないかなあ」

「えっ?」


 彼女のそっけない反応に肩透かしを食らう。

 もっと笑われるんじゃないかって、勝手に思っていた。


「ねえ、覚えてる? 中学の時のこと」


 しいちゃんは内緒話を打ち明けるように、周囲に聞こえないよう耳打ちの姿勢で私に囁きかける。


「私、中三の時、教育実習でやってきた先生に熱を上げていてさ。大人っぽい仕草とか声とか、自信に満ちた喋り方とか、周りの男子とは違うなあって、ちょっとカッコいいなあって――ほんとそれだけ。いま思うと、子供っぽい憧れだったのかもしれないけどさ」


 私のすぐ側の席で、そんな恋物語が繰り広げられていたとは知らなかった。

 もしかしたら周知の事実だったのかもしれないが、少なくとも当時鈍感だった私には寝耳に水だ。


「それで実習の最終日に告白しようとして……私なりに身だしなみは完璧にしたつもりだったんだけど、いざ告白するぞってなった時、上履きに習字の時間にできた墨汁のシミがあるのを見つけて――ほら、あの時、上履き貸してくれたでしょ」


 彼女の言葉でようやく経緯を思い出す。

 放課後、玄関ホールで帰ろうとしていた矢先に、突然彼女がやってきて上履きを貸してと懇願されたのだ。

 あまりの剣幕に気圧され、言われるがままに右の上履きだけを貸したが――あれにまさかこんなバックストーリーがあったとは。


「さすがに、告白のこと知ってる友達に頼むのは恥ずかしくて……むちゃくちゃだって思う?」

「まあ、むちゃくちゃではあるね」

「だよねえ」


 しいちゃんは呆れたように舌を見せる。

 たしかに、むちゃくちゃではあると思う。

 でも、今の私ならきっと――同じことをする。


「でも、人が人を好きになるって、その程度のことなんじゃないかな――ある時、ふとした瞬間、あ、この人じゃなきゃダメだなって直感するの。たったそれだけのことなのに、そんなわけのわからないことをするぐらい、おかしくなっちゃうの」


 心当たりは無限にある。

 自分が自分じゃないような、でもそれでいて間違いなく自分のものであるような感覚。

 とても愛おしくて、切なくて、苦しくて、痛くて、暴力的で。

 私の中にいるコレのことを、ちゃんと「好き」と呼んでもよいのだろうか。


「あの時、上履きを貸してくれたことが、私の背中を押したんだよ」

「いや……何も大したことはしてないと思うけど」


 何しろ、今日の今日まで彼女の背景事情も知らなかった。

 ただ、言われるがままに上履きを貸しただけなのだから。


「それでも、そんなわけわかんないことを認めてくれる人がいるってことが、私の中ですごく力になったの――ま、結果は駄目だったけどさ」


 しいちゃんは自嘲気味に笑う。

 そして、私の手を握って、熱を込めて、


「――だから今度は私の番。私にあなたの恋を応援させて」


 その言葉を聞いて、不意に私の頬を涙がつたう。

 またも想定外のオーバーリアクションに戸惑ったしいちゃんが色々フォローを入れてくれるけど、その言葉は耳に入らない。


「好き」


 確かめるように、そして噛みしめるように言葉を紡ぐ。

 ずっと引け目があった。

 本当にキミを好きですと言っていいのかって。

 私の不完全な恋でキミを穢しているんじゃないかって。

 そんな不確かなもので前に進んで、迷惑じゃないかって。

 でも、その気持ちを「好き」だと認めて、応援してくれる人がいた。


「好き」


 私の心にふわふわと浮かんでいたピンク色の液体が、「好き」という器に注がれて形を得ていく。

 器の隅々まで気持ちが行き渡り――はみ出ていた何かは消えていなくなる。

 もう、実体を得たこの気持ちは揺らがない。

 質量を得た私の想いは――もう止まらない。


 だから、あらためて言うよ。


「私は――キミのことが、好き」

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