12日目

 昼休み。

 私は延滞した図書を返却しに図書室に向かっていた。

 四月、高校へ入学したばかりで新生活へのやる気に満ち溢れていた私は、せっかくだし課題図書のひとつでも読破してやろうと、ハムレット全巻セットを一気に借りたのだった。

 そして――現在に至る。


 その間に何があったのかって?

 言うまでもない。何もなかったんだよ。


 わざわざこのために、スクールカバンの限られた隙間にぎっちりと重い本を三冊も詰めてきた。ようやくその肩の荷が下りた。

 これを運ぶのが嫌だったから、図書委員からの督促状が十四通を数える今の今まで先延ばしにしていたともいえる。

 全ては、若かりし頃の私が悪い。


 おそらく、献本以来、多くの時を新入生の机の上で開かれることなく埃をかぶって過ごしたであろうハムレットたちを返却し、図書委員に迷惑そうな顔でスタンプを押してもらった私は、さっさと図書室を後にしようとする。

 これで今日の大仕事は終わったと思った矢先のことだった。


 私はキミと鉢合わせた。


 ついこの間まですれ違うことすら難しかったのに、こんな幸運あっていいのだろうか。もしかしたら明日にでも私は車に引かれて異世界に飛ばされるのかもしれない。

 ただ会うだけのことにこれだけの感動をしている自分が少し悲しくなった。

 いずれにせよ、私は既にキミとの面識は十分にあるはずだし雑談ぐらいはしても罰は当たらないはずだ。


「奇遇だね。キミも何か本を借りてたの?」


 そう尋ねると、キミは黙って脇に抱えていた本を手に取ってこちらに見せる。

 文庫本サイズのくたびれた表紙に、ややかすれた文字でタイトルだけが書かれている。タイトルは『夜と霧』……なんだか難しそうな本だ。


「なんかすごいの読んでる」

「名著って言われる本、今のうちに読んでおきたくて」


 そうキミは涼しい顔で語る。

 こんな本を読みたくなるなんて、どうも自分が生きてきた世界とは違うところからやってきたらしい。

 今のうちにという表現がやや引っかかったが、そんな細かい言葉にいちいち突っかかれるほどなんでもできる関係ではないのでスルーする。


「ねえ」


 それよりも、天が味方してくれた今が千載一遇のチャンスだ。

 私は持てる勇気を振り絞ってキミを呼び止めた。

 その後続く言葉を想像するだけで、全身から汗が一斉にドバっと噴き出して、血流が洗濯機のようにぐるぐると渦巻く。

 こっちを見てほしいけれども、今はあまり見てほしくない。

 ――あとで汗、全部拭かないと。


「せっかくだからさ……お昼、一緒にどうかな」


 古来より人は食事を共にすることで親交を温めるという。

 食事という、動物としては最も無防備になる瞬間を共有することによって、お互いに害はないということを確認するのだとか。

 食事中を襲われるなんて時代劇じゃあるまいし、そんな獣じみた本能が人間にも残っていることも不思議な話だが、そういう単純なメカニズムだからこそ案外馬鹿にならない。お姉ちゃんだって、彼氏を獲得するために何度失敗しても辛抱強くご飯に誘っていたことを思い出す。

 愛というのものが本能的な衝動であることを思えば、それはそこまで悪い選択肢ではないように思えた。

 もしキミに、無防備な姿を一切晒せないというレベルまで警戒されているのだとしたら――その時は泣く。適当にそこら辺にいる人に慰めてもらうことにするよ。


「別にいいよ」


 そんな私のいちいち考えすぎな心配は無事杞憂となった。キミは私の誘いを快く承諾してくれた。

 本当ならば叫びたい気分だった。でも、そこまでしたらキミのことが好きすぎるのがバレるのでそういうわけにもいかない。

 何より、私は嬉しさのあまり飛び跳ねないようにすることに必死だった。

 ほら、いま汗すごいから。匂いとかしたら嫌だし。


 愛というものが本能的な衝動であるといえど、現代社会に生まれた私たちはもっと理性的に恋愛をすることが求められている。

 それはなんだかすごく不合理なことのように思えた。


 かくして、私たちは屋上で合流することとなった。


 私は図書室の本をえっちらおっちらと運ぶのがダサいという子供じみた理由でカバンごと携行していた。そのため、屋上に直行することができる。

 一方でキミのお昼ご飯は、前見た時と同じように購買で買った総菜パンだということで、購買によってから屋上に来てくれるらしい。

 その前に、ちゃんと身だしなみは整えておかないと――。

 さっきの汗とか……大丈夫だよね?


 そうして、私は屋上に一番乗りをした。

 校舎の屋上には初めてやってきたが、自分が思っていた以上に人気がなかった――というか、私しかいなかった。

 屋上で二人きり……というシチュエーションは恋愛ドラマの鉄板だと思っていたが、それがゆえに不可能だろうと諦めていた。

 何しろ、我が校は併せて数百人と生徒がいるのだ。そのため屋上需要は高騰しており、青春したいだけの盛った犬たちが集結してごった返している――そう信じていた。そのため、私はこの空間にこれまで近付くことを避けていた。

 しかし、現実問題として屋上には私しかいない。

 緑色に塗装された剥き出しのコンクリートが私を包み込む。

 この広くて何もない空間を、これから私はキミと二人きりで独占する。


 遥か下界、中庭の方から昼休みを謳歌する生徒たちの喧騒が聞こえる。

 ところどころ塗装の禿げたフェンスが私と外の空間を隔絶する。

 それは展望台のようでもあり、牢獄のようでもあった。いずれにせよ、悪い気分はしない。


 地上に比べてひときわ高い屋上は風が心地よい――と言いたいところだが、少々風が強すぎる。

 風の出どころのほうを見ると、近くのマンションとマンションの隙間がいい具合に風を強めていることがわかった。さらに言えば、集合住宅の一面を埋め尽くす室外機たちが生温かい風を送り込んできている。

 これらの高層建築はいずれも太陽の反対側にあり、残暑真っ盛りのジリジリした日差しを遮るどころか反射して照り焼きにしてくる。


 ――ああ、無理だ。


 直感的に悟った。

 ここは人が存在していい空間ではない。

 屋上は所詮屋上。人がいないのには理由がある。

 どうやら、我が校の設計者には放課後の屋上というロマンスは理解できなかったらしい。

 せっかくさっき拭いた汗が再び全身を舐めるように覆いつくしていく。


 かくして、私は屋上手前の入り口でキミを待ち構えた。

 ほんのりと温かいアルミサッシのドアを背もたれにして、照明も窓もなく暗い階段の頂に腰掛ける。


 今までずっとキミを追いかける側だったから、キミを待つという行為が不思議に感じる。

 ここに座っているだけで、キミが私の所に来てくれるのだ――私のためだけに。

 おかえりなさい……なんて言葉をシミュレーションして勝手に顔が真っ赤になる。


 ほどなくしてキミはやってきた。

 コロッケパンの袋を右手にぶら下げながら。


「やあ」


 極力平静を装って片手を振ると、キミはパンを持ったままの右手を持ち上げる。

 こういう何気ない不格好な仕草も好きだなあとしみじみ思う。


 私は膝の上にお弁当を広げる。

 キミは隣に座って景気の良い音を立てながらコロッケパンの包装を開封する。

 すぐ隣にキミがいる。昨日よりもまた一段と近くにキミがいる。ちょうど人半分くらいの隙間を挟んで、キミがそこにいる。

 これが食事の効果というやつなのだろうか。

 今度は手を伸ばせば手をつなぐことができそうだ。もっと言えば、髪の毛にも触れるし、ほっぺをツンとすることもできる。

 まだちょっと距離が足りない気もするが、身体を傾ければ肩を預けることもできるんじゃないだろうか。

 悲しくも文明に縛られた私にそれはできないけれど。


 今日のおかずは冷凍のハンバーグと昨日のムニエルの付け合わせの残りであるゆでたキャベツ。それと、プチトマトが二つ。

 私は人間が正規の方法で調理したら絶対に出すことのできなさそうな、冷凍ハンバーグのパサっとして噛み応えのない食感が好きだ。

 キミはというとコロッケパンを頬張っている。ソースが染みてくたくたになった衣が油で鈍く光っている。食べたことがないけれど、至近距離で見るとなるほど食欲をそそられる。


「本、好きなんだ」

「うん、昔から。自分の知らない世界を見られるのが楽しくて」

「わかる。私も本を読んで異国のロマンスに憧れたりしちゃうし……ほら、ハムレットとか」

「ハムレット……?」


 何かが違うのはわかっているんだ。

 思い返すだけで恥ずかしくなるから、どうか私の虚勢には目を瞑ってほしい。


「前に教室に行ったときも、一人で黙々と何か読んでたよね」

「見てたの? 改めて指摘されるとなんだか恥ずかしいな」

「私は本読む人いいとすごいと思うけどな。   頭、良さそうだし」


 なんて頭悪そうなアピールだろうかと、自分で自分を問い詰める。それでも、なんとかキミの心に近付きたいのだ。

 どうか、顔が真っ赤でうまく言葉が出てこないということにしてほしい。

 背中に張り付いてる屋上の扉がより一層熱を帯びた気がする。

 それでもキミは、そんな私のことなど意にも介さずもいった様子で、


「別に頭は良くないよ」

「それでも全然読んでない私みたいなのとは全然違うって」

「そうかな……もしかしたら、僕は背伸びをしたがっているだけかもしれないね」


 そう言って、キミは顔を持ち上げどこか遠くを見る。

 すぐ隣にいるのに、まるでキミの心はここではないどこかにあるようだった。

 キミは一体、背伸びをしてどこへ行こうというのだろう。私なら、ここにいるのに。


 私を置いていかないで――。

 本能的に、そう思った。


 不条理と思うかもしれない。

 でも、先ほどまでの蒸し暑さはどこへやら。私の心は真冬のような吹き込む寒さに襲われた。

 キミに触れたい。キミと私を繋ぐ確かなものがほしい。

 理不尽な直感をかき消したくて、私はキミのコロッケパンに、お弁当箱からプチトマトを取り出してねじこんだ。


「ご褒美。いつも頑張ってるから――栄養失調にならないように」


 困惑した顔でキミは私を見つめ、呆れた顔でトマトが埋め込まれたコロッケパンをかじる。

 それは、私が送れる最大限の愛であり――精一杯の絆だった。

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