11日目
今日の晩御飯は鮭のムニエル。
実を言うと、ムニエルっていう言葉の意味は知らない。
ソテーとかグリルなら、色んな食材のそれを拝むことがあるので、その共通点を思い浮かべればどんな料理のことを指すのかなんとなくは、わかる。
でも、ムニエルにはそれがない。私は他の食材がムニエルになっているところを知らない。
鮭を焼くどのプロセスでムニエルがムニエルになっているのか、作り方も知らない私には想像もできない。
ただ、鮭のムニエルという結果だけがそこにあり――私はそれを食す。
今日は初めての本格的な作業があった。
放課後呼び集められた私たちは早速装飾作りに取りかかる。
私たち一年坊が作るのは、ゲートやオブジェといったいわゆる花型のデカブツではない。
今年の装飾係リーダーこと鎌倉大仏がやたら気合を入れているらしく、廊下や階段、中庭などあらゆる場所にバルーンアーチなど空をイメージした装飾をつける予定となっている。
とはいえ、風船などスペースを取るようなものはひとまず後回しで、手始めに廊下や階段につける垂れ幕を作ることになる。
設計図なんてものはないので、ある程度はこちらのセンスで製作をすることになるし、時間が余ったら、よほど変なものでない限りは、独自の装飾を作ってもいいらしい。
ひたすら単調作業だと飽きるので、個人的には遊べる余白がある方がありがたい。
そうは言っても、基本は単調作業だ。
私たちは、数百枚と印刷された文化祭のロゴが印刷された水色の紙を、青色のビニール紐に青いビニールテープで貼り付けていく。安直なまでの青一色だ。
ビニールテープは剥がすのも切るのも貼るのも文明の香りをあまり感じないので好きではない。
私が微妙な貼り間違いを直そうと苦戦している中、キミは淡々と作業をこなしていく。
超絶キレイというわけではない。少しずつ間隔が開いていたりと、雑なところが見受けられる。
それでも、キミの動作が揺らぐことはない。ただそれが当たり前と言わんばかりに表情ひとつ変えずに青い紙と青い紐をくっつけていく。
この顔なんだよなあって、しみじみ思う。
結果、今日の作業は一時間ほどで終わった。
別クラスの坊主の男子が驚くべき器用さを披露し、想像していた半分程度の時間で作業が完了したのだ。
他のメンバーも卒なくノルマをこなし、全体としてみれば極めて優秀なチームだったと言ってよい。
私はというと、作った横断幕の長さは他の人の三分の二程度で……ようはダメダメだった。
見惚れるという重要ミッションがあったのだから、仕方ない。
流れで解散となる前に、中庭でジュースでも飲みながらおしゃべりしないかと提案した。ギャルと坊主が快諾してくれたことで、私たちは四人で休憩する流れとなった。
たったこれだけの提案だが、自分なりに精一杯の勇気を出した。
僅かこれだけのことに、どれだけ私の喉がカラカラになったか、他の皆は想像もしていないだろう。もちろん、別に認知してもらう必要はないのだけれど。
それはもう緊張した。これから買う飲み物を、お気に入りの甘ったるいメロンソーダから、五百ミリリットルたっぷり入ったスポーツドリンクに変えてしまうほどに。
一方、キミはコーヒー牛乳の紙パックを買っていた。
器用に片手でストローの包装を破って、銀色の蓋にストローを挿し込む姿にキュンとくる。
こんなことにすらときめく、私の感情のネジはもうバカになっているかもしれない。
クラスは違うというのはそれだけでも話題のタネになる。
私たち四人は、中庭の丸太を横にしただけの簡素なベンチに腰掛けながら、共通の知り合いや教師の噂話で盛り上がる。
緊張で肋骨を飛び越えて心臓が爆発しそうだったが、思ったよりも普通の会話ができたと思う。
しいちゃんが語っていた通り、キミは人と話さないというほどではなかった。
でも――それだけという感じがした。
ほどよく話題に乗り、ほどよくリアクションを取り、ほどよく愛想笑いをする。
誰の目から見ても、私たちは仲睦まじく談笑していたことだろう。キミという存在も、仲良しの男女グループを彩る一角でしかない。
それでも、私にはキミという存在がとても遠く感じて仕方なかった。
約十分ほどだべっていただろうか――ジュースを飲みほしてしまった私たちは流れで解散となる。
本当はまだ一緒にいたい。もっと寄り道をしたいと思ったけど、今の私がそれを頼むのは図々しい気がして勇気が出せない。
何より、このまま四人でどこへ行こうと、キミを捕まえられる気がしなかった。
しかし、そこで奇跡が起きた。
私とキミだけが返る電車が一緒だったのだ。
坊主は徒歩通学なので校門で別の道を行き、ギャルは反対方向の電車に乗って帰路についた。
私たちは二人きりになって駅のホームに立ち尽くす。
部活が終わるには中途半端な時間帯ということもあり、今この空間にいる制服を着た人間は私たちしかいなかった。
次の電車を待つだけの簡素な空間をからかっているかのように風が吹き付ける。夕焼けというにはまだ高い日差しがキミを照らす。
ジリジリと焼くような残暑の日差しを浴びているキミは、特に何かを語ることもなく、電車のやって来る方を眺めている。
「今日の作業、私はずっと苦戦してたのに、キミは顔色ひとつ変えないでテキパキとやっていたから、ちょっと感動しちゃった」
私が率直な感想を告げると、キミは
「単純作業が好きなんだ」
と笑う。
「それは……自分だけの世界に入れるから?」
と聞けば、
「考え事は嫌いなんだ」
と答える。
そして、再び私たちの間には沈黙が横たわる。
さっきの四人での談笑と同じだと感じた。
キミは私を拒絶しない。これからも、私が話しかければ答えてくれるだろうし、友人の一人になることはできるだろうと直感した。
でもキミの回答――あるいはキミという存在――には掴みどころがない。
まるっきりの拒絶というわけではない。でも、何かを掴めたようで掴めないような、あるいはそれ以上を掴ませないような、有無を言わさぬ線引きがある。
だからこそ――捕まえたいと願う。捕まえて、抱きしめて、二度と逃げ出さないようたっぷりとキスを浴びせたくなる。
こんなことを気にするのは私だけなのだろうか。
私がキミに惚れているからからそう見えるのかもしれないし、そう見えるからキミに惚れたのかもしれない。
どちらが先か……私にとっては同じことのように思えた。
「やっと、二人きりになれたね」
なんて言えたらどんなにロマンチックだろうか。
でも、知り合ったばかりの委員会が同じだけの人間にそんなことを言われたら、誰だって怖い。
なりふり構わず色目を使う気味の悪い女と思われるのが関の山だ。
隣の女がそんな危ない魔女であると知ったら、キミはようやく表情を見せてくれるのだろうか?
キミの手はチリチリと陽炎が揺らぐ動きに合わせるかのように、ぶらりと肩から下がって揺れている。
あと少し手を伸ばせば、キミの手に触れられそうだ――でも、掴めたとしてもおそらくはギリギリ制服の裾が精一杯だと思う。
キミと手を繋ぐには、あと一歩、キミの側に歩み寄る必要がある。
この一歩が遠い。
距離がもどかしい。
アキレスと亀という話を思い出す。
確か、中学の時に数学の先生が教えてくれた逸話だ。
どれだけアキレスが亀を追いかけてもアキレスは亀に追いつけない。
なぜなら、アキレスが亀のいた場所に立つたびに、亀はその一歩先を行っているから。
私はアキレスの気分だった。私がキミに近付けば近付くほど、その僅か一歩を縮めるための距離が長くなっていく。
――ねえ、知ってる?
私はキミを追いかけて、ここまで来たんだよ。
あと一歩で手をつなげる距離までやってきたよ。
でも、なんでキミは一歩先にいるのかな。
さっさと捕まって、死ぬほど愛されちゃえばいいのに。
いつまでも、逃げてないふりなんてしないで……さ。
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