7日目
昨日の進展はあまりに出来過ぎているように思えた。
つい二日前まで、私はキミの顔と名前しか知らず、せいぜい後姿を見ることしかできなかったというのに。
気が付けば、文化祭までの期間、何度も顔を合わせることが確定している。
浮足立った私は、朝、焼きたてのトーストにピーナッツバターでキミの名前を書いた。
何やってんの? という姉の言葉で我にかえって、慌ててバターナイフで肌色のクリームの一群を押し潰す。
ギリギリ見られていないと思うけど――キミの名前をナイフでぐちゃぐちゃにした罪悪感が私を支配する。
そんな私を見て、母が頭でも打ってたの? と私に身体的外傷がないか心配してくる。
そこはベタに「好きな人でもできた?」って聞いてくれてもいいんだよ。教えないけど。
毎朝食べているはずのピーナッツバタートーストは、いつもよりしつこい甘さがした。
昼休み、浮き足立った私は、その足でしいちゃんに会いに行った。
しいちゃんのいる教室に入ったとき、当然だけれども廊下側の壁に密着した席にキミがいた。いつもと変わらない学ランを着てそこに座っていた。
昼休みの初めだからだろうか。まだ机の上に勉強道具が残っている。前回教室に入った時ともまた違う、別の側面の日常のキミだ。
思わずひらひらと手を振ってみる。すると、キミはこちらに気付いて、軽く手を持ち上げる。
簡易的な挨拶のつもりだろうか。
その瞬間、全身を恐怖が駆け巡って、私は思わずうつむいた。
もう、ただの他人ではない。
同じ委員会の同じ係になった者同士。
昨日、よろしくという言葉を交わした者同士。
私とキミは「知人」の領域にステップアップしつつある。
最早、キミはただの額縁の中にいる憧れの存在ではない。同じヒトとヒト、肉の塊だ。そのような実感が鉛のように私の中にのしかかってくる。
これまでは、ただキミのことを遠くから眺めるだけだった。しかし、今日からは違う。
私自身もキミに見られてしまう。
私は本当に今、見る価値のあるような存在なのだろうか?
髪型はちゃんと決まっているだろうか? 制服に変な汚れとかついていないだろうか? きちんと鏡の前で練習した表情を作ることはできているだろうか?
とめどない不安要素が次から次へと流れ出してくる。
教室から逃げ出してしまいたい――心からそう思った。
それでも、今更引き返すわけにもいかない。
私は緊張で震える足を一歩、また一歩と前へ運びながらしいちゃんのもとへとたどり着く。
しいちゃんは嫌な顔一つせず、私と一緒に席を囲んでくれた。
彼女は見た目こそ昔よりさっぱりしているものの、あくまで消極的でおとなしい子だ。たしか、当時はナントカって深夜アニメにハマっていた記憶があるけど、今はどうなのだろう。
実は中学の時は、しいちゃんは私とは全く別のグループに所属していたため、中学時代の彼女のことについては、あまり知らない。上履きを貸したことこそあれど、それ意外の思い出はあまりないのだ。
我が高校において、同じ中学の出身者は私としいちゃんと、あと本当に接点のない男子が一人いるぐらいだったりする。いっそ全くの他人だったのなら、それをきっかけに交流を持てばいいのだが、なまじ中途半端に接点があるせいで、逆に声をかけにくくて、今の今まで引っ張ってしまった。
忘れてたわけじゃないんだよ。
本当の、本当に。
同じ中学出身というのはそれだけで特別感がある。高校があらゆる色の人間が集まるマーブルチョコレートのような空間だとしたら、同中というのはそこに紛れ込んだ同じ色のチョコレートだ。全く違うキャラに見えても、なんだかんだで同じ空気感を持っている。
高校に入ってからは封印していた独特のノリとか会話のテンポというものは、たとえ接点が薄くても意外と共有されているもので。
なんというか長年使い込んだ枕のような、くたびれ方まで熟知してそうな安心感がある。
そうして懐かしい空気と再会した私としいちゃんは、久々の想い出話に花を咲かせるのだった。
気付けば、先ほどまでの恐怖は鳴りを潜めていた。
会話の狭間で、ふと周囲をぐるりと見渡した。
キミは相変わらず自席にいた。今日は寝ておらず、何か本を読みながら、コンビニで買ったと思われる焼きそばパンを頬張っていた。
何の本を読んでいるのだろうか、それはよく見えない。
まだ、キミの見ている世界を一緒に見るには、多くの壁がある。
そのことに寂しさを覚えると同時に安堵もする。
「そういえば、彼と実行委員で一緒になったんだけど」
話題が文化祭にシフトしたタイミングを見計らって、滑らかにキミの話題にシフトする。
これが今日のもう一つの目的でもある。ただキミと同じ空気を吸うだけではいられない。君という人間をもっと知りたかった。
タイミングを慎重に見計らって、自然な流れで違和感なくキミの話題に入ることができたと思う。
晴れて同じ係になったのだから、話題を出すのは自然なはずだ。
キミの視界の外では、私は勇敢だった。
「あー、彼か」
突然クラスメイトの話題を振られたしいちゃんは、知った風な口を利く。
知ってるんだから当然だけど、自分よりもさらに数段、距離が近いという事実にどうしても嫉妬する。
どうして。私は半年間キミと過ごすことができなかったのに。
そう嫉妬する自分の器の小ささに辟易とする。
「正直、あまり話したことないんだよね。いつも一人でいるイメージかな」
「ぼっちってこと?」
「うーん、別に人間関係に問題があるってわけじゃなくて、みんな普通に話はするけど、ただ単に一人が好きって感じ。部活もやってないし」
「あー、そういうタイプいるよね。わかる」
「そうそう。孤高って感じ」
なるべく感情を乗せないように、そしてがっつき過ぎないようにキミのことを聞き出していく。
ポストイットを貼るキミを見たとき、私にはキミの周辺だけ、流れている空気が違って見えた。決して空気が読めないというほどではなくて、でも空気を壊すほどでもない――たとえるなら、川の流れを遮る小石ぐらいの感じ――キミという存在は周囲に僅かな波紋を生み出す。
私はキミが出しているそんな謙虚な不協和音にときめいてしまったのかもしれない。
改めてキミの方を見る。キミは相変わらず何か本と向かい合っていた。
焼きそばパンから焼きそばがはみ出て落ちかけている。しかし、キミは長年焼きそばパンを食べてきたのだろう。絶妙なバランス感覚で落ちる寸前の状態を保っている。
孤高。いい響きだと思った。
ゆるりと周囲に流されて生きている私からすると、真逆の人間だ。
その感覚が改めて第三者の口からも確認できて、嬉しい。
どうやら、私に舞い降りた直感は、私だけの思い込みではないではないらしい。
曖昧だった私の好意が、キミに近付いていくことで実体を手に入れていく。やっぱり、私はこの人のことがちゃんと好きなんだと思える。
その感情は、具体的になればなるほど、ちょっとずつ息苦しくなっていくように感じた。
「ふーん、彼女とかいるのかなあ」
思わず疑問を口にしてしまった。
委員会で一緒になっただけの相手の恋愛事情をいきなり聞くのは、さすがに前のめり過ぎるかもしれない。
でも、それを早く知りたいという私の気持ちが、舌に言葉を乗せてしまった。
「え? 聞いたことないなあ……」
しいちゃんが明らかに困惑した様子で返事をする。
私の中で渦巻いている下心を悟られてしまったのではないだろうか。
そんな不安が汗となって頬をつたり、落ちる。
私の心は言うことを聞かず、どんどんわがままな気持ちが増幅していく。私の中の醜い感情が芽吹いていく。
恐怖したり、嫉妬したり、独占したいと願ったり。
恋というのはキレイな感情ばかりではないのだと、ようやく知る。海外ドラマの登場人物が語っていた愛というものの恐ろしさが、実感として身体に溶け込んでいく。
自分という人間の輪郭が、だんだん負の感情でぼやけていくような、そんな不安定な心地。
この恋の果てで、私は私のままいられるのだろうか?
「そうかあ……って、変なこと聞いちゃったね。ごめん」
「気にしないで! こういう話題疎いから、ご期待に添えたかわからないけど」
「いやいや、そんな大層なものじゃないから! 私がそういうの聞くの趣味ってだけ」
「趣味……?」
「そう、趣味! おせっかい精神! 生涯野次馬根性!」
この私の精一杯のごまかしが、果たして彼女に通用したのかはわからない。
ただ、私といういやらしくて恥ずかしい生き物の存在に気付かないでほしいと、そう願った。
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