5日目

 今晩のメニューは唐揚げ定食。

 どう考えても、ダイエットしようと決心した翌日に食べるものではない。

 もちろん、ダイエットを決意したのは私の勝手な誓いだから母には何の非もない。ないのだけれど……タイミングがあまりにも悪い。

 うちの母は昔からそういうところがある。


 でも、美味しいんだよね。

 お母さんの唐揚げ。

 衣の厚さが神のバランスなのだ。


 さて、今日の私は勇敢だった。

 なんと昼休み、キミのクラスに行ってきた!


 昨日の過ちは繰り返さない。

 私がどんな思いで廊下をただ行って帰ってきたか。

 目的もなくUターンするときどれだけ気まずかったか。

 いつか思い知ればいいと思うよ。


 キミのクラスに行くために、周到に計画を立てた。

 ただ教室の前を通過するのと、中に入るのでは天と地ほどの差がある。

 意味もなく隣のクラスに入ってくるヤバい女だと思われたらこの世の終わりだ。

 クラスに友達がいなくて、誰か話せる人を探していたのかもしれないなんて思われたら生きていけない。

 ただでさえ面識がないのだ。

 私を構成する唯一の情報が「予定もなくクラスにやってきた友達のいない暇な女」になるなんて、そんなこと耐えられない。

 暇人扱いはクラスメイトだけで十分だ。十分すぎるほどだ。


 私には、この無謀とも思える計画を実現するための秘策があった。

 何を隠そう、隣のクラスには同じ中学の出身で、三年生の時に右斜め前の席に座っていたしいちゃんがいることを、私は今朝思い出したのだ。

 ……忘れてたわけじゃないんだよ、しいちゃん。

 ただ話す機会がなかったから、ちょっと脳内での存在感が小さくなっていただけ。


 信じてください。

 お願いします。


 そして、しいちゃんはただの知り合いではない。

 実はその昔、私はいろいろあって、しいちゃんに右側の上履きだけを貸したことがある。

 彼女はそのことに深く感謝していた。今となっては、忘れられない青春の一ページだ。

 ……ええと、どうしてそんなシチュエーションになったかは忘れた。


 ともかく、彼女には私に逆らえない恩義がある以上、私の「教科書忘れたから貸して」という願いを断ることはできない。

 上履きを貸すことの重みに比べれば、教科書なんてどうってことないはずだ。


 抜かりない私の計画はそれだけでは終わらない。

 ただ教科書を借りるだけならば問題はない。

 だがしかし、都合の悪いことに、教科書は予約ができない。

 前日に「明日、教科書忘れていくと思うから貸してね」なんて言う狂人を見て、何を想うか。想像したくもない。

 そして、しいちゃんが誰彼構わず教科書を貸す教科書ビッチだった場合、私は詰む。


 なので、より彼女が教科書を所持している確率を高める必要がある。

 となると重要なのは、どの教科書を借りに行くのかだ。

 私が目をつけたのは数学。

 数学は五限なので、十分休みの間ではなく、昼休みに取りに行くことができる。

 もし、しいちゃんと久々に会った縁で立ち話をしようものならば、十分以上も彼と同じ空気を吸える可能性があるのだ。


 この理屈ならば六限の現代文の教科書でも問題ないのではないかと疑問を持つ者もいるだろう。

 しかし、現代文という授業は教科書に対する依存性が高いという特徴がある。

 数学ならば、授業はプリント中心なので教科書を忘れても最悪どうとでもなるが、現代文の場合は指名された瞬間世界が終わる可能性がある。

 しかも、うちの現代文の教師は嫌味な性格で、隣の席の教科書を読むという行為を見かけると必ずいちゃもんをつけてくる。

 本人はいじりと思っているようだが、教師にいじられる側は気が気じゃないんだよ。だって、四十人に突然視線の針で刺されるんだよ。


 なので、現代文の教科書に関しては、全員が確保に躍起になる。

 もし、しいちゃんが本当に教科書ビッチだった場合、飢えた獣たちの毒牙にかかる可能性は極めて高いのだ。


 以上の理由から、私は昼休み、しいちゃんに数学の教科書を借りに行くことに決めた。


 そうと決まれば、後は実行あるのみ。

 私は、登校前に荷物チェックをして念入りに教科書を忘れた。

 カバンのポケットを漁って実は入っていないか何度も確認した。

 仮にうっかりカバンをひっくり返して私本来の数学の教科書が出て来ようものなら、しいちゃんの教科書との関係が遊びであったことがバレてしまう。

 ちゃんと本命であることを装うため、私の数学の教科書は、念入りに机の鍵付きの引き出しにしまってきた。


 計画は順調に進んだ。

 私は見事に数学の教科書を忘れることに成功した。

 カバンや机のどこを探しても見つからなかった。

 昼休みが来るまでの間、私は空っぽの学生鞄を確認しては、その計画の美しさに自惚れた。


 そして、きたる昼休み。

 私は意を決して隣の教室に乗り込む。

 すぐにしいちゃんは見つけられた。久しぶりに会ったしいちゃんはちゃんと私のことを覚えてくれていて、嬉しそうに話しかけてくれる。

 中学の時はあまり手入れをしていない重量感のある真っ黒なロングヘアーが印象的で、ちょっと暗い印象があった子だったけど、高校に入ってからはトレードマークだった黒髪をセミロングのちょい長めぐらいまで切っていて、それに伴ってか表情も明るくなっていた。

 どちらかと言えば陰に属していた彼女は、今ではすっかり陽の者だ。

 女子も半年会わざれば刮目してみよと、昔の偉い人も言っていたが、その言葉を噛みしめる――よくわかんないけど、たぶん卑弥呼とか、そのあたり。

 久しぶり! と無邪気に手を振ってくる姿は眩しく、私はこんないい子を教科書のためだけに利用しようとしていた不徳を恥じた。


 私。しいちゃんのこと、片時も忘れなかったよ。

 忘れたことがないと言えば嘘になるけど。


 そして、私はかねてより練習した台本通り、教科書を貸してほしい旨を伝える。

 もし売約済みだったらと心配したが、しいちゃんはちゃんと数学の教科書を持っていた。

 私は心の底からの感謝を彼女に告げる。そこには、変なことに巻き込んでごめんという罪悪感も含まれている。

 彼女はそんな私の内心などつゆ知らず、笑って数学の教科書を渡してくれた。それだけじゃない、今度一緒にお昼食べようよという約束までしてくれた。

 まさか、自分から動かずとも、向こうからこの教室に入るための口実が生まれるなんて。

 久しぶりに人の心に触れて、自分が洗われた気がした。


 彼女のコネと良心を利用したことは、申し訳ないと思っている。

 なればなおのこと、きちんと目的は達成されなければ彼女も浮かばれまい。

 そこで、私は本来の目的を果たすため、隣の教室をぐるりと見渡した。

 昨日の徘徊によって、席の場所はおよそ絞り込めているから、その影を見つけるのに時間はかからなかった。


 そうして、私はようやくキミに再会した。


――やあ、久しぶり。

――といっても、キミは知らないんでしょうけど。

――もっといえば、いま私がここに居ることすら気付かないでしょうね。


 なぜなら、キミは壁際の席で机に突っ伏して眠っていたから。

 その寝姿を見るだけで、愛しさがこみ上げる。

 つついて起こして、思い切り抱きしめたくなる。

 今まで会えなかった分、より一層、私の中で秘めていた気持ちが全身から噴水のように迸る。

 私はキミのことが好きなんだと、改めて確認した。


 しかし、キミというのはまったく罪な男だ。焦らしプレイがうますぎる。

 せっかく寝姿を披露しているというのに、すっぽりと顔を隠していて寝顔を見ることはできない。

 教室で寝る場合、光を遮断することが重要なのでこの姿勢になるのは合理的なのはわかるのだが――それにしても、それにしてもだ。

 肩を揺さぶって起こしたくなった。が、それをできる関係でないことは私が理解している。

 いつか、絶対キミのことゆさゆさと起こしてやれる関係になってやるんだから。

 待っててよね。


 とはいえ、あくまで私は教科書を取りに来ただけの身分。

 本当はもっとずっと――キミが目覚めるところまで――眺めていたかったがそういうわけにもいかない。

 そろそろ作戦時間はオーバー、帰還の時間だ。

 私が来たということを知ってもらいたい気持ちもゼロではないのだが、贅沢は言わない。

 私は、彼のプライベートな日常を盗み見ることができたという、背徳的な喜びで満足していた。


 張り詰めていた糸が切れたのか、教室を出るとき、ふと冷静になる。

 これだけのことなら、別にしいちゃんが教科書を持っていなくても目的は達していたのでは――?

 実は、ふらっと行ってふらっとしいちゃんと話すだけでも十分だった。

 ここまでの計画は何だったのだろうか。

 そういえば、緊張して、しいちゃんと雑談して一分一秒でも長く教室にいるという目的も忘れてしまっていた。


 何から何まで節穴だらけだ。

 恋は盲目――とはこういうことなのかもしれない。

 いずれにせよ、目的を達成して大満足の完璧な一日だった。

 悔いはない。


 なお、その後、私は現代文の教科書を素で忘れて大ピンチに陥ったのだが――それはまた別の話。

 悔いはない。

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