4日目


 今日の晩ごはんはオムライスのなりそこない。

 黄金色に輝く小さな丘の中腹、無慈悲に刻まれたクレバスが、「コロシテ……コロシテ……」と悲鳴を上げているような気がする。

 いたたまれなくなって、傷を覆い隠すようにケチャップを塗りたくった。

 ちょっと、後悔した。


 救えなかったオムライスを胃袋に収め、腹の底から聞こえる気がする怨嗟の声に耳を塞ぎながら、今日も私はイオンのシーツに寝転がる。

 小学校の時から愛用している買い替える理由のない子供っぽすぎる照明が、私を冷めた目で見つめる。


 今日の登校は、人生で一番緊張したかもしれない。多分、初めて小学校に通ったときですら、ここまでの緊張はしていない。

 キミと出会うかもしれないというその可能性がよぎるだけで、半年間普通に通っていたはずの空間がなんだか神聖なものに思えた。

 洗顔フォームはいつもの2倍使った。髪型のセットにはいつもよりも20分多くかけた。普段はちょっと可愛すぎて躊躇する赤色のヘアピンをつけた。制服にしわが寄ってないか、何度も何度も確認した。

 さらにバレない程度の化粧……までするのはさすがにやめておいた。


 だって、ほら、そこまでしたら好きみたいじゃん。キミのこと。

 いや、好きなんだけどさ。

 そういうことじゃないじゃん。


 そこまで気合を入れて臨んだ恋愛一年生の初登校日。

 私は一日を常にキミの影に怯えて過ごした。こう書くとホラーのように聞こえるかもしれないが、そう形容するしかない。

 登校時の正門から、休み時間から、授業時間だって。いつキミに目撃されるかわからない。背筋を張って、隙のない完璧なJKであろうとした。

 特に体育では窓からキミが見ているかもしれないと思うと、絶対に無様な姿は見せられない。

 バドミントンのミットをヒュウと唸らせ、自分史上最高とも言える華麗なスマッシュを決めてみせた。

 バド部の友達からも今のすごかったねと賞賛の声を受け、今日の私はヒーローだったと思う。

 我ながら、華々しい高校生活だ。


 でも結果は……エンカウント、ゼロ。


 うん、知ってたよ?

 だって隣のクラスだし。

 うちの学校、隣のクラスと合同の授業とかないし。

 多分、これまでの人生ですれ違った回数も片手の指で数えられるぐらいだと思うし。

 そもそも、キミのこと座席も出席番号も、お昼を誰と一緒に食べているのかも知らないし。


 ……でもポストイットを使っているということだけは知っている。

 うふふ。


 もちろん、何の努力もしてないわけじゃない。

 私は何度もキミの教室の前を通過している。

 ……しょぼいって笑ったやつ、表へ出ろ。

 これがどんな恐ろしく、そして難しいことか。いつか身をもって知るがいい。

 一度通過するだけならば簡単だろう。でも、これを何度も実行するには、周囲に違和感を持たれない程度に、用事を思い出した雰囲気を出しながら廊下をUターンする必要がある。

 これ以上暇人と思われては、どんな目に遭うかわからない。暇人なだけでなく、素行がヤバい奴と思われたら、一往復たりとも堂々と廊下を歩けなくなる。

 よって、私はなんだかんだ忙しいですみたいなオーラをまとっていなければならない。

 私は全身全霊をかけて、さも初めて通りますみたいなツラをして何度も廊下を往復した。

 愛の力が生み出した今日限りの高等技術だ。


 しかし、何度教室の前を通過しても、キミの姿は見つけられなかった。

 たまたま席を外していた可能性を考慮して、何度も教室の中を覗き見た。

 おそらく、外から確認できる席は全て確認したと思うけど、遂にキミが座っている姿を目撃することはなかった。

 もしかして、キミは教室から視認しやすい窓際じゃなくて、廊下側の席に座っているのだろうか。

 ちょうど外からは確認できない壁際の席に座っていたのだろうか。

 私は物憂げに窓の外を見つめるキミを見たかったのに――してるかしらないけど。


 あれ、つまり、それって私の人生史上最高のスマッシュを絶対に見てないってことじゃん。

 私は自分史上最高のスマッシュをなんでもない日に生み出して浪費しただけの女なのか。

 ……はじめて、キミにちょっとムカついた。


 それにしても、それにしてもだ。

 これだけの時間を廊下で過ごしたのだから、すれ違うぐらいはしてもよかったと思う。


 廊下を歩く時だけではない。

 トイレに立つたびに、ちょびっと緊張してたんだよ。

 それで「お、今トイレに入っていった子、ちょっと可愛いな」って思ってもらってさ。

 気になったキミは私の正体を突き止めてさ――。

 そんなところから始まる恋だってあるかもしれないじゃん。


 ――前言撤回。

 さすがにもう少しシチュエーションにはこだわらせてほしい。

 こんな内容を結婚式で話されたら、きっと私、お嫁に行けない。


 いやいや、結婚式だなんてそんな。

 えへへ。


 ひとつ、わかったことは待ちの姿勢では駄目ということだ。

 相手に認知すらされていない恋。もう少し自分から攻める必要がある。

 このままでは私は生涯を、キミ専属の通行人として過ごすことになる。


 うーん、それも最悪悪くないかも……。

 一生キミの視界の隅っこにいられると思うと……。

 って、いきなりこんな後ろ向きでどうする。


 これで、思ったより彼のことが好きじゃないかもって結論になったら笑っちゃう。

 彼のパーソナルな部分を全く知らない以上、可能性はゼロではない。

 むしろ、その可能性のほうが高いまである。

 でも、少なくとも今の私はもう止まれないし、全力で駆け抜けたいんだ。


 従姉妹のおさがりの全身鏡の前に立ってみる。

 長年の研究が編み出した自分が一番よく見える角度で私は私とにらめっこする。

 うん……思ったよりは可愛いな、私。

 頑張ってセットした髪型はまだ理想のラインを保っている。

 背伸びし過ぎかなと思ったヘアピンも、改めて見ても案外悪くない。

 こうしてみると、私は案外美少女なのかもしれない。


 そんな時、ふらりとバランスを崩して自慢のポーズを見失った。


 あっ、ダメ。

 かき集めたなけなしの自尊心が落っこちる。

 大きい顎のラインとか、父の悪しき遺伝である潰れ気味の鼻とか、絶妙に前髪で隠してた頬骨とか、どんなに見開いても小さい目とか、角度を変えたら全部バレちゃう。

 さっきの角度はその全てを見ないことにしようと思えばできないこともないゴッドアングルだったのに。

 なんとか姿勢を立て直して、私は私を取り戻す。

 そうそう――これが本当の私。


 全身を眺めてみる。

 高望みしてはいけないとはわかりつつ、ないものねだりは止まらない。

 一応、胸もスタイルも、言われてみれば普通、というラインに収まってはいるはずだ。

 ギリ普通と言っておけば、改善すべき問題点から目を背けることができる。実に都合の良い言葉だと思う。


 でも、それが妄想願望いっぱいの、思春期男子が語る普通の範疇に収まっているかというと、ちょっと怪しい。

 教室のど真ん中で、堂々と異性の容姿について論評している男共の下品なトークを思い出して気分が悪くなる。

 なんであいつら、デリカシーがない野蛮なだけの言葉を、面白いと思えちゃうんだろうか。しかも、そういう連中に限って、画面や紙面の女体に幻想を抱いて、雲の上にハードルを設定する。

 彼らは目の前の実物から目を背けて、紙や画面の中の芸能人に普通の基準が設けられる。

 比較対象がアイドルとかグラドルとか、そういうのになっちゃうと、いくらなんでも太刀打ちできない。

 キミがそういう子じゃないって、信じてるよ。信じてるからね。


 とはいえ、首から肩のラインに関しては結構気に入っている。

 脚もシルエットだけ見れば人よりもキレイ、かな……?

 長さは全然足りないし、太さはちょっと過剰だ。

 脚だけ拡大してシルエットで提供すればいい線行くと思う。

 あとは爪だけは自慢だ。長くて真っすぐで、一切の歪みがない。母の遺伝のおかげでツメの形だけは間違いなく完璧だ。

 とはいえ、指はもう少し細く長くあってほしいけど……これは父方の遺伝子だ。

 断片的に散らばったちっぽけなプライドを必死にかき集める。

 こうして私たちは毎日を生きている。


 ふと、お腹を触ってみた。

 ぷにという音が聞こえた気がした。

 その感触が楽しくて、ぷに、ぷに、と連続でつつく。

 リズミカルな反応に少し楽しくなってくる。

 触り心地は悪くない。むしろ良いと思う。


 キミも触ってみてはいかがだろうか。

 下手なクッションよりはいい感触してると思う。

 減るもんじゃないし、どうだろうか。きっと、後悔はさせないはずだ。

 彼の思ったよりゴツゴツした手が、私のお腹をふに、ふにと触る光景を想像する。


 よし決めた。

 まずは――ダイエットだ。

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