3日目


 今日のお昼ご飯は冷やし中華。

 日本中が猛暑に喘いでいた時分、母が買いだめしたにも関わらず、その直後に思ったより涼しくなってしまって持て余した代物だ。

 とはいえ、食品の一生というのは残酷で、賞味期限が訪れる前にそろそろ胃袋に旅立ってもらわなければならない。

 やや肌寒さを感じる日に食べる冷やし中華は十分美味しかったが、ちぢれた麺は申し訳なさで委縮しているような気がした。


 リビングでは、いつものように姉が海外ドラマを見ていた。

 最近はサブスクにさえ入っていれば、過去作から最新作まで十シーズン以上もあるドラマが見放題だ。

 SNSでせっせと感想戦をしながらパジャマも着替えずに画面の中の恋物語に酔いしれる姉の姿は、幼い頃憧れていたかっこいい”大人のお姉さん”とは似ても似つかない。


 これでも一応、姉の背中を追いかけて育ったと言えるぐらいにはお姉ちゃんっ子だったと思う。

 ちょうど三つ離れた姉は、私が幼稚園の時には小学生、中学生の時は高校生、そして高校生になった今は大学生と、常に私が生きる人生の一歩先のステージにいる。

 小学生……はほら、低学年と高学年の間に見えない壁みたいなものがあるし。


 そんなわけで、いつまで経ってもこの社会的階級の差が埋まることはない。大学生になったらちょうどニアミスするのだが、ご褒美としてはちょっと今更が過ぎる。

 三歳差とは難儀なものだと思う。

 かつて、その事実に絶望した私は、クリスマスプレゼントに両親に三年分の歳月をねだって困らせたこともあった。小学生時代のちょっとした黒歴史だ。


 いろいろなことがあったが、昔ほどの強烈な尊敬はないけれど、なんだかんだで今も私はお姉ちゃんっ子だと思う。


 それに加えて。

 いま、姉には彼氏がいる。

 高校時代の三年間、四季を知らずに過ごしてきた彼女は、大学生になってようやく春を迎えた。

 相手の顔も名前も私は知らないが、少なくとも姉は私が喉から手が出るほど欲しい――くなってまだ三日目だけど――ものを手にしている。


 今日の今日まで羨ましいと思ったことはない。

 通話をするために自室に籠る姉を見て、お姉ちゃんも色ボケする年になってしまったかと、某まる子のように達観ぶって遠目に見ていた。


 だが、今日の今日は話が違う。

 今日の今日の私は、人一倍色ボケしている。


 まだ、姉と恋バナする勇気は出ない。

 こんな恋をしてるなんて、しかも昨日一日ネトストして妄想していたなんて、笑われるだけだ。

 でも、それとなく話題を共有したいと思った。

 同じ空気を吸いたかった。


 まだ三日目だけれど――この気持ちは、一人で抱え続けるにはちょっと重たい。


 半分ぐらいに減った水出しの麦茶を飲みながら、ドラマの内容に耳を傾ける。

 現在進行形でこの世の春を謳歌し、フィクションの世界に逃げ込む必要のない姉は、どんな物語を見ているのだろうか。

 その真相を知りたくて、私は姉の傍らに行く。


「お、珍しいね。暇なの?」


 こちらに気付いた姉が画面から目を離さずに話しかけてくる。

 既にこのドラマは7シーズン目。累計40時間以上もリビングを占拠している姉は”ながら”スキルも一級品だ。

 彼女曰く、適度に聞き流して、画面の雰囲気から要点を察するのがコツらしい。


 彼女が返事を期待していないことを知っているので、私は肯定の代わりに、姉が寝そべってスペースをフル占領しているソファの背もたれにちょこんと顎を乗せた。

 たかがドラマを見るだけなのに、ちょっと背伸びした気分になれるのは、字幕でドラマを見るという普段より一ミリ程度IQの高い行為を興じているからなのか、海の向こうで作られたというそれだけで一皮むけた気分になるのか、それともあくまで私がお姉ちゃんを真似するのが大好きなおこちゃまだからなのか――。

 どちらにしろ、私は結構浅い人間だと思う。


 ドラマはちょうど修羅場だった。

 若手イケメン弁護士のブライアンが、直属の上司であり既婚者でもあるジェシーを妊娠させて大騒ぎになっている。

 なるほど、ここまでの経緯を全く知らないが、場面や台詞の雰囲気で何が起きているかなんとなく察することができる。

 7シーズン――って何年やってるんだ?――もやってる以上、話を忘れている人への配慮がよくできていると思った。

 話のことがよくわからないなりに、見ていて面白い。


 ……いや、アウト。

 アウトよ、アウト、アウト。

 この時点で何の参考にもならない。

 私とは状況が違いすぎる。


 今の私は、好きな人と手をつなぐところが知りたいのだ。ありとあらゆるものが繋がったなれの果てを見たいわけじゃない。

 告白の三歩も四歩も前の段階にいるような人間に、いきなりこんな終着点を越えて霊柩車みたいな状況まで想定しろというのは、さすがに刺激が強すぎる。


 ……それとも、恋愛というのはこんな遠い未来に待っているかもしれない地獄まで想像して挑まなければならないものだろうか。

 そういえば友人たちの恋バナでも、一途そうとか浮気しなさそうとか、そういう男子の評価をよく聞いた気がする。みんなやっぱそういうところをちゃんと計算して恋しているものなのかもしれない。

 キミは果たしてどっち側の人間なのだろう。

 無邪気な私はキミの善性を信じることしかできない。


 まあ、いずれにせよこのレベルのクズ野郎に振り回されるなんて、さすがにドラマのだけの出来事だし杞憂だと思うけど、さ。


 え……さすがに、そうだよね?

 こんなカスみたいな男、実在しないよね?

 私、もう少しこの世界を信じていいよね?

 そうだよね……お姉ちゃん?

 ねえ、なんとかいってよ、ねえ。

 「うわ」だけじゃわかんないよ。


 ブライアンの隣では、3年間連れ添ったという現彼女のコレットが、さめざめと泣いていた。

 こいつ、自分の彼女もいたのか……ますます擁護の余地がなくなってしまった。

 いかにも真面目そうなメガネとそばかすが特徴の女の子で、どちらかというと彼女の方が私好みだ。

 ブライアンは見る目がない。


 そんな愛と憎が全部盛りに彼らにジェシーの旦那を含めた4人は、愛のあり方について喧々諤々の議論を交わし始める。

 どうやら、ブライアンとジェシーの間には真実の愛とやらがあって、その情熱は止められないらしいとのことだ。

 一回、全員水を被った方がいい。

 まだ夢見がちな私だが、いくらなんでも愛の前に話すべきことがあるというのはわかる。そもそもこいつらって弁護士じゃなかったっけ?


 ……こういうピンク色の脳みそを外野として断罪するのが楽しいから、このドラマはやめられないのかもしれない。

 私もいつか、断罪される側になるのかな。


 地獄のような空間に、気弱そうなダークブラウンの青年が申し訳なさそうに入ってきた。

 どうやら忘れ物を取りに来ただけらしく、突如訪れた地獄を見て大袈裟に驚く。

 そして、大袈裟に耳を何も聞いていないというアピールで一生懸命耳を塞ぎながら青いレザーのカバンをひっつかんで、出ていってしまった。

 向こうのドラマっていちいちリアクションが派手だ。

 すると、ボソッと姉が追加の解説を加えてくる。


「あ、このサムは、コレットの元彼で今はジェシーの旦那が振った元カノにお熱ね」


 いやいや怖いて。

 惚れた、腫れたが激しすぎるって。

 たしかに恋愛ドラマなんてくっついてなんぼみたいなところあるかもしれないけど。

 限られた人間関係で7シーズンもそれを繰り返すと、こうなるのも必然かもしれない。

 あまりにも別世界の出来事だった。


「よくこんなの覚えられるね」

「相関図とか丁寧にまとめてくれる人がいるしね」

「人間関係ドロドロすぎて引いた」

「それがいいんじゃん」

「彼氏さんがこういうことしたら?」

「殺す」


 そんな会話をしながら、キャスト名が矢継ぎ早に飛び出す短いスタッフロールを鑑賞する。

 スタッフロールが終わってCパート。

 それまでオフィスの隅っこで背景としてしか存在していなかった事務員と思われる男がいた。

 彼はすぐ傍でやいのやいのと発生している阿修羅地獄など意にも介さず、コーヒーをすすりながらパソコンのキーボードを叩いていた。

 ひと段落ついたのだろうか。パーンとエンターキーを叩くと、何かに祈るように上空を見上げ、肩をすくめた。

 いわゆるオチ要因というやつなのだろう。


「この人は?」

「え、誰だっけ。一応、サムの飲み友達……的な?」


 姉の返答がしどろもどろになる。

 その程度の存在感ということだろう。

 やや細めの体躯、栗色のふんわりした毛、少し垂れた眉。眠たそうな瞳。

 間違いなくイケメンに分類すべき顔ではあるのだが、メインキャラクターを張っているキャストたちに比べると、画面映えする感じではない。



 私は彼を見て、ちょっとだけキミに似てると思った。

 髪の色も肌の色も全然違うので、並べてしまうと全くの別人だと思う。

 でも、オフィスの隅っこで粛々と仕事している、そのぶれなさというか、空気の読めなさというか。

 全体的なたたずまいが――どことなくキミを思い出させた。


 雰囲気の話だしあくまで私の直感だから、理解はされないと思う。

 それだけ私の頭はキミでいっぱいなんだよ。

 あ、でも肩幅。肩幅だけはマジでそれっぽいことは理解してほしい。


「私、こういう人の方がいいかも」


 思わず声に出してしまった。

 本当に無意識の言葉だった。

 それを聞いて、お姉ちゃんは


「ふーん、なかなか良い趣味してるじゃん」


と生返事をする。

 それを聞いた私は、おもむろに立ち上がって、大きく伸びをした。

何時間も見ていたという程ではない――というか、一話を途中から見ただけ――だけど立ち眩みで視界が歪む。


「あれ、もういいの?」


呼び止める姉を無視して、ぼんやりと痛みの残る頭で私は自室へと戻っていく。

これ以上姉と言葉を交わすことはできなかった。


だって――今の私は通話中のお姉ちゃんなんて比較にならないぐらい、だらしない顔をしていたに違いないから。

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