花も恥じらう和田島さんは妖精のように軽々と舞う。
野村絽麻子
恋のバズーカ砲
ある晩のことでした。
その日の私もご多分に漏れず疲弊しており、まぁ、それはひとえに職場での労働によるものなので内容的なことは割愛しますがとにかく疲弊しており、帰宅途中に立ち寄ったスーパーマーケットの鮮魚売り場で新鮮そうなサバの切り身を見かけて「これをミンチにしておろし生姜と大葉と葱と片栗粉と味噌を加えて更にしつこくミンチにした上で成型して、ごま油を敷いたフライパンで焼いてサバのハンバーグなど作成したら、大変お酒に合う上に勝ち確なのではなかろうか、うんきっとそうだそうに違いない」などとほくそ笑みながら購入してきたところで、つまりは最悪だった本日に一縷の望みを見出したとも言える、そんな帰路での出来事なのでした。
私の通勤路には今時珍しい背の高いブロック塀があり、それを見るともなしに視界に入れながら少しばかり苔むした北側の塀まで来たところ、猫ちゃんが、ちょこりとその可愛らしいお顔を覗かせておりました。
「……猫ちゃん……!」
息を飲んで呟くと、猫ちゃんは「にゃあ」とお返事をなさいましたので私は大変に嬉しくなってしまい、その場で足を止めてだらしなく微笑んでしまったのでした。ところがこの猫ちゃん、私の顔をじっと見つめながら「にゃあ、にゃあ、にゃああ、にゃあ、にゃあああ」としきりに主張を繰り返すなどされており、猫語を解さない愚かな人類としてはあわあわと取り乱すほかなく、先ほどの嬉しさなども蹴散らす勢いで途方に暮れてしまいました。サバは鮮度が命。美味しいタイミングできちんと美味しく仕上げなければ、サバにも失礼です。でも猫ちゃんが。待てよ、もしやこの猫ちゃんは「サバを置いていけ」とおっしゃっているのでは。猫ちゃんは我が意を得たりとでも言うかのように矢継ぎ早に可愛いお声で鳴き始めました。でも。でもそれ、困ります。「にゃあ」いや、困りますって。「にゃあ」やめてください。「にゃああ」ほんとに困るんです勘弁して下さい私には四つを
「その必要はないわ」
ほとほと困り果てた私と猫ちゃんの押し問答に一石を投じた人物が居ました。「ほ、ほむらちゃ」オタク丸出しで振り返る私の視界の中に現れたのは美しい裸足の足。そのまま上方に視線をスライドさせますと、美しいふくらはぎ、美しい太もも、美しいモザイク、きゅっと締まった腰には可愛らしい握りこぶしが添えられ、美しくくの字を描いた肘と、美しい腕、美しいモザイク、美しい鎖骨の上に続く美しい首を経ての美しいそのお顔には見覚えがありました。そうです、もちろん和田島さんです。
ブロック塀の上に和田島さんのあんよが乗っていらっしゃるという事は、和田島さんはブロック塀の上の空間に仁王立ちされていらっしゃるという事でした。そうなると、それはすなわちすべての事象の頂点に君臨されていらっしゃるという事で、私などがわざわざひれ伏さなくても自動的に和田島さんに恐れ入ることが出来るという私のような不器用でのろまな民草にもお優しいシステムを、和田島さんはしっかりと自らで構築なさっていらっしゃいます。流石です。
月下に立ちはだかる和田島さんはただひたすらに美しく、夜風になびく長い髪を遊ばせたまま何処からかバズーカ砲を取り出すと、無言のまま片手をピンと伸ばして右上斜め四十五度に構えたかと思えばノールックで威嚇射撃をなさいました。あっという間の出来事でしたので耳をふさぐ暇も与えられませんでしたが思ったより衝撃音は柔らかで、文字に起こすとしたら「ド・ウ・ン・♡」といった具合でしたので私の耳が少しばかりキーンとなったくらいで、あとは猫ちゃんが「おや?」というお顔をして和田島さんの方をご覧になりました。
「あなたにハンバーグは渡さない」
透き通った美しいお声がしんとした夕方の空気に響き渡りました。ハンバーグといってもこれはサバのハンバーグでして。そう言葉を挟むのが無粋になってしまうほど凛とした横顔が大変お綺麗でしたので私は口を開くことを止めました。チャ、と和田島さんが再度バズーカ砲を構えました。今度は猫ちゃんに照準を合わせています。「にゃ……」猫ちゃんも前脚を揃えて丸いお尻を高く構えます。双方ともに臨戦態勢です。とそこへ、町内でも有名なお散歩好きのご老人とお目付役のワンちゃんがぽてぽて歩いてやって来ました。ご老人は細い皺枯れ声で炭坑節を口ずさんでいましたし、ワンちゃんはリズム良く肉球をアスファルトに押し付けては蹴り上げ尾っぽをふりふり通り過ぎました。月夜の散歩は一歩間違えたら徘徊なのだな。などと私の意識が離れたほんの一瞬の隙を猫ちゃんが見逃すはずもなく、その柔らかな腹肉をひらりと翻しながら「み!」という捨て台詞風の鳴き声だけを残して何処かへと姿を消し去りました。きっと猫だけが知る秘密の抜け道が存在しているのでしょう。
一方の和田島さんは出した時と同じかそれ以上唐突にバズーカ砲を何処かに仕舞ってしまうとこちらをご覧になりました。和田島さんクラスともなれば亜空間のひとつやふたつ自在に操れるのも当然なのです。それにしても美しい。私は頭のてっぺんから足の小指の先まで真っ直ぐになりました。まるで干物になったように。
「じゃ、行こ」
「あ、はい」
頭の上に疑問符を一億個並べてもまだ足りていない私でしたが和田島さんの決定は宇宙の真理に違いませんので恐れ多くもお隣をギクシャクと二足歩行ロボットのごとく歩行してわが家へとお連れし、間を持たせるためにリモコンでNetflixを表示してからさっさと準備に取り掛かると、サバを怒涛の勢いでミンチしてサバのハンバーグを今までで一番上手に作って和田島さんにサーヴしました。フィードでも可です。「いただきまぁす!」という上機嫌な和田島さんの可愛らしいお声が我が家で聴けるだなんて一生分の良い事が今この瞬間に起きてしまったから逆に詰んだな。でもイイ。辞世の句を考えよう。筆ペンはどこだろうか。
「ご馳走様でした! 美味しかったー!」
お皿に乗せたサバのハンバーグをきれいに食べ終えた和田島さんは可愛らしいお手手を合わせながらお行儀良くおっしゃって、でもまるで小鳥ちゃんのように美しく小首を傾げました。
「でもぉ、うーん、何て言うのかな。コレじゃない感?」
社交辞令以上のリアルな感想を浴びたことにより感動でフリーズしているのを捨て置いて、静かに立ち上がった和田島さんはカラリと窓を開けました。ここは三階です、と言わなければならなかった私が声もなく立ち尽くすのを尻目に和田島さんは窓からひらりとその身を踊らせました。ハッとして追いかけるように窓辺に駆け寄れば、まるで蝶の鱗粉か何かのような、北欧の夜空を彩るオーロラのような、ティンカーベルについて回る効果のような何かを振り撒いた和田島さんが電柱のてっぺんに片足立ちしているところです。和田島さんは右手と左手で望遠鏡のような形を作るとそれを可愛らしく覗き込みました。ややあって、ふわりと微笑まれたのがわかりました。
「ハンバーグ、見ーっけ!」
気付くとたったひとりでベランダに立ち尽くしておりました。タコちゃんに連絡しなくちゃ。ひとしきり月明かりに照らされた街を眺めてからやっとそう気付いてスマホを手に取れば、当のタコちゃんが「さっき和田島さんの気配がする弾丸に当たりましたので嬉しいからご報告です」とツイートしており、あぁ、あの威嚇射撃って実弾が入ってたんだなあ、と合点がいったわけです。
いつも通りの疲弊した晩だったものは、とてつもない多幸感に包まれた特別な晩になったのでした。
花も恥じらう和田島さんは妖精のように軽々と舞う。 野村絽麻子 @an_and_coffee
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