第四章 天童信介

①魔境

 山道を選択する時、第一に考えるべきことは、このまま進んだとして戻ってこれるかということである。降りることはできるが登ることはできない。そんな道を進むことは危険である。戻ってこれないと思う場所を進んではいけないのである。

 当たり前のことであるが、道迷いに遭うと、ついついその当たり前が抜け落ちる。そして、袋小路のような場所に入り込み、山の中に閉じ込められてしまうのだ。


 天童てんどう信介しんすけとしても、そんなことは熟知している。しかし、そんなことを考える余裕はなかった。

 自分が魔境と呼ぶべき場所に誘い込まれている。そんなことは承知の上で、ただ先を急いでいた。


 加藤が滑落し、急坂を転げて、崖の下に落ちていったのだ。本来なら救助を呼ぶべき局面だが、状況が状況だった。加藤は目視することのできない何ものかに襲われていた。そんなことを救助隊に説明しても理解されるわけがなく、ただ彼らを危険にさらすことになりかねない。さらにいえば、緊急性が極めて高い。

 ならば、自分が救い出すほかない。熟練と呼ばれるべき登山技術を持つ信介がそう判断した。そして、無我夢中でただ先を急いでいる。


 進むべき場所に、崖があった。こんな場所だっただろうか。疑問に思いつつ、地図を見る。確かに崖がある。

 だが、すでに何メートル降りたのだろう。それに、ここまで奥まった場所に来ていただろうか。地形とともに地図まで変わっていることは考えられないか。

 疑問が頭をよぎるが、それでも考える先に行動に移っていた。


 頑丈な樹木を見つけると、その先にロープを括る。そして、ロープを自身のハーネスに通して、崖を降りる。

 藪のような崖であり、草木の棘が食い込んでくるが、信介のウェアはそうした事態を想定したものであり、傷つくこともない。そうして、数十メートルを降りると、ロープを外し、回収する。

 そして、地図を確認し、さらに先へと急いだ。


 いや、やはりおかしい。

 地図は間違っていない。この地形と合っている。

 おかしいのは自分の記憶とこの状況だ。ここは裏高尾のはずだ。だというのに、こんな崖をすでに十数回ほども降りてきている。

 裏高尾はどの山も千メートルに満たない低山である。近隣で最も高い陣馬山じんばさんでさえ、標高は855メートルなのだ。この辺りはせいぜい、6、700メートルほどのはず。それに、こんな地形は見覚えもなかった。


 地図が間違うはずがない。ずっと手にしていた紙の地図だ。変わるわけがない。

 だとしたら、怪しむべきは自分の記憶だということになる。ここは裏高尾。堂所山と市道山の中間に位置する場所であることは地図を見ても明らかである。

 まるで見覚えのない場所に来たような、自分の頭が狂ってしまったような、言いしようのない焦燥が信介を襲っていた。


 自分自身を疑い、それでも地図に従って先へ進む。そして、加藤の落ちたと思われる場所までやって来た。

 加藤はいた。信介は加藤を見つける。だが、その姿は変わり果てたものになっていたのだった。

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