花時雨

田土マア

花時雨

 今日で付き合って2年目の彼との待ち合わせは、いつも決まってこの喫茶店にしている。

どこか古く、懐かしささえ感じさせるこの喫茶店は、私と彼にとっては慣れ親しんだものだった。彼よりも先に着いた私はホットコーヒーを頼む。ここのマスターは白髪で、顔にはたくさんの皺が刻まれている。その分笑ってきたのだろう。もの静かにコーヒーを煎れてくれる。支えがなくても大丈夫なのか心配になるくらい細い腕でそっと優しくコーヒーを私のテーブル上に置く。

どうぞ、と出された声が何年も前に亡くなった祖父の声に似ていてどこか安心感さえ覚える。


 今日ものどかだと思いながらコーヒーを飲み始める。きっとどこかでは小鳥が鳴いて、おこぼれの米粒でも拾って食べているんだ。そんなふうに思っていると少しずつ空は濁っていく。さっきまでは真っ青だった空が、私の飲んでいるコーヒーを少しだけ零したような色に変わっていく。


 しばらくすると彼が喫茶店の扉をカランカランと音を立てて入ってくる。マスターが笑顔で彼を出迎え私の座っている席へ手で案内する。

 彼がお待たせ。と言って席に着くと彼の肩は少しだけ濡れていた。私は窓へ目線を動かすと外では雨がポツリポツリと降っていた。肩に付いた僅かな雨粒を彼はサッと払うと私の方を向き直して少し気まずそうに

「あいにくの雨だね。」と呟いた。

私は雨に惹き込まれていて、彼の言葉で我に返った。

聞き返すのもなんか申し訳なく思って私はははは。と愛想笑いをした。私は未だに過去に囚われていたことに気がついた。


 それは今の彼と出会う前に付き合っていた元カレのことだった。元カレは世間的にはダメ男だった。収入は安定していない、そして自由奔放でいつでも夢を追いかけているような子供のような人だった。もう二十歳も過ぎた私たちには少し大人気ないでは片付けることができない年齢になっていた。それでも私はそんな彼が忘れられずにいた。今日もこの雨を見てそんな彼を思い出してしまっていた。


「どうしたの? なんか浮かない顔してるね。」

彼に心配をされたところで私は彼の顔を慌てて見つめた。首を振ってなんでもないよ。と言い訳のように溢す。手元がおぼつかなくなっていて、コーヒーカップから手が離せなくなっていた。動揺を悟られないためにコーヒーから出てくる湯気をじっと見つめていた。


「もしかして、蒼太のこと?」


 勘のいい彼に少し嫌気がさしたけれど、私のことを気にしてくれているというのもしっかり伝わってきた。


「ごめんね。やっぱりこの時期の雨を見るとどうしても思い出しちゃって。」

私が申し訳ない声で言い訳を着飾った。

「仕方ないよ。思い出はふとした時に襲いかかって来てしまうものだから。」

彼はさっき運ばれてきたコーヒーにミルクを入れてスプーンでゆっくりかき混ぜながら言った。


 彼は私の元カレと仲良かった。元カレとの繋がりで今の彼とは出会うことができた。しかし、元カレはもう私のそばには居てくれない。彼との思い出をゴミ箱に捨て去ってしまうことは私にはどうしてもできなかった。


 二年とちょっと前、私は元カレの蒼太くんと付き合っていた。ちょうどこのくらいの季節だったと思う。桜が満開になって、静かに雨が降り出す頃。蒼太くんとの別れは突然だった。桜が舞い散る秒速数メートルの中、私と蒼太くんはバスを待っていた。突然降り出した春の雨は私たちを温かく、そして冷たく包み込んだ。蒼太くんの肩に寄りかかって冷たい温もりを私はしっかりと感じていた。

 そしてバスを待っていた私たちを出迎えたのは、待ち望んでいたバスではなく、大型トラックだった。大型トラックが私たちの待っているバス停に勢いよく突っ込んできた。

 それからは言うまでもなく、私の時間は止まっていた。前に進むことも過去を振り返ることも出来なかった。目の前で居なくなってしまった蒼太くんのことだけを考えていた。人間としては完璧ではなかった蒼太くんを私はひたすら探した。どれだけ探してもどこを探しても見つからないことくらい分かっていたはずなのに、私はありもしない可能性を求めて蒼太くんの姿を探し続けた。


 そんな中、私を取り戻してくれたのは今の彼だった。蒼太くんと付き合っている時から何度か面識はあったけれど、ただ友達としての認識しかなく、男性として見ることなんて一切なかった。

 彼は現実を語るのが好きで、蒼太くんとは全く別の性格だったけれど、逆にそれが二人の間をいい感じに保っていたのかもしれない。抜け殻になった私を時間をかけてゆっくりと前を向かせてくれたのも彼だった。



 それでもまだ私は前を向けていないとたった今気づくことになってしまった。

「ごめんね、まだ蒼太のことを忘れきれずにいるかもしれないけれど、これを受け取ってほしい」

彼から出てきた小さな箱を私は受け取った。彼はそっと優しくその箱を開ける。

私の目の前には小さなリング状の金属があった。俗に言う指輪というものを私は彼に渡された。それに続けて彼は顔を赤くしながら

「結婚して欲しいんだ。」とプロポーズをされた。


喫茶店の外では雨が止んでいた。さっきの雨で散った桜の花びらがウェディングロードのように広がっていた。

急なプロポーズに動揺した私はまたコーヒーを見つめることしかできなかった。


 儚く咲いて散っていく桜並木を私は彼と一緒に歩いてデート先へと向かった。



 蒼太くんのことを忘れることは出来ないけれど、桜のように散っていった蒼太くんをたまに彼に重ねてしまうけど、私は今しっかり前を向いて歩けている。たまに躓いて転んでしまいそうになるけれど、それでも彼が、蒼太くんが私の杖として支えてくれる。

 今ではあの喫茶店はマスターが病気なってしまって店をたたんでしまったけれど、あの喫茶店に通っていた私の記憶は確かに存在するし、前を向くために彼がいつもあそこへと連れて行ってくれたことも今になっては分かる。

 喫茶店の跡地になった通りを私は今日も小さな小さな手を引いて歩いていた。

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花時雨 田土マア @TadutiMaa

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