16

 閉会式の挨拶に向けての緊急会議を終え、あと少しで閉会式が始まるからか、人で溢れかえっている体育館。たくさんの人を見ると緊張が強くなるので、一旦、トイレに入って精神を落ち着かせようとした。

 この時点だとまだメモ帳はあった。

 確か、制服の上着の左ポケットに入っていたので、さわさわ触ったり無駄に沢山折りたたんだりして心を落ち着けたのを覚えている。

 そして、ここでなんとなく左ポケットから右ポケットへと移し替えた。これは無意識での癖といっても過言ではない所作であった。

 それから、緊張が原因か無性に喉が渇くので、時間を確認してまだ余裕があることが分かったから、自販機のある場所まで行った。

 そして、事前に財布から持ってきていた小銭をズボンの左ポケットから取り出して、一旦上着の制服の右ポケットへと移し替えた。

 これも無意識での手癖みたいなものだが、この時、地面でちゃりんという音が鳴ったことで、一瞬で意識が元の場所へと戻った感覚がした。

「え」

 音の鳴った地面の方を見ると、穴の開いた銀色の小銭がコロコロと自由を手にして、自販機の下へと転がって消えいくのが見えた気がした。

 意気揚々と消えていった。

 確認すると、上着の右ポケットには百円玉が一枚。

 つまり、落としたのは五十円玉である。正直、一介の高校生が無視できない値段の硬貨であることは間違いなかった。硬貨をなくして後悔していた。

 拾わなければと膝を二センチ落としたあたりで俺は止まった。留まったと言ってもいい。

 何故ならそれは、周りの目が気になるという心理的なフリーズだからであった。

 周りからどう見られる? それは、(え、あいつ学校の自販機の下覗いて小銭落ちてないか確認する卑しい奴だな)である。

 それだけは絶対に避けなければならないという、プライドが俺の膝に鍵をかけたのだ。

 俺は再び膝を伸ばして深呼吸をし、まるで何もなかったかのようにこの場を去ることにした。

 そう、この時俺は「掃除の時間まではまだ猶予があるから、まだ大丈夫。放課後の誰もいない時間に何か長い棒をもってサッと取ればいい」と、心の平穏を取り繕うことにした。

 そして、いつも買っているスポドリ缶を諦めて、今買える唯一の飲み物の水を買って飲むことで、ギリギリ精神を落ち着けたところまで覚えている。

 この時点で手元から無くなったのは五十円玉一枚であった。

 つまり、その記憶が正しければ上着の右ポケットにあの例のメモ帳が入っているはずなのに、どんなに手を突っ込んでも無いのである。

 無いものはどんなに願っても探しても無いのである。

 そこで五十円逃走パニック以上の焦りがぶり返した俺は、記憶を混濁しながら生徒会室までダッシュで行き、いつも座っている席付近を探したり、スタンプラリーの紙がある段ボールの周りに紛れていないか必死に探したのだが、検討虚しく見つけることができなかった。

 これが混濁した中でギリギリ拾える記憶の欠片である。

 そして、気づいたらもう、体育館で生徒会の生徒がいつも立っている指定の場所に立っていた――という次第である。

 閉会式開始まであと五分。

 そんな段階で俺は隣に立っていた夏希に今の状況を伝えると、大きな声が出せない中での目一杯の声で、


 「「「えっ!」」」


 思わず声が突いて出たらしかった。

 近くにいた先生がこっちを見てくるので、すぐに口元に人差し指を添えて、静かにしろというジェスチャーをした。

「どれぐらいまで覚えてるの?」

「だめだ……何をどう思い出しても桜花先輩の大喜利みたいな案しか思い出せない。このままだとただ恥かいて終わる。ヤバい、まじでヤバイ」

「大丈夫落ち着いて……出番になるギリギリまで何を言うか考えて、本当にどうしようもないって思ったら」

「たら?」

「あたしが今掌に人って書くからそれを飲んで、頭に有名な権力者とか実業家とかのスピーチを思い浮かべて喋って! 間を恐れないで!」

「土壇場で言うアドバイスとしてそれは合ってるのか?」

「なんでそっちが文句言ってくるのよ!」

 いつもみたいなやりとりが今は一番助かる。それを分かってやっているのか分からないけど、ありがたいことには変わらない。

 夏希はスカートのポケットから水性ペンを取り出して俺の手をとり、なんと、実際に書いてきた。

「ちょっ、なにやって――」

「さっき言ったじゃん、人って書くからそれを飲んでって」

「いやそれはまじないみたいなもので、その行為をすることに意味があって、実際に書くことに意味はないんだよ」

「え、そうなの!? 初めて知った……」

 そんなこと言いながら手早く書き終える。

「よし!」

「よしじゃないが」

 ニコニコして前を向いている夏希の横顔を見て、なんだかんだ自分が今やれることを誠意一杯やればそれだけでいい気がしてきた。

 これを勇気とは言わないし自信とも違うのだろうけど、不安だった気持ちが多少薄れた気がした。

 それからはあっという間だった。


 「――えー体調不良でお休みなので代わりに副会長の佐藤さんにお言葉を貰います。佐藤さんお願いします」


 不安や緊張はどれだけ薄めることができても、全くもってゼロにすることはできない。というか、時間が経てばまたすぐに勢いを取り戻して襲い掛かってくる。

 壇上に置いてあるあの照らされているマイクまで歩く中、俺は夏希が書いてくれた人の文字が書かれている右手を強く握りしめる。

 そして、マイクの前に立つ。

 俺は握り込んでいた右手を開いて、夏希が文字を書きこんでいく感覚の残り香を思い出しながら掌をじっと見る。


 『入』


 俺はそれを見て思わず口の端が上がる。

 だってさ、ここで文字間違える奴なんているかよ。

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