第5話 俺の名前

変な夢、、ニコルに客室内の浴室で濃厚なキスをされる夢を見たその日、ニコルも俺も出勤日だったけれど、受け持ちのフロアは違ったので、顔は合わせないまま仕事を終えた。


事務所へ戻ると、中国人のホウさんが椅子に座って一点を見据えたまま呆然としている。


異様な雰囲気。


「ホウさん、お疲れ様。」


「松田くん、お疲れ様。」


すると、ベテランの男性清掃員の1人である加藤さんが、イライラとした雰囲気をまとって事務所へ入って来た。


「ホウさんね、ほんとにまた今度10時前に客室の廊下にリネンのワゴン出したら辞めて貰うからね!」


かなりキツイ言い方だ。加藤さんはそのまま、また事務所を出て行った。


俺は研修中に、ホウさんにベットのシーツの掛け方のコツを教えてもらったりしたので、恩を感じていた。


それにホウさんはもう62歳のおじさんで、体力的にもキツイのに、このハードな仕事をいつもゼイゼイ息を切らしながらこなしているのを知っていたので、時間を少しでも稼ぐ為に、まだお客が出払っていない時間にワゴンを出してしまったんだな、と共感出来る部分もあった。


「ホウさん、大丈夫?」


つい放っておけなくて、ホウさんの肩に手をかける。


「俺はもう62歳なんだよ。一生懸命やってるのに。あんな怒鳴られなきゃいけない?」


いつもブツブツ文句を言って、怒ってばかりのホウさんが珍しく、弱気な声で呟いたかと思ったら、泣き出してしまった。


どうしよう、、。


「ホウさんはいつも頑張ってるよ!俺も研修ではお世話になったし、本当に感謝してるんだよ?大丈夫だよ。大丈夫。」


ホウさんを元気づけようと思うけれど、言葉もあまり浮かばず、大丈夫、大丈夫と同じ言葉をくり返して、ホウさんの肉付きのいい体を抱きしめた。


そこへニコルが入って来た。


びっくり!ニコルの事だから、とっくに定時に帰ったと思っていた。


ホウさんに寄り添う俺をチラッと見ると、そのままドサっと椅子に座り、メロンパンを齧り始める。


「松田くんありがとう。優しい。あなた優しい。」


ホウさんが今まで見た事がないような、心細そうな顔で俺を見上げて来た。


「そんな事ないよ。ホウさん元気出してね。いつも頑張ってるんだから大丈夫。」


ニコルが立ち上がる。メロンパンの入っていたビニール袋をクシャッと握るとゴミ箱へポンと投げ入れ、


「ホウさんが放り出した仕事は、俺と加藤さんで終わらせておいたから。加藤さんは責任者として、フロントからかなり怒られたみたいだから、明日にはちゃんと謝った方がいい。」


「分かった。仕事終わらせてくれてありがと。」


ホウさんがポツリと答えた。


そのまま黙ってニコルは着替えると、帰って行ってしまった。


ホウさんも少し落ち着いたみたいで、自分のアメニティカバンの補充を始めた。


「じゃあね、ホウさん。」


「ありがとう、松田くん。」


俺も着替えて事務所を後にした。


何だか浮かない気持ちだった。


大通りを進むと、ニコルのダブルワークの手羽先屋の前で立ち止まる。


今日も居るのかな?


店の中を覗き込んでいると、


「何してるの?」


後ろからニコルに声を掛けられた。


「ニコル!」


ニコルは手羽先屋の隣りのコンビニから出て来たようで、コンビニのビニール袋らしき物を持っていた。


「また手羽先食べに来たの?」


「あ、ううん。今日もニコル仕事なのかなぁって思っただけ。」


「あの、松田くんの下の名前、読み方教えてくれる?」


「え?あ、あぁ、みつき、だよ。」


充実の充に生きるとかいて充生だ。


「みつき、名前も可愛いんだね。」


ニっと笑うとニコルはそのまま手羽先屋へ入って行った。


先ほどまでの浮かない気持ちが嘘のように、なんだかくすぐったいような嬉しい気持ちになっていた。


この気持ちが恋なんだと、俺はその時は気づいていなかった。




つづく






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る