第237話 私が来たぞ!野中さんコーチ伝説

 6月に入り、雨も多くなってきた。

 同時に暖かくなっているので衣替えシーズン。

 私も夏服になりました!


 なので、夏服のまま事務所にやってきたら……。


「おほー、はづきちゃんが夏服に! 二の腕むちむち……!」


「あひー、野中さん!?」


 なんか野中さんがいて、私の腕をむにむに触ってきたのだった。


「あっ、柔らかい中にも明らかに筋肉が……この黄金比ー」


「く、くすぐったぁい。どうしてここに野中さんが!?」


「話せば長いことながら……」


 ここで兄が社長室からにゅっと顔を出した。


「今、彼女は休養中なんだ。声は問題ないが、怪我をしてしまったそうでな」


「そうそう、そうなの」


「ええーっ!! 大丈夫なんですか!?」


 私は思わず飛び上がり、心配した。

 確かに野中さん、足にギブスを嵌めている。


「座ってやる仕事はできるけど、立っての作業は厳しいかな。ちょっとはづきちゃんフィギュアが届いた時に、あまりに喜びながら玄関に駆けつけたら滑って転倒して……」


「ひい、気をつけて……!」


「全治三ヶ月の骨折だけど、静かにできる仕事くらいならやってもいいと言われたので。ちなみに喉もちょっと痛めてて、これはフィギュアの素晴らしさに三日三晩叫んでたら大変なことに」


「それで、うちに演技のコーチとしてお呼びしたわけだ」


 なるほどー。

 つまり、近々声優としてもデビューが決まっているビクトリアを、ちょうどメインの仕事ができない状態になっていた野中さんに鍛えてもらうということだ。


「私としても、ギャラがないと干上がっちゃうし、これは渡りに船と言うか。合法的にはづきちゃんに近づいて触れるというか」


「あひー」


「あまり妹の二の腕とかお腹とか尻や太ももに触らないでもらいたいな……」


 うーん!

 だけど野中さん、目がキラキラしている。

 めちゃくちゃ生き生きしているから、ちょっとくらいはいいかな……。


 野中さとなコーチが就任したことで、ビクトリアも大いに張り切っている。

 現役の大人気声優が色々教えてくれるなんて、なかなか無いからね。


「お願いします、センセイ!」


「はい、お願いされました! ビシバシ教えますよ。まあ、私もせいぜい芸歴十年の若造なんですけど」


 芸歴十年!!

 確かに野中さん、私が意識してアニメを見始めた頃からずっと声優やってるな……。


「ギリギリ二十代です」


「アッハイ」


 聞いてないのに!

 せっかくなので、ビクトリアへのコーチングを見学していくことにした。

 私が声入れとかしたのは、ゲームキャラに選ばれた時だけだったし、あれはあれで演技っていうのとは違うもんなあ。


 台本を読んで、たこやきが用意した動画に声を当てていく講義が始まった。

 ビクトリアもなかなか上手い。

 地元では一人でアニメにアテレコして遊んでたらしいからなあ。


「きちんと口パクに合わせられているのは流石だね。でも、声の出し方がちょっと自己陶酔的かな? このシーンは、そんな大きく抑揚がついた喋り方をするところだと思う?」


 指導が始まった!!

 普段の、ニコニコほわほわ、たまにギラギラした野中さんとかなり違う。

 きちっとした先生だ!


 演じるキャラクターの性格、境遇、内面、物語との関係性などなど、大変細やかに教えてくれる。

 ビクトリアは物凄く真剣になってこれを聞いていて、どんどん吸収していくのだった。


 休憩時間になって、野中さんがいそいそとカバンから箱を取り出す。

 そのカバンというかキャリーケース、何が入っていると思ったら……。


「私もはづきちゃんのフィギュアを三つ買っちゃいました! 一箇所に付き一個制限なんで、三つの通販サイトで予約したよ……!」


「あひー! そ、そんなに!!」


 そのうちの、ブンドド遊び用を持ってきたらしい。


「でも、フィギュアがあったけど野中さん怪我しちゃったし、やっぱりご加護とかはなかったんじゃ」


「あった。最高のご加護があった……。お蔭で今ここでコーチできてるもの。しかも、今参加してる作品は全部撮り終えた後のタイミングだったし、この怪我ならラジオは平気だし」


 何もかもがピタッとマッチしたタイミングだったらしい。

 凹みながら骨折を診てもらっている時にイカルガからオファーが来て、その場で飛び跳ねそうになるくらい喜んだそうだし。


「はづきちゃんはしばらくこっちに来るの?」


「はあ、新人さんもいるし、はぎゅうちゃんとも色々やることがあるのでほぼ毎日」


「うおおおおおおお」


 野中さんが天を仰いで吠えた。

 なんだなんだー!?


「リーダーのフィギュア、本当にご加護があるのね……。ツブヤキックスでは、逆にバチが当たったみたいな人もたくさんいるけど」


「テンバイヤーたちでしょ? はづきちゃんグッズは転売すると加護が呪いに反転するって有名なのに」


「加護が呪いに!?」


 そこまでの規模になるとか、私、初耳なんだが!?


『はづきっちファンがフィギュアを手にしたことで、市民の武装が完成したことになる』『俺たちの剣であり盾! それがはづきっちフィギュア!』『リペイントしてみました。ダーク体操服はづきっち』『闇落ちはづきっちじゃん!!』『はづきっちが闇落ちしたら世界は終わりだろw』『美味しい食べ物がある限り、はづきっちは人類の味方だぞ』


 おお、なんかフラグを立てるような事を仰っている……。

 ツブヤキックスのフィギュア関係の投稿、楽しいなあ。

 ニヤニヤしちゃう。


 その他、転売する人たちの断末魔みたいなのがちょこちょこあった。


「はづきちゃんのフィギュアを転売しようとした人たち、凄い災厄に見舞われてるみたいね。自宅のトイレがダンジョンになって入れなくなったり、扉にゴボウのつっかえ棒がされてたり……」


「ピンポイントな災厄……」


 なんでそう言う事が起きるんだろう。

 同接数で信仰が集まるみたいな感じだけど、これってつまり敵意も集まると力を持っちゃうってこと?

 ありうる。

 今度宇宙さんに聞いてみよう。


 さて、休憩時間は終わり。

 またビクトリアの特訓が始まるのだ。


 私も私で……。


「師匠ー! 来ましたー!」


「じゃあ野中さん、はぎゅうちゃんとダンジョン行ってくるので……」


「ああ~、はづきちゃんが行っちゃう! でも、明日も会えるよね!」


「ええ。明日も来るんで……」


 世界の終わりみたいな顔をしてた野中さんが、パッと笑顔になった。


「リーダーの存在自体がコーチにとっての報酬なのね! お蔭で最高のコーチから学べるわ!」


 実際、野中さんのコーチング期間で、ビクトリアはめきめきと演技の腕を上げていったのだった。

 知り合いの声がアニメから流れてくるまでもうすぐ。

 楽しみ……。


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