第4話


 ……なんで?

 最初に感じたのは、疑問だった。

 だって、何も見えないのだ。何も見えないのに自分の呼吸の音が聞こえる。吸われた空気が吐き出される音。その繰り返し。聴覚が死んでいないのか?人間は、死んでからも体の一部は数分間機能し続けるという、あれか。いや違う。だって今聞いているのは「呼吸音」だ。生きているものしか呼吸はしない。では自分は生きているのか。それなのに、何も見えな……

「……あぁ?」

 急に視界がひらけた。光が目に入ってくる。強い光ではない。あたりは薄暗かった。夜空の下でも物をはっきりと見分けられるくらいの、例えれば夜の祭りの屋台の光を物陰から見ているような、そのくらいの光だった。光源がどこにあるかは分からない。

「なんだ……」

 目を瞑ってただけか。

 と、そこまで考えてエマは気付いた。夜?例えで夜が出てくるのはおかしい。だって、俺が気を失ったのは夕方……

 エマは顔を跳ね上げて空を見上げた。空は黒かった。太陽の残光などどこにも認められず、月はおろか、星も一つも見えなかった。背筋が凍った。どのくらいの時間、気を失っていたのだろう。それに、

「………、……?」

 ここでなにをしていたか思い出せない。しかし、ハイネが仲間を連れて迎えにくると言っていたことは覚えている。目に焼き付いているのは橙に染まりつつある空だ。夕方だった。では、ハイネたちは、すぐにここに辿り着けなかったということだ。もしかしたらどこかでごろつきにでも絡まれて、怪我をして動けないのかも知れない。

 助けに行かなくては。

 エマは立ち上がりかけた。が、次の瞬間、くぐもった呻き声を発して倒れ込むように膝をついた。気付かぬうちに右手を後頭部に添えていた。そこがひどく痛んだからだ。顔を顰めながら右手を目の前に持ってくると、手のひらに少し、血がついているのがわかった。そのことがエマを正気にさせた。

 全て思い出した。

 放課後、帰り道の途中でハイネが絡まれていたこと。助けようとして返り討ちにされたこと。鞭か何かで滅多撃ちにされたこと。そして、ハイネが仲間を呼びにいってくれたこと。この傷が、全てを物語っている。そこまで思い出せたのはいいのだが。

 地面に手をついたエマは、ビクッと身を震わせた。恐る恐る手を見る。土の粒がついている。

「……!!」

 周りを見渡した彼は、目を極限まで見開いた。決して演技などではなく、本当にエマは驚いて、目を見張ったのだ。そして呟いた。

 そもそも。

「ここは、どこなんだ……?」

 アスファルトだと思っていた地面は今は土だった。乱闘騒ぎができるほど広い道幅があるところに倒れていると思っていたが、実際は建物と建物の間の、細い路地だった。エマを挟むようにそびえ立つ建物は、その壁が驚くほど汚れ、黒ずんでいる。腐臭が鼻をついた。治安が悪そうな場所だった。明らかに、あの貧民街の廃ビルが建つ場所ではない。この場所を、自分は知らない。まさか、先程の男たちが死体然としたエマをここまで運んだのだろうか。その考えはすぐに打ち消した。

(有り得ない……死体を隠すのにそんな手間をかけるだろうか?)適当な廃ビルの内部にでも放り込んでおけば良い。それ以前に、エマは殺されていない。

 ではどうしてここにいるのだろう。心臓が早鐘を打つ。自力でここまで来た?それこそ有り得ない。知らない場所まで、傷ついた体を引きずって歩いて行くほど体力も気力も無かったはずだ。第一その記憶がない。困惑しきった頭ではなにも考えられず、もう、どうすればいいか分からなくて、空を振り仰いだ。知らない場所から見上げる知らない空は、冷酷なほど黒かった。

「……」

 しかし、ここで座り込んでいても何も始まらない。時間だけが過ぎてゆくだけだ。エマは痛む後頭部を右手で押さえ、ゆっくりと立ち上がった。身体中の切り傷やら打撲やらがしんしんと痛んだが、堪えてなんとか自立する。何度か足踏みした後、エマは歩き出した。怪我は浅く、広範囲にわたっていたが、かろうじて歩けることに安堵する。

 今はとにかく、ハイネたちを探さなくてはならない。ハイネは嘘つきではないので、来るという約束をすっぽかすようなことはないだろう。もしかしたらすでに近くにいるのかも知れない。

 足の下で、土の粒と靴裏が擦れる音が聞こえる。周りに人の気配はなかった。だから余計に、その音が耳につく。一歩踏み出すごとに、身体中が痛み、疲労で関節がギシギシと音を立てて軋むようだった。どこかに寝転びたい。施設の固いベッドを恋しいと思ったのは、これが初めてかもしれなかった。だがこの知らない場所から脱出しない限り、安全なベッドの上というのは保証されないのだ。エマはため息を吐き、背を丸めて歩き続けた。正直もう疲れた、歩くのをやめてしまいたい。全て投げ出して今すぐ寝たい。しかしハイネは?カタリは?ストリートの仲間たちは?彼らが怪我を負っていたとしたらどうするのだ?

「……」

 止まれるわけないだろう。前方の薄暗がりを睨みつける。ハイネたちは必ずどこかにいる、今はそれだけを心の支えに、エマは歩みを止めなかった。

 何度もビルの間を見回して、曲がり角をいくつも曲がり、何回も空を見上げた。それでもハイネたちはおろか、人っ子一人見当たらない。数千の針の上を踏んでいるような痛みを足裏に感じていた。酷い疲労、身体中至る所の激痛に、エマは目を閉じて額に手を当て、闇の夜空を振り仰いだ。目をうっすらと開けてみたが、やはり、のっぺりとした黒い空に、星は一つも見えない。

 もうどうすればいいか分からない。どこに行けばハイネたちに会えるのか、そもそもどこに向かえばいいのか。この道はどこに向かっているのか。同じような土の道が目の前に広がっているだけだ。

 ついにエマは歩みを止めた。いつのまにか息が上がっている。

「……畜生が……」

 人知れず、悪態をついていた。『汚い言葉を使ってはいけません』、施設のルールの一つだ。どこにでもある、チンケな暴言を禁句としたチンケな規則だ。今は、その施設も、その言葉の書かれた張り紙も、全て、遠い昔のように感じる。

 その時だった。叫び声が聞こえた。悲鳴ではなく、何かに抵抗するような、そんな声が。

「ハイネ?」

 薄暗い闇の中を、足裏の激痛さえ一時忘れてエマは駆け出した。ここの路地はどこに繋がっているかわからない。が、声を頼りにすればそこに辿り着けるだろう。

 叫び声は路地の奥まった方から聞こえた。知らない道を走るのにエマは手こずった。声は聞こえるのに、走っていて曲がるとそこは行き止まりだったり、気づかぬうちに元の場所に出てきてしまったりした。焦りが募った。声は不明瞭だが、確実に遠ざかっていっている。

 見えない声の主について走ったり歩いたりを繰り返していると、いつしか高い土塀に挟まれた道に出ていた。塀には瓦の屋根のようなものが取り付けられており、その側面には一定の間隔をおいて火のついた松明が掲げられていて夜道でも十分明るい。見渡す限り、人は一人もいなかった。そのおかげか、道に出た途端、声が急に近くに聞こえるようになった。エマの耳がはっきりと声を捉える。

「離して!離せってば!わたしは帰らない、帰らないぞ!!わたしは迷子じゃない!離して!」

 エマはぽかんと口を開けた。話の方向が全く見えない。これが「離して!そんなところに行きたくない!帰らせて!」なら、拉致されたのかとか、拐かされたのかなどと大体予測がつくものだが、「帰りたくない」とは何事か。まるで家出したお姫様だ。それに被せるように、「まぁまぁお嬢、暴れないでくださいよ。これでも怪我しないようにおうちに送り届けて差し上げますから」という低い声が聞こえた。それと、重い足音が複数。声と足音の感じからして男か?エマは自分の足音を出来るだけ抑えて見えない相手を尾行した。

 声は、土塀のすぐ裏のようだった。それに、ハイネの声ではない。ハイネはまだ第二次性徴を迎えていなかったとはいえ、これほど高い声ではなかったはずだ。となると、女児か。ストリートの仲間ということはおろか、全く知らない子供という確率の方が断然に高い。叫んでいる内容も理解し難い。しかしここまで来たんだ、助けられるなら助けてやりたい。

「やめて!!帰りたくない!!」

 俺は、元いた場所に帰りたいけどな。

 エマは心のうちに呟くと、いきなり地面を蹴って跳んだ。声がする方の土塀は進行方向に向かって右側。エマは左側の土塀めがけて跳び、その側面を蹴って軽々と右側の土塀に飛び乗った。やはりだ。声は、土塀一枚挟んだ裏側から聞こえていた。エマが思い描いていた通りのシチュエーションが、そこでは繰り広げられていた。想像していた通りの状況だ。しかし……

 ……キャストを除いて。

「…………は?」

 エマは目を剥いた。男は三人。そのうちの一人に、少女が担ぎ上げられている。幼い少女だ。もちろんエマよりずっと歳下だろう。ジタバタと手足を動かして抵抗している。男たちはそんな彼女に手を焼いているようだ。しかし肝心の男たちは、皆。

「鬼……?」

 エマは呟いた。

 身体は、普通の人間のようだ。フードのついた上着にジャージのような質感のズボンを履いている。休日の少年のような出立ちだ、エマも似たような格好を学校のない日はしていた。背格好で言えば成人した男性くらいだ。しかし、彼らの首の上には鬼の顔が乗っている。少なくとも人間の顔ではない。何故すぐに鬼だと分かったかというと、いつか施設の絵本で見た鬼の挿絵と、ほとんど同じような顔の作りだったからだ。額からはツノが生えていて、大きすぎる目はギラギラと光り、口からは、太い牙が上下四箇所からにょっきりと生えている。皮膚の色も、グロテスクなくらい真っ赤だった。まるで生きている生き物を生きたまま引き裂いた、その内部の肉のような。明らかに人間とは違う。コスプレか?だったら、随分と嫌なコスプレだ。あまりにもリアルすぎる──というか、グロテスクすぎる。それにコスプレする理由が見当もつかない。今はハロウィンの季節ではない。

 一人、(この場合鬼の数え方が一人二人であっているのかは別として)こちらを振り向いた。その鬼の顔には、目が六つもついていた。縦に三個、それが横に二列。規則正しく並んだ切長の目は、六つとも、その瞳がバラバラに動いている。それが突然動くのをやめ、一点をギュッと見つめた。

 目が合った。

 六つの目が、エマを見つめている。見つめられている。

「うっ……」

 エマは息を呑んだ。動けない。しかし、それは向こうも同じようだった。

 明らかに、動揺している。

「な、なあ……おい、アレ……」

 一瞬の間をおいて、喉が詰まったようにそう言った六つ目の鬼は、エマを指さした。エマは固まった。

「あぁ?なんだお前、鳩が豆鉄砲を食ったような顔しちまってよぅ……」

 もう一人、今度は人間のような二つの目がついた鬼がこちらを振り仰いだ。そして、六つ目と全く同じ反応をした。ぽかっと口を開け牙をのぞかせた後、ブルブル震える指でエマを指した。

「あ……?何……お前……え?」

「んだお前ら、何があったってんだよ」

 少女を背負った鬼が、目の前の仲間二人の挙動を見て訝しんだ。少女を背負っているせいで、思うように身動きが取れないらしい。しかし、肩の上の少女は首を痛めそうなほど思い切り曲げて、塀の上のエマを見た。大きな瞳がエマを捉える。少女は人間だった。エマは思わず彼女と目を合わせた。彼女は、落ちかかってきた長い前髪の間からエマを見つめ、今にも眼球がこぼれ落ちてしまいそうなくらい大きく目を見開いた。

「……にんげん」

 少女が呟いた。年相応の、幼い声だ。背負っている鬼が逆上したような声を出す。

「あぁ!?人間だぁ!?テメェら、俺を揶揄ってんのか?人間がここにいるわけねぇだろうがよ!笑える冗談と笑えねぇ冗談があるけどヨォ、それは間違いなく笑えねぇ冗談の方だぜ、おい!ったくよぉ、何がいるってんだよ。イタチとかタヌキとかだったらマジで許さねぇか……」

 言いながらその鬼は振り仰いだ。が、果たして反応は他の二人の鬼と同じだった。エマを捉えた瞳がギュウッと小さくなり、口をだらしなく開ける。一方見据えられたエマも、塀の上から転がり落ちそうになった。少女を背負った鬼は、目が一つしかなかったのだ。拳大くらいの大きな目が顔の面積の三分の一ほどを占めてしまっている。気味悪いことこの上ない。キモっ、と呟きそうになったのをなんとか口の中に抑え、エマは身を乗り出した。なんと、一つ目の鬼が驚きすぎてか肩の上の少女を取り落としそうになったのだ。

 いくら仰天したからといって、それはないだろう!しかも落としかけていることに気づいていない様子だ。少女は悲鳴を上げた。鬼はかなりの巨漢であったが、その高さから落ちるからといって、それほど大怪我はしない。しかしエマは、その場にいた誰よりも早く動いていた。塀から地面に飛び込むように飛び降り、自由落下を始めた彼女を地面スレスレでキャッチする。彼女を抱き込んだまま、ハイネを助けた時のように地面を転がって鬼たちから距離を取った。

 土塀の後ろも、土を踏み固められて作られた道になっていた。こちら側の塀の壁には松明は掲げられておらず、いくらか暗かった。だが何も見えないという暗さではない。エマは、着地した時に立ち上った土煙を手で払いつつ、未だ動かぬ鬼たちを尻目に少女の顔を覗き込んだ。

「大丈夫か!?」

「……!」

 少女は驚いているのか、体をガチガチに固めたまま口だけをはくはくと動かした。呼吸すら上手くできていないようだ。怯えの混じった大きな瞳がエマを見つめる。

「おい……大丈夫、か?」

 まるで人形を抱いているような気持ちになってくる。本当に彼女が生きているか不安になってエマは再び問うた。

「あ……」

 少女がか細い声をあげた。生きていた。いや、当たり前か。

 途端、彼女はエマにしがみついた。

「お、おい!」

 エマが慌てたように彼女を押し留めようとする。しかし、必死になった彼女の力は強かった。引き剥がすことすらできない。

「逃げて!」

 いきなり少女が叫んだ。エマは困惑した。

「は」

「今すぐわたしを連れて逃げて!!」

「に、逃げるって」

 どこに、と言い終わらないうちに少女は

「いいから!!」

 耳も裂けよとばかりに絶叫した。

 その声に弾かれるようにしてエマは立ち上がり少女を右肩に担ぎ上げて、鬼たちとは反対方向に駆け出した。どこかに光源があるのか、道はぼんやりと明るい。

「どこまで行けばいい!?」

「道がわかったら教える。今は走って!!」

「……分かった」

 風が耳元で渦を巻く。走りながら、エマは後頭部がズキズキと痛みだしたことに気づいた。そこから力が抜けていくような錯覚に陥る。小さく舌打ちした。走っていてもいつものようにスピードを出せない。彼女を背負っている今は、なおさらだった。しかし、その時。

「……お、おい逃げたぞ!」

「あのガキ、人間か!?人間だよな!!」

「クッソ……あいつ、お嬢を奪いやがった!!」

「人間だろうがバケモンだろうが構わねぇよ!追えっ、追えー!!」

 鬼たちのダミ声が風にのって聞こえてきた。エマは飛び上がりそうになった。図らずも、いや、だいたい事がどう運ぶかは予想がついていたが、追われることとなってしまった。相手は鬼だ。本物の鬼ごっこをここで体験することになろうとは。エマは出来るだけ速く走った。が、すぐに息が上がり始める。やはり手負いの身の上、体力勝負は自分には向いていない、しかしここで逃げることを放棄するわけにはいかない。歯を食いしばる。どこか……どこか、一時的に身を隠せるところがあれば。

 エマは自分の右隣にそびえる土塀を見上げた。高さはだいたい三メートル弱くらいだ。助走をつけてからジャンプすれば手が届かぬこともないだろうが、今は一人ではない。肩の上に少女がいるのだ。彼女がいる限り、土塀を越えて向こう側の道に飛び降りることは難しい。

「あっ!」

 そんなことをぼんやりと考えていたエマはつんのめり、転びかけた。まずい。背後からは、鬼たちが怒声を飛ばしながらどんどん近づいてくる。なんとか持ちこたえたものの、鬼とは距離が縮むばかりだ。

 どうするか。

 エマは一時立ち止まった。乱れた呼吸を整える。途端に肩上の少女が身をよじった。

「逃げて。お願い、止まらないで。あいつらに捕まりたくない」

「これから逃げるんだよ」

 エマは意を決したように強い口調で、かつ早口で言った。

「いいか、俺は逃げようとしてるお前に手を貸すつもりだ。だがこれからやることは少々野蛮だ、お前は怪我をしてしまうかもしれない。しかし今はこの方法しかない……実行してもいいか?」

「構わない」

 その返答を聞くや否や、エマは全力で走り出した。肩の上から少女を降ろし、腕の中に抱く。すぐに息が上がり始めた。だが彼は止まらない。程なくして自分が出せる最高のスピードに達した時、エマは叫んだ。

「許せよ!」

 エマはいきなり、腕の中の彼女を上に放り投げた。厳密に言えば塀の上に。しかし勢い余ってか、放り投げられた彼女は三メートルの塀よりも高く宙に浮いた。それをエマは狙っていた。

 エマが塀に取り付く。塀の側面の僅かなでこぼこにつま先を引っ掛け、ヤモリのように素早く登り切ってしまう。あっという間に塀の上に到達すると、落下してきた彼女を受け止め、そのまま内側に飛び降りた。目にも止まらぬような速さだった。

「おい、消えたぞ!」

「ばか言え、塀の内側に入ったんだチクショウ!」

「回りこめ!」

「馬鹿、隣の道につながる回り道なんてここにはねぇんだよ!」

「いや、どこかに抜け道があったような」

「探せ!!」

 塀一枚隔て、鬼どもの声がくぐもって聞こえてきた。なんとか巻くことができた。いや、巻けてはいないか。どちらにしろ、鬼がすぐにこちら側の道にくることは出来なさそうだ。着地まで綺麗に成功させたエマは、安堵のため息を吐き出した。まさか壁をぶち抜くようなことはしないだろう。

 抱きかかえていた少女を降ろしてやる。

「手荒なことして悪かったな……怪我は?」

「大丈夫」

 服についた土埃を払いながら少女はエマを見上げた。

「ありがとう」

 宝石のような一点の曇りもない大きな目が、真っ直ぐにエマを見つめてくる。エマはなんとなくたじろぎ、目を逸らした。

 彼らが避難したのは、壁に松明が取り付けられている道だった。エマが最初に通った道だ。お陰で少女の容貌を観察する事ができた。

 彼女は、変わった髪色をしていた。銀髪であるエマが言えたことではないが、それでも彼女の髪の色は珍しい、深青色であった。染めているのかとも思ったが、それにしては髪の毛一本一本が太くしっかりとしていて、全体的に艶があってさらさらとしている。おそらく地毛だ。染めるとどうしても髪が傷むものだ。肩のあたりで切りそろえられた髪は、風が吹くたびに靡いた。

 そして、大きな瞳は、髪と同じように深い青色をしていた。

 可愛らしい顔をしている少女であった。顔のパーツが、収まるべきところに収まっている感じだ。

「……」

 暫し沈黙が流れた。少女はキョロキョロとエマの全身に目を走らせているようだ。青い瞳が忙しく動いている。やがてその目はエマの頭に留まった。

「……綺麗」

「え?」

「髪の毛、すごく綺麗」

 銀色なんだね、と彼女は静かに言った。

「あ、き、綺麗?俺の……髪?はは、そう……ありが、とう?」

 思ってもいないことを言われたエマは狼狽えた。と、少女はすいっと白い手を挙げた。エマの顔を指さす。

「頭の後ろ」

「……え?」

「どうしたの、それ。血が出ている」

「ああ……これ?」

 エマは思わず後頭部に手を当てた。

「話すと、少し長くなるんだが……」

 が、次の瞬間。

 ドタドタと無粋な音が遠くから聞こえてきた。

「チクショウ!だからこの道通るのはやめようって言ったんだ、迷路みたいなんだもん!!」

「なぁーにが『迷路みたいなんだもん』だ、キショいんだよ!!」

「るっせぇ黙れ!誰だよこの道チョイスした奴は!?……って、あ、俺か」

「じゃかあしいわ!テメェこそ黙れ!!」

 鬼どもだ。抜け道を探しているようだったが、結局見つからず戻ってきたのだ。何故塀を乗り越えるという発想に至らないのだろう。エマより上背のある鬼たちだ、塀を乗り越えることなど容易いはずだが。

「どうすんだよ!?」

「もうこれしか方法はねぇだろ!?」

 方法?やっと塀によじ登る覚悟ができたのだろうか。意味深な内容だった。

「……来た」

 少女が軽く絶望を含んだ声で言う。

「逃げてる理由を知りたいんだが、後回しだな。走れるか?」

「うん」

 少女が走り出す。エマはその後からついていこうとした。が、その後ろ姿を見て顔を顰めた。なんとも危なっかしい、力の少しも入っていない走りのフォームだったからだ。スピードもさほど出ていない。生まれたての子鹿と言ったら誇張しすぎだろうが、走り慣れていない者の走り方といえばよいのだろうか。案の定、数歩走ったところで彼女は不意につんのめり、「ふぇ」と抜けた声をあげてすっ転んだ。見かねたエマが声をかけた。

「……大丈夫か?」

「ううう……痛い……」

「傷は?」

 少女はエマに膝頭を見せた。が、膝には一滴の血も流れておらず、土に擦ったそこが黒く汚れているだけだった。結構派手に転んだように見えたが、杞憂だったようだ。

「走り慣れてないようだな」

 エマがそう言うと、彼女はガックリと項垂れてしまった。エマは短くため息をついた。

「俺が負ぶるよ。そっちの方が早い。悪いけど、少し我慢しろよ」

 エマはそう言うと、ひょいと少女を右肩に抱き上げた。後頭部がズキン、と痛んだ。が、気にしないようにして走り出す。足音をできるだけ消すようにしているので、あくまでジョギングくらいの速さだった。

 揺られながら、少女がむくれた声で言った。

「……これじゃ、負ぶってると言わない」

「……文句言わないの」

「む……」

 再三項垂れた。

 エマは聞いた。

「どこまで行けばいい?まぁ、あの場所にとどまっているよりはいいと思うけど……」

 彼女は前方を見据え、

「この道はよく知らない。でも、知っている道に出られたら案内できる。そこまで走って」

「俺も、ここの地理のことは全く知らないんだが……」

「大丈夫。止まらなければ、絶対に知っている道に出られる」

「……とにかく走ればいいんだな?分かっ……」

 

 語尾の「た」は重たいものが崩れゆく轟音によって掻き消された。


 大地が揺れる。まるで、大質量のものを近くに落とされたような。地面がうねり、平衡感覚を失ってよろめいた。踏ん張ってなんとか耐える。エマは振り返った。そして、見た。

 土煙が立ち上る中、厚い土壁の一部が木っ端微塵に砕かれ、大きな口を開けているのを。そして、その煙の弾幕の中に立つ、異様な影を。シルエットは三つだった。頭にツノのようなものが生えている。

 言わずもがな、鬼だ。

 彼らは文字通り、壁をぶち抜いたのだ。

「嘘だろ……」

 エマはぼんやりと呟いた。全身の毛が逆立つ。もはやなんと言って良いものかわからない。一体どんな馬鹿力があればあれほどの芸当ができるのだろう。

 鬼の一人がブン、と腕を振ると、立ち込めていた粉塵は瞬く間に晴れてしまった。

「いたぞ!」

 鬼が叫ぶ。地獄で亡者を追いかけまわす獄卒さながら、三人はこちらに向かってきた。獄卒と違うのは金棒を持っていないことくらいだ。鬼ごっこ再開。エマは舌打ちした。固まってしまった身体を再起動させる。

 塀の内側に移動したあの時、すぐに少女を連れて逃げていればよかった。そう簡単にはこちらに来られないだろうと油断していた。それが仇となったか。

「逃げて!」

 肩から悲鳴じみた叫び声が上がる。エマは弾かれたように駆け出した。

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