第3話


 エマは、十七歳である。れっきとした現役男子高校生であり、貧民街を外れた、隣の地区の学校に通っている。学校生活はと言うと、部活動はせず、友達と呼べるような付き合いをしている同級生もいないが、授業だけは真面目に聞いている。しかし決して、授業態度が良いかというとそうでもないのだ。教師も、エマを優等生と呼んで良いのか良くないのか測り兼ねていた。

 昨日、バイトも無いのに門限を過ぎたことをこっ酷く叱られた。まさか、子供たちにアクロバットを披露していて帰りが遅くなりましたというたわけた理由も言えず、ほぼ深夜まで続いた説教で十分眠ることもできなかったエマは、睡魔に犯されまくっている頭を抱えてやっとのことで登校した。教室に着いたら机に突っ伏してでも寝よう。そんなことを考えながらエマはいつもと同じように校門をくぐろうとした。が、その時。

「おいお前!」

 野太い声がかけられた。エマは前だけ真っ直ぐに見つめて校舎の中に入ろうとしたが、突如目の前が赤く染まった。咳すらもしていないのに、自分が喀血でもしたのかとそれなりに驚いたエマだったが、健康体そのものである彼がそんな悲劇に急に襲われるはずもなく、すぐに視界の広範囲を占めているその赤とは目の前の男が着ている赤ジャージだと知った。そのジャージにはお馴染みの白いラインが二本、上下で揃って入っている。はっきり言って、ものすごくダサかった。

「……おはようございます」

 下から睨めつけるように、エマは進路に立ちはだかる生活指導の教師に挨拶した。

「エマ!またお前か!何回言ったら分かるんだ!!」

 教師のくせに、生徒の模範となるような挨拶もなく、赤ジャージの彼は怒鳴った。

「いつも注意しているだろう!!その銀髪は禁止だ、さっさと黒く染めてこい!お前が風紀を乱しているんだ!!」

 確かこいつの担当教科は体育だったか、などと考えながらエマはジロリと教師を睨みつけた。

「……地毛なんですけど」

 朝から下品な大声をあげて風紀を乱しているのは、そっちだろう。こちらは、声には出さなかったが。

 しかし赤ジャージは聞いているのかいないのか(おそらく聞いていない)、なお唾を飛ばして怒鳴り続ける。

「しかもお前の前髪は長すぎるんだ!眉にかかったら切る!いつも集会でも言っているだろうが!どうしてお前はいつも言うことを聞かねぇんだ耳がねぇのか!?お前のこの耳は飾りか、おい!!」

 他の生徒がチラチラ見ながら、自分が絡まれることがないよう息を潜めてエマと教師の横を通り過ぎて行った。エマは内心舌打ちした。はなっからこんな奴に目をつけられるなんて、ツイテナイ。

「じゃあ先生のように髪を整髪料で固めることは生徒もして良いんですか?」

 確か整髪料を使うのは生徒はダメだったはずだが。エマはなんとなくそう、くちごたえしてしまった。本当に『なんとなく』だった。その一言が、どれだけ相手の機嫌を損ね、場をこじらせ、面倒くさい展開に発展させることが容易か簡単に予測できたのに。

「なんだお前、教師に向かってその口の聞き方は!?俺の言うことに文句でもあんのか!!」

 案の定、赤ジャージは顔まで赤く染めて怒鳴った。

 文句有り余りだよ。バカはすぐこうやって、自分が不利な立場に落ちかけると論点を変えてくる。

 この脳筋が、と胸の内で毒づいたエマは無言で赤ジャージを見上げた。

「返事をしたらどうなんだ、まったく!人としてなってねぇなお前は!」

 ……どっちが。

「…………ハァ」

「なんだその気の抜けた返事は!?ふざけるな!もういい、今すぐ帰ってその髪を黒く染め直してこい!!」

 ここまではよかった。ただ苛ついても聞き流せる程度の言葉の羅列だった。黙ってやり過ごせば良い。エマはそう割り切って、沈黙を貫こうとした。しかし。

「なんとか言ったらどうなんだ、クチマ・エマ!!」

 教師がそう、エマの名を呼んだ。クチマとは、エマの収容されている孤児院の名前だった。単純に院長の苗字がクチマなのだ。だから、クチマ孤児院の子供たちは皆、苗字はクチマとされている。だがエマは、孤児院の中でも数少ない、自分の苗字を知っている子供だった。だからクチマという苗字を認めたくなかった。担任にもクラスにも、もちろん院長にも頼んで許可を取り、本名を名乗らせてもらっている。だから、『クチマ』という苗字は、エマにとっては禁句の一つだった。エマが極度に嫌がっている、それを分かっていながら、赤ジャージは、エマのことをそう呼んだのだ。

 エマの態度が、目に見えて変わった。

 空気がズン!と重くなった。エマの周りの空気の密度が増す。言うなれば、殺気。エマは、瞳の中に青く燃え盛る炎を宿したかのように、これまでに無いくらいの険しさ・激しさで教師を睨みつけた。

「……その名で俺のことを呼ばないでください。俺には俺の、ちゃんとした名前がある」

 冷たさが絡んだ、低い声でそう言い放った。教師の目に、さっと怯えが走った。殺気に当てられてか、彼のような脳筋でも、エマが本気で怒っていることを感じ取れた。もはや本能で感じたのかもしれないが。

 しかしそこは無駄にプライドの高い大人。慌てて取り繕うように、声を張る。

「そ、それとこれとは関係が無いだろう!良いから染めてこい、あ、あと、前髪は切れ!長いから!」

「絶対嫌だね。誰があんたの言うことなんか聞くかよ」

 敬語を使う気持ちも失せた。短く吐き捨てると、エマは彼を押しのけるようにして校舎に向かって歩いて行った。後には、半ば呆然としている赤ジャージだけが取り残された。


 今から思えば確かにその日、エマはツイていなかったのかもしれない。朝の一件から始まり、教室に入り席に着く間も無く週番を押し付けられ、(押し付けた張本人は部活の朝練があるとかで飛び出して行った。エマのことを無口な便利屋とでも思っているのだろうか。)そのせいで、貴重な朝のホームルームまでの睡眠時間を取れず、酷い眠気と戦いながらの授業はまったく身が入らなかった。午前の授業が終わる頃には完全に撃沈していた。そのこともあってか放課後は職員室に呼び出され、担任から赤ジャージと同じような説教をされ、解放されたのは施設の指定した門限の十五分前であった。

 職員室を後にしたエマは、それこそ脱兎の如く廊下を駆け出した。二日間、バイトも無いのに門限を守れなかったらもっと説教されるのは目に見えている。そんなのはもうごめんだ。では、放課後に担任から呼び出しをくらって説教されていましたと、素直に院長に伝えるか?無論、却下だ。呼び出しの理由とその内容を問いただされた後、叱られるだろう。しかしこのまま歩いて帰っては、施設まではゆうに三十分ほどもかかる。走っても、途中で息切れして体力が尽きてむしろ帰りが遅くなるのがオチだ。ではどうするか。

 階段を降りかけていたエマは、しばし考えた。今日は確か木曜日。木曜日は、吹奏楽部の連中が屋上で練習する日だ。つまり、今日のみ、いつもは施錠されている屋上が開いている。

 何を考えたか、エマは降りてきた階段を駆け上がり出した。そのまま四階建て校舎の最上階まで登り切り、さらに屋上に飛び出した。やはりだ。鍵はもちろんのこと開いていたし、そこには楽器を持った生徒が点々と散らばっていた。落下防止の背の高い金網フェンスに寄りかかって談笑している生徒もいる。が、しかし、エマという不法侵入者が現れたことで、彼らは一斉に口をつぐみ、彼を見た。彼は、屋上に来たことを後悔した。これほど多くの視線に晒されるとは、心地の良いものでは無い。しかし門限は今日だけはなんとしても守りたかった。

 エマはフェンス越しに周りの建物を見回した。学校と同じくらいの高さの建物がひしめき合っている。街を見下ろせば、ビルやアパートの建物の屋上が見えるだけで、道路などほとんど見えない。大体の施設までの方角を見定めると、エマはフェンスに取り付いた。

「ちょちょちょ君ィ!?何やってるんだ!?」

 誰かが叫ぶ。部活の顧問だろう。エマは構わずスルスルと上まで登り切ってしまうと、目の下の生徒たちと教師一人を振り返った。かすかに悲鳴が上がった。そこではたと思い至った。これでは自殺と思われかねない。いや、もう思われているのかもしれないが。幸い見渡した限り、顔見知りのものはいなかった。エマのことをよく知らないであろう彼らなら、デタラメな理由をでっち上げれば見逃してくれるかもしれない。そして、苦し紛れに捻り出した理由がこれだ。

「……ぱ、パルクール部の者です」

 いや何言ってんだ。そんな部活この学校にあったか?恥ずかしさに襲われ、向こうの反応も見ず、そのまま隣の建物の屋根に飛び降りた。今度こそ大きな悲鳴が上がりかけたが、エマが無事隣の建物に飛び移ったのが見え、生徒どもの安心したようなため息がこちらまで聞こえてきた。そのまま学校を後にする。風に乗ってかすかに、「うちにパルクール部なんてあったか?」「あの要領じゃ本当にパルクールの選手かもよ?」「かっこいいー」などと聞こえてきたので、まあうまくやり過ごせたのだろう。

「白い狼みたい……」

 誰か、そうこぼした。


 白い狼。白狼。ストリートの仲間達と、同じことを言う者がいる。狼の毛並みのような銀髪が、後方に靡いた。エマは軽く笑った。

 

 それが、エマが人間から“白狼”と呼ばれた最後の記憶となった。

 

 同じ様に屋根と屋根をつたい、ダクトの管を使って壁を器用に登り降りし、跳んで、走って、五分ほどでやっと施設近くまでたどり着いた。貧民街の街並みを見て息をつく。なんとか間に合いそうだ。

 エマは地に足をつけて歩き出した。門限までは後八分。やはり目的地まで直線に近いルートを辿れば楽に早く着ける。まあ、この芸当はエマにしかできないだろうが。

 エマは一日にあったことをぼんやりと思い返した。朝のこと、昼のこと、放課後のこと。災難続きだった、と思う。明日はホームルームギリギリに行こう。そうすれば赤ジャージとも鉢合わせないだろうし、週番を押し付けられることもないだろう。その分長く寝ていられるというものだ。そう、明日こそは……

 

 明日があると、そう、思っていた。当たり前のように朝日を見られるだろうし、当然のように学校に行くのだろう。授業を受け、放課後にはバイトに顔を出すのだろう。夜は素直に眠りについて、また次の日を迎えるのだろう。

 明日が、皆と平等にエマにも訪れることは、誰かに保証されたわけではない。でも、誰がそんな当たり前のことを疑うだろうか。明日がまさか、自分には迎えられないだなんて。

 エマは、これっぽっちも思っていなかった。


 遠くの方で、悲鳴が聞こえた。今日はよく悲鳴を聞く。しかし、悲鳴にもいくつか種類があることを、エマはこの時、初めて知った。屋上で聞いたのは、拒絶反応の様な、見たくないものを無理矢理見せられた者が発する、そんな感じの声だった。しかし今聞こえたのは少し違う。拒絶反応は少なからず含まれている。だがそれだけでは無く、もっとこう、何か複雑な感情が混ざった様な……

「──────苦痛?」

 思わず、と言った感じでエマはつぶやいた。気づいたら、深く考えずそのまま声のした方に駆け出していた。

 そうだ、この悲鳴を占めている大多数の感情は苦痛だ。痛い時、苦しい時、耐えられず上げられる声だ。声は幼かった。では子供か。どうして、誰が。

 声は断続的に響いてきた。段々とその音源に近づいて行くにつれて、男の下卑た声までもが聞こえてくるようになる。脳裏にジョウが浮かんだ。あの、給料袋を奪われ、当然の怒りとして飛びかかっていったが、逆に痛めつけられた少年だ。また子供が、邪な大人によって傷つけられている。声からして、男は数人。女はいないかもしれないが、正確なところは分からない。やがて、廃ビルが連なるところまで来た。廃ビルにはよく不法占拠した者たちが入り浸っていることがある。自分たちの根城にたまたま近づいてしまっただけの子供を、痛めつけているのか。

「……ここか」

 薄暗い路地裏に駆け込んだ。確かにそこでは男たちが何かを囲んでいるようだったが……

 作戦も何も立てぬすっからかんな頭でここに来たのは、あまりにも迂闊だったか。

「…………は?」

 エマは硬直した。男は、ざっと二十人はいた。これだけの数相手に渡り合えるほど、体力的にもエマは強くない。引き返そうかとも思ったが、先ほどの悲鳴のことを思うとそういうわけにもいかなかった。……と、その時。男の一人がエマに気づいた。

「……なんだお前……」

 彼がこちらに体を向ける。その拍子に、エマは取り囲まれているナニカを垣間見ることができた。その姿を認めた途端、エマは全身の血流が頭に集結したように思った。心臓が踊りだす。

「ハイネ!?」

 我知らず叫んでいた。男たちに囲まれて、子供が一人、倒れている。少年だ。いや、もっと幼いかもしれない。ボロのようなものをまとっている。長い髪で、表情は見えなかったが、仰向けに倒れたその胸が微かに上下しているところを見るに、生きていることは間違いないようだった。彼の名はハイネ。ストリートチルドレンの一員である。

 エマの声に気づき、その少年が身を起こし、顔を上げた。

「……!?エマ、さん……?」

「ああハイネ、そうだ俺だ!お前どうしてこんなところでっ……!!」

 言い終わらぬうちに、エマは腹を殴られ、背中のバックパックもろとも後方に吹っ飛ばされていた。本来ならば、男が近づいてしていることくらい簡単に気づけた。しかし今はハイネに完全に気を取られ、周りの注意を怠っていた。なんたる不覚。

「ガハッ……!」

「あーあーおにーさん、だめだよ近づいちゃあ。あのガキはこれから俺らが殺すんだから。殺されるシーン、おにーさん見たくないでしょ?真っ赤な血がいっぱい出るよ?」

 エマを殴った男はそう言ってヘラヘラと笑った。エマのことをただの通りすがりの一般人にしか思っていないようだ。一方、胃のあたりをもろに殴られたエマは、その衝撃でせりあがってきた胃液をその場に吐き戻した。それを見ていた男の笑い声が大きくなる。

「ハハハ、きったねぇ」

「エマさん!!エマさん大丈夫!?」

 ハイネが叫ぶ。しかしその絶叫に被せるようにして「うるせーな、このガキ」という声が耳に届いた。一瞬後には、何かが硬いものに叩きつけられる音。直後に苦しそうに呻いたのは、ハイネか。

「ちょっと、一発で殺さないでよ。そいつはゆっくり痛めつけたいからさ」

 そう言いながら男がエマから離れていく。

「まったく、バカだよなぁそのクソガキも。ここがどんな場所か分かっちゃいない。俺らの縄張りに入ってきたものは皆殺し。俺らの姿を見たものも皆殺し。そんなの、ココじゃ暗黙の了解だし、分かりきったことだろうに!!あ、それとおにーさん」

 ひょいと振り返って、男はエマを見下した。まるで品定めするかのようにエマの全身に目を走らせる。

「おにーさん、変わった髪の毛の色してるねぇ。顔も悪くないし。……どう?俺らのとこ、来ない?」

「はぁあ!?ふざけんなテメェ!」

 ハイネを囲んでいた男の一人が、声を荒らげた。

「そいつをオレらのウチに入れるってのか!?ジョーダンじゃねぇ!!頭冷やせ!」

「でもよぉ、こいつの髪、伸ばして刈ったら高く売れっかもしれねえじゃねぇか。それによぉ、こいつの顔見てみろよ、えらく整ってるだろ。……楽しめるかもしれないぜぇ?」

 途端に下劣な笑い声が爆発した。エマの目の前と、ハイネの周りにいる男どもが、ゲラゲラと笑っているのだ。耳を覆いたくなるような醜声。エマは思わず、口内に残っていた胃液を唾と共に吐き出した。ゆっくりと仲間たちの輪の方に近づいていく男の背中を地面から見上げる。エマは、男に気がつかれないように、教科書の詰まったバックパックを肩から下ろした。一歩、二歩、三歩……距離が徐々に離れる。男とハイネの間が縮まって行く。逆に、エマと男の間は広がっていった。地面に伏したエマは、その瞬間を狙っていた。

 男の意識が完全にエマから逸れる、その瞬間を。

 刹那、エマははね起きて、助走もつけずに跳んだ。目前をダラダラと歩く、彼の身長ほどの高さも跳んだだろうか。彼の左足が狙うのは、男の後頭部。そのまま、高い位置から身体が重力に引っ張られるに任せ、全身の体重を以って男を踏み倒した。実際は蹴るように踏んだのだが、本当に、踏み倒したとしか表現できなかった。鮮やかな蹴り、究極の襲撃。硬く弾力のあるものが、同じく硬いものに打ち付けられる嫌な音が鳴り響いた。おそらく男の顔面か額がアスファルトに打ちつけられた音だろう。男はうつ伏せに倒れ、動かなくなった。その上に立ったエマは、男の肩を踏みつけにして同じように再び跳んだ。ハイネの周りの男たちに、武器も持たず素手で突っ込んでゆく。

「なっ、なんだこいつ!?」

 てっきりエマが気を失っていたと思っていた男どもは、驚きもあらわに叫んだ。慌てて応戦態勢に入るがもう遅い。牙を剥いた獣と化したエマはそう簡単には止められなかった。手始めに一人、顔面を渾身の力で殴られ気絶した。その時の勢いのままエマは左脚を軸にぐるりと半回転し、後ろにいた男の左頬にも拳を繰り出した。こちらも呆気なく倒れたが、そこはエマなどより喧嘩慣れしている不成者、三人目はすでにエマに向かって殴りかかってきていた。しかしエマはその突き出された手をぐいと引っ張って男を引き寄せるなり顎下に頭突きを食らわせる。声にならない声をあげて倒れかかってくるのを飛び退いて避ける。その僅かな隙を狙って鉄パイプを持った一人が突っ込んできたが、すんでのところで身体を大きく反らせて躱し、さながら立ちブリッジをするような格好になってしまった。エマは、好機とばかりにそのまま手を地面について後ろ向きに逆立ちをした。立ちブリッジからの逆立ちだ。しかしただ単に得意の芸を見せたとか、そんな馬鹿げた理由ではなく、逆立ちした時の勢いで振り上げた両脚でしっかりと鉄パイプ男の顔を蹴り飛ばしていた。一方、蹴り飛ばされた鉄パイプ男は背後にいた二、三人を巻き添えにしてぶっ倒れた。このようにして四、五人、軽く討ち倒されてしまった。しかし。

 言い換えれば、エマの奇襲が成功したのが四、五人だけであったということだ。

 他勢に無勢、しかも相手は全員大人ときた、飛び道具一つ持たない彼の勝機など、はなからなかったのだ。

 掴みかかってきた男二人と組み合った時が、エマの運の尽きだったのかもしれない。同時に二人を相手にするのはきつかった。体力も尽きかけてきている。攻撃はするが防御にまわる回数が格段に増え、戦闘不能に陥らせるまでの強力な一手を打つことができない。

「くっそ……」

 エマは毒づいた。

 足を掬われたのは、その直後だったか。

「っ……!!」

 ものの見事に、エマは後ろにひっくり返った。が、ちょうど背後にいた男まで巻き添えにしてやった。二人同時に倒れる。しかし、そこで素直に倒れるほどエマは優しくも、鈍いわけでもなかった。身体をずらして男の上に上体が乗るように体勢を変える。実際に、盛大に倒れたもののエマの下敷きになって頭を思い切り打ったのは、男の方だった。だが、視界が大きくかしいだその時、エマは見た。

「ぐっ……や、やめ…………が……っ」

 ハイネが、一人の男に首を絞められていた。限界まで頭を逸らせ、口からは泡を吹き、目を剥いていた。このままでは確実に死ぬ。しかしハイネの細い首にガッチリと嵌った分厚い手は、ハイネが窒息死する前に彼の頚椎を折りそうだった。エマは目の前が真っ赤に染まったように思った。純粋な怒りだ。

「ハイネェエ!!」

 エマは叫んだ。瞬く間に身を起こし、アスファルトを蹴ろうとした。が、何者かに足首を掴まれ、地面に思い切り身体を打ちつけた。

「ぁがっ……!!」

「させるかよ……!」 

 見れば、先ほど道連れにした男だった。顔に血の筋が垂れている。頭のどこかを切ったのか。エマは無言のうちに、自由な方の足で男の手首を蹴った。掴む力が弱まる。蹴りを連続で繰り出すと、三回目くらいで男の手首から何かくぐもった音が響いた。骨でも折れたか。男の手は完全に脱力し、足首を離した。エマは無理矢理足を引き抜いた。が、その時、足首に変な痛みが走った。まさか足の筋を痛めたのか。

 今は関係ないだろ、そんなこと!

 エマは弾丸の如く飛び出した。と、そこへ、今までハイネの首を絞めていた男の拳が迫っていた。避け切れるか。否。顔を思い切り反らせたが拳の方が早く、口の右端部分にそれがヒットした。皮膚が切れ、口の中にあっという間に血が流れ込んでくる。が、エマは止まらなかった。地面に飛び込むなり、力なく横たわっていたハイネを抱き込み、転がった。むしゃぶりつくように、ハイネの口と鼻のあたりに頬を近づける。幸い、微かな呼吸を感じた。エマは安堵の息を吐き出そうとした。

 背中に焼けるような斬撃を受けたのは、ハイネの呼気を確認したのとほぼ同時だった。

「……‼︎‼︎」

 目の前に星が散ったようだった。

 すごく熱い。焼きごて? いいや違う。熱さは急に鋭い痛みに変わった。直前に風を切るような音がした。ではこれは、鞭のような何かか。息が止まる。空気を吸い込めない。呼吸ができない。冷や汗がどっと吹き出した。肺が痛い。違う、実際に痛むのは背中だ。首が固まってしまったようで後ろを見られない。振り向けない。身体が動かない…………動け、ない。

「……ガキが、ナメたマネしやがって。ぶっ殺してやる」

 誰かが、背後に立った。やられる。立て。応戦しろ。ハイネを守れ。身体中の毛が逆立った。本能的な闘争心、しかしそれを覆い尽くすような痛み。こんなこと、初めてだった。

 改めて思い返せば、仲間を守る時だって、多くても五人が相手だった。それに仲間がいた。ほぼエマが片付けてしまう時の方が多かったが、それでも少しでもエマが劣勢に陥れば仲間が突っ込んできてくれた。それが今は、一人だ。もちろんここには、エマと渡り合えるようなストリートの年長の子はいない。ハイネはまだ幼い。論外だ。ではここで、黙って逆襲を受けるよりほかないのか。

 エマの予想通りの結果となった。

 鞭の雨は、容赦なくエマに降り注いだ。首筋、腰、後頭部。いずれも深くはないにせよ、鮮血が吹き出した。当たれば肉を割き、時にはミミズ腫れを形成していく鞭の驟雨は、エマの薄い身体など瞬時に血塗れにした。苦悶の声をあげるいとまなど無かった。耳が鳴り、鞭が風を切る音、男たちの笑い声すらも聞こえなくなった。ただ、ハイネを抱え込む腕だけに力を込めていた。

 痛みが、飽和していく。

 何も感じなくなった。

 どのくらい時間が過ぎたのだろうか。

 エマの敗北であった。

 男たちが傷ついた仲間たちを引きずりながら動かなくなったエマを後にした時、うずくまったエマの周りは血の海になっていた。全て彼の血だ。傷は擦過傷にはじまり、打撲、後頭部には大きな傷が走り、そこから流れ出た大量の鮮血が彼の銀髪を赤く染めていた。しかしエマは、ハイネだけは、守り切ることに成功した。奇跡的にも、激昂した男どもはハイネには目もくれず、エマのみを痛めつけたようだった。彼らが珍しく飛び道具を持っていなかったことも幸いした。やがて、それまで気を失っていたハイネが気を取り戻しエマの下から這い出てきた時、目の前に広がっていた光景に絶句した彼は、しかし自分を守ってくれたはずのエマがピクリとも動かないのを見て、ヒュッと息を呑んだ。

「!?え、エマさん?エマさん!!」

 涙声で叫びながら、エマの身体を揺さぶった。後頭部の銀髪が真っ赤だ。幼いながら、エマが大怪我を負ったであろうことは分かっていた。エマが微かに身じろぎする。

「……、……ハイネ……?」

 ゆっくりと顔を上げた彼は、焦点の定まらぬ目でハイネを捉えようとした。ハイネは飛びついた。

「うん、そうだよ!!エマさん大丈夫!?血が、うわあ!ち、血がこんなに出っ……!!」

 ハイネが怯えた目で後ずさった。エマが顔を上げたとき、後頭部から流れ出た血液が、いくつも筋をつけて首筋まで垂れてきたのだ。血や、ましてや喧嘩などとはまだ程遠いハイネにしたら刺激が強過ぎたのだろう。もはや刺激と言っていいほどの怪我では無かったが。

 エマが呻き、倒れ込むように地面に身を横たえた。

「痛……」

「ぼっ、僕、カタリたちを呼んでくる!エマさん、待ってて!し、死んじゃだめだよ!!ここで待っててね!?」

 カタリとは、エマにバイトを迫ってきた、エマの知るストリートの子供たちの中では一番年長の子供だった。エマは地面に横たわったまま苦笑した。

「大丈夫だって……傷は深くないし。俺は死なないよ。ただちょっと、頭と……全身が痛いだけで……」

「だめだよエマさん!!ち、血がそんなに出てるじゃないか!動いちゃだめだからね!」

「あ、頭が少し切れたから……」

「しゃべらないで!血が全部出ちゃわないようにじっとしてて!」

 幼い声でそう言い終わるや否や、ハイネは駆け出していった。元気そうだ。首を絞められた後が白くて細い首筋に残っているのが痛々しかったが、走れるのなら問題ないだろう。彼が視界の端から消えるまで見送ってから、エマは仰向けになり、空を見上げた。後頭部が痛んだがそれほど気にならなかった。夕焼けが広がり、空が橙色に侵食されつつある。視線を巡らせると、中身の散らばったエマのバックパックが転がっているのが目についた。おそらく、あの男たちが金目のものだけ漁ってあとは放り投げていったのだろう。とは言っても、ただの高校生の所持金だ、たかが知れている額しか持ち合わせていなかった。金はどうでもよかったが、教科書やノート類が散乱し、酷いものはページがビリビリに破かれて紙片が撒き散らされている惨状にエマは顔を歪めた。貼り合わせたら使えるだろうか?不可能なら、施設に頼んで買い替えてもらう必要がある。気が重くなった。ただでさえ貧民街に建っているようなボロい孤児院だ、金がないことなど一目瞭然だった。買い替えてもらうのは施設にとって痛い出費だ。

「施設…………」

 エマは人知れず呟いた。

「門限……守れなかったな……」

 たとえ、門限までまだあと三分あるよと言われても、起き上がって施設まで帰れるとは思えなかったが。

 ふと、眠気に襲われていることに気づいた。視界がいつの間にかすごく狭い。瞼を落としかけていたエマは、背筋が寒くなるのを感じた。このままここで寝たら、死ぬんじゃないだろうか。死ななかったとしても一生意識が戻らないんじゃないか。頭に浮かんだのはストリートの子供たちだった。

「そうだよ、あいつらは……」

 寝てしまわないようにわざと声を出す。瞼を無理矢理持ち上げる。せめて、ハイネが仲間たちを連れてきてくれるまで。

「あいつらは、まだ、全員が満足に、金を稼げないんだ、俺だって……まだ……次あいつらに、あった時……また、なにか、わざをみせてくれっ…………て、たの、まれてて……」

 しゃべっているにも関わらず、眠気は急速にエマの意識を侵していった。

「俺は、まだ…………」

 やばい。意識が、落ちる。声のボリュームが下がっていく。呂律がまわらない。半ば慌てた。

「俺は……まだ、死ねないんだ……しね、ない……だってまだ、カ……カタリにも、バイト、し……紹介で、できて、ない、し。技……見せてくれって……頼まれてて……次、行った、時に……あ…………?」

 不意に、意識を手放しそうになった。それは、眠りに落ちていくときの感覚に似ていた。自分が今まで何を考えていたのか分からなくなる。ぼんやりと声を出し続けた。

「い……痛い……なん、で、頭、鞭で……血が、たくさん、出て……ハイネが、来て……死……」

 支離滅裂だ。弱々しく咳き込んだ。もう何も考えられないのに、霞がかかってしまったような脳内にしかしはっきりと浮かんでいるのは「死」の一文字だった。肺に残っていた僅かな空気を、掠れた声に変換する。

「……ハ、イネ…………」

 最後の言葉は、仲間の名前だった。その声は、誰にも届かなかった。もちろん、ハイネにも。エマは、ギリ、と歯を食いしばった。ここで終わりか。そう思った途端、全身の筋肉が弛緩し、脱力したのが分かった。瞼は完全に両眼を覆い、世界は闇に閉ざされた。

「っ…………」

 意識が途切れた。

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