第3話 模擬戦

 戸依 由紀は食堂で昼食を食べていると、足音が自分へと近づいていることに気づく。近づくにつれて身に覚えのある気配だと分かった。


「戸依さん。こんにちは」


 声の主は由紀の予想通りだった。久留儀 勇が晴れやかな笑顔で立っていた。


「こんにちは。久留儀先輩」

「正面の席いい?」

「どうぞ」


 勇は自然な流れで座る。まだ顔を合わせるのは数えるほどでしかない相手だが、勇にはそういった緊張を感じない。不思議と親しみのある人だった。


「戸依さんは今日健康診断だった?」

「はい。そうなんです。だから朝から何も食べていなくて。ちょっとお腹がすいたので今日は多めの昼食です」

「いいと思うよ。食べたいときに食べないとね。俺はそういう主義で生きてる」

「私もそう思います」

「学校はどうだい……まだ一日しか経っていないから分からないか」

「はい。だけどクラスの人とは仲良くやれそうです。

とはいえまだクラスの人たちときちんと話したことはないのですけど」


 由紀が座っていた食堂の席は周りは誰も座っていない。たまたま空いていたのだが一人で座っていると目立っていたのだろう。

 ともすればそのおかげで勇の目に留まったのかもしれない。由紀が思い描いていた思案を、勇は笑って吹き飛ばした。


「戸依さんに食堂の食券あげただろ? 食券はその種類に応じて利用できる食堂が違っていてね、昼はこの食堂にいると思っていたからちょっと探していたんだ。そしたら予想通りだったということ」

「そうなのですか。だけどどうして私を探していたのですか?」

「ちょっと話したいことがあって。時間もないから簡潔に話すか。俺のチームに来ない?」

「私がですか?」

「戸依さんもチームを作ろうとしているのは知っているよ。でも中にはいくつかのチームを兼任している生徒もいる。戸依さんは自分のチームを作ればいいし、その上で俺がいるチームに参加するということも規則上問題ない。

 俺のチームはそんなに大規模というわけではないが結構実力派もそろっている。捜索を目指すには悪い話じゃないと思うのだがどうだい?」


 勇の話は本人も告げた通り悪い話ではないのだろう。だが由紀は首を横に振った。勇は消沈する様子ではなかった。話しているうちに由紀がそう返答するのを察したのだろう。


「ごめんなさい。いろいろといい誘いをしてもらっているのは分かっています」

「いやいい。謝ることではないよ。気にしないでくれ。君がそう返すのを知っていて聞いてしまったのは失礼だったよ。すまなかった」

「その、先輩は私のアイリスが気になるのですか?」


 勇が目線を上げると由紀が知っているというような顔をした。どう返すべきか勇は逡巡したが、由紀の表情の前ではごまかしても無意味だろうと結論付けた。


「気になるね。それだけじゃない。何なら俺のチームに取り込みたいと思っている」

「だから直接私に聞くことにした? 最初の話は前振りで」

「そういうこと」


 勇は微笑みを見せながらも、その裏で由紀に感心を覚えていた。第一印象の爛漫な親しみやすさとは裏腹に、本来の目的まで察知している彼女の洞察は素晴らしくも注意すべきことだ。


「先輩のというか、私はごまかさない人は嫌いではないです。そういう人には私のアイリスについて話してもいいかなと思いました」


 胸に手を当てて淡々と告げる由紀は、片目だけを開き舌を出す。


「でも今は秘密にしておきます。すみません」

「そうか。謝ることではないさ」

「いえ、秘密にするのは私の都合なのです。久留儀先輩だからというわけではありません。でもあまり私に期待するのも申し訳ないので、これだけは話しておきます」


 空になった自身の皿を持ち、由紀は立ち上がる。


「私は自分のアイリスをそれほど優秀だとは考えていません。先輩に貢献できないというと嘘になりますが、それ以外のことももたらすと思います」

「ほぅ……」


 謙遜ではない。勇は直観的に感じ取る。


「そういうことです。それでは失礼しますね」


 その言葉とともに勇のところから立ち去ろうとするがしばらくして立ち止まる。


「あ、そうだ。私のアイリスを秘密にしたのは、今だけということは知っていてください」

「どういうことだい?」

「まだはっきりしていないのですが、健康診断の結果次第で数日後に五月原先輩と模擬戦を行うことになっています。その時に私のアイリスをお披露目すると思います」

「模擬戦?五月原と?」

「はい」

「ははっ。面白いことをするね。本当に」


 その時、勇は自身の胸の中で沸き立つものも感じていた。熱を帯びたそれは何かが始まる予兆なのだと勇は期待せざるをえなかった。




 数日たち、由紀は自分の生徒手帳にメールが届いていることに気づく。軽やかなメロディだったので周りの生徒の目線を集めてしまった。とはいえそれも一瞬のことで放課後が始まるこの時間帯では皆別のことへと興味を移していった。


 由紀は手帳に目を通す。届いたメールの内容は見なくとも理解していた。


「戸依さん、何かメール?」


 隣の高島 来夏がそう尋ねる。教室内で戸依に気兼ねなく語り掛けるのは来夏しかいなかった。隣同士という簡単な縁ではあったが、それで巡り合えたのは幸運であると由紀は思っていた。


「うん。きっと健康診断の結果」

「あぁ、なるほど」

「メールで届くんだね。郵送されてくると思った」

「こっちの方が速いからね。これから何回も健康診断の結果を見ることになるから早いことなれた方がいいよ」

「何度も受けるの?」

「そうよ。健康診断の中にアイリス値も含まれているの。捜索から帰ってきたら最低限アイリス値だけは計測をする決まりになっている。もしそこで基準値以下ならしばらくは休養に専念する。

 捜索を行う人たちの安全を保障している仕組みの一つ」

「なるほど、この学校は安全重視で捜索をしているというような話は同室の人からも聞きました」

「それで結果はどう?」


 由紀は健康診断の結果を見る。様々な数値が並べられているのを大まかに眺めながら目的の値を見つけた。その結果を一瞥して、来夏にピースサインを送る。


「特に問題ないみたい」

「よかったわね。これで戸依さんは意向さえあれば捜索に参加できる。あとは人数だけ? 誰か期待できそうな人は見つけたの?」

「一人声をかけているところなのです。今はその人の勧誘を成功させることに力を注いでいるの」

「そうなんだ」

「それで勧誘に成功したら、その人と一緒に残りの人をどう集めようか考えてみようと思っています。私は学校に来て日が浅いのでその人のほうがいいアイデアを持っているかなと思っているので」

「なるほどね」


 自然と来夏と二人で話を続ける空気になっていた。来夏自身はちょっとした雑談程度に考えていたが、由紀との会話を自然と続けていた。

 由紀も自ずと来夏との話を続けたくなっていた。


「高島さんも捜索をしているの?」

「私? ううん。私はやらない。やろうと思えばできると思うけれど、私はちょっと興味がないから」


 興味がない。こういう自分の立場を来夏が誰かに伝えると、若干の緊張が彼女の体を走るのを彼女は自覚する。


「興味がないのですか?」

「うん。でも捜索というか『門』の向こう側については興味あるの。だって今いる私たちの世界とは違う世界が広がっているのでしょ?

 何があるのかとか何が起こるのかとかは気になっているの。

 だから研究と解析方面で力になれたらと思っているの」

「この学校にはそういう活動をしている生徒もいるんだ」

「後方支援も重要な仕事の一つだから。そういう立ち位置なら戸依さんの捜索を手伝えるかもしれないね」

「その時はよろしくお願いします。まずは人数を集めないといけませんから」

「そうね」


 気が付くとほとんどの生徒が教室からでており落ち着きを見せていた。時間の経過に気づくと来夏はおもむろに立ち上がる。


「私の知り合いに興味ありそうな人がいたら話してあげる」

「ありがとう」

「でもさ、戸依さんはどうしてそこまで新しいチームを作ることにこだわるの?」


 来夏は何気なく聞いただけなのだろう。由紀はそれを知っていながらも、彼女の目を見てすぐに答えた。


「約束だからですね」

「約束?」

「そう。約束です。守らなければいけないものではないのですが、それを遂げるべきだと私が思っている。それだけです」


 その言葉だけを残し、由紀は追究を止めるように来夏の傍を通り過ぎていった。




 由紀は健康診断の結果を切理子に告げることだけを考えていた。とはいえ今すぐに告げることは、連絡先を知らないので無理なことであった。なので自分の寮の部屋に戻り彼女が戻ってくることを待つことにした。


「戸依さん。こんにちは。待っていました」


 寮の入り口で由紀を待っていた女性は、数日前と変わらない笑顔で迎えていた。


「春日先生こんにちは」

「健康診断の結果が届いていると思いますがもう確認しましたか?」

「はい」

「そうですか。教師たちは結果を事前に確認していますので、戸依さんの結果も知っていますがその顔を見ると嬉しい結果だったようですね」

「はい。でも先生はそれを確認するだけで待っていたのですか?」

 

 春日は肯定も否定もせずに笑顔を見せたまま、由紀を寮の中へいざなう動作を見せた。


「向こうで座れる場所があるのでそこで話しましょうか。少しお時間よろしいですか?」

「はい」


 どういう話をするのかは、春日の笑顔の前では見通すこともできなかった。ロビーにあるソファーとテーブルは生徒たちの歓談の場所に使われているが、今はそこには誰もいなかった。そこに座ると、春日は口をとがらせて話始める。


「まず、戸依さん。久留儀さんたちが起こした騒動の経緯と結末を確認しました。岩獣を一人で討伐した実力と判断は認めます」

「はぁ」

「ですが、油断はしないように。今後も同じようになるわけではないですから。とまぁ形式的な忠告はこれくらいにしておきます」

「えっと、やっぱりまずかったですか? 私としてはできると思ったから、やったことだったのですが」

「それが分かっているのでしたら結構ですよ。私が今話したことは形式的なものです。生徒によっては自分の力を過信して判断を誤る人がいるのです。その結果どうなるかも私は何人も見てきました」


 目を細めて瞳の向こうに見える記憶を思い出しながら春日は語った。


「戸依さんはそうなってほしくないので一応釘を刺しておこうと思ったのです」

「覚えておきます」

「はい。そう言ってもらえたら教師としてうれしいです。それともう一つ」

「なんでしょう?」

「チームを作ろうとしているというのを聞きました。本当ですか?」

「間違いないです」

「そうですか。でしたらお願いがあるのです。五月原さんを誘ってもらえないでしょうか?」

「五月原先輩ですか? もちろんそのつもりです」


 由紀の即答に、春日は口に手を当て驚きを抑えていた。


「そうだったのですか。それは偶然ですね」

「でも先生はどうして五月原先輩の話を出したのですか?」

「そうですね……。私から語れることは伝えておきましょうか」


 一呼吸おいて胸に手を当てながら春日は話し続けた。


「もう誰かから聞いているかもしれませんが、五月原さんが捜索を行っていたのを今はそれをやめているというのは知っていますか?」

「あ、はい。なんとなくですが」

「五月原さんは優秀でした。どこかのチームに所属していたわけではなく、そんな積極的に捜索に向かう生徒ではなかった。

 ですが彼女が捜索に向かうと一定以上の成果を必ず上げてくる。あまり人付き合いは好きではないようですが、チームにいると自然とチーム内のパフォーマンスが向上する。それを成し遂げるほどの総合的な能力を備えていました」

「春日先生がおっしゃるのなら相当だったのですね」

「ですけれど、とあることがあって……これは本人のことなので話しませんが捜索に対する意欲を失ってしまったのです。

それから何をするでもなくてずっと部屋にこもったまま日々を過ごしていて……私も何度か話をしてみたのですけれど彼女の考えを変えるには至りませんでした。

 捜索に関することを全部自分の中から切り捨てようとしているように見えて、停滞しているのです」

「私と出会った時もそうでしたね……」


 自然と空気が重たくなる。あの時の切理子の姿が脳裏によみがえる。ただ空っぽの切理子はどこかにいくわけでもなく虚無の時間を過ごしていた。


「えっと、先生は五月原先輩を捜索に参加させたいのですか?」

「教師としてはそうしてほしいという意見になります。学園はそのためにありますし、彼女の力はそのためにあるのですし、アイリスを持っている人はそのために生まれてきたのですから」


 春日は笑ったままよどみなく答える。由紀にとって聴き慣れた返答だった。


「確かにそのはずですよね」

「ですが私個人としては五月原さんが本当に望んでいるのでしたら、昔のように戻らなくてもいいとも思っています。だけど今の五月原さんを見ているとそうとも言いづらくて……どうしたいのかを決められずにいるというようにしか見えないのです」

「えっと先生はなら五月原先輩のことをどうしてほしいのですか?」

「捜索のせいで五月原さんが何かを失ったのなら、五月原さんが失ったものを取り戻すには捜索にかかわるしかないと思います」

「なるほど」

「ですからお願いします。ほんのちょっとだけでもいいです。直接捜索をせずともそれに関係する活動ができるようになるでもいいです。

 そして五月原さんに自分を見つめなおす機会を与えてあげてもいいですか? これは今あるチームではきっとできることではなく、新しいチームを作ろうとしているところの方が適切なのだと思っています。

 ですから戸依さんに話を持ち掛けています」


 その願いは教師としても、人としても春日が抱いていることで間違いなく由紀の返答は一つだけだった。


「はい、私も五月原先輩とチームを組んでみようと今思っています。利害は一致しているので、先生のお願いは叶えるように努力してみます」

「ありがとうございます。どういう結果になっても構いません。戸依さんがそうしてくれるだけでも私は嬉しく思いますし、それだけでも五月原さんに響くものがあるのかもしれません」


 次第に寮に戻る生徒たちの姿が増えつつあり、話が終わりつつある空気が流れていく。春日は由紀と二言三言結びの言葉を交わし寮から出ていく。その背中を見送ると由紀も自分の部屋に戻ることにした。


 部屋に戻ると切理子が出迎えていた。珍しく照明をつけて、制服から普段着に着替えようとしているところだった。


「先輩こんにちは」

「……」


 思わせぶりな視線を送ると、切理子は着替えを始める。何かを催促するような視線の意味を察した由紀は生徒手帳を見せながら切理子の背中に語り掛けた。


「健康診断の結果が届きました。どれも基準値を超えています」


 着替え中の切理子はその結果を横目で一瞥すると、着替えを続ける。


「そうよかったじゃない。おめでと。ならちょっと待ちなさい」


 着替えを終えると切理子は自分の生徒手帳を取り出して手慣れた様子で扱う。即座に由紀の生徒手帳に通知が届いた。


「模擬戦を行うための施設を予約しておいた。時間は今送信したからその時間に来るように」

「はい。今から三日後ですね。ちょっと楽しみになってきました」

「楽しみなの?」


 緊迫感を抱いている切理子とは違い、由紀は椅子に腰かけながら満面の笑みをこぼしている。


「自分の目的を果たすための第一歩ですからね」

「自分が勝つと言わんばかりのことね」

「勝ちますよ」


 思わず瞠目する切理子の前で由紀ははっきりと告げた。虚勢やはったりではない固い自信が彼女の背中にそびえたっている。


「なら三日後にどうなるか白黒つけましょうか?」

「はい」


 それがまるで合図であったかのように日時はあっという間に過ぎて、当日になってしまった。



 模擬戦を行う訓練施設の更衣室で五月原 切理子は着替えを済ませて、部屋にある姿見の前に立っていた。体操服に髪を結っただけの自分は過去の自分と重なっている。

 もう見るはずないと思っていた姿。それをさせた由紀の顔が瞼の裏をよぎるとそれを切り捨てるように目を閉じ、姿見から遠ざかった。


 模擬戦を行う訓練施設は大きなアリーナのようになっており、その周りには見学ができるように席が割り当てられている。常に誰かの生徒が訓練を行い、それを見学している生徒が居る。


 その熱心な生徒たちによる熱気がいつも空間の中に醸成されていた。ただ今日はそれ以上の熱気が周囲を取り囲んでいた。席はほぼ見学する生徒で埋まっていて、いつも以上の人の密度で盛り上がっている。

 一歩足を踏み入れた時からそれを感じ、切理子は辟易するように息を吐いた。


 すでに由紀は到着していたようで、切理子の姿を見つけると剣を抱えたまま手を振っている。


「先輩。こっちですよ」

「分かっている」


 その場に向かうと、分かっていたことだが空間を支配しているいつも以上の熱気は自分たちへ向けられているものということを理解した。由紀はあたりを見回して目を丸くしている。


「この観客たちはなんなのでしょうか?」

「誰がどの訓練施設を予約しているかというのは誰でも確認できるの。私が予約をしていることを誰かが気づいて話を広めたのでしょうね」


 少し観客に目を向けるとそこに久留儀が座っていた。切理子の視線に気づくと、彼は手を振って応えた。


「じゃあ五月原先輩目当てで集まったということですか?」

「そうね。そういうことかもね」


 由紀の羨望のまなざしは半ば無視して、外から向けられる視線に感覚を集中する。


 期待や興奮といったものとは別に僅かに、けれど明らかに冷徹な視線も混じっている。そういう視線の主はもしかしたら切理子が敗北し惨めな姿を見せることを期待しているのかもしれない。


 その存在を気づきつつも切理子は安堵もしていた。自分はそういう視線を向けられるべきだというのを教えてくれているからだ。


 自分はもう捜索に向かうべきではないのだと思えるから。


「それではこれから戸依 由紀さんと五月原 切理子さんの模擬戦を行います。立ち合いはこの春日が努めさせてもらいますね」

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「戸依さんが初めてですので最初にルールを説明させてもらいます。今回は一本勝負。相手が持っている武装を破壊、もしくは相手を無効化させた時点で一本と扱います」

「無効化というのはつまり武装をはじき落としたなどでもいいのですか?」

「はい。ですがあくまでも模擬戦ですので急所の攻撃など過剰な攻撃が見られた際はこちらの判断で中断させてもらいますね。尤も利用する武装については模擬戦用のものなので怪我にはならないはずです。

 そして勝敗の判定の関係上認められる武装は今現在で持っているものに限られます。つまり模擬戦の途中での補充は認められていません。両者とも準備に抜かりはないですか?」

「はい」

「もちろん」


 それを証明するように互いに持っているものを構えた。二人とも細身の両手剣で、武装としては一般的なものだ。


「いいですね。また時間は無制限。先ほどの条件を満たすまで模擬戦は続きます。また戦う場所についてはこの場所に限定します。説明するのはこれくらいでしょう。何か気になるところはありますか?」

「アイリスの使用は許可されていますか?」

「もちろんです。他に何かありますか?」

「いえ、私はもう特にありません。五月原先輩はどうです?」

「ないです」

「ではお互いに指定の場所に立ってください。私が合図をしたら模擬戦の開始です」


 由紀と切理子は数メートルの距離を置いて相対する。不敵な笑みを向ける由紀に対して無表情で見つめ返す切理子。由紀が何を思い描いているのかは不鮮明だが、それは戦ってみればおのずと明らかになる。


 いずれにせよ、自分が負けるとは思っていない。油断ではなく絶対的な自信をつかむと、それとともに剣を握りしめる。


 全てが一つになるかのように静まり返った。時間が失われたかのような停滞の中で緊迫した空気が編み出されると、その完成をもって春日が声を上げる。


「それでは始めてください!」


 先に動いたのは由紀だった。数メートル程度の距離を一息で詰め寄る。

その速さは生徒の動きとして桁違いというものではないものの洗練された動きによるものであり、彼女の鍛錬の高さを物語らせていた。

 そして彼女の剣は切理子に向かって無数の斬撃を走らせる。高速の剣閃は無数の軌道を描き切理子へと迫っていた。


 切理子はそれをじっと見つめていた。剣を構えた姿勢のまま、それに関心がないかのように微動だにしない。しかし彼女はそれを認識していた。

 疾駆する斬撃を、彼女は受け止めることなく避けていく。肌が触れるかどうかの距離を残しつつもその差だけは決して埋めることはできない。相手にそう思わせるほどの圧倒的な回避だった。 


「すごいですね……」


 思わずつぶやいたのは模擬戦を観戦していた久留儀の後輩であった。その隣で久留儀自身も由紀の体さばきに舌を巻いていた。二人は切理子が模擬戦を行うというのを知りほかの予定よりも優先してここに訪れていた。


「あぁ、なかなかのものだ」

「戸依さんでしたっけ? あの子俺と同じ一年生ですよね。それであれぐらい動けるってあんま見たことないですよ」

「そうかもな」

「俺も機会があったら模擬戦頼んでみようかな。でもそれを避けていく五月原先輩もかなりのものですね。受け止めることなく、完全に見切っていますよ。

 あれってアイリスなしの先輩の経験だけでやっていることですよね?」

「まぁな」


 興奮している後輩とは対照的に勇はじっと試合の成り行きを見ていた。由紀も切理子もお互いにまだ小手調べの範疇に過ぎないのだろう。その証拠に二人はまだアイリスを使用していない。


 その認識は由紀と切理子も同じだったのだろう。このままでは押し切れないことを悟ると由紀は後ろに飛び距離を作る。切理子はそれを追わずに視線だけを向けていた。


 由紀は大きく息を吐く。


「ちょっと予想外でした。今のを全部避けられるなんて」

「甘く見られたものね」

「そうですね。ではもう少しらしく戦います」


 そう宣言した瞬間に、再度地面を蹴り自分で作った距離を詰める。先ほどと同じ剣閃。それに切理子は一つの疑問を覚えた。

 らしく戦うといったが、由紀の剣は先ほどと変わらない。

 なぜ同じ剣を見せるだろう? それはこの先の布石に他ならないはずだ。

 間違いなく由紀は攻め方を変えてくる。それをどのように行うかは決まっている。彼女のアイリスだ。


 切理子がそう結論づけると、自然と由紀と視線が交差する。由紀の瞳には印が浮かび上がっていた。まるでこちらの胸中を見通しているかのようなタイミングであったが、自分の推察が間違っていないことを切理子は確信した。


 来る。


 そう思ったその時に、それは来た。上段から振り下ろされる由紀の剣を切理子は目で追っていた。


 あの速度なら避けれる。 

だが次の瞬間にはその剣が眼前に迫っていた。


 これまでとは比較にならない神速の斬撃に、切理子も含め周囲の人間皆が同じ思いを共有した。


 純粋な速さ。肉体で作れるものではない。間違いなくアイリスが生み出したものだ。

そしてそれを躱せる方法は皆無に違いない。

 

 ただ切理子を知るものは違っていた。それは切理子自身も含まれている。確かに速い。だが対応できないわけではない。迫る剣圧を前にして、切理子の瞳に印が浮かび上がった。


 この攻撃は入る。由紀はほぼ確信していたがその思いは裏切られることになる。無情にもそのまま虚空を切り、誰もいない眼前を見つめるだけだった。


「は、速い……視認するだけで精一杯でした」


 久留儀の後輩があまりの光景に舌を巻いていた。勇も表情には顔を出さないがますます疑問を増やしていく。


「久留儀先輩は戸依さんが岩獣を打ち砕いた時のことを見ているのですよね?」

「あぁ。だから彼女のアイリスはそういう強い一撃を与えられるものだと思っていた」

「でもそうなるとさっきの光景と矛盾していませんか? アイリスは一人一種類の能力のはずです。

 とても速くてとても強いなんて……見たことがありません」

「あぁそうだ」

「一体どんなアイリスなんでしょうね。ますます興奮してきます! けれど……五月原先輩はどこにもいませんよ?」

「まぁ見てろ。君が実践向きなのは分かっているが見るのも勉強になるぜ」


 ほくそ笑む勇は再度模擬戦の状況に目を向ける。その場には由紀しか立っていなかった。切理子の姿はまるで初めから居なかったかのように視認できない。由紀は警戒を解かないまま自分のアイリスを維持する。


 姿を見せないというのは気を狙っているのではない。


(挑発されている……そういう気がする……そして痺れを切らしたときの隙を狙ってくる……。なら持久戦となっているのでしょう……)


 姿勢を維持したまま由紀は考える。


(待つのが最適ですが……それは五月原先輩の思惑通りかもしれない……なら、隙を用意するというのはどう?)


 そう行動を決めた瞬間、目前に剣を振りかぶった切理子が現れた。その姿を見た瞬間に、行動の裏をつかれたことを由紀は悟る。切理子は後手をとることを考えていたのではなく、初めから先手を取るつもりだったのかと。


 由紀は無理やり体をひねる。剣が彼女の顔の横を通り過ぎ、その軌跡をなぞるように由紀の髪が揺れ、二人の動きが止まった。


 静寂。その中で二人は互いに顔を見合わせている。印が浮かんだその顔で。


「やるね。あれを避けられるとは思わなかった」

「ありがとうございます」


 息苦しいほど静まり返っていたが何かが引きちぎれるように歓声があたりから鳴り響いた。目まぐるしい攻防による類を見ない試合展開が周囲の興奮を呼び覚ましていたのだろう。


 その中心にいる二人はそれを意に介さず互いに目の前の相手だけに集中していた。


「先輩、結構強いですね」

「今になってそういうの?」

「侮っていたとなるとそうなのですが、実際に剣を交えて感じました」

「そう……」

「そういえば、私に先輩のアイリスを見せてくれたじゃないですか。あの時はそれについてあんまり考えていなかったですけれど、少しだけ分かってきました」

「何が分かってきたの?」

「そうですね。最初はすごい速さで移動しているのかとか、透明になって見えなくなっているのかなとか候補を考えていました。

 結局決めることができなかったのですが、

 それでさっき先輩が消えたときにもう少し観察することにしました。その時に何か感じとれればいいかなと思って」

「どうだった?」

「いや、それが全然感じ取れなかったのですよ。びっくりしました。先輩の姿が切り落とされたようになくなりましたからね」


 由紀は無邪気に笑顔を見せる。そして指を一本立てて得意げに語り続ける。


「ですが、それで当然だったのですよ。感じ取れなかった。それが事実なのです。私が、私のアイリスが見誤ることはない。先輩がアイリスを使用した瞬間、先輩は感じ取れなくなったのです」


 由紀の説明を切理子はただ聞いていた。剣を持つ手に力がこもる。間違いないだろう。由紀は切理子のアイリスを見抜いている。


 それを肯定するように由紀は頷いた。


「おそらくですが……先輩のアイリスは世界から隔絶するようなもの……私から見ると先輩を感知できなくなるもの。違いますか?」


 切理子は答えなかった。だがそれは答えるのとほぼ同義であった。



























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