熱病〜2020年の記憶

赤木冥

熱病〜2020年の記憶


     序


 皮膚。脂肪。肉。

 メスで切るのとなんら変わらない感触で、それらは切れた。

 呼吸がうるさい。心臓の音も。

 思ったより緊張している。落ち着け、と自分自身に言い聞かせ、刃を強く握る。初めてメスを握った時と、この緊張はよく似ている。絶対に失敗できない。失敗したら、次のチャンスはないかもしれない。そんなところまでよく似ている。

 メスで切るときは、真皮までの層を一度に切らなくちゃいけない。でも、今はそんなこと関係なかった。だって、今は手術をしているわけじゃない。人を助けるためじゃなく、人を殺すために、刃を突き立てているんだから。

 人を助けるためならば、数ミリずれたっていけないけれど、今は違う。ずれたところで結果は変わらない。大切なのは、この刃で心臓を刺し貫くことだ。緊張する必要なんてない。

 メスは切るのには向いていても、こうやって突き刺すのには向いていない。そういう使い方は想定されていないから。こんなに深く刺すのは、メスではできないんじゃないかな。

 両刃のナイフで切り裂いた肉からは真っ赤な血が滴り落ちている。呼吸をするたびに、押し広げた肋骨の間から肺が飛び出してくる。それをナイフで刺すと、空気をたくさん含んだスポンジを貫くように、プツプツとした手応えがした。少し開けた視野の奥では暗がりの中、心臓が動いているのがうっすらと見える。

 しばらく、それを見つめる。

 これが、生命そのものなんだろうか。心臓が動いていることが。

 放っておけば、出血多量による失血死で死ぬ。でも。

 瞼ひとつ動かせやしないやつの心臓にナイフを突き立てる。刃先が底なし沼に吸い込まれるみたいに、奥へと沈み込んでいく。刃を引き抜くと、あいつの温度をした血が一気に吹き出した。

 鉄臭い、血の匂い。

少し露出していた肌に血液が飛んだけれど、それも仕方ない。

 苦痛に塗れたあいつの表情が見られなかったのは残念だ。でも、死の瞬間まで最大限の恐怖を味合わせることはできたはずだ。そして、最大限の後悔も。

 血液が壊れた水道のように噴き出すのがおさまるまで、目につく限り、何度も、何度も刃を突き立てているうちに、ゴリッと骨に当たった。深さから考えると胸椎にでも当たったのかもしれない。

 慌てて刃を引き戻し、今度は反対側の胸にも突き立てる。肋骨と肋骨の間から。肋丘の下から。あんまり下の方は刺さないでおこう。腸管を損傷すると臭いがきつい。臭いがつくのはごめんだ。

 そうだ、地獄に行ったら閻魔様に舌を抜かれるんだっけ。舌も切り取ってしまおう。まだ死後硬直には程遠い口をこじ開けて、舌を掴むと、出てきた分だけ切り取る。

 最後に一度、標本にでもするみたいに、あいつの右手の真ん中に刃を突き立てると、溜息が漏れた。

 ただの物言わぬ骸になったあいつを見下ろしたけれど、感慨も恐怖もなにもなく、耳の奥でか細い旋律が静かに死を悼んでいた。







 二〇一九年十二月。中国の武漢での大流行を機に、新型コロナウイルスのパンデミックが始まった。

 二〇二〇年一月には日本でも感染者が確認され、それからは水際対策も功を奏さず、感染者は増え続け、四月には一度目の緊急事態宣言が出された。

 諸外国ではロックダウンが行われ、外出は禁止され、店も全て営業休止。外出すれば罰則を課すなどの厳しい処置がとられた。

 日本でも罰則こそ課されないまでも、新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づき、四月七日に東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の七都府県に。その後、四月十六日には全国に緊急事態宣言が発令された。学校は休校になり、百貨店や映画館などの人が集まる施設は全て休業。外出の自粛が要請され、街からは人が消えた。

 一日の感染者数は七百人を越え、僕の暮らす街にもその余波は押し寄せた。

 僕は榊蔵人。三十七歳。

 蔵人はClaudeでもある。フランス人の母が、いつか僕がフランスに帰りたくなったときに困らないように、とこんな名前をつけたそうだけれど、今のところ、僕がフランスに帰る日は来そうにない。

 バーンアウトし救急医を辞めて四年、老健の管理医師をしていたこともあったけれど、とある事情で今は、フリーターをしている。

 フリーターと云っても、単発の夜間や休日の救急当直や、人手が足りない病院での麻酔などのアルバイトが主だ。一般的に医者は高給取りで、医者のアルバイトは時給も段違いにいいと思われているようだが、実際のところは少し違う。アメリカやフランスに比べて、日本の医者の給料は遥かに安くて、外資系の金融企業で働く同年代の方が余程、高いお給料を貰っている。確かに麻酔のアルバイトでは時として高収入を得られるけれど、それは、麻酔管理料の何割、という形でアルバイト代が発生する場合の話だ。普通は何時から何時までの勤務で一回いくら、という設定なのだけれど、その時給も学生時代にしていた家庭教師のアルバイトに毛が生えた程度のもので、責任の重さや訴訟リスクを考えると決して高いとは言い難い。

救命センターを辞めたときは精神的にも肉体的にも限界だった。仕事に行かなくては、と思うのに、体は自分のものではないかのように重くて、足を一歩踏み出すのさえ辛かった。些細なことに苛立ったり、傷ついたりして、今思えばそれは予兆だったのだけれど、ある日、涙が止まらなくなって、気づいた。自分の心も体も限界に達していたことに。本来なら、退職の三ヶ月前には上申しなくてはならないのだけれど、僕の異変に気づいた上司の配慮もあって、その一ヶ月後に僕は救急医を辞めた。

 最後の一週間だけ有給休暇を貰ったが、その一週間何をしていたのか記憶にない。多分、なにもできないまま、ぼんやりとしていたんだと思うけれど、それさえ定かじゃない。

 その後、しばらくしてから、知人に乞われて、老健施設の施設長になった。あんな事件がなければ、きっとまだ僕は、ぬるま湯みたいな中でぬくぬくと働いていられたのだろうけれど、とある事件があって、僕の勤めていた施設は閉鎖され、僕は職を失った。

 僕は……正直、途方に暮れた。

 医者の仕事というのは、その専門分野によっても大きく異なるし、ずっと救急医をやってきた僕が、じゃあ今から、内科医に急になれるか、といえば否で、おそらく後期研修医あたりから勉強し直さなければ、一人前の内科医にはなれない。どちらが優れている、ではなく、専門が異なるからだ。救急医はある程度の内科的知識はあっても、専門性という点では、やはり内科医には劣る。外科に関したってそうだ。外傷などの手術はできても、より専門性の高い外科手術は、やはり外科医にしかできない。

 老健での仕事はそこまでの専門性は必要としないから、僕でも勤めることができたけれど、改めて、どこかの病院に勤務することを考えたとき、内科や外科で働くという選択肢はなかったし、かといって、以前のような救急医に戻るだけの勇気は僕にはなかった。自分がまた壊れてしまうんじゃないかと不安だったから。

 僕にできるのは精々、当直や日直といった単発での救急の仕事と、救急医時代に培った麻酔の経験と麻酔科標榜医の資格を生かした、麻酔のアルバイトくらいしかなかった。大体週に三回から四回アルバイトをして、残りの日はなにを成すでもなく無為に過ごしている。

 いざ現場に立ってみると、案外、どうということはなくて、最初の一日だけは、胃が痛くて吐き気がしたけれど、それからは普通に救急の対応をこなすことができた。まぁ、二次救急までしか受け入れない病院を選んでアルバイトをしていたからかもしれないけれど。

 そうして、僕が細々としたバイト生活にも慣れてきて半年経つか経たないか。

 あの新型コロナウイルスが日本にやってきたんだ。

 最初はMERSやSARSみたいに、日本には入ってきても一例、二例で抑え込めるだろう、と楽観視していた。きっと、日本中、みんなそうだったんじゃないだろうか。

 我関せず。

 あくまで、他人事。

 そう思っていたに違いない。

 でも、あのウイルスは、着実に、そして恐ろしい勢いで、日本国内にも広がっていった。

ダイアモンドプリンセス号での感染拡大時にはDMAT(Diseaster Medical Assistance Team。日本語で云えば、災害派遣医療チームのことだ。テレビのニュースなどで、Doctorなどとゼッケンのようなものをつけた人を見ることがあると思う)が派遣されていたが、元々、DMATは災害時の派遣を想定されている。つまり、この新型コロナウイルス感染症は、災害、と認定されるような、不測の、そして重大な事態だといえた。

 月に二回程度アルバイトで行く病院の救急外来も戦々恐々としていて、みんな、そう。怯えていた。

 N95マスクにサージカルマスク。ゴーグルをして、さらにフェイスシールド。手術用キャップに手袋は二枚重ね。ディスポの防護衣を着る。所謂、フルプリコーションで患者を受け入れるのだけれど、基本的にゴーグル以外は全て一患者を診察するたびに捨てなければならない。けれど、日本中がこのウイルスの所為でパニックになって、マスクや手袋などは買い占めが起こり、医療用のものも品薄になった。殊更に、ディスポの防護衣不足は顕著で、ゴミ袋に別のゴミ袋を継ぎ足してお手製の防護衣を作ったり、一度使った防護衣を数日間外に干して使ったりせざるを得なかった。当たり前のように手を伸ばせばそこにあった資材がこんなに容易く不足するんだ、とそんなことに僕は驚いた。

 どこか現実感がないままに、それでも、広がっていく目に見えないウイルスという恐怖は、ひたひたと僕たちの足元にも忍び寄っていた。

 一回目の緊急事態宣言が出される一週間前。救急車で運び込まれた六十代男性。仕事の付き合いで四日前に飲みに行って、昨夜から発熱。三十七度八分。咳嗽あり。倦怠感が強いので、救急車で来院。呼吸苦の訴えはないものの、サチュレーションは九十パーセントギリギリ。味覚障害、嗅覚障害もあって、検査をする前から僕たちはそれを疑った。

新型コロナウイルス感染症。

限りなく黒。PCR検査は勿論陽性で、想定してはいたけれど、初めての陽性患者を前にして、救急外来は騒然とした。

 それまで「いつか運ばれてくるかもしれない」とは思っていても、僕のアルバイト先には幸い……と云っていいのかわからないけれど、コロナ患者は搬送されてきていなかった。感染症受け入れ病院でもなく、二次救急までしか受け入れない病院だから、それほど重症の患者が来るわけでもない。フルプリコーションでの診療にも不慣れで、「いつか」と思ってはいても、それが現実になったことに、みんな動揺した。コロナがすぐそばまでやってきているのだ、と、テレビの中の出来事ではなく、自分自身に降りかかる大きな危機なのだと、痛感したんだ。

 その患者は、その日のうちに、中等症から重症の患者を受け入れている施設へと転送されていった。本人の自覚症状より、全身状態はずっと悪かった。

 テレビでは繰り返し、会食や外出を控えるよう訴えていたけれど、それでも感染の拡大はおさまらなかった。連れ立って歩く人たちはテレビのインタビューに悪びれた様子もなく「今日は銀座に友達とランチで」と笑っていた。

 僕なんてほんの端くれに過ぎないけれど、まともな医療従事者の大半がこの事態に危機感を抱く中、感染者数は右肩上がりで増えていった。

 アルバイト先の病院は初のコロナ陽性患者に随分と緊迫した様子で、実際のところ、僕はフルプリコーションで診察に当たっていたから濃厚接触者の定義には当たらないのだけれど、二週間の自宅待機になって、それからアルバイトの雇い止めを通告された。アルバイトの当直医では、なにかあった時に対処しきれないから、というのが先方の言い分だった。

 それに、もし、僕みたいなアルバイトの医者が、他のアルバイト先でコロナ患者をそれと知らずに診察して感染し、万が一にも他の病院へとウイルスを持ち込んではいけない、という上層部の判断だったんだろう。

 みんながみんな、この事態を受け止めきれないでいたんだと思う。おかげで、僕は、収入源をひとつ失うことになった。

 そんななか、ある日、スマホの着信画面に懐かしい名前が表示された。一年前の僕ならば、見なかったことにしたかもしれないけれど、一瞬の躊躇いのあと、僕は通話ボタンを押した。

『あっ、出た! 先輩!』

 スマホを耳に押し当てるより前に、スピーカーから声が飛び出してきた。僕はその勢いに気圧されてスマホを取り落としそうになる。

「あ、えと、久しぶり」

『去年、ちらっとICUに来てた時に喋りたかったんですけど、気づいたら先輩もう帰っちゃってて。元気ですか?』

「月岡ほどじゃないけど、それなりにね」

 月岡直、救命救急センター時代の後輩。人懐っこくて、仕事にも前向きな若手救急医だ。若手、と云っても、もう三十になっているか。小柄で機敏、今は、副センター長の楠先生とペアで外傷系の救急を主に担当しているようだ。

『うわぁ。俺、ちょっと泣きそうです』

 懐かしい後輩の声の後ろで、クラシックの柔らかな音色が聴こえた。今日は休みなのか、それとも、夜勤明けか。それにしても、月岡がクラシックを聴く、というのがなんとなく意外にも思えた。そんなイメージがなかったから。パワフルでやる気のある、少しお調子者なところもあって、でも、思ったよりも骨太、というのが僕の月岡評だったから。

「大袈裟だな。そっち、大変なんじゃないの?」

『そう。そうなんですよ! うちの施設、感染症指定病院でもないのに、感染者が増えてきて、今、コロナ患者受け入れてるんです』

 本来、各都道府県には、感染症指定医療機関、というのがあって、一類感染症、二類感染症はそれぞれに受け入れる病院が決まっている。例えば、一類感染症はもっとも症状も重く、病原体の感染力も強い危険な感染症で、エボラ出血熱やペストなどが含まれる。これらは、感染の拡大を防ぐ、という意味もあって、各都道府県に一箇所定められている医療機関が受け入れることになっている。

二類感染症は一類感染症より危険性は低いけれど、それでも感染力や罹患した場合の重篤性の高い病気が指定されていて、結核やSARS、MERS、高病原性鳥インフルエンザなどが当てはまる。これも、二類感染症の感染症指定医療機関が決まっていて、陰圧のかけられた個室に隔離され、治療が行われる。

 今回の新型コロナウイルスは、新しい感染症だから、まだ明確な分類はされていなくて、指定感染症、という特別な枠で外出自粛要請や入院勧告、就業規制などの隔離が行われ、僕たちは診断すればすぐに、届け出をしなくてはならない。

「災害拠点病院なのに?」

『そうなんです。ひどいと思いません? こんな時に大震災でも起きたらどうするつもりなんだろう』

「縁起でもないことを云うなよ」

 感染症指定病院同様、震災などの大規模災害時に拠点となり、医療を行うことが義務付けられている、災害拠点病院、と云うのも各都道府県ごとに定められていて、僕の以前の勤務先である、波崎中央医療センターもその一つだった。実際、東日本大震災の時には、災害拠点病院として、震災のその日からたくさんの患者を受け入れた。

『そういえば、先輩』

「なに?」

『先輩って独身のままですか?』

「そうだけど? なに? 突然」

『俺たちね、コロナ患者の診療してるじゃないですか。同居以外の家族との会食禁止! もちろん、家族じゃない恋人と会うのも禁止! ってひどくないですか?』

「それは……大変、なんだろうな。僕はひとりだから、本当の大変さはわかってないと思うんだけど。月岡は結婚したの?」

『……結婚はしてないんですけど、結婚できるならしたい相手はいて……でも、コロナが流行り始めてから、会えなくて……』

「そっか。……それは、辛いよな」

 ただでさえ、精神的にも肉体的にも大変な勤務なのに、家族や大切な人のもとに帰ることも許されない、と云うのは、とても辛いはずだ。もしも、僕にもそんな人がいたならば、バーンアウトせずにいられたのかな、なんてことをぼんやりと考え、ゆるく頭をふる。そんなことはない。誰がいようといまいと、僕はダメになっていた。それに、たらればで過去は変わらない。

 黙り込んだ僕の代わりに、月岡が言葉を繋ぐ。

『それにしても、コロナ、えげつないですよ』

「どういうこと?」

『例えば、インフルエンザ肺炎って、ECMOで炎症のピークを凌げば、立ち上がってくるじゃないですか? コロナってそんな感じじゃないんですよ。このまえ、コロナの重症症例が来て、ECMO回してたんですけど、立ち上がらないどころか、炎症してたところの肺は繊維化バリバリで、離脱困難になって、しかも、血栓傾向がすごいみたいで、ECMOの回路は詰まるし。ほんと、ジリ貧になっていくんです』

 久しぶりに聞く重症患者を受け入れている救急現場の様子に、どくん、と胸が鳴った。

「血栓傾向は厳しいな。離脱もできない、血栓は詰まる、だと確かに打つ手がないね。HITではなかったんだろう?」

『それも考えて、フサンに切り替えても結局変わらず、で……それでその症例は結局、最後、脳出血起こして、今思うと、DICみたいな病態だったのかもしれないんですけど、ロストしました』

 ロスト。つまり、患者の死亡。

 救急医だって医者だから、患者が亡くなることは精神的になかなかこたえる。僕が返す言葉を探すうちに、月岡は更に言葉を重ねる。

『それより、先輩。老健も閉鎖になったし、今ってフリーですか?』

「ん? フリーっていうか、フリーターかな。まぁ、コロナの所為で、失業しかけているところだけど」

『……てください! 先輩、帰ってきてください!』

 最後まで言葉を紡ぎ切る前に、月岡の大きな声に僕の言葉はかき消された。僕は、月岡の声に叩き落とされた言葉を拾い集めながら、苦笑する。

「無理だよ。なに云ってんの」

『無理じゃないです。先輩が帰ってきてくれたら、すごい心強いし』

「それは、月岡だけの意見でしょ。僕には無理だよ」

『違います。軍曹も毬子先生も、先生に帰ってきて欲しいって言ってます』

 軍曹。勿論、あだ名だ。本名は薬師寺剛健。名前も見た目もいかつい。名は体を表す。色黒で長身、がっちりとしていて、暇さえあれば筋トレをしていた。机の上には、大きなプロテインのボトルの隣に、色々な缶詰が積み上げられていて、スクランブルの時には、その缶詰が僕たちに支給されたっけ。そろそろ五十になるんじゃないかな。僕が壊れてしまった時に、泣きながら、僕に謝った、男気があって面倒見がいいセンター長だ。

 毬子先生……というのは副センター長の楠毬子先生のことだ。親しみ易いムードメーカーなのに、バリバリの外傷外科医で、軍曹と一緒に手術をするときは足台を二つ積み重ねないと術野に届かない。今は月岡とペアを組んでいるみたいだから、足台は一つで足りるんだろうな。二児の母親だけれど、旦那さんが専業主夫でうまく家庭内のバランスが取れていると、あっけらかんと笑っていた。

 懐かしい気持ちとともに、僕は、自分が壊れてしまった日のことを苦々しく思い出す。まだ、こんなにも鮮やかに。

 胸が、ずきん、ともう一度鳴った。

「月岡だって見てたでしょ。僕には無理だ」

『でも、先輩、今、アルバイトで救急やってるんですよね。俺の同期、波崎病院の救急にいて、先輩がバイトに来てる、って聞いてます』

「でも、あそこは二次までだから。それに、このまえコロナが搬入された後、僕、クビになったよ」

『二次でも救急は救急じゃないですか! 先輩。お願いします。クビになったならちょうどいいし、うちに戻ってきてくださいよ』

 今、コロナ診療の先頭に立たされているのであろう月岡の声が歪む。僕は、その悲愴な色を見ないように、ぎゅっと目を瞑った。

「……すまない。月岡。少し、考えさせて」

 沈黙。

 それはそうだ。

 きっと、コロナのさなかで、彼らは戦っている。感染の恐怖もそうだけれど、先刻、月岡が云っていたように、重症化するとなかなか立ち上がってこないのならば、それだけ治療に人手もかかる。限られた人数で診療を行わなければならない以上、一人でも戦力が欲しい、と云うのは本当だろう。

 でも。

「月岡、気をつけて。無理しすぎるなよ」

 僕が彼に今あげられる言葉はそれしか見つからなくて、熱を持ったスマホにそっと語りかけた。

 それまでの勢いが嘘のように黙り込んでいた月岡は、少しだけ電話の向こうで笑った。

『先生が来てくれないと、激務で倒れちゃうかも。俺、諦めないんで。また電話します』

「うん。でも、本当に、気をつけて。軍曹とまりりんにも、それから、みんなにも。そう、伝えて」

『自分で言えばいいのに』

 その一言はさらりと聞き流して「じゃあ」と僕は切り出す。

「貴重な休日だろ。ゆっくり休めよ」

 電話の向こう側では、緩やかに美しい弦楽の旋律が揺蕩っていた。

 僕はその曲名を思い出す。

 シャコンヌだ。

 泣き出しそうなその旋律と同じくらい、月岡の声は淋しげに溶けた。通話終了のボタンを押して僕は溜息をひとつついた。






 目が覚めると、もう既に十時を回っていた。春の柔らかな光がカーテンの隙間から射し込んでいる。スマホで時間を見てベッドの上に座り、メールを確認していく。

今日は麻酔のアルバイトだ。

 緊急事態宣言が出され、世の中はテレワークへシフトして行ったけれど、残念ながら、僕たちは職務上、テレワークで済ますわけにもいかないから出勤せざるを得ない。

先週、手術の予定表を確認した限りでは、今日は予定手術の胸腔鏡下での肺切除術が入っていたはずだ。五十代だったか六十代だったかの……男性だったかな。

僕はうろ覚えの記憶を辿る。

 その日の症例の簡単な概要が前日のうちにメールで送られてくることになっているのだけれど、今日担当する症例の連絡は、昨日のうちには来なかった。なにか術前検査で見つかったのか、それとも急な容体の変化でもあったのか。

 仕事は午後の十三時からだから、朝ごはんを食べてから出かければ十分に間に合う。クロワッサンをオーブントースターに放り込んで、お湯を沸かす。その間に、一人分の茶葉をインフューザーに入れ、マグカップに引っ掛けておく。

 今はパン屋さんも店を閉めているから、このクロワッサンが手持ちの最後の一個。別に、半分フランス人の血が入っている所為ではないが、僕はパン派だ。パン好きにとって、パンを買いに行けない、と云うのはなかなか由々しき問題だ。これを機に、白米派になれ、という啓示だろうか。

 なんて、どうでもいいことを思いながら、沸騰したお湯をマグカップに注ぐと、紅茶の香りが立ち上った。

 冗談ではなく、そろそろパンと食料品を買いに行かないと。ろくに料理もできない僕は干上がってしまう。

 それにしても、僕は今、フリーター生活をしていて(と云っても、半ば失業寸前だけれど)時間の融通がきくから買い物に行くことができるけれど、昼間働かざるをえない人たちは大変なんだろうな、とふと思う。

 テレビをつけると、ワイドショーでまでコロナ、コロナ、コロナ。頭打ちにならない感染者数について、司会をしているタレントが物知り顔で嘆いてみせる。

 そんなことを云うくらいなら、その役に立たないシールドマスクをやめて、きちんとマスクをする方が、よほど啓蒙効果があるんじゃないの? と心の底で毒づく。不毛だ。

 歯触りのいいクロワッサンを齧りながら、僕はぼんやりと両親の顔を思い出していた。月岡が妙なことを訊くからだ。 

今でも仲睦まじい日本人の父親とフランス人の母親。留学先のフランスで大恋愛の末、結婚。父の帰国に合わせて、母も日本に移住。今は、緑の豊かな……と云えば聞こえはいいけれど、片田舎の診療所を週に三回だけ手伝って、あとは二人でのんびりと暮らしている。あんな田舎だけれど、コロナの影響はどうなんだろう。両親は元気にしているのだろうか。今日のアルバイトが終わったら電話してみよう。

 指先についたパン屑をぺろりと舐め、紅茶を飲むと、僕は手早く身支度を整える。

 鞄を掴んで、家を出ようとした時、スマホが震えた。ポケットから取り出し、着信画面を見ると、アドレス登録していない番号で、僕は少し考えてから、通話ボタンを押した。名乗るより前に、聞き覚えのある声が喋り始める。

『あ、出てくださってよかったです。鷹岡総合病院の友近ですけど』

「……ああ、これ先生の番号だったんですね。お疲れ様です」

 電話の主は、今まさにバイトに向かおうとしていた病院の女性麻酔科医長だった。普段から少しきつめの口調なのだけれど、今日は殊更、早口で語尾のキレがいい。

『先生、今どちらですか?』

「いま家を出るところだったんですけど……もしかして、僕、時間間違えてましたか?」

『いえ、違うんです。今日の手術、キャンセルになったんですよ。そのうえ、このさき最低でも二週間は手術が中止になりそうなんです』

「えっ?」

 今日の手術が中止、と云うのは時折あるけれど、手術が二週間中止になる、と云うのは前代未聞だった。思わず問い返した僕に、苛立ちを隠しもせず、麻酔科医が答えを返す。

『昨日、大腸穿孔でパンペリを起こしていた方が搬送されてきて、緊オペになったんですけどね』

 電話のせいか、いつもより更に金属的な声がキンキンと耳に痛い。僕は履きかけた靴を脱ぎ、ダイニングテーブルにスマホを置くと、スピーカーボタンを押した。

 耳からスマホを外すと、頭に響く声が少しマシになる。

『日勤帯だったから、みんな手伝いに入るじゃないですか』

「まぁ、そうですね」

 パンペリというのは汎発性腹膜炎のことだ。大腸が穿孔した場合、腸管内容物が腹腔内に漏出することで、容易に広範な腹膜炎を起こす。簡単に云えば、腸管内容物すなわち、うんこがお腹の中にばらまかれて、そのせいで炎症が起きる、ということだ。放っておけばまず間違いなく死亡する。速やかに開腹手術を行い腹腔内洗浄と、穿孔した腸管の切除や修復、場合によっては人工肛門の造設が必要になる。それでも、発症からどれくらいの時間が経っているか、穿孔した部位がどこなのかで、救命率は変わる。

 つまり、救急で搬入されれば、速やかに緊急手術が必要になる、ということだ。

『で、その患者、今日三十九度の発熱があって、そんなのパンペリのオペ後ならおかしくないと思うんですけどね、そんな緊急対応なんてなさったこともないお偉い感染管理委員の先生方から、コロナのPCRをしろ、っていうお達しがあって』

 そこで麻酔科医は、大きな溜息をひとつ吐いた。

「まさか」

『ええ、そうです。陽性だったんですよ。そんなの、想像もしないですよね? 確かに、昨日も三十七度台の発熱はありましたけど、パンペリもあったし……うちは救急からそのまま上がってきて受け入れただけですけど、救急の先生たちだって、腹痛と発熱で来てるからコロナまで疑ってなかったみたいで。……もう、本当に困っちゃいますよ。緊オペだったから、導入の手伝いも複数入っていたし。とりあえず、関わった医師と看護師は一旦自宅待機になるんで、緊急以外の待機手術は延期か、どうしても急ぐ待機手術だけは、よその病院にお願いしているところで……。救急の医師と看護師、放射線技師も、コロナ疑いじゃないからってプリコーションしてなかったみたいで、自宅待機になって、救急の受け入れも制限かかるんです』

 最後はほとんど悲鳴のような勢いで一気に捲し立てると、友近医師はもう一度大きなため息をついた。

「それは……大変ですね」

『ほんと、冗談じゃないです。挿管するときにはエアロゾルの吸引が生じやすいので、感染防御を徹底すること、って学会からの勧告にもありましたけど……。 まさか、身近でこんなことが起きるだなんて。一度でもこんな前例が出てしまったら、これからは術前に毎回PCRとらないと怖くてやってられませんよね』

「その方、おいくつだったんですか?」

『まだ四十代だったけれど、かなり強いオベシティのあるDM患者でね』

 若年者の新型コロナウイルス感染は重症になりにくい、とはされているが、基礎疾患のある患者やオベシティ……日本語で云えば肥満のある患者は例外だ。

「……なるほど」

 あの規模の病院で、救急外来に立つ医者やスタッフが全例にフルプリコーションであたっていないとすれば、それは、あたらなかったのではなく、あたれなかった、のだろう。

 僕もアルバイト先で経験した資材の不足のせいだ。

 だから、患者が四十代と年齢も比較的若く、発熱はあるものの主訴は腹痛。しかも明らかに腹膜炎を疑うような症状で、コロナを積極的に疑うような症例ではなかったから、資材を節約しようとしたのだろう。

 その結果がこれ、というのはあまりにも皮肉だ。

『そんなわけで、申し訳ないんですけれど、先生もしばらくはお休みにしてください。なにしろ、予定手術がなくなってしまったから』

「わかりました。また、次の手術予定が決まったら、連絡をいただければ」

『ええ。お願いします。本当に、冗談じゃないわ』

「……そうですね」

 冗談じゃない、のは僕としても同意だった。これで僕は、完全に失業したのだから。



 電話を切ると、先刻の麻酔科医と同じくらい深々と、僕は溜息をついた。

 窓の外はうららかな春そのものだ。芽吹き始めた若葉は陽射しのなか、柔らかに輝き、窓を開ければ、心地よい風が通り過ぎていく。眩しいユキヤナギの白。色とりどりのビオラ。タンポポの黄色にシバザクラの薄紅色。

 色鮮やかで美しい季節を、けれど愛でる人影はない。

 ただ、春だけが過ぎていく。

 溜息をついて、空っぽになった肺を鮮やかな春の空気で満たすように、僕は大きく息を吸い込んだ。

 新型コロナウイルス。

 まさかこんなことになるなんて。一年前には思いもしなかった。幸い、まだ貯金はあるから、今すぐにどうしても働かなければいけないわけではないけれど、僕は、このコロナ禍で休業を余儀なくされたお店や、失業した人たちの気持ちが嫌というほどわかった。

 仕事がなくなったからといって、じゃあ、自由な時間が増えた、と単純に喜ぶことなんてできなくて、それは、前に勤めていた老健施設が閉鎖されたときにも痛感した。そのとき以上に、今は、外出も制限されているから、どこかに遊びに行く、なんてできない。

 休みをただ自由な時間だ、と無邪気に喜ぶことができるのは、子供か……子供レベルの人だけだろう。

 それにしたって、季節が良ければその分、惜しむ気持ちばかり大きくなる。

そうだ。生活必需品を買いに行くのならば、不要不急とは言われないだろう。

 僕は仕事用のカバンから財布とスマホ、それにキーケースだけ取り出すと、ポケットに突っ込んでパンを買いに出ることにした。

 当分、仕事もないことだし、いっそホットケーキミックスでも買ってホットケーキでも焼くか……いや、それならいっそ、パンを一から作ってみるのもありかもしれない。ろくに料理もできない僕にできるのかわからないけれど。トイレットペーパーも残りが少なかった。レトルトのカレーを買い込んで……野菜ってどれくらい日持ちするんだろう。

 そうだ……。

 僕は歩きながら、スマホから短いメッセージを一件送った。子供より子供レベルの友人に。



 近くのスーパーに行くと、子連れの母親が思ったよりたくさんいた。甲高い……先刻の麻酔科医の声より更に数倍頭に響く……声で叫びながら、子供がスーパーのフロアを駆け回っている。

「……なにこれ」

 子供嫌いの僕にとっては地獄絵図のように、何人もの子供が駆け回るスーパーの食品売り場を僕は呆然と見つめた。子供が嫌いだ、と公言するのは社会的によくないことはわかっているから、僕は眉間に寄った皺を指でそっと伸ばし、努めて平静を装う。

 買い物カゴを片手に野菜売り場を覗く。じゃがいもを茹でるくらいなら僕にもできるな、と袋に入ったじゃがいもを眺めていると、走ってきた幼稚園くらいの子供が足にぶつかる。びくり、と僕が足を止めると、転んだ子供はおもむろに泣き出した。マスクもしていない子供は鼻水と涎を垂れ流しながら大声で泣いている。

「ちょっと! うちの子になにしたんですか」

 遅れて店に入ってきたチェックのシャツを着て、髪をひとつにまとめた三十そこそこの女性が子供のところに駆け寄る。

「……僕はなにも」

「だって泣いてるじゃないですか。あなた、子供が泣いているのに、なにもしていないっていうの?」

「……その子供が走ってきて、僕の足にぶつかって勝手に転んだだけです」

「はぁ? 子供が走ってくるのが見えたら避けるくらいできるでしょう。可哀想に。怪我でもしたらどうするんですか!」

 一方的にポメラニアンみたいに吠え立てる女性に、僕は溜息をつく。母親ってみんなこんな生き物なのかな……一見、地味そうなこの女性の剣幕に僕は少々呆れる。

「あのねぇ」

 思わず僕が言い返そうとしたとき、オレンジ色の物体が視界に入り込んできた。目が痛くなるような鮮やかな原色の塊は、スニーカーも、ズボンも、シャツも、ジャケットも、全部が見事にオレンジ色で、その上に、見慣れた癖っ毛の頭が乗っかっていた。

「……な!」

 あまりにインパクトの強い格好をしたそいつに、僕は言葉を失う。あんぐりと口を開けた僕の代わりに、そいつは、件の母親をビシッと指さした。

「おい、おばはん」

 唐突に現れた強烈な生き物に、子供を抱えた母親も唖然としている。

 そんなことお構いなしに、オレンジ一色の男は腰に手を当て、偉そうに胸をそらす。

「俺はぜーんぶ見てたけど、その子供が入り口からギャアギャアと喚き散らしながら、走ってきて、じゃがいもをじーっと見つめている、いたいけなおっさんの足に勝手に激突したんだぞ。いたいけなおっさんの痛かっただろう脛にまず謝れ! あと、そこの子供。君もきちんと謝れ! 人にきちんと謝れないガキとかお先真っ暗だぞ」

「はぁ? なんなの。この失礼な男」

 子供の母親だろう女性は憤然と吠えかかる。

「ああ……まぁ、失礼は失礼ですね……。あなたもかなり失礼ですが」

 ぽつりと僕が呟くと、女はジロリと僕を睨む。

 このかなり様子のおかしい男は、藤堂要。僕の大学時代の友人で、一昨年とある出来事で再会した。今は法医学者として一応社会人をしている。

 僕は、僕より頭ひとつ上にある顔を見上げ、顔半分を覆っているマスクまで見事に鮮やかなオレンジ色をしていることに感心する。と、感心している場合じゃなかった。

「おじちゃん、誰」

 それまで、ギャンギャンと泣き喚いていた子供は、オレンジ一色の異様な生き物をじっと見上げていた。

「俺は藤堂要。死んだ人のお医者さんだ! おい、子供。君は、きちんとこのおじさんに謝らないとダメだぞ。勝手にぶつかって勝手に転んだのは君だろ」

「ねえねえ、死んだ人にもお医者さんっているの?」

 散々泣き喚いていた子供は、興味津々といった様子で藤堂を見上げていた。

「君が謝らない限り、俺は答えてあげない」

 ふん、と藤堂がそっぽをむくと、子供はまたじわりと目に涙を浮かべてしゃくり上げはじめる。

「ちょ、藤堂」

「甘やかすな。子供だからって、間違ったことをそれでいいなんて思うようになったら、ろくな生き物にならないんだからな! 白を黒っていう大人の始まりだぞ」

「は? あんたたちグル? グルになって子供をいじめてるの?」

 横から参戦しようとする母親を完全に無視した藤堂は子供をチラリと見る。薄目を開けた子供は、藤堂と僕の顔を交互に見てから小さな声で云った。

「おじさん、ごめんなさい。ぼくがぶつかったの」

「う、うん」

「でもね、転んだら痛かったんだもん」

 うっうっ、とまた泣き出しそうになる子供に視線を戻し、ニタリと笑った藤堂は、腕組みをしてひとつ頷いてみせた。

「よし。子供よ。教えてやろう。死んじゃった人にもお医者さんがいるんだぞ! 生き返らせることはできないけど、死んじゃった理由がわかるんだぞ! どうだ、すごいだろう!」

 ひょいと手を伸ばし、子供の頭を撫でかけた藤堂は、途中で、手を止め、もう一度腕を組み直した。

「……えー。死んじゃった人のお医者さんなら、生き返るんじゃないの? 変なの」

「変じゃないよ。だって人間、いつかは死ぬんだから、生きてる人のお医者さんがいるように、死んじゃった人にだってお医者さんがいたっていいじゃんか。死んだ人間が生き返るのなんて、ゾンビだけだからな。しかもゾンビは生きていない!」

「えー」

 藤堂の屁理屈以外なにものでもない理屈に、子供は口を尖らせる。更に、子供が何かを言おうとしたのを、存在を黙殺されていた母親が遮った。

「玲ちゃん、おかしな人に関わっちゃダメよ。行くわよ」

 女は、憎々しげに僕と藤堂を睨むと、子供の手を取り、引っ張るようにして僕と藤堂のところから子供を引き離していく。僕がほっと胸を撫で下ろしかけるのと同時に、藤堂がふん、と鼻を鳴らした。

「絡んできたのはおばはん、ぶつかってきたのは子供じゃないか! な? くろすけ。子供、君はきちんと謝ったから見込みがあるぞ。頑張れよ」

 去っていく子供に大きく手を振る藤堂に僕は頭を抱えた。こいつの辞書には『大人の対応』なんていう項目はないらしい。しかも、大体、なんだ。その格好。頭の先から足の先まで、目がチカチカするようなオレンジ色って、なにを考えているんだか。

「やあやあ、くろすけ。二週間ぶりだね! 緊急事態宣言が出て当分会えないかと思ったから嬉しいよ」

 子供が見えなくなるまで笑顔で見送った藤堂は、そのまま僕に向き直ると両手を大きく広げた。カゴを下げたまま僕は一歩後ずさり、異様な出立ちをした縦にひょろ長い男を見上げる。

「なんで来るわけ。僕は『欲しい野菜はあるか』って聞いたんだけど。しかも、その格好はなんなの?」

「これ? これはね、色彩心理学の実践。白一色の部屋、赤一色の部屋、黄色一色の部屋……なんかで被験者を一定期間生活させることで、行動や心理に及ぼす影響を研究しているのはよく見かけるじゃん? でも、占いに『今日のラッキーカラー:赤』なんて書いてあるけれど、じゃあ、持ち物や服装をその色にすることで実際に影響があるのか、気になったから調べてるんだ!」

「……つまり、今日のおまえのラッキーカラーがオレンジだったってことか?」

「残念! これは三日前のラッキーカラー。オレンジ、って見てからネットで服を買ったからね。まずは着てみようと思ってね。たしかに、普段の格好よりも、テンションが上がるかもしれない。それにしてもさ、この、オレンジ色のマスクを探すのが大変でね、なかったから、これ手作りしたんだ。マスクの型紙をネットで見かけたからやってみたんだが、案外うまくできるもんだね。くろすけの分も作ってあげようか」

 満面の笑みでマスクのゴムを引っ張って見せる藤堂の提案は無言でスルーしておく。

 藤堂というのは、かまえばかまうほどじゃれついてくる落ち着きのない犬のような奴だ。

「三日前のラッキーカラーじゃ意味がないだろ」

「馬鹿だね。くろすけは。ラッキーカラーじゃないときに着た場合と、ラッキーカラーのときに着た場合での比較実験ができるだろ。今日オレンジを着ていた場合と、後日、ラッキカラーがオレンジだったときに着ていた場合でどう変わるか、なんて、ドキドキしちゃわない?」

「……はぁ。まぁそうかもね」

 嬉々として僕に説明するオレンジ色の男に、僕はこれみよがしに一度、大きな溜息をついた。

「で、僕は『欲しい野菜はあるか?』って聞いただけなのに、なんでおまえがここに来てるわけ?」

「え? なんで?」

「なんで、って。大体、僕がどうしてここにいるってわかったんだよ」

「え? え? そんなの当然でしょ。くろすけがこの時間にわざわざそんなメールを寄越した、とすると、真面目な君が仕事中にそんなメールを送ってくるはずはない。つまり、君は今日は休み。欲しい『野菜』だから、明日買い物に行く、とか日曜日に買い物に行く、とかではない。鮮度の問題があるものを買ってきてあげよう、なんていうくろすけの愛が溢れるメッセージからは、今日、今このときに、くろすけが買い物に出ているはずだ、ってことがわかる。更に、くろすけは買った野菜を持って、帰りに俺の家に寄ろうと思ったはずだ。うちまで歩いてくるのは流石に遠いから車で出かけてるはずだ。て云うことは、駐車場のあるスーパーにいるはず。そのうち、くろすけが前に持ってきた肉を買ったのがここだったから、一番近いところじゃなくて、このスーパーにいる可能性が高い。だから、くろすけの愛に応えるために来てあげた」

 当たり前のことのように、幾分気持ちの悪い仮定とその結果の行動をすらすらと説明した藤堂は、僕の顔をじっと見つめて、へらりと笑うと、野菜が並んだ冷蔵コーナーへと歩き出す。折角の頭の回転を無駄遣いしている感が否めないが、いつものことだ。

 呆れて藤堂をチラリと見ると、満面の笑みで僕を見つめる目に出会う。

「さ。緊急事態宣言中だし、買い物しちゃお」

 その点については異論はなく、藤堂の三歩ほど後ろを僕も歩き出す。

 キャハハ、と店内のどこからか、また子供の笑い声が響く。僕は今度はそっと眉を顰めた。

「それにしてもなんなんだろう。この子供の多さ」

「あれでしょ。学校が休みだし、どこにも遊びに連れて行けないから、スーパーに子供を連れてきて遊ばせてるんでしょ」

「……迷惑な話だ」

「えっ! くろすけ、子供嫌いなの? 子供みたいなのに」

 僕より余程、子供みたいな藤堂が心底驚いた、という風に目を丸くした。

「嫌いだよ。嫌いというか……苦手なんだ」

「えー。面白いじゃん。子供の発想ってぶっ飛んでて。それは俺も思いつかなかった、悔しい! みたいなこと云うからさあ。どうしても俺たち大人は社会のルールとか善悪とか、道徳的・社会的なものの見方が刷り込まれちゃってるから、見えてないものが多いんだよね。子供って、その辺がわかってない分、発想が柔軟だよね。ま、時として残酷でもあるけどね」

「おまえに社会性とか道徳感とかが備わってるとは思えないんだけど……」

「えー。俺だって色々大変なんだからね」

 走り回る子供たちを視界からフェードアウトさせ、僕はじゃがいもだけが入ったカゴを下げ、藤堂の後を歩く。カゴを揺らすたびにじゃがいもの袋が前に後ろに滑りながら移動する。じゃがいもだけでも何種類かあったけれど、僕にその違いはわからない。

「あ、くろすけ。トマトの缶詰はいいよぉ。トマトの缶詰って、日持ちもするし、完熟トマトがいっぱいで使い勝手も最高。なんなら一箱買っておくといいよ!」

「僕、そんなに料理しないから。おまえが買えばいいじゃない?」

「俺は家にあるもん。玉ねぎも箱買いしてるよ」

 片手にキャベツを持った藤堂はさっさと精肉コーナーへと歩をすすめている。

「あ、そうだ。藤堂。おまえ、パンも焼くの?」

「パン? うん。でも、最近は自動パン焼き機だよ」

「自動パン焼き機……ホームベーカリーか?」

「うん。あれねぇ、最近のはすごいんだよ。材料測って入れて、スイッチを押すだけで、いろんなパンができるんだよ」

「へぇ」

「材料の配合変えると、出来上がりの味が変わるから、結構楽しいし、実験のしがいがあるよ。気温とか湿度とかでも仕上がりが変わるから、なかなか奥深いよ〜」

 料理を実験と言い切るのはどうかと思うが、確かにそれは便利そうだ。パンの材料を買うより、まずは、ホームベーカリーを買う方がいいのかもしれない。それに量を測ってスイッチを入れるだけならば、僕にもできそうだ。

「あ、でもね、最近はコロナでおうち時間が増えたからって、自動パン焼き機もパンの材料も品薄なんだよ。くろすけ、パンが食べたいの?」

 追加でもたらされた情報に、僕は、思わず、ああ、と呻いた。みんな考えることは五十歩百歩、似たようなものということか。

「俺がパン焼いて届けてあげるよ! あ、それよりいいこと思いついた! コロナが終わるまで俺と暮らさない?」

 どこから突っ込めばいいのかわからないことを云う藤堂を黙殺し、改めて店内を見回して僕は驚いた。

「えっ、なにこれ。ティッシュとかトイレットペーパーとか、こんなものまで売り切れてるの?」

 驚いて思わず声を上げた僕と異口同音に、藤堂が声を上擦らせ、僕をまじまじと見つめた。

「えっ! 今更そんなこと云ってるの? ティッシュもトイレットペーパーも消毒用アルコールもマスクも介護用の手袋も小麦粉もバターもカップラーメンもパスタも、いろんなものが買い占められてて、売り切れちゃってるんだよ」

「えっ、小麦粉も? バターも?」

 マスクや消毒用アルコールが売り切れているのは知っていたけれど、そんな生活用品や食材なども売り切れていたなんて。

「もっと云えば、生理用品も売り切れてるよ!」

 なんでおまえが生理用品の売れ行きを知っているんだ、とつっこみたくなる気持ちを抑え、オレンジ色の塊がつらつらと喋るのを追いかける。

「不織布と材料が同じだとかで、生産が追いついてないってテレビで云ってた! ちなみに、俺、双子座なんだけど、今日の運勢は一位!」

 藤堂の個人情報はどうでもいいけれど、そんなにもいろいろなものに買い占めが及んでいたことに僕はいささかのショックを受けていた。

 当たり前なことだけれど、みんな自分が大切だ。人を押しのけてでも、自分を守ることは、人間の動物としての本能だとは思う。

 でも、使いきれないほどのものを買い込む人がいる、と云うことに、僕は驚く。物で溢れている、と思っていた日本で、そんなことが起きることにも。ああ、でも、トイレットペーパーが足りなくなったら確かに困るな。

「人間心理って面白いよね」

 僕のそんな心を見透かしたように、藤堂が笑い混じりに云った。

「足りなくなるかも、買えなくなるかも、って思うと、買っておかなくちゃって思うんだろうねえ。子供と一緒だね。でも、それって本質じゃん。人間の。いやー。人間って愚かで面白いねえ」

「それだけじゃないだろ。今はそれを転売してる奴だっている」

「あ〜。転売ヤー? ああいうのはね、買う側が買わなかったら、トイレットペーパーの海でそのうち溺れるから大丈夫! 楽しくない? トイレットペーパーの海! あ〜。トイレットペーパーをほどきに行きたい」

 一瞬うっとりとした瞳をしかけた藤堂は、ハッと気づいた風に僕を見た。

「あ、もしかして、くろすけ、トイレットペーパーがないの? それで、転売ヤーを呪おうと思ってるの?」

「……あのさ、なんで僕が他人を呪わないとダメなんだ? 僕は人を呪ったことはないよ」

「えー。だって、ものすごく、恨みがましい顔してたんだもん。とりあえず、うちにあるトイレットペーパーあげるから、うちにおいでよ」

「おまえも買いだめ?」

「ふふん。そんな愚かなことはしないぞ。俺は、二年前、トイレットペーパーのどれが気持ちいいか比べるのにいろんなやつを買い込んだから、まだ家に死ぬほどトイレットペーパーがあるだけだ! ちなみに、俺のオススメは、ウォシュレットのために作った吸収力二倍の」

「わかった、買い占めてないことはよくわかった」

 よく通る声でトイレットペーパー比較について語り始めそうな藤堂を遮ると僕は、まさか、と思い至る。

「もしかして、小麦粉も?」

「勿論。パン作りにハマったのは去年の夏だから、もっといっぱいあるぞ! ちなみに、国産小麦と外国産小麦でタンパク質の含有量が違って、品種でも勿論違うんだけどさ」

「わかった。わかったから。それは今度聞く」

「うん! パンを実際に食べながら説明する方がよくわかるよね。じゃあ、くろすけ。パンの第一回品評会いつする?」

 人懐っこい大型犬のように、オレンジ色をした大男が嬉しそうに僕の顔を覗き込む。

「……コロナが終わったら」

「じゃあ、明日の朝ね」

「おまえ、僕の言葉聞いてた?」

「だって、コロナなんて、まだ当分終わらないよ。人類の歴史は感染症との戦いだって、昔、感染症学で習ったじゃん。そんなときまで待てないから、明日の朝、一緒にパンを食べよう! そうしよう! うちにはトイレットペーパーもいっぱいあるし。俺ね、ずーっと一人でいてくろすけが孤独死するとダメだから、コロナが終わるまでくろすけはうちにいるといいと思うんだ」

「……遠慮する」

 僕は藤堂が一人で暮らす一軒家を思い出す。両親を早くに亡くした藤堂が暮らす一軒家は、悔しいことに居心地がいい。でも、だからといって、友人(それも変人)の家でこのコロナ禍、一緒に暮らす理由は僕にはない。

「なんで? いいじゃん。毎日修学旅行みたいで楽しいじゃん」

「あのさ。このコロナのさなかに、わざわざ他人と暮らして感染リスクを高める必要ないだろ?」

 目に見えてしょんぼりとする様に、僕は溜息をついた。

「わかった。じゃあ、今度、話だけなら聞いてやるよ。パンも……手間かけて悪いけど」

 泣いたカラスが笑った、ではないが、藤堂はパッと表情を輝かせて、大きく頷いた。本当に、子供みたいだ。

「なんのパンにしようかな。ねえねえ、くろすけ、なにパン食べたい?」

 オレンジ色のひょろ長い男は、嬉しそうに一度その場でターンして、スキップでもしそうな足取りでレジへと向かっていった。






「やあ、お帰り。榊」

 どんな顔をして差し出された手を握ればいいのかわからず戸惑う僕にお構いなしで、色黒でガッチリとした大男は僕の手をガッチリと握った。

「ちゃんとアルコール消毒したし、許せよ。今はコロナの所為で困ったもんだ。復帰祝いの飲み会もできやしねぇ」

 失業してから一週間。

 僕は、以前の勤務先、波崎中央医療センターの救命センターに居た。懐かしいユニフォームを着て。

通気性の悪い紺色のスクラブに袖を通すとき、ずきん、と胸が一度鳴ったけれど、僕はそれに気づかないふりをする。

 月岡の電話から一週間の間、日替わりで元同僚たちから電話がかかってきた。センター長の軍曹、副センター長のまりりん、二つ上の那珂川先生と佳野先生のコンビ、後輩の佐々、救命センター師長の後田さん、救急外来のお局……いや、ベテランの宮間主任、そして、とどめとばかりに、最後にもう一度、月岡。

 口々に、今、コロナ診療で救命センターがどんなに大変なことになっているかを僕に伝え、戻ってこい、と誘ってくれた。

 普段、昼間の時間帯ならば、救急外来を一人が見て、救命病棟のICUを二人、HCUを二人の医者で割り振って診療を行う。夜は救急外来と病棟を三人でローテートして診る。

救命救急科というのは、他の科とは違って、日勤と夜勤でシフトが組まれる。看護師と同じように。何故なら、救急の患者は二十四時間いつ来るかわからないからだ。他の科は、基本的に日中の業務が中心で、外来と病棟の診療を行い、夜間は急変時対応を行うために当直医を一人置く程度で、この場合、当直医は、日勤業務が終わったらそのまま当直、翌日も引き続き日勤……と三十二時間勤務を行うのが一般的だ。

それとは異なり、救命救急科では、朝から夕方までの日勤と夕方から翌朝までの夜勤、の二交代制の勤務になっていて、平日休日関係なく、いつなんどき、救急患者が搬入されても、対応ができるような体制を取っている。夜間でも日中と変わらないパフォーマンスで診療を行う必要があるからだ。

本来の昼に五人、夜に三人、のシフトで救命センターをまわすには、スタッフは最低でも十五人は必要なのだけれど、コロナの所為で大学から後期研修に来ていたレジデントが引き上げられ、離職するスタッフも出て、今、救命救急科の医者はたったの十人に減ってしまっていた。結果、軍曹はこの二週間、病院に住み込みみたいになっていて、それ以外のスタッフもみんな、ろくに休めない状況に陥っていた。

スタッフの数は減って、そんなことになっているというのに、コロナの診療には、むしろ人手が必要で、コロナ疑いの患者が搬送され、そこに救急担当医がついてしまうと、プリコーションの関係でその他の患者を見られなくなってしまう。だから本来ならば、救急外来に二人スタッフを置きたいのだけれど、ICUにもHCUにもコロナ患者がいて、ECMOが一台、人工呼吸器が五台もついている状況では、病棟側をこれ以上手薄にすることもできないというどうしようもないジレンマで、みんながみんな、精神的にも肉体的にも随分と参っているようだった。

僕は、随分悩んだ。

だって、僕は一度、壊れてしまっている。使命感と理想だけではもう走れないことは痛いほどに知っている。

けれど、昔の仲間の窮状にできることならば少しでも力になりたいと……そんな気持ちもあった。失業していることはさておくにしても。

 すごく、すごくすごく悩んで、結局、週に三回だけ、アルバイトで復帰することにした。

 そして、僕はいま、ここにいた。

「クロ様には主に救急外来を見てもらうつもりよ。週に三回だと、患者の変化を把握するのも大変だし。それに、救急外来を任せておけるだけで、助かるのよね」

 救命救急科の医局に置かれた大きなソファの上にちんまりと座った、まりりんこと、楠毬子先生が片手に抱えたスティックタイプのパンを「クロ様も食べる?」と差し出す。長かった髪はバッサリと切られ、首筋あたりまでのおかっぱになっている。まりりんの隣には男にしては小柄な月岡がこれまたちんまりと座り、リスとタヌキが並んでいるような安穏とした空気を醸し出していた。

「先輩。俺、超嬉しいです。また一緒に働けるのが」

「ほらね。帰ってきて正解でしょ。可愛い後輩ととっても可愛い先輩がこんなに待ち侘びてたんだから」

 ねー、と顔を見合わせ、頷き合う二人に、部屋の奥にいた同期の狗田が嫌そうな顔をした。緩くパーマを当てた髪をツーブロックにし、ブランドものの眼鏡をかけた男がつかつかと歩み寄る。少しぽっちゃりとしたお坊ちゃんタイプの狗田は僕を見上げて、ふん、と顎をあげた。

「ブランクのある人間がそんなに簡単に現場に戻れるとぼくは思いませんけれど。それに一旦バーンアウトした人ですしね。またあの時みたいな迷惑をかけないでもらいたいですね。最近では随分とエビデンスも変わってきましたし。あ、システム上の変更された事項はそちらにまとめておいたので」

「あ、うん」

 差し出されたファイルを受け取る僕に狗田は仮面みたいな笑みを差し向けた。

 全ての人に歓迎されるとは思っていない。けれど、その笑顔がチクリと刺さる。

 狗田……狗田太介は大学時代の同期で、秀才だ。あんなだけれど好奇心と探究心だけは旺盛な藤堂と学年の首席を争っていて、藤堂が天才肌で何本かネジが外れているのに対して、狗田は、完全な努力型だった。藤堂も狗田も、僕みたいな凡人とは出来が違った。勤勉で努力を惜しまず、コツコツと積み上げていくのも才能なんだ、と僕は感心したことがある。合理的で完璧主義者の狗田とは、救命救急科時代に何度も衝突した。

「しかし、人手が足りないのも事実なので。外来業務だけはきっちりとやっていただければぼくは文句はありませんので」

「いぬちゃん、そんなこと云わないの。いぬちゃんだって、人が増えるのは嬉しいって言ってたじゃない」

 まりりんがニヤニヤとしながらパンを頬張る。隣で膝を抱えた月岡は無表情だ。

「この人じゃなければなおよかったんですけれどね」

 狗田は嫌そうに顔を歪めて吐き捨てた。

 まあ、元々、狗田との関係はこんなものだから、これはこれでよしとしよう。

「ファイル、ありがとう。助かる」

 礼を云う僕をチラリと見て、狗田は無言で部屋を出ていった。

「あんなこと云ってたけど、おまえが戻ってきたら勤務が楽になる、って云ってたんだぜ。あいつ」

 シンクに凭れて珈琲を啜っていた那珂川先生がニッ、と笑う。若白髪の目立つ髪に、銀色のフレームの眼鏡、すらりとした立ち姿は以前と変わらない。

「オレも歓迎。もうさあ、仕事、大変だったのよ。このまえ電話でも云ったけど。呼吸器内科にも総合診療科にも応援を要請したんだけど『できませーん』って。『できませーん』って断るのは簡単だけど、こっちは救急車を断れないからね。帰るにも帰れないし、嫁さんの機嫌はどんどん悪くなるし、勘弁してって感じだったのよ」

 うーん、と伸びをした那珂川先生は、大きなあくびをひとつする。よほど疲れているのか、目の下にうっすらと隈が浮いている。

「うちは子供が病気持ちだから、コロナの担当からはなるべく外してもらってるけど、救急外来で飛び込みのコロナが来たら、避けられないしね。月岡とか佳野とか、あとは夜勤組とか軍曹とかに、すっげえ負担かけちゃってたからさ」

 いつの間にか子供が産まれていたのか、と、僕はまずそっちに驚く。

「先生、お子さん産まれたんですね」

「ああ、そうそう。おまえが辞めてからだったから、知らないか。二歳と〇歳七ヶ月なんだけどね。二歳の方が、生まれつきの病気があってね。嫁はいま、育休中なんだけどさ。これが。流石に、その年の子供二人の世話を嫁に任せっきりにもできなくてさ。いや、子供がいるとこんなに大変だなんて思わなかったわ」

「そりゃあそうよ。それくらいの歳が一番手がかかるもの。奥さんを助けてあげなきゃダメよ」

 横から二人の子供の母でもあるまりりんが口を挟む。

「うちなんか、中三と小五だし、二人とも至って健康。旦那が専業主夫みたいなもんだから、あたしは帰らなくても子供は育つけどさ。那珂ちゃんとこは奥さん、もともと家事ほとんどやらないでしょ?」

 那珂川先生の奥さんが家事を全くしない人だというのは以前から有名で、朝出てくる時に、浴室乾燥のスイッチを那珂川先生が入れ忘れて大喧嘩になっただとか、最近流行りの材料を入れておけばスイッチひとつで指定した時間に料理ができる電気鍋を買っただとか、いろいろと話には聞いていた。世の中にはいろいろな家族の形態があるんだな、と思ったことを覚えている。人恋しいときもあるけれど、僕には他人との生活は無理だと思うし、那珂川先生が仕事をしながら家事もしている姿には感心する。

「ほんと、まりりんにも軍曹にも配慮してもらってるんだわ。それでも、病棟のコロナを診ない分、残業はしてたんだぜ」

「そうそう。ここんとこ、コロナだけじゃなくて、外傷も続いてたのよ。重症交通外傷で、骨盤バキバキとか。那珂ちゃんに血管詰めてもらったり、いっぱいあったよね」

 すでに残り少なくなったパンの袋を抱えたまりりんが軽い調子で云う。なんてことなさそうに云うけれど、これだけコロナ患者を抱えながら、更に三次救急を受け入れるのはどれだけ大変だったか。

「だから、クロ様が帰ってきてくれて、あたしたちは、本当にありがたいのよ」

「はい……ありがとうございます」

「まぁでも、無理しすぎない範囲でね。クロ様も完璧王子なんだから」

「なんですかそれ」

 言いかけた時に、ホットラインが着信を告げた。俄かに体に緊張が走る。

「はい。波崎中央医療センターです」

 久しぶりにそう口にすると体が震えた。



 救急外来に出ると、この四年で体重が十キロも増えたの、と電話口で笑っていた宮間主任が駆け寄ってきて、その逞しい腕で僕をがっちりとホールドした。体重は〇・一トンを越えていて、肉感的、を通り越し、もはや張り裂けそうなむっちりとした体をしている。身長も僕とそう変わらなくて、縦にも横にも大きな体でぎゅっと抱きしめられると、殆どプロレス技をかけられているような気分だ。

「く……苦しい。離して……」

「あらあら。先生、ごめんなさいね。わたくし、嬉しすぎて」

「そ、それはありがとうございます」

 宮間主任の腕から解放されると、僕は懐かしい救急外来を見回した。新しい機器が増えている。呼吸器も新しいものになっているし、カートの位置も変わっている。

「はい、先生。こちらですよ」

 言いながら、プリコーション用の防護衣とN95マスク、フェイスシールドにディスポのキャップが手渡される。

 サージカルマスクの下にN95マスクを着けて、手袋、防護衣、キャップを被り、最後にもう一枚手袋をする。これだけで、じわりと汗が滲む。

「もう、この格好、嫌になりますわ。暑くて暑くて……八月までにコロナ落ち着いてくれませんかねえ」

「それは無理じゃないかな……」

 宮間主任のフェイスシールドは既に汗で曇っている。確かにこれは大変そうだ。

 カーテンで仕切られたスペースが六つ。そのうち二つにはコロナの陰性が確認され、家族の迎えを待つ患者や、入院先の病棟からの迎えを待つ患者がストレッチャーに横になっている。新患の受け入れは、奥の個室、初療室と呼ばれるところだ。

 普段ならば、初療室は、搬入直後に処置が必要な重症患者を受け入れている場所だ。人工呼吸器や手術用の無影灯、滅菌用の紫外線ランプなどが備えられていて、ひどい外傷の時などは、ここでそのまま手術をすることもある。

 スライド式のドアに手を掛けると、内側からドアがするりと開き、一九〇センチはあろうかという背の高い男が顔を覗かせた。軍曹よりもさらに大きい。スクラブの色からすると、医者のようだけれど、僕の知らない顔だ。意志の強そうな太い眉と真っ直ぐな眼差し。口元はマスクで隠れていてわからないけれど、僕と同じくらいの年だろうか。

 男はフルプリコーションの所為で幾分くぐもった声で挨拶をした。

「榊先生、よろしくお願いします。研修医二年目の西です」

「えっ、研修医の先生なの?」

 一見するともう少し年次がいっていそうで、僕は思わず、驚きをそのまま口にのぼらせてしまう。自信ありげな表情や目つき、落ち着いた様子からは、研修医にはとても見えなかった。

「あ、ごめんね。他意はないんだ。ただ、すごく落ち着いて見えたから、もう少し上の先生かと思って」

 慌てて言い訳をする僕に、ククッ、と研修医だと名乗った男が吹き出す。

「オレ、社会に一度出てから医学部に入り直しているんで、年だけはいってるんです。多分、先生と年齢はそう変わらないですよ。それより、榊先生のことは月岡先生からよくお話を伺ってました。一緒に働いてみたいと思ってたんです」

 僕は、その台詞に苦笑いした。

「月岡からどう聞いてるかわからないけれど、僕、ダメダメだよ。ブランクがあって迷惑かけるかもしれないけれど、よろしくね」

「ご指導、よろしくお願いします。榊先生はすごかったんだ、って、あの人、しょっちゅう云ってますからね」

「買いかぶりすぎだよ。なにがすごいのかさっぱりわからない。……さ。五分で着くって云ってたから、もう来るよ。五十八歳男性。家で倒れているところを家族が発見。JCS二〇〇。体温三十九度三分、サチュレーション、ルームで八十八パー。呼吸数三十一、血圧八十五の五十三。家族内で同様の症状の者はなし。コロナの可能性が比較的高い患者だから、手指で自分の顔に触れないよう注意すること」

 指示を出すより前に、宮間主任が処置に使うと想定される物品をカートに並べ始めた。

 救急車のサイレンが近づいてくる。

 僕は、そっと目を閉じ、大きく息を吐いた。

 大丈夫。僕はやれる。





 ピッピッピッと規則正しいモニターの音がする。リズムは脈拍を、音の高さはサチュレーションを反映していて、無意識に耳はその音を追いかけている。

「……ICU3、鈴木さん。COVID-19肺炎。九時の時点でP/Fratioは100を切ってて、72。CO2は吐けてますけど。呼吸器はPC/ACでFiO2は80パー。PEEP10のPS8」

「結構圧かけてんだよねぇ」

 そこが指定席、と云うように、シンクにもたれかかった那珂川先生がマグカップを片手に目を眇めた。視線の先にはICUのモニター。SPO2と書かれた横の数字は89。かなり低い。動脈血の酸素分圧にするとおそらく60を切っている。肺自体が傷んでいる、と云うことだ。

「はい。タイダルは350前後で、酸素化はあんまり変わらない感じです」

 救命センターでは朝と夕にこうして申し送りを兼ねたカンファレンスがある。夜勤明け、と顔にくっきりと刻み込まれた佳野先生は両手で顔を覆うと、これ以上ないほど深い溜息をついた。

「鈴木さん、八十歳だしなぁ……」

 これも定位置のソファで膝を抱えて丸まったまりりんがぼそりと呟く。

 コロナの流行でにわかに一般に知られるようになったECMOだが、その適応は厳密に決められていて、年齢や既往、呼吸機能などをスコアリングして、導入が可能かどうか判断することになる。ECMOは決して万能でリスクゼロの治療法ではないからだ。最後の手段だが、最良の手段ではない。

「この患者にECMOの適応はないですし、可能な治療という意味ならば、通常のARDSに準じて腹臥位を試してみても?」

 狗田がねっとりとした口調で、内容的には至極真っ当なことを指摘する。

「腹臥位、あの人、太ってるし、お腹がキツそう」

 クッキーを齧りつつ、まりりんがつっこむ。シンク脇で那珂川先生がクスッと笑った。狗田が二人を睨む。

「楠先生と那珂川先生。なにかご意見でも?」

「やー。だってさ、お腹があれだけ出てると、される側も辛いんじゃないかな?」

「それは感情論ですよね。背側の肺野を開放し呼吸機能の改善を図る上で、腹がつかえて苦しいって云うのは、やらない理由になるんですか?」

「まー、そうなんだけどー。理屈はわかるんだけどさー、自分がされたら苦しそうだなーって思って」

 まりりんはぽっちゃりとした自分のお腹に目を落とす。

「まりりん、自虐はやめときましょ! ま、いいんじゃないですか? 腹臥位。人手がいるから看護師にも確認しないとダメでしょうけど」

「えー。那珂ちゃん、ひどいわ」

 那珂川先生が、ねっ、と軽やかに狗田に声をかけるのを見ながら、まりりんが頬を膨らませる。ムードメーカーというのはこういう人たちを云うのだろう。

災害現場に一緒に派遣された時も、手の施しようのない重症患者を前にした時も、心が折れそうになる僕たちをまりりんの暖かくて明るい人柄が何度も支えてくれた。

最近では、自衛隊が救助任務中に笑顔を見せたら不謹慎、警察が交番の前を歩く子供に笑いかけても不謹慎、医者が病院で休憩中に談笑するのも不謹慎、みたいに非難する不謹慎厨なんて揶揄される人間もいるけれど、じゃあ実際に、心が壊れてしまいそうな現場で僕たちはなにに縋ればいいと云うのか。そんな現場に立ったこともない人間が想像だけで投げつける誹謗中傷に、僕などは酷く傷ついいたこともある。

「ちょっと、かばちゃん。那珂川センセイが意地悪するし、残りのクッキーあげるわ」

 まりりんが二つだけ残ったクッキーの袋を隣に座っていた椛谷に差し出す。

 椛谷は月岡と同期の女医だ。

 アイメイクだけは常にばっちりで、つけまつげなのだろうか、明らかに自前のものではない睫毛にインパクトがある。彼女も子供が一人いて、旦那さんも医者だから、子供の面倒を見るのが大変だとこぼしていた記憶がある。集中治療科から救命救急科に来た人で、あまり救急業務には興味がなく、主にICUの管理をしていた。同じ科出身の狗田とは仲が良くて、勤務が同じ時にはよく二人で食事をしていたっけ。

 元々、救命救急科は二つに分かれていて、ERと総称される救急対応をする救急科とICU業務を中心とした集中治療を主に行う集中治療科があった。それが統合されて、救命救急科になったのだけれど、やはりそれぞれに得意な分野は違っているから、集中治療のエキスパートの狗田は、僕たち救急科出身の人間の集中治療管理に苛立つようだった。その矢面に立たされていたのが、僕と月岡だ。僕は学生時代からの因縁……というか、主に狗田の藤堂に対するライバル心のついでとばかりに、昔からよく攻撃されていた。月岡は、救急科と集中治療科が合併されたときに一番の若手だったから、指導と称してはよく言いがかりをつけられていた。月岡と同期の椛谷に対しての態度とあまりにも対応が違い過ぎて、何度か苦言を呈したこともあったほどだ。

 ぼんやりとしていた椛谷は目の前に差し出された袋にハッとした様子で重そうな付け睫毛を瞬かせた。

「かばちゃん、大丈夫? 疲れてるんじゃない?」

 まりりんが声をかけると、幾分硬い声で椛谷は答えた。

「あ、すいません。ちょっと考えごとです」

 そんな二人を苦々しい顔で睨みつけていた狗田が、苛立ちを隠しもせず、尖った声で咎めた。

「椛谷、おまえ、カンファレンス中なのわかってる? 考えごとなら他所でやれ」

 ムッとしたように椛谷が狗田を睨んだ。 その視線を一瞥で払い除けた狗田は変わらない口調で言い放った。

「じゃあとりあえず、今日の日勤担当者で鈴木さんの腹臥位療法開始することにしましょう。よろしいですね」

 俯いて手にしたボードにメモを取っていた後田師長が「重そうだし、こりゃあ、人手がいるわね」と返事をする。後田師長は外来主任の宮間主任よりだいぶ若いが、既に救命センターの師長をしている切れ者だ。僕よりいくつか年上だから、四十の声を聞くか聞かないか、といった年頃か。

 モデルのような長身に長い手足。高校まではインターハイに出るようなバスケットの選手だったそうで、しなやかで筋肉質だ。仕事も的確で手早く、なにより、明るくて前向きだ。

 重症患者を多く受け入れる救命センターでは、後遺障害が残る人も少なくない。例えば、火事で大火傷を負った人はその後、退院しても、手や足を治療のために失うことも多いし、引き攣れて硬くなった皮膚のせいで、仮に手足が残っても自ら動かすことができない人もいる。顔貌も変わるし、頭髪が生えてこない人もいる。

 両手両足を失い、だるまのようになった患者が、ベッドの上で「なんで死なせてくれなかったんだ」と叫ぶのを聞かされるのは、必死で治療を行わざるを得ない僕たちや救命センターのスタッフにとって、どうしようもないくらい辛いことだ。患者も辛いけれど、僕たちも辛い。命を救う代償に失われたものは戻ってこない。だけれど、僕たちは神様じゃないから、なんの代償もなく全てのものを元通りにする術なんて持ち合わせていない。

 みんなが、患者もスタッフも……心折れそうなときでも、後田さんはみんなを前向きな気持ちにさせてくれる。彼女の天性の才能だとは思うけれど、短い声かけや会話で、どれだけの人の気持ちを明るくしてくれることか。とってつけたような言葉ではなくて、本心からの優しさや思いやりが彼女の言葉には滲み出ていて、それが伝わるのだと僕は思う。

 件の患者には「ごめんね! そりゃそう思うよね。でも、死なせるのはやっぱりできないよ」と、興奮する患者の背をさすりながら話しかけていた。そんなことくらいで、と思うかもしれないけれど、そんなことすらできないくらい気持ちが追い詰められるような状況でも、彼女は変わらない。

 後田師長とまりりん、二人はそんなところが少し似ていて、僕の大好きな人たちだ。

「じゃあ、今日の日勤の偉いさんは毬子先生か。看護師の方も時間を調整して、後で連絡すればいいかな?」

 チラリとボードを覗き込むと、うさぎだか猫だかわからないキャラクターがお手上げポーズをとる様が落書きされていて、僕は思わずニヤリと笑う。それに気づいた後田師長は悪戯っぽい目をする。

「おっけー。こっちは比較的動けると思うし。それでいいよ。まぁ、クロ様がなんかどえらいの引き当てなかったらだけど」

 まりりんの返事に、後田師長は足早にカンファレンスルームを出ていく。

「じゃ、明けの那珂ちゃんと佳野先生は帰っちゃっていいよ。お疲れ様。さて、うちらも分担を決めよっか」

 ソファからようやく立ち上がったまりりんに、椛谷は小さく手を挙げた。

「私、鈴木さんの体位変換、入りたくないです」

 こわばった表情で俯きがちに、けれどはっきりとした言葉で椛谷が言い切る。部屋を出ようとしていた那珂川先生は、なんだか苦いものでも飲んだように顔を顰めてチラリとこっちを見つめ、踵を返す。

「鈴木さんは挿管されていて、回路が外れない限りは、エアロゾルからの感染は考えなくていいとされていることぐらい、知っていますよね?」

 狗田の氷柱のように尖った冷たい声が椛谷に向けて吐き出された。椛谷は顎を上げせせら笑うように鼻を鳴らすと狗田に言い返す。

「それこそ『されている』だけで根拠なんてないですよね。先生の大好きなエビデンスだって、まだ日の浅いものですよね? それで感染したらどうしてくれるんですか?」

「接触感染に対してはフルプリコーションをした上で正しい着脱と消毒を行えば、可能性はほぼゼロとされているし、エアロゾルについては粒子径などからシュミレーションも行われた上での報告だが。非科学的な感情論で職務を放棄するなら、いっそ医者を辞めたらどうですか?」

 椛谷の言いたいことも、狗田の言うことも、僕にはどちらも正しいことのように思えた。誰だってコロナにかかりたくはない。家族がいれば尚更だろう。一方で、狗田の言うエビデンスは科学的に考えれば正しくて、そして僕たち医者はあくまでも科学的に物事を論じるベきではある。ただ……。

「狗ちゃん、それはちょっと言い過ぎだね」

 まりりんがいつもより厳しい口調で狗田の発言を咎める。椛谷は憎しみのこもった眼差しで狗田を睨みつけていた。

「診たくない、というただの感情論で診察を拒否することはできないんじゃないんですか? 子供の我儘じゃないんですから」

「狗ちゃんだって本当はコロナの診療をしたくないって言ってたのはわかってるよ。そのうえで、いま、嫌かもしれないけれど、頑張ってくれてるのもわかってる。ただ、納得したうえで仕事をして欲しいの。あたしは」

「じゃあ、ぼくもコロナ部屋の担当を絶対したくないって言ったらどうするんですか? 外してくれるんですか?」

 ぐっと一度唇を噛んだまりりんが「極力、ね。それに今だって……」と低く返す。

 僕は非常勤だからコロナ部屋の担当からは外されている。余程手が必要な今回のような時には入ることはあるけれど、そうでない限り、感染者を収容しているエリアに足を踏み入れることはない。これは、万が一感染した場合に備えての対策でもある。

 実際、月岡や佳野先生、佐々、杉本先生辺りがコロナ部屋の担当をしていることが大半だ。あんな口をきいているけれど、狗田も椛谷もコロナ部屋の担当に当たっていることなんて殆どない。

 そこにはまりりんや軍曹の『配慮』があるということなのだろう。

「ぼくにだって家族がいるので、椛谷先生同様、コロナの診察をしたくない、という我儘が通るなら、そんなものしたくないですよ。ただ、それを口にしないのは医者だからです。口にした時点でこいつは医者失格だと思うんですが、どうですか?」

「……失格かどうかなんて、誰かが決めることじゃないと……思うよ」

 僕はキツイ言葉を互いに投げ合う空気に耐えかねて言葉を挟む。

「それに、納得できないまま仕事をして、万が一にも感染したら、それこそ目も当てられないんじゃないかな? 体位変換には僕も入れば、男二人になるし、今日は看護師も、竹尾君と中林君がいたはずだから。椛谷がいなくても大丈夫なんじゃない?」

「そうね。クロ様の言う通りだわ。それだけ男の子が入ってくれれば、非力なかばちゃんがいなくたって大丈夫だって」

 いつものトーンに戻った声が相槌を打つ。狗田の爬虫類のような目が、僕とまりりん不満そうにを見据えた。その間も、椛谷は狗田を激しい怒りを湛えた瞳で見つめていた。





 救急外来に向かうには、救命センターの中を通り抜けなくてはいけない。特にコロナが流行り始めてからは人流の把握とゾーニングのために、スタッフトイレ脇の扉が封鎖された。外と直接出入りできる方が、と思うのだけれど、病院上層部の考えることは時々、現場で働く人間の斜め上を行く。病院の入り口をはじめ、救命センターの入り口前にも非接触型のカメラで体温を測定するモニターが設置され、そこを通過することで「この病院では対策を行なっている」ということをアピールしようと考えているようだった。

「せんぱーい。榊先生」

 救命センターの出口のすぐ手前で、後ろから月岡の声が追いかけてきた。

 振り向くと、ICUと通路を隔てるように置かれたついたての向こうで、手袋をした手がひらひらと動いている。

 この病院……波崎中央医療センターは、感染症指定医療機関ではないから、陰圧個室は限られていて、感染症の取り扱いに適した病棟配置にはなっていない。むしろ、災害時などの多発重症外傷者が多数出た時に対応しやすいように、開けた作りになっている。いま、救命センターのICUとHCUで中等症から重症のコロナ患者を受け入れているけれど、彼らの搬送などを行う上で、ゾーニングと云って、他の物や人との接触を極力避けるための移動制限が必要になる。床にビニールテープを貼り、ついたてを置いて通路を封鎖し、感染患者を隔離するという原始的な苦肉の策でどうにかやりくりしている状況だ。

 月岡がいるついたての向こう側はレッドゾーン。感染患者が入院している個室が並ぶ。

 そういえば、月岡は今日もコロナの重症患者の管理に当たっているんだった。

 ついたてに触れないようにして覗き込むと、フルプリコーションで両手を手術前のように胸の前に掲げた月岡が眉を下げていた。

「ん? どうしたの? なにかあった?」

「先輩、すいません。あの、俺のピッチ鳴らしてもらえないですか? 俺、着替えた時にどっかに置いてきちゃったみたいで……」

「ああ、それくらいお安い御用だよ。PHSを見つけたら、師長さんにでも預けておいたらいい?」

「あっ、いや、カンファレンスルームに置いといてください」

「はいはい。……それより、ごめんね、月岡。結局、コロナの入院患者の対応、手伝ってやれなくて」

「いやいや、いいんですよ。那珂川先生のところは万が一のことがあったらいけないし。万が一のことがあったって構わない人でも入ってない人もいますし」

 月岡は努めて明るい口調で答えてくれたけれど、誰だって、重症化すれば生命の危機に及ぶような感染症の診察を先頭に立ってしたいと思うはずはない。 

それならば、僕のような、倒れたところで誰にも迷惑のかからない(両親は健在だけれど、同居はしていないし)人間が本来は診療にあたるべきのようにも思う。ただ、僕は、非常勤という立場での勤務だ。僕は一度壊れてしまった僕自身をまだ信じきれずにいる。だから、フルタイムの常勤でもう一度、救急の現場に身を置くだけの勇気はない。確かに、そんな人間に、命の瀬戸際にある重症患者の管理なんて任せられたものじゃないだろう。

「そういえば、椛谷の奴、昨日から休んでるんですよね」

「あっ、それで今日は月岡がいるのか」

「……先輩、他人に興味がなさすぎです」

「え、いやいや。いないのには気づいてたよ」

「本当かなあ」

 ニヤニヤと目元を緩ませて月岡が僕を見る。むしろ、フルプリコーションでは目元しか見えない。

「椛谷、体調でも崩したのかな? オーバーワーク気味だもんね……みんな。月岡も大丈夫? 無理してない?」

 月岡は一瞬、真顔に戻るとゴーグルの奥で軽く目を瞬かせた。

「ふふ……先輩は、相変わらずですよね。他人に興味なんてないのに、人の心配ばっかり。大丈夫ですよ、若いんで」

 ついたてを挟んで思わず話し込んでいると、まりりんが小走りにやってきて、僕の脇腹を人差し指でつついた。思わず体を逃すと「こら〜」と僕たちを叱る。

「ダメよ。フルプリコーションの人はそんなに長い間、そこで立ち話してちゃ。ゾーニングの意味がなくなっちゃうよ」

「はいっ、すいません!」

 月岡は、ビシッと姿勢をただし、敬礼でもしそうな勢いで、踵を返した。と、僕に「ピッチ、お願いしますね」と言い残し、ICU2の部屋へと入っていった。



 月岡のPHSはスクラブが積まれた棚に置かれていた。元々、リネン室だった廊下から入ってすぐの小部屋を更衣室にしていて、そこから扉を一枚隔てるとレッドゾーン。つまり、コロナ患者を診療している部屋になる。

 ゾーニングというのは、レッドゾーンが感染防護をしている人しか入ることのできない、謂わばウイルスで汚染されている場所。グリーンゾーンは感染防護のプリコーションを脱ぎ、消毒を終えてからしか入ることのできない、汚染のない場所。イエローはその間で、レッドの人は入ることはできないが、グリーンの人が立ち入り、レッドの人に物品を手渡しするなどの介助が可能なゾーンになっている。

 僕は入院患者の診察には当たらないことになっているから、この小部屋に入るのは初めてだった。窓のない六畳ほどの元器材庫の棚には、N95マスク、フェイスシールド、薄いビニール製の防護服、ディスポーザブルのキャップ、手袋、消毒液などが並んでいて、個人持ちのゴーグルが上から吊り下げられた洗濯紐にかけられている。

 ここで防護服などを着用してレッドゾーンで患者の治療にあたる。勿論、この時、治療にあたっている看護師も医者もレッド……つまり、汚染されている……の扱いだ。治療が終われば、着ていた防護服や手袋、キャップは患者の部屋を出たところにある感染用のゴミ箱に捨てて手指を消毒し、この部屋に戻り、新しいスクラブを持って、外廊下沿いにある当直室でシャワーを浴びて着替える、というのが一連の流れだ。

 僕は月岡のPHSをポケットに入れて更衣室を出ると、いつの間にか詰めていた息を吐き出した。

 更衣室に入っただけでもこれだけ緊張感があるというのに、実際にレッドゾーンで診察に当たらなくてはならない精神的負荷は如何ばかりか。コロナが終わったら、月岡と久しぶりに飲みに行きたいな、とぼんやり思う。

 緊急事態宣言が出るより前から、病院では二人以上での外食、飲酒、それから、学会や帰省を含めた旅行が禁止されていた。コロナを万が一にも病院に持ち込まないためだ。

世の中は『自粛疲れ』なんてことを早くも云っているようだけれど、彼らは、それより一ヶ月も前から『自粛』し、今もこうして必死に、医療崩壊の危機と戦っている。それも、終わりの見えない戦いだ。

 今は発熱患者や呼吸器症状のある患者は断る病院も多いから、必然的に救急車の受け入れ台数も増えている。この病院でも救急外来の外にプレハブ小屋を建てているところだけれど、場所だけできたとして、じゃあ誰が診察するんだろう。

 現状、救急外来での発熱対応も、ICU、HCUでの中等症・重症患者の管理も、救命救急科が一手に担っている。これ以上、プレハブ小屋での発熱対応に人を出すことは難しいだろう。

 この緊急事態宣言で少しずつ感染者が減っているのが救いといえば救いだけれど、、封じ込めは一時的なものに過ぎないだろう。

 先の見えない、長い長いトンネルだ。終わりが見えていれば、そこまで、と走ることはできる。けれど、いつまで頑張れば、どこまで耐えれば終わるのか。それすら見えない今、心がポキリと折れてしまわないか。僕は、みんなが、月岡が、まりりんが、心配になる。

 ポケットの中のPHSを撫でた瞬間、ホットラインが鳴り響いた。





『こちら波崎北救急 救急救命士の林です。CPAの受け入れをお願いします。二十代女性。下大岡駅に特急電車が到着する際、ホームから飛び込むところを複数の乗客が目撃しています。初期波形はPEAで、外傷がかなりひどいです』

 ホットラインと呼ばれる、救急隊から直接電話が入るPHSを耳に当てると、サイレンの音をバックに若い救命士の声が響いた。

 CPAとは俗にいう心肺停止。つまり、今から運ばれてくる人は、電車に飛び込んで心肺停止になった人、だ。

 電車に轢かれようが、ビルの屋上から飛び降りようが、救急隊は生命の兆候がわずかでも残る患者は、病院へと搬入する。たとえ、救命が困難だとしても。

「あと何分で着く? 頭部の損傷は? 気道の確保はできたの?」

『下顎骨が粉砕しているようで、頬の部分も陥没していて、気管挿管はできず、マスクフィットも不良です。BVMで補助は行っていますが……。それから、白いものが髪に付着しています……。もう車内収容終了しておりますので、あと五分程度で到着します』

「わかった」

 僕は短く答えて溜息を一つ漏らした。頭部の損傷が酷くて、髪の毛に『白い物』が付いている、というのは、恐らく、頭蓋骨の損傷が激しくて、脳の一部が脱出してしまったということだろう。脳脱、というやつだ。救命は難しい。初期波形はPEAだと云っていたが、間もなく心臓も止まるのだろう。

 宮間主任に声をかけてから、まりりんにも一報を入れる。『ICUには、多分来ないって云っとく』という返事に、お願いします、とだけ答え、電話を切る。

 こんなひどい状態の患者さんをまだ経験の浅い研修医に見せるのは躊躇われて、僕はPHSのボタンを押しかけて指が止まる。

「あ、これ月岡のだ」

 見覚えのないカバのマスコットがぶら下がっていて、僕は間違いに気づく。月岡のPHSをカンファレンスルームに置いてくるはずが、僕は間違って自分のPHSを置いてきてしまったらしい。処置が終わったら交換すればいいか、とポケットに突っ込もうとした時、PHSが鳴る。

『ナオさん?』

「なおさん? ああ、月岡のことか。いや、ごめん。榊です。間違って月岡のピッチ持ったまんまになってて、月岡はまだコロナ部屋だと思うんだけど……と」

 ボタンを押すなり呼びかけられ、慌てて言い訳をしながら、名前を見ると『研修医・西』と表示されている。

「あれ、西先生か。ごめんね。月岡に用事だった?」

『あっ、すいません。西です。えっと、大した用じゃなかったんですけど』

 ここで電話を掛けてきたのも何かの縁か、と僕は腹を括る。

「あのさ、西先生、いま、手は空いてる?」

『はい』

「あと二、三分で救急車が来るんだけど……多分……ぐしゃぐしゃで助からないと思うんだけど……こっち来る?」

 ノーならノーでいい。

 使命感が強ければ強いだけ、こんな時の無力感は大きい。

 人間の生命力はその逞しさに目を見張ることもあるけれど、時として驚くほどに脆く儚い。掬い上げた砂が両手からこぼれ落ちて行くように命が失われていくのを、繋ぎ止めることも、止めることもできない。

あのどうしようもない、虚しさといたたまれなさを、敢えて研修医のうちに知る必要があるんだろうか。戸惑いながらも、僕は西先生に選択を委ねる。

『行きます』

 電話越しの声は即答する。

「……そっか。わかった。フルプリコーションで初療室に来て。どんな状態でも驚かないでね」

 宮間主任とともに防護衣を身につけ、患者を受け入れる準備をする。ストレッチャーにはビニールと吸水シートを敷く。電話で聞く限り、出血も相当ありそうだ。

 救急車のサイレンが近づいてくる。

 小走りに救急入り口へと駆けていく宮間主任の大きな背中をゆっくりと追いかける。外に出ると、ちょうど救急車が止まったところだった。

 バックハッチが開き、水色の不織布で出来た防護服を着た救急隊員が降りてくる。背中には酸素ボンベを背負い、ヘルメットにゴーグルをしてN95マスク。

 ストレッチャーを引き出すと、大きな機械がつけられた細身の女性と思しき傷病者の姿が見えた。

 がしゃん、がしゃん、がしゃん、がしゃん、と規則正しいリズムで、大きな機械が女性の胸を押している。胸骨圧迫を自動的に行ってくれるルーカスと言う名前の機械だ。

「わかりますか? 病院ですよ」

 呼びかけてみたけれど、答える声は勿論ない。血の気のない顔は電車とぶつかった所為でおかしな具合にねじ曲がっている。潰れてめり込んでしまった頬、裂けてしまった頭皮の隙間から白っぽいカッテージチーズのようなものがこぼれ、長い髪の毛に絡み付いている。瞼をそっと捲ってみたけれど、瞳孔は開いたままだ。

「とりあえず、中に入れて。宮間さん、一応中でモニターを付けようか。救急隊さん、ご家族とは連絡取れているの?」

「駅のホームに残されていた鞄に、身分証が入っていたので、警察が今、ご家族に連絡をしていると思います」

「警察は後から来るんだね?」

「はい。こちらの病院をお伝えしていますので」

「そう。……わかっているとは思うけれど、この後、警察にお願いすることになるから」

「はい。すいません」

「いや、救急隊さんが悪いんじゃないよ。システムの問題だから……。つらいよね」

 ストレッチャーの後を追い、初療室に入ると、西先生が準備万端、といったていで待っていてくれた。

 僕と救急隊員が二人がかりでルーカスを外すと、宮間主任と西くんが女性を病院のストレッチャーに移す。ぶらりと垂れた女性の指先から、数滴の赤いものが床に滴り落ちた。

 ストレッチャーに寝かされた女性が纏っていたピンク色のレースをあしらったワンピースはところどころ裂け、黒く汚れている。名前も知らないこの人の一張羅だったのかもしれない、もとは可愛らしかったワンピース。ぼろ布のようになったそれを鋏で切って外すと、外傷があらわになる。

 ひと目でただごとではないとわかるほどに変形した胸郭は左側だけがひしゃげている。右側は形のいい乳房が残されているけれど、それが余計に、歪さを際立たせている。左側からホームに入ってくる電車に飛び込んだのだろうか。左足は完全にねじ曲がり、右足とは長さが明らかに違う。脛のところからは折れた骨が肉の間から顔を出し、血が滴り落ちていた。左の肩も恐らくは折れ、外れ掛けている様子で、鎖骨の端がやけに飛び出して見えている。二の腕の肉はぱかりと割れ、そこからはまだ赤い液体が滴っていた。

 微かな生命の兆候すら感じられない患者を前にしたとき、僕たちが感じるのは途方もない虚しさだ。医学は、無力だ。僕たちは……もう、この人になにもしてあげることはできないんだ、と。

 それでも、搬入された以上、僕たちはこの人を診察しなくてはならない。

 ご家族が来られたら、この方が運び込まれた時、どんな様子だったか説明しなくてはならないからだ。そのうえで、おそらくこの方は、警察に引き渡し、検死してもらうことになるだろう。

「主任さん、モニター。西先生、一応ガスと採血を。それからご家族と警察が来たら僕が対応するから教えて。とりあえず、必要なことだけ済まそう」

 僕はエコーを立ち上げながら、西くんの様子を窺う。表情まではわからなかったけれど、震える手でシリンジを握りしめていて、流石にショックを受けているように見えた。

「西先生、無理しないでいいからね」

「はい、大丈夫です」

「なんで検査なんてするのかと思うよね。この方はもう助からない。でも、この方のご家族が来られたときに、どんな怪我をしていたか、どんな状態だったかをお伝えしなくてはならないから、最低限のことを把握しておく必要があるんだよ」

 主任さんがモニターをつけると、緑色のラインは一直線に伸び、その横に0の文字が浮かんだ。

 心臓は止まっていた。

 自動胸骨圧迫機の所為でくっきりと胸の中央に刻まれた赤く丸い窪みを僕は指でなぞる。

 痛かっただろうに。そのうえ、さらにこんな苦痛を与えて、ごめんね、と。

 心臓マッサージといえば聞こえはいいけれど、実際は胸の真ん中あたり、胸骨の上を、体が十センチ沈み込むくらいの力で強く押す。だから、大概の場合、胸骨や肋骨は骨折するし、場合によっては折れた肋骨が肺や心臓に刺さることもある。それで助かるのならばいいけれど、そうではない……例えば、こういう患者の場合、どこまで積極的な治療をすべきなのか、僕はいつも戸惑ってしまう。バーンアウトするまで八年間、救急医として働いてきたけれど、未だに答えは出ないままだ。僕は心音の停止と呼吸音の停止、対光反射の消失を確認し、ちらりと時計を見て、主任さんに時間を伝えておく。これは、警察に伝えるためだ。

「西先生、かわろうか?」

 比較的損傷のない右の鼠径部を手袋をした左手で押さえたまま、西くんは眉間に皺を寄せていた。

「CPAの時って、脈も触れないし、刺しても血液の逆流がないから、当たってるかどうかわからないよね。それに、この方みたいに出血が多いと、血管が虚脱してることがあるから、血管の弾力も指先で感じにくいんだ」

 西くんの手から注射器を受け取ると、足の付け根の辺りを指で示す。

「大腿静脈からCVを入れたことはある? エコーで見ると、動脈の内側を静脈が走行しているのがわかるよね。手で触ると、ゴムみたいな感触の内側が窪んでいるのがわかるでしょ。これが静脈」

 隣に立ち、黙ったまま僕の手元を見つめる西くんの手を取って、患者の足の付け根に触れさせる。

「静脈を中指で押さえて、人差し指でこの弾力のある感じを指の内側で確認しながら中央を刺せば、たいてい、動脈にあたる」

 ごめんね、と生命の微かな兆候すら残ってはいない患者に声をかけ、僕は示した位置に注射器を刺す。シリンジを引くと、まだ赤い血液がスッと戻ってくる。

「……すご」

「慣れだよ。解剖学を思い出して、血管の走行をイメージするとやり易いよ」

 宮間主任に検体を渡し、エコーを患者さんの体に当てようとしたところで、救急隊が顔を出した。

「榊先生。ご家族は山形県だそうで、こちらに向かっていただいていますが、すぐには来られないそうで……とりあえず、警察が到着してます」

「それは仕方ないね。……じゃあ、西先生。一応、コロナのPCRと、エコーで腹腔内と胸腔内、それから心臓の確認をしておいてくれる? それはできそうかな?」

「はいっ」

「僕はちょっと警察と話をしてくるね」

 お腹の前側で防護服を引っ張ると、後ろで括っていた紐が切れる。丸めながら手袋ごと脱ぎ、ゴミ箱に突っ込んで僕は廊下に出た。

 廊下の長椅子には救急隊員が一人と制服を着た警察官が二人座っていたが、僕の姿を見つけると、揃って立ち上がる。

「お疲れ様です。ご家族、遠方なんですね」

 話しながら座るよう促し、僕も警察官の隣に腰を下ろす。

「今、エコーをしてもらっているところですけれど、こちらに来られた時点でCPAで、ご存知かとは思いますが、脳脱もあり、骨盤を含めた複数箇所の骨折を認めています。腹腔内、胸腔内については後程。それで、この方の身元は?」

「岸本詩乃さん、平成元年生まれで三十一歳だったようです。免許証も保険証も鞄に入ってました」

「鞄と遺書がホームにあったんですっけ?」

「ええ。こいつが遺書で……」

 警察官はタブレット端末を取り出し、そこに写真を表示した。

「コロナのせいで雇い止めにあった派遣社員だったようです。収入がなくなり、仕事もなく、貯金も底をついたようで」

「……それで自殺、したの?」

「ええ、遺書にはそうありました」

 山形から上京して、働いていた女性。コロナがなければ、彼女は……。

「……なんだか、いたたまれないね」

 政府は、一人当たり十万円の給付を発表した。その十万円の給付まで耐えきれなかったのか。山形の実家に帰るという選択肢はなかったのか。死、以外に彼女を救うものはなかったのか。

 ひしゃげてしまった細い体。血と埃、脳の欠片で汚れてしまった髪の毛。砕けた骨。失われてしまった命。

 それはもう、二度と戻らない。

「最近多いんですよ。コロナで生活苦に陥って自殺する人が。生活のためだけじゃなくて、この閉塞感って言うんですか? そのストレスが引き金になって……なんていう人も増えてるんです」

 僕はあまりテレビを見ないけれど、それでも、このコロナ禍、仕事を失い、収入が激減したり、無収入になったりした人がたくさんいるという話は聞いていた。実際、僕も同じようにアルバイトがなくなって、結局、ここに戻ってきた。収入が途絶える恐怖は、他の誰よりわかるつもりだ。でも、おまえは医者だからそうして、すぐに次の仕事だって見つかるじゃないか、と云われればそれまでだけれど。それでも、収入が減った人や仕事を失った人の痛みは僕自身の痛みでもあったから。

 誰を責めることもできない。行き場のない怒り。わかっている。わかっているけれど、やりきれない気持ちでいっぱいだった。

 でも、この岸本詩乃という女性は死ななければならない人だったのだろうか。コロナなんかがなければ、今この時間だって、派遣社員としてどこかの企業で働いていたんじゃないだろうか。仕事が終われば、友達や恋人と食事をすることだってあっただろう。もっともっと、楽しいことだって、幸せになることだってできたのだろうに。

 コロナの所為で、さまざまなものが、ダリの世界のように歪んでいく。軋みながら、壊れていく。僕は、耳を、目を塞ぎたくなる。

「警察さん、申し訳ないんですけど、異状死体に当たるので検死でお願いします」

「あー……ですよね。やー、あわよくば、死亡診断書で、と思ったんですけど」

「一応、コロナのPCRは出してますから。結果が出たらご遺体をお渡しする形で。ご家族の対応も引き続きお願いします」

 仕方ないですよねぇ、と呟いた警察官は、僕に一礼を残して電話をしに席を立った。



 コロナのPCRの結果が出るには、大体一時間ほどかかる。その間、初療室が使えなくなるのは、すなわち、重症患者の受け入れができなくなる、と云うことだ。ご遺体が運び出されてから、掃除をして、消毒をして、それからでなければ、次の重症患者の受け入れはできない。こんなところにもコロナウイルスの影響は波及していた。

僕は一旦手を洗って、コンビニでシュークリームを買った。時計はすでに十四時を示していて、小腹が減っていた。

 買ってきたシュークリームを宮間主任と西くんに手渡すと、二人は、うわぁと素直に喜んだ。

「お疲れさま。ありがとうね」

「先生、おやつありがとうございます。俺こそ、なんの役にも立たなくて、すいませんでした」

「役に立たないなんてことないよ。エコーしてくれたじゃない」

「いや、結局、先生も一緒に見てくれたじゃないですか」

「それは指導する側として、当たり前だと思うよ。誤診やミスは基本的に、研修医の責任じゃなくて、上の責任になるしね」

「もう。榊先生は、相変わらず真面目なんですから」

 救急外来の奥にある六畳ほどのスペースは休憩室になっている。休憩室と云っても、テレビが一台と壁際に置かれた長テーブルにパイプ椅子があるだけの部屋だ。テレビがあるのも、この病院が災害拠点指定施設で、いざというときの情報収集が目的だ。

 実際、近隣の工場で爆発事故が起きた時など、現場の様子はテレビを見て知った。運ばれてきた患者の治療をしながら、あと重傷者を何人、軽症者を何人ならば受け入れができるか、を考えなくてはならないから、情報を少しでも早く収集することは僕たちの仕事には欠かせない。

人目につかない休憩室で椅子に座ると、体以上に心がほどけた。

このところ、コロナの所為で誰も彼もが追い詰められているように思う。例えば、院内のコンビニには「ウイルスを持ち込むな、患者のためのコンビニだ」なんて投書もあったそうで、休憩中でもできるだけコンビニの利用を控えるように、と病院側からお達しがあった。

けれど、院内に入っている喫茶店も食堂も緊急事態宣言で営業を中止していて、昼ごはんや夕ごはんを買うにしても院内にはそのコンビニしかない。利用するな、と云うほうが無理な話だ。

僕たちだって人間だから、食事も取れば眠りもする。笑うこともあれば泣くことだってある。それなのに。

どうしてだろう。

自分が辛ければ、人に当たり散らしていい、なんてことはないのに。自分が辛ければ、他の誰かだって同じように辛いかもしれないのに、ね。

 宮間主任が腰を下ろすと、その重みにパイプ椅子がキィッと軋んだ。

 誰だって、重すぎる負荷には心が軋む。そう、誰だって。

 シュークリームを美味しそうに一口頬張って、主任が「でも最近はね」と言葉を続けた。

「研修医の先生達に患者さんを丸投げにして、自分は見にも来ない先生もいらっしゃるんですよ」

 いつもと同じ、明るくて少しとぼけた、丁寧な口調だけど、その内容に僕は驚く。

「……それはダメでしょ。僕たちだって育ててもらったんだから、きちんと教えてあげられることは教えてあげるのが筋だと思うな」

「コロナが始まってからは多いです。やっぱりみんな、感染はしたくないから……仕方ないとは思うんですけれど。少し、モヤっとします」

「モヤッと……で済む話じゃないでしょ? 看護師さんはその道のプロだから一緒に対応をしてもらわなくちゃダメだと思うけれど、研修医を感染のリスクに晒すのはおかしいでしょ。特にプリコーションだって不慣れかもしれないんだから」

西くんが目を丸くして、それから、ふ、と笑った。

「ほんと、榊先生はいい人ですね」

「いい人、って言い方、なんか馬鹿にされてるみたいで嫌なんだけど」

「馬鹿になんてしてません。主任さんのおっしゃっていたみたいに、当直の時、俺たちに診察を丸投げにしたまま、電話でコンサルしても、救外まで見にきてくれない先生もいるし、ひどい人は、電話に出てもくれないんですよ。まだ自信もないし、相談くらいさせて欲しいのに」

「電話に出ない、って本当?」

 僕は眉を顰める。

 医者は、医学部で六年間学んで、卒業してから国家試験に合格すると医師免許を貰える。昔はそこから自分の選んだ科の医局に入って、下積みから始めていたのだけれど、今は違う。

 今は医師免許を取得してから二年間、初期臨床研修で色々な科を一〜二ヶ月ごとにローテートし、医師として何科に進むにしても必要な臨床の知識や技術を身につけてから、ようやく臨床医として働くことが許される。 

ちなみに、僕の友人の藤堂はこの初期臨床研修を受けずに、さっさと法医学講座に行ってしまったから、彼は医者であって医者じゃない。生きている人間が倒れていても、はたまた、飛行機の中で「お医者さんはいませんか?」と云われても、臨床医として働くことはできないのだ。

西くんはこの初期臨床研修の二年目で、一年目の先生よりは遥かに知識も技術も身についてはいるとしても、まだ二年目。きちんと指導医が手技や処置を見守る必要がある。指導を行うのは、上級医の義務でもある。それを怠るのは許されないことだと、僕は思う。

「コールしても電話を無視したり、診察を押し付けたりされているなら、軍曹かまりりんに相談してね。それはダメなことだから」

「はい」

 はにかんだように笑うと、西くんはシュークリームを頬張った。一口ががぶりと大きくてクリームが口の周りにつく。

「西先生は社会人をしてから入り直したの?」

「ふぁい。ひょっひょまっへふははひへ」

「あ、無理に喋らないでいいよ。ゆっくり食べて」

 この波崎中央医療センターは、この地域の中核病院の一つで、大学病院に次ぐ規模の大きな病院だ。毎年十人程度の研修医が採用されるけれど、倍率も高くてかなりの狭き門らしい。研修医採用試験を突破して、この病院の研修医をしている西くんはそれなりに優秀でやる気もあると云うことだ。

 全体的に大造りでガッチリとした体つき、太くてはっきりとした眉と、意志の強そうな眼差し。大きめの鼻と分厚い唇。ラグビーかアメフトが似合いそうな風体をしているのに、穏やかで暖かい雰囲気を纏っている。子供にも好かれる医者になるんだろうな、と僕は勝手に想像する。

「あっ、食べ終わりました。すいません。俺はMRだったんですが、元々持病もあって、仕事中に倒れて、救急の先生に助けてもらった時に、やっぱり医者になりたいな、と思っちゃって」

「なるほど。それじゃあ、お薬のことは僕なんかより詳しいかもしれないね。困ったら相談させてもらおう。それにしても、倒れるような持病って、今は大丈夫なの?」

 こんなに健康そうなのに、人間は見た目によらない。

「あ、ごめんね。立ち入ったことを聞いて。答えたくなかったらいいからね」

倒れるような病気、なんて聞いて、僕は流石に心配になって尋ねてしまったけれど、慌てて付け加えた。その一言に、西くんは目を丸くして首を横に振る。

「いいえ、隠してませんから。俺、小学生の時に1型糖尿病を発症して、それからずっとインスリン自己注してるんです。低血糖発作を起こして倒れちゃったんです」

「あぁ。MRさんもハードだもんねぇ」

「そこの病院の救急の先生からは、怒られました。『おまえ、薬を売る前に、自分の体の管理をきちんとしろ』って。ごもっともなんですけどね。昔からの持病だし、そんなもんかー、くらいで、そこまでしっかりと向き合ってこなかったから」

「そっか。それで社会人をしてから、お医者さんになったんだね。ていうか、そんなこと考えもしないで、シュークリーム食べさせちゃった。ごめん!」

「えっ? 俺だってシュークリーム食べたいですよ! 高血糖は単回だけならば、その次の食前血糖値でインスリン量調節します。この道のプロを目指してますから」

 笑うと目元に皺が寄って、急に人懐っこい顔になる。と、僕のPHSが鳴った。

「はい、救命科榊です」

『検査部です。さきほどの岸本詩乃さん、PCRマイナスでした』

「ありがとう」

 PHSを切ると、思わず溜息がでた。

「マイナスだって。警察に伝えて、初療を片付け始めようか」

 さて、と伸びをして警察の待つ長椅子のところへと足を運びかけた僕は、なんだか嫌な予感がした。警察、検死、とくれば予め思い出しておくべきだった。僕は本当に馬鹿だ。

 僕が本能的に危険を察知して踵を返すより前に、オレンジ色の大きな塊が突進してきた。

「やめっ」

 逃げようとする僕に飛びかかって来たそれに驚いたのは、僕の後をついてきた西くんで、咄嗟に僕を庇う。

「イテッ。君、誰だ」

 勢い余って、西くんにぶつかったシャツもオレンジ、ズボンもオレンジ、ベルトも靴もオレンジで、なんならマスクもオレンジ色をした縦にひょろ長い男は、ムッとした様子で両手を腰に当てる。せめてもの救いは申し訳程度にオレンジの上に白衣を引っ掛けていることくらいか。

 藤堂は、自分と同じくらい上背のある西先生を不躾にジロジロと眺めて、やけに偉そうに尋ねる。それに動じる様子もない西先生もなかなかの大物だ。

「研修医二年目の西です」

 目を瞬かせ、オレンジ色の男を真っ直ぐに西くんは見つめていた。それはそうだ。普通はあんな生き物がいきなり飛びかかってくれば誰だって驚くよ。

「ふぅん。俺はね、藤堂要。くろすけの親友だよ!」

 僕の友達かどうかより、伝えるべき情報があるだろう、と頭を抱えながら、僕は補足する。

「ごめん、西先生。そいつ、監察医の藤堂。ちょっとおかしいけど気にしないで。大学の時の友達なんだ」

「あっ、はい。すいません」

 僕を庇うように藤堂と僕の間に立ち尽くしていた西くんは、謝る必要なんてどこにもないのに、慌てて後ろに下がる。

 藤堂はそんなことをなにひとつ気にとめる素振りもなく、人懐っこい笑みを浮かべる。こいつには悪意はない。悪意はないけれど、常識もない。

「現場を見に行ったついでに寄ってみてよかったよ。急に呼ばれたから、着替えてる暇がなくって、どうしよっかなあ、って思ったんだけど! こんなところでくろすけに会えるなんて俺の普段の行いの良さだね。ほら、君。見てごらん。くろすけってボルゾイみたいで綺麗な顔してるでしょ。うちにいたシロちゃんとそっくりで」

「頼む、藤堂。黙ってくれ」

 僕はなおも余計な情報を研修医に植え付けようとする藤堂の言葉を遮って、警察官にPCRがマイナスだったことを伝えた。

「じゃあ普通の納体袋でいいね。よかったね!」

 藤堂の場違いに明るい声が云う。目がチカチカするようなオレンジ一色の格好だけでも十分場違いなのに、と僕は溜息をつく。まぁ、今回に限っていえば、あのおかしな格好は法医学教室から私服のまま飛び出してきた所為のようだから大目に見ることにする。

 コロナが仮に陽性だった場合、ご遺体からの感染を防ぐために、納体袋を二重にする。そのうえで、病院から帰られるご遺体の場合は、ご家族の元にお戻しする前に、荼毘に伏さなければならない。

 法医学者がどんな体制でコロナの感染防御を行なっているのかまでは知らないが、おそらく同様にさまざまな制約があるのだろう。

「さて、俺もお仕事しよっかなぁ。ちょっと、様子だけ見せてもらうね」

 警察官からビニールの手袋を受け取り、伸びっぱなしの癖っ毛をキャップに押し込んだ藤堂は、白衣のボタンを止めながら初療室に向かう。その後を、藤堂と一緒に来た『鑑識』と腕章を巻いた警察官がついていく。おそらく、ご遺体の状態をまずは確認しておくのだろう。

 数分するとドアが開き、藤堂が顔を覗かせた。

「あ、ちょっと、くろすけも入って。到着時の様子教えてくれる?」

 藤堂はどこまでも藤堂だった。そのあまりにいつもと変わらない様子に、僕はどこかホッとしていた。





 椛谷が病院を辞めた。

 突然過ぎる彼女の退職は、ただでさえ人手不足の救命科にとって大打撃だ。

 本来なら休みの僕に昨夜遅く、まりりんから電話がかかってきた。椛谷が突然病院を辞めたから、明日の人手が足りないので出勤してほしい、と。

 確かに、このところの椛谷の様子はおかしかったし、狗田の殆どいじめにも近い言いがかりは少し行き過ぎのようにも感じていたけれど、だからと云って急に? と、頭の中をクエスチョンマークが行き交う。

「椛谷、病気かなにかですか?」

『あー……うん。それがねぇ……病気、と云えば病気……なのかしらねえ』

「……もしかして、妊娠?」

 電話の向こうでまりりんがプッと吹き出すのが聞こえた。

『クロ様、ほんと、善良よね。違うわよ。診断名は【急性ストレス性心因障害】ですって。ご丁寧に、昨日の昼間は勤務を休んで心療内科を受診してこの診断書を貰って、病院のハラスメント委員会に被害報告に行っていたらしいわ』

「ハラスメント?」

『ええ。そう。狗ちゃんからのハラスメントで精神的に参って、これ以上の勤務はできません、ですって。おかげでこっちは明日の朝からお叱りを受けに行く羽目になったわよ』

 うわぁ、と思わず声が出た。

 つまりは、狗田にいじめられたから仕事を辞めます、と堂々と言い放ったということか。僕の記憶にある限り、集中治療科から救命科に来たあの二人は比較的仲が良かったはずなのに。この間の様子を見ていると、僕の退職前とは随分と様相が違っているようだった。

『管理不行届、なんて、いい大人に管理もへったくれもあったもんじゃないわよね。嫌になっちゃうわ』

「あの二人、仲が良さそうだったのにな……」

『そうねえ……実は、クロ様が戻ってくる前にね……』

 コロナが流行し始め、この病院でもコロナ患者を受け入れなければならなくなった時、何科が患者を受け入れるのか、ということがまず問題になったのだそうだ。

感染症、肺炎、となれば、呼吸器内科や総合診療科が診るのが筋にも思えたが、当初、DMATが派遣されたことや、重症化すれば集中治療管理を必要とすることから、救命救急科に白羽の矢が立った。それに、幸か不幸か、救急のリソースはこの新型コロナウイルス感染症診療に使い勝手がよかった。その所為で、日本全国あちこちで、救命救急科を行う医師が、新型コロナウイルス感染症の診療に当たることになったんだ。

一方で、院内では自分達はコロナ患者を診察しない、と明言している科もあったそうだ。例えば、内科は内科でも糖尿病内科や膠原病内科、内分泌内科は元々こうした感染症を診る機会自体が少なく、患者の管理をしきれない、として、自分たちはコロナ患者の診療は行わない、という立場をとった。

 そんな流れの中で、救命救急科での中等症および重症患者の受け入れが決定されたものだから、科内からは不満の声が吹き出した。危険手当がつくわけでもなければ、なにかのメリットがあるわけでもない。

 だから、受け入れが決定した時点で行われた緊急ミーティングは、恐ろしく険悪なムードになったという。

 僕たちだって医者である前に一人の人間だ。自分だって感染するかもしれないリスクを背負って、特効薬もなく、重症化すれば対症的な治療を徹底的に行っていくしかない患者の治療を率先してやりたい人間がどれだけいるだろう?

 使命感の強い人ならば、それでも自分がやらなくちゃ、それは医者の仕事だから、と、自ら手をあげるのだろうか。

 椛谷は、絶対コロナ診療を行いたくない、と、開口一番に強い口調で訴えた。同じように、できれば診たくない、と訴えたのが狗田を含めた半数ほどで、残りはやむを得ない、というスタンスだったそうだ。

 そこで、コロナ診療に絶対に携わりたくない、或いは携わることができない人は、救急外来とコロナ患者の診療から『できるだけ』外れ、他の業務を中心に働くことで、どうにか勤務体制を整えることにしたのだそうだ。 

勿論、コロナ診療に携わらない分、通常勤務の回数が増えたり、夜勤の回数が増えたりすることは話し合いで決めたという。ただ、この『できるだけ』が、なかなかの曲者だった。

 那珂川先生の家には免疫疾患のあるお子さんがいて、万が一にもウイルスを家に持ち込むわけにはいかないから、基本的に、那珂川先生はコロナ診療からは外された。

それから、断固としてコロナ患者は診たくない、と言い張った椛谷や狗田たちは、全員が百パーセントコロナ診療を外れるということはできないが、極力、コロナ担当には当たらないようにする、という方針になったそうだ。

 その頃にはまだ、椛谷と狗田もそれほど犬猿のなかではなかったようだが、僕が復帰する直前に小さな諍いがあったそうだ。

『たまたま、シフトが狗ちゃんとかばちゃんと佳野先生でね。佳野先生が病棟のコロナ担当をしてくれていたんだけど、救急外来にコロナ疑いが来て、その時に狗ちゃんとかばちゃんが揉めたらしいの。どっちもコロナ診療は「したくない」ってスタンスの二人だったし。かばちゃんは佳野先生を呼んで診てもらえばいい、って言い張ったらしいんだけど、佳野先生はコロナ部屋に入っていて対応できない、って。で、狗ちゃんがかばちゃんに押し付ける形になったの』

「……それはなんていうか……どっちも酷いですよね。自分が嫌だから人に押し付けるって……」

『それからだわ。狗ちゃんがあんな風に表立ってかばちゃんに強く当たるようになったのは。かばちゃんもそれからは更に、自分はコロナを診察したくない、って主張するようになってね』

「なるほど。そんなことがあったんですね」

『つまり、この診断書は、狗ちゃんからのパワハラのストレスだけじゃなくて、救命科でコロナ診療をさせられたストレス、っていうのも言外に言ってるわけ。いきなりこんなことをしてくるなんて思ってもみなかったわ』

 僕も一度バーンアウトしてこの仕事を辞めている。あのときの病名も実は【心因性ストレス障害】だった。ただ、僕は、動こうにも体がついていかなくなってしまって、救急搬送されてきた患者さんの目の前で動けなくなってしまったんだ。頭では次にやることがわかっているのに、手が震えて、なにもできなくなった。原因はわかっている。わかっているけれど、それは今回の件とは関係のない、救急ならばよくある話だ。それで、院内の精神科を受診して、ドクターストップがかかってしまった。もし、椛谷が僕と同じように苦しんでいたんだとしたら、と考えると、胸が痛んだ。

「椛谷も……辛かったんですね」

 と、まりりんが、ぷっ、と吹き出すのが聞こえた。

 おかしなことを云ったわけでもないのに、と僕は首をひねる。

『……クロ様。あなた、詐欺に会う人種だわ。そうだった、クロ様の診断も【心因性ストレス障害】だったわね。でも、クロ様のは本物の病気。かばちゃんのはどこまでが本当かわからないわ』

 まりりんが電話口で深いため息をつく。

『診断書を持ってきたとき、あの子、ものすごい笑顔で「今日で辞めます。有給は消化するので、籍がなくなるのは二ヶ月後ですけど。お世話になりましたー」って云ったんだから。診断書はただの理由づけよ』

 僕は唖然とする。

 僕はとてもじゃないけれど、あのとき笑いながら「辞めます」なんて云えなくて、みっともないことにまりりんの前で泣きながら辞表を手渡した。椛谷の本当の気持ちがどうだったのかは僕にはわからないけれど、まりりんの厳しい見方もだし、笑いながら……この厳しい状況の中、辞めることを伝えた椛谷も、僕の理解を越えた不思議な生き物のようで、電話口で口ごもった。

 そうして、僕は今日出勤する羽目になったのだった。



 カンファレンスルームを出る頃には、外はとっぷりと日が暮れていた。日が落ちてしまえば、ほんのり肌寒くて、僕は急ぎ足で駐車場に向かう。愛でる人もなく風に攫われた桜の花びらが白く足元に降り積もっている。

 半ば花を散らした桜の木は、所在なさげでどことなくよそよそしい。艶やかな夜空に浮かぶ白い花は、いつもの年ならば皆が待ち侘び、春を謳うというのに。漢詩に年年歳歳花相似、歳歳年年人不同という有名なものがあるけれど、人だけじゃない。花は今年もただ咲いているというのに、世界が、社会が去年までとは異なってしまった。

 はらりとひとひら舞った白を掴もうと手を伸ばしてみたけれど、それは音もなく地面に落ちる。なんだかどうしようもない悲しさが込み上げてきて、僕は頭を一度大きく振った。

 と、後ろから足音が近づいてきて、僕の背をドンッと重たい衝撃が襲った。

「……な」

 なに? と訊くより前に、まりりんの笑顔が視界に入る。

「クロ様。おつかれぃ。今日はありがとね!」

 まりりんは大きなリュックを背負い、更に買い物カゴが丸々入るような大きなカバンを肩から下げ、その上、手には体操袋のような巾着まで下げている。

「いえいえ。急なことだし、仕方ないです。それにしても、すごい荷物ですね」

「うん、結構重いし、ダイエットになるかと思いきや、全然痩せないんだよね」

 よいしょ、と担ぎ直しかけた大きなカバンに手を伸ばし代わりに持つと、見た目を裏切らない重さで、持ち手が掌にグッと食い込む。これが先刻、僕の背中にぶつかった衝撃の原因か、と妙に納得する。

「おっと。ありがとうね。流石、フランス男。やることがスマート! クロ様。重いでしょ? 無理しないでね」

「いや、先生は女性だし、一応僕も男なんで」

「でもどう見ても、クロ様の方が繊細そうじゃん」

「繊細さと筋肉量は関係ないですよ。そりゃ軍曹みたいにマッチョじゃないですけどね」

「あれはやりすぎよ」

 まりりんは、電車通勤のはずで、ここから駅まで十分は徒歩。更に電車で一時間。これだけの大荷物で通勤するのは、なかなか体力と根性がいる。

「いつもこんなに多いんですか? 荷物」

「今日はいつもより多いの。着替えとか書類とかがいっぱいでさ」

 僕たちは出勤するとまず仕事着でもあるスクラブに着替える。よくテレビドラマで外科医や救急医が着ている半袖のTシャツみたいなあれだ。普通はその日一日着て、帰りに私服に着替えて帰るのだけれど、コロナ診療を担当する場合は違う。

 フルプリコーションだと、ものすごく暑くて、汗だくになるし、ウイルスが付着した手指などで顔や目に触れることでも感染しうるから、コロナ診療に当たった場合は、帰る前にシャワーを浴びて帰る。家が余程近い……例えば、看護師寮みたいな場合には、直帰してすぐにお風呂、っていうのもありなのだろうけれど、家にウイルスを持ち込みたい人なんているはずがないから、大概、病院でシャワーを浴びて帰ることになる。僕たち医師用のシャワー室は当直室に備え付けられていて、夜勤の先生達に気を使いながら急いでシャワーを浴びて帰らなくてはならないし、シャンプーやコンディショナー、ボディーソープは自前で一回ずつ引き上げなくてはならない。

「シャンプーなんてロッカーに置いておけばいいのに」

「違うのっ。これはシャンプーが二本で一二八〇円だったから、二本買った残りの一本なのよ〜。家で使うのに持って帰りたくてさ」

「……それ、来るときに買ったんですか」

「そうよ。主婦は忙しいのよ。緊急事態宣言で、どこもかしこも閉まる時間が早いじゃない? 今日はお叱りを受けに臨時で出勤だったから、遅出で来させてもらったでしょ? だから、ドラッグストアに寄れたのよね。ラッキーだったわ」

 ドラッグストアといえば、と僕はニュースでみた映像を思い出す。

「マスク行列ってできてましたか?」

「あー! いたいた。年寄りがいっぱい。並んでも無駄だし、あたしはシャンプーとリンスだけ買って帰ってきたけど。いつの時代かな、って感じよね」

「先生のお宅は、マスクとかアルコールとか足りてるんですか?」

「ん? 災害用に買っておいたマスクが一箱だけね。うちは旦那が主夫みたいなもんだし、たまーに仕事しててもプログラミングだから家から出るわけじゃないし、子供も休校になったからねー」

 まりりんがからりと笑ったタイミングで、一陣の風が吹き抜けた。首筋を冷たい風が撫で、僕は首をすくめる。随分と長い時間、立ち話をしてしまっていたようで、指先も冷たい。僕は、まりりんの大きなカバンを抱え直して、彼女に提案した。

「先生、今日荷物すごいし、おうちまで送りますよ」



 車に乗ると、まりりんはすぐに寝息を立て始めた。余程疲れていたのだろう。

 椛谷が急に辞めたから、これからは更に忙しくなるんだろう。

 マスコミは医療崩壊の危機だ、と連日報道しているけれど、僕には、既にここから医療崩壊が始まっているように思えた。

 コロナ患者を受け入れるためのベッド数の問題だけじゃない。本来、コロナのような感染症に対応するような作りになっていない病院は、例えばうちの救急外来のように、コロナの可能性が否定できない患者を受け入れてしまうと、そのほかの救急業務が止まってしまう。少しでも熱のある人、呼吸器症状のある人、或いは、心肺停止の症例や意識レベルの悪い人。こういった人たちを隔離できるスペースは限られていて、そこに隔離して、PCRの結果を待つ。その間、僕たちが本来そこで受け入れてきた、重症外傷の患者の受け入れは止まってしまう。

もし、そのタイミングで大きな事故が起きたら? 災害が起きたら? 一秒一刻を争う重症の外傷患者さんが多数発生したらどうするんだろう。初療室はある程度までの外来緊急手術にも耐えられるような設備を備えているのだけれど、その部屋にすぐに運び込んで処置をすれば助かる命も、もし、その部屋が埋まっていれば助けることはできないかもしれない。

 それに、病棟だってそうだ。救命センターには元々ICUが八床、HCUが十三床あるのだけれど、このうち、ICUの個室三床と、HCUの個室五床が現在、コロナの診療用として占有されている。本来ならば、コロナ以外の患者さんを受け入れていた病床がそれだけ削られている。今も既に、ICUは残り一床、HCUは満床だ。重症度の低い患者さんは、一般病棟へと転出してもらってもこの有様だ。それでも、毎日のように、都道府県のコントロールセンターからは、コロナ患者の入院要請の電話がかかってくる。

 僕たちはコロナ専門の医者じゃない。病院だってコロナ患者のためだけにあるわけじゃない。コロナ患者も勿論患者なのだけれど、一方で、コロナ患者を受け入れることで、万が一の時に救えなくなる命があるかもしれない。

命の重さは等しい。等しいはずなのに……。

 医療が……僕たちが信じてきた医療は、新たな脅威を前にしたとき、こんなにも脆いものなのか、と。人も、物資も、治療を行う場所も……。こんなにも医療には余裕がなかったのか、と僕は、僕たちは日々思い知らされている。そして、その事実を前に、僕たちにできることは、日々、目の前にいる患者と真摯に向き合うことだけだ。

 人も、物も、場所も、僕たち自身ではどうすることもできない。

「……まいったなぁ。まりりんの家、この辺だったかな。起こすの、かわいそうかな」

 僕は暖かに灯るマンションの部屋の灯りを見上げてひとりごちた。





「非常にまずいことになった」

 開口一番、軍曹はそう云って顔を顰めた。

「今、うちの科をローテートしている西先生と救外看護師の安堂さんが、昨晩、PCRで陽性になった」

 カンファレンスルームが一瞬ざわめく。

「恐らく患者対応中に感染したんだと思われるが、当科としても看過できない事態だ」

 僕は驚きのあまり言葉を失う。

 研修医の西先生の誠実そうな笑顔を思い出す。僕が知る限り、きちんとプリコーションも出来ていたし、防護衣の着脱も正しく出来ていたはずだ。それが? 診療中に感染? そんな……まさか。

もうひとりの安堂さんは、救急外来のベテラン看護師で夜勤専属で働いている。基本的に夜勤しかしていないから、僕が職場復帰してからは申し送りの時にしか顔を合わせる機会はなかったが、殆ど金色に近いほど色の抜けた髪の毛の与える派手な印象とはうらはらに、仕事はとてもよくできる優秀な人だった。彼女ならば、プリコーションを怠ることはまずないだろう。

「二人とも昨夜発熱で発症しているから、感染はその三〜五日ほど前と推測されるんだが、

二人ともちょうど四日前の夜、当直に入っていたようだ。狗田先生、月岡先生。当直の際、先生達と一緒だったと思うが、どうだった? 電カル上はかなり忙しかったようだが」

「四日前ですか? 記憶にないですね」

 問われると、間髪入れずに狗田がさらりと答える。月岡がその言葉に狗田を睨み、その勢いのままに口を開く。

「あの晩は、重症の交通外傷が来ていて、骨盤骨折でエクストラもあったから、俺はそっちのアンギオに行きました。佐々先生も一緒に。佐々先生が麻酔で、俺が術者で。忙しかったとは思うんですけど、狗田先生に外来と病棟、両方見てもらってたはずです」

 その骨盤骨折の患者は、処置のおかげで一命を取り止め、今はまだICUにいる。狗田は月岡を一瞥だにせずに、いつもと変わらぬ口調で答えた。

「ああ、あの患者の来た日か。だが、特筆すべきことは記憶にないな。それに、そもそも、本当に四日前の当直が感染経路なんですか? あの晩はコロナが陽性になった患者はいなかったのでは? むしろ、その二人がお付き合いでもしていて、二人でどこかに出かけて感染でもされたのでは?」

「先生、その言い方、ちょっと西と安堂さんに失礼じゃないですか。憶測でもの言わないでください」

 月岡が噛み付く。狗田は鬱陶しそうに目を細める。

「失礼、って。可能性の話でしょう。感染経路を可能な限り特定することは有意義なことくらい、月岡、お前にだってわかるんじゃないか?」

「可能性の話以前に、四日前の夜、狗田先生がどうしていたかの話をしてんじゃないですか。話を逸らさないでもらえませんか」

「だから、ぼくは記憶にない、と言っただろう。お前の記憶力はどうなっているんだ?」

「っ……先生ッ。記憶にないんじゃなくて、そもそも、救急外来に一度も行ってないから知らないんじゃないんですか? 誤魔化して話を終わりにしようなんて虫がよすぎる」

 激昂した月岡がバァン、と大きな音を立ててテーブルを叩く。突然のことに、僕は、びくりと身を竦めた。救命医は元々正義感の強い、熱い人間が多いけれど、月岡がこんなに感情をあらわにするのは初めてで、僕はその勢いに気圧される。

「俺の方のピッチが鳴ってたんです。清潔操作中で出られなかったけど。あとで履歴を見たら西からでした」

「西先生がお前に電話をかけたんだったら、お前が対応すべき案件だろう」

 狗田は鼻で嗤って、月岡を詰る。

「あんたがっ、電話を無視したから、俺にかけてきたんじゃないか! 外傷の処置に入るからって、俺たちはあんたに頼みましたよね? 救急外来の対応を」

「じゃあ、言わせてもらいますがね」

 狗田は眼鏡を外し、ポケットから出した布で拭う。その優雅にさえ見える仕草は、月岡の吹き荒ぶ怒りの嵐などどこ吹く風といった様子だ。

「ろくすっぽ集中治療もできないお前らが、きちんと管理もできていなかったせいで、ぼくは病棟対応で忙しかったんですよ。救外の対応? 軽症患者の対応ひとつできない研修医の方が余程問題だろう?」

「研修医ですよ? 西は。上級医にコンサルするのくらい当然じゃないんですか? 処置や処方をするならば、上級医の許可だって必要だ。それに応えるのは当たり前のことじゃないんですか?」

 もう一度、バンッと、月岡がテーブルを叩く。目には怒りがたぎっている。

「やれやれ。あんまり怒鳴らないでもらえますか。無駄なことに体力を使いたくないんで。月岡から引き継いだ患者は無事帰宅したと報告がありましたけれど。そのあとはなんの連絡もありませんでしたよ」

「嘘だ。ピッチを貸してください。履歴を見ればわかる」

 差し出された狗田のPHSを軍曹が確認し、疲れたように溜息を落とした。

「不在着信だ。電話はあったが、狗田は出ていない」

 四日前の午前三時四十二分。確かに着信はあったが、狗田は出ていなかった。

「なんで。電話があったならかけ直すのが普通じゃないのか? 俺は、西から着信があったから、後からかけたんだ。そしたら、あんたにかけても出なかったから、俺にかけたって……」

「では逆にうかがいますがね、ぼくの手がいつ空いたのか、知っているのか? 月岡。お前たちが処置した患者が戻ってきてから、ぼくがどうしていたか知っているのか? 人の所為にするのはやめていただけませんかね」

 狗田はこれ見よがしに溜息をつくと、月岡を冷たい目で見た。

 狗田の云うことにも一分の理はあったけれど、先日、宮間主任と西先生から聞いた話が、僕にはどうも引っかかっていた。

「あのさ、電話に出なければ、聞いていなければいい、って云うのは違うんじゃない?」

「なんですか? 部外者が急に」

 顎を上げた狗田が僕を睨む。

「まぁ、今は非常勤だから部外者って云われればそれまでなんだけど、研修医の指導も僕たちの仕事だし、僕たちだってそうやって助けてもらってきたんだし……」

「そういうのを余計なお世話って言うんじゃないですか?」

 すべてを言葉にする前に狗田が遮る。

「お前はそもそも、燃え尽きたとかなんとか言って仕事を放り出した人間じゃないか。その『仕事』の中には、お前が言うところの、研修医の指導も含まれてるんじゃないか? 自分がろくにできていないものを、他人に偉そうに説教するのはやめてもらえませんかね。それに、お前はそうして、自分の保身を最優先で勤務してるけれど、こっちはもうギリギリなんだよ。ジリ貧の重症コロナ患者をこんなに抱えてるのに、お前たち救急出身の脳筋どもが重傷ばかりとるせいで」

 淡々と、けれど最後にはそれが悲鳴のように僕には聞こえた。狗田も耐えている。必死で、診療にあたっている。みんなが今のこの状況にまいっている。そんな風に、僕には思えた。

「……ごめん」

「謝っていただかなくて結構。あなたから謝られることに何の価値もないので」

 隣では、月岡が激しい怒りをたたえた瞳で狗田を睨み据えていた。

 限界なのかもしれない、と心のどこかで思う。ただでさえ、緊張する場面も多くてストレスも多い救急や集中治療の現場に、コロナ、という負荷は大きすぎて、みんなの心がどんどん荒んでいっている。

「月岡の言い分も、狗田の言い分ももっともだが、結局、二人とも、あの晩のことを詳しくは知らない、って云うことでいいか?」

 軍曹がマスクから覗いた顎髭をざらりと一度撫でて、二人を順に見つめる。月岡は悔しさを滲ませたまま頷き、狗田は微動だにしない。

 と、シンクに凭れたままいつものように珈琲を啜っていた那珂川先生が、幾分めんどくさそうに「あの」と声を上げた。

「この話、珈琲飲み終わるまでに終わって欲しいんですけど、とりあえず、このまま救急受けるんですか? 西と安堂チャンの濃厚接触者もいるっしょ。安堂チャンは四日前が夜勤でその後の勤務がどうだったかわかんないけど、西は四日前が当直で三日前は明け。一昨日と昨日は出勤してる。かなりの人数が濃厚接触者になってんじゃない? 俺も含めて」

 確かに、那珂川先生の云う通りだった。

 西くんは、救命救急科のローテーターだから、カンファレンスにも基本、出席してもらっていたし、病棟業務も、救急業務も僕たちと一緒に行っていた。

 マスクをして一定の距離を開けていたとはいえ、感染リスクはゼロではない。それに。

「ごめん、一昨日、西くんと宮間さんと救急外来でおやつを食べた……」

 そうだ。僕はあの日、マスクを外して、西くんと宮間主任と一緒にシュークリームを食べた。今思えば、軽率だったかもしれない……けれど、まさか。いや、まさか、なんて云うのは言い訳だ。僕の危機感が足りなかったんだ。

「俺も、昨日ここで昼飯食いながら、西をからかってたんだよね」

 落ち込む僕を慮ったわけではないだろうけど、重ねるように、へらりと那珂川先生も手をあげる。次いで、まりりんも。

「あたしも西君にパンあげた」

 軍曹が深々と溜息をつく。

「あいつ、いい奴だからな……。なにくれとなく構っちまってたのが仇になったな。とりあえず、救命救急科は、西と昨日、一昨日勤務が一緒だった奴は全員PCRをとって一旦隔離だな」

「看護師は?」

 まりりんが珍しく真剣な顔をして訊く。

「看護師は、個人的に親しい者や、処置など長時間一緒にしていた人間以外は不要だろう」

 ふむ、と那珂川先生は軍曹の答えに頷く。

「ICUのコロナ以外の患者のPCRもお願いします。ぼくのいるときは救急外来に行ってもらっていましたが、それ以外の時間帯の先生方がICU患者を診察させていた可能性もありますし」

「そうだな、その辺りも検討しよう」

 狗田が表情ひとつ変えずに云う。狗田の態度はあまり好ましくはないけれど、こいつ自身は、患者に対してはとても真剣に向き合う、医者としては尊敬するところのある奴だ。他人にもその理想を押し付けようとするから、齟齬が生じるけど。

 険しい表情の軍曹は、もう一度、これ以上ないというほど深い溜息をついた。

「そんなわけで、救急の受け入れを一旦、停止する」

「えっ」

 大きな声は月岡だ。僕は唇を噛む。

 西先生がコロナに感染した、と聞いたとき、薄らと想像はしていた。そうなるんじゃないかって。

「なんとかならないかな」

 まりりんが小声で呟くが、軍曹は「無理だな」とバッサリ切り捨てる。

「他のスタッフが感染していれば、クラスターになってしまう。それに、感染の可能性がある以上、患者にリスクを背負わせるわけにはいかんだろう」

「だよね」

 ソファの上でまりりんは一際小さく体を丸めた。

「そんな、じゃあ、重症の救急患者は? どうするんですか?」

 月岡はそれでも食い下がる。救命医にとって、救急車を……特に、重症の救うべき患者を受け入れられない、と云うのは、どうしたって納得し難いことだ。でも、その使命感は、時として自らの首をしめるものだって云うことを僕は知っている。大きな災害の時、トリアージと云って、救命不能の黒、緊急で処置が必要な重症の赤、処置は必要だけれど、赤ほどは急がない黄色、軽症の緑、と傷病者を振り分ける仕事がある。ただ人を救いたい、というその気持ちだけが強いと、黒タグをつけるのを躊躇う。それは、結果として、救えるはずの赤タグの患者に割くことができるマンパワーや医療資源を削ることになり、より多くの命が掌から零れ落ちてしまうことになる。

 だから……。月岡の気持ちも痛いほどわかるけれど、その真っ直ぐさは、僕には少し危険なものに思えた。

「月岡。今、軍曹が云った通りだよ。もし重症患者が搬入されて、おまえが実はコロナに感染していたとして、その重症患者にうつしたらどうなる? 助けられるはずの命を危険に晒してしまう。わかるだろう」

「わかります。わかってますよ! でも、それでも、俺はッ」

「僕も月岡の気持ちはよくわかる。でも、我慢しなきゃいけない時もあるよ」

 軍曹が、ガハッとワニのような息を吐いて、深々と頷く。

「そうだ。榊の言うとおりだ。今日これから、オマエたちのPCRをして、西と濃厚接触のない連中に出勤を依頼。これから休日と同じ人数で緊急シフトを敷く。PCRが今日陽性ならば、そのまま隔離、コントロールセンターの指示に従ってくれ。陰性の場合、昨日が西と接触した最終日になるだろうから、今日から四日間自宅待機。四日目にもう一度PCRを受けてくれ。これで陰性が確認されたら、出勤可とする。……陰性確認は厳密には不可能だが、な」

 月岡、まりりん、僕、那珂川先生と口々に謝ると軍曹はひょいと肩を竦めた。

「仕方ねぇだろ。感染症の受け入れにはそんだけのリスクがあるってことだ。近隣の三次救急受け入れ病院にはもう連絡してある。オマエ達は、頼むからまずは大人しく隔離されといてくれ。家族が同居してる那珂ちゃんとまりりんと狗田は悪いが、研修医寮の空き部屋に隔離されてくれ。飯はそこの好きな缶詰を持っていっていいぞ」

「あ、あたし、気になってた鹿肉のしぐれ煮もらってこー」

「じゃあ、俺は高そうなの貰おうかな」

 軽口を叩くまりりんと那珂川先生とは裏腹に、狗田は冷ややかな目で軍曹を見上げていた。

「だからぼくは最初からコロナの受け入れには反対だったんですよ。いい迷惑です。家に電話してきます」

 鞄を掴んで狗田がカンファレンスルームから出ていく。

「榊と月岡も好きなやつ持ってっていいぞ。四日間は家から出らんねぇからな。女呼ぶのも禁止だからな」

「はい……ごめんなさい」

「ごめん、つったって、仕方ねーだろ。俺らの仕事は、そういうリスクと隣り合わせなんだからな。それにしても、西だけなら兎も角、安堂まで感染してるから、なんかあったんじゃねぇかとは思ってるんだけどな。色っぽいのじゃないにしろ。こっちでも他の看護師に聞いておくが、救急外来も何人かオマエらと一緒に自宅待機になるから、すぐにははっきりとはしねぇだろうよ」

 軍曹の言葉に、俯いていた月岡が顔をあげる。

「軍曹。俺、やっぱり納得できないです。西は真面目な奴だし、この時期に安堂さんとどこかに出かけることなんてなかったはずです」

「おいおい、落ち着け。月岡。安堂と西が別の経路で感染してたまたま同じ日に発症した可能性もあるし、コロナの検査をしていない患者がコロナを持ち込んでいた可能性もある。狗田はああ言っていたが、それが正しいとは俺も思ってねぇから。感染の経路がわかれば、オマエらにも連絡はするから。ま、四日間はのんびり筋トレでもしておけ。筋肉はいいぞ。裏切らない」

「なんスか。それ」

 月岡が、ようやくクスッと笑う。

「さーて、俺も嫁に電話してこようかなぁ。ゲーム差し入れてもらおっと」

「いいなー。うちは遠いから差し入れは期待できないから、軍曹、お菓子差し入れて」

 那珂川先生が袋に缶詰をいくつか詰め、自分の鞄の脇に置くのを確認し、軍曹が月岡に顎をしゃくった。

「おう、月岡も缶詰持ってっていいからな」

「はいッ」

 そうして、僕たちは四日間の隔離生活に突入した。






 その日のPCR検査は僕たち全員、陰性だった。

家に帰ると、宅配ボックスに大きな段ボール箱が入っていた。身に覚えのない荷物をおそるおそる取り出すと、箱の上にA4のコピー用紙がセロハンテープで貼ってある。そこには、マジックで『くろすけへ』と見覚えのある文字が紙いっぱいに踊っていた。

 そんなに大きく書かなくても読める、と心の底で毒づきながら、見た目よりは軽い段ボール箱を抱えた。

 ああ、そう云えば、あの日警察や藤堂、消防の人たちも西くんとわずかに接触していた。あの程度の時間ならば濃厚接触の定義には当たらないけれど、万が一、僕が陽性だったら、話は変わる。僕は警察の人とも藤堂とも消防の人ともそれなりの時間、会話をした。僕が陽性ならば、彼らも濃厚接触者になる。一応、連絡だけはしておかなくちゃいけない。

 幾分、憂鬱な気持ちのまま、箱を開けた僕は吹き出した。

「……藤堂、おまえなぁ」

 箱の一番上には草臥れた大きなウサギのぬいぐるみが鎮座していて、つぶらな瞳で僕を見つめていた。その下には、小分けにしたトイレットペーパーを一つずつビニール袋に入れどこのなんという製品かと書いたものが二十四個。ティッシュペーパーもいろいろな箱が十個ほど入っている。

それから、藤堂作と思われる食パンが一つにクロワッサンが六個、スコーンが大きなジップロックの袋にどっさりと入っていた。それに合わせろということなのか、見たことのないジャムやクロテッドクリーム。それから、おまけ程度にティーバッグが三つ。

 あまりにも藤堂らしい贈り物を、ひとつひとつ取り出して並べながら、僕はひとしきり笑う。トイレットペーパーの袋にはひとつずつ「このトイレットペーパーは紙が硬い上に薄いから薦めない」とか「エンボスがいい仕事をしていて吸収力がある」とか、使用感まで書いてあるんだから、笑わずにいられない。

僕は中に入っていたものを全て並べながら、笑って、笑って……そのうちに、鼻の奥がツンとして……泣いていた。

 受け取ったと電話を入れると、ツーコールで明るい声が飛び出してきた。

『あ、くろすけ。荷物見てくれた?』

「うん。ありがとう。本当にパン焼いたんだな」

『だって、パン食べたかったんでしょ? 俺の実力を発揮する最高のチャンスじゃん。あとそのコンフィチュールね、最近、お取り寄せにハマってて、美味しいコンフィチュールとかペーストとかいくつか入れといたんだ。コロナも困ったもんだけど、普段はお取り寄せをしてないお店が、通販をはじめてくれたりしてさ、そこは俺としては見逃せないチャンスじゃん? それでいっぱい買ったやつを入れといたから塗って食べてみて。あっ、塗らないで俺のパンも食べてみてね。クロワッサンはさ、今回のはすっごい自信作で、バターをものすごく綺麗に折り込めたから、層が上手にできてるでしょ』

 藤堂は嬉々としてパンの出来について語っている。僕は適当な相槌を打ちながら、袋に入ったクロワッサンを手に取る。

 店で売っているものに引けを取らない見た目で、袋ごと鼻先に近づけると、バターのいい香りがする。

 屈託のない藤堂の声。

 藤堂は、懐に入れた人間には面倒見もよく、基本的には優しい。ただ、他人が自分をどう思うか、と云うことには全く興味がないから、エキセントリックな言動を改めるつもりはないから、よく知らない相手からはしばしば敬遠されがちだ。僕は、そんな藤堂の過保護ともとれるような優しさに、いま救われていた。

 一人きりの部屋は深い海の底にいるかのように静かで、春だというのに肌寒い。藤堂の声は水底まで差し込む光のようだった。他愛のない会話に、沈んでいた僕の気持ちはふわりと浮かび上がる。

「それより、藤堂。このまえ、うちの病院に仕事で来ただろ?」

『あー。うん。あの若い子ね。AIだけで解剖には回らなかったよ。くろすけのつけていた所見と大差ない感じだったかな。まぁでも、ほぼ即死だね。飛び込んだ瞬間を見てた人がたくさんいたから、心停止前に救急隊が接触しちゃって、そっちに運ばれたけど。いっそ二時間後くらいだったら、あの子もうちに運ばれるだけで済んだのにねぇ』

 つらつらと仕事の話をする藤堂の言葉を僕は遮る。

「あの時に会った研修医、覚えてるか? 西って云うんだけど」

『覚えてない!』

「……いや、紹介しただろ」

 案の定、とでも云うべき返答に僕は呆れる。

『興味ないもん』

「……まぁいいや。藤堂が僕に突進してきた時に庇ってくれた子なんだけど、あいつ、コロナのPCRが陽性になったんだ」

『わぁお。くろすけ、濃厚接触者か! そして、俺はくろすけの保護者として活躍する時が来たんだな。よし、看病しに行くね。今から! なに食べたい?』

 相変わらず、藤堂は人の話を聞かない。

「……勝手に飛躍するな。それに、濃厚接触者になったら、絶対に接触したらダメだろう? 一応、僕も今日PCRを受けて今日のところは陰性。ただ潜伏期間もあるから、明明後日、もう一度PCRを受けることになってる」

『そっか。つまり、くろすけの結果が出るまでは俺たちも完全に白じゃないってことね』

 頭が悪いわけではないから、一を云えば八くらいは正しく察してくれるが、時折、勝手に百八十くらい足した曲解するのが珠に傷だ。

「うん……。警察と消防には明日連絡をするつもりだけれど、とりあえず、申し訳ないんだけど、おまえも気をつけておいて」

『あ、警察には明日、用事があるから、俺が伝えておいてあげるよ』

「ありがとう……でも、藤堂。余計な脚色とか尾鰭とか付けるなよ」

 やっぱり自分で伝えようか、と頭を抱えかけた僕の視界に、荷物の一番上に陣取っていたウサギのぬいぐるみが映った。肌触りはいいけれど、新品では再現できない、紛れもないくたびれかたをしている。

「ところで、藤堂。このウサギのぬいぐるみ、なに?」

『あっ! そうそう。ウサオさんって云うんだ! 俺が十年くらい愛用してる抱き枕なんだけど、くろすけも淋しいだろうから貸してあげようと思って!』

「は?」

 思わず声が出た。

 どこの世界に自分の抱き枕……それも十年も使っている……を貸す人間がいるんだ。つくづく斜め上な藤堂の発想に、僕は呆れて二の句がつげなくなる。

『ウサオさん、抱っこしてみた? すんごい抱き心地いいから。緊急事態宣言の孤独なおうち時間を癒してくれるよ!』

「いや……僕はぬいぐるみを抱いて寝る趣味はないし」

『ウサオさんだよ! あと、ぬいぐるみじゃなくて、抱き枕! 知ってる? 抱き枕って、睡眠の質をあげるらしいんだよね。ウサオさん、新品よりも抱き心地いいから』

 大きな段ボールの上にくったりと座った大きなウサギのぬいぐるみと目が合う。表情なんてあるはずもないのに、あっけらかんと笑う藤堂の顔がウサギの顔に重なった。

「……このぬいぐるみだけ送」

 送り返す、と云いかけたとき、スマホがプップップッと鳴って、着信を知らせた。

「悪い、藤堂。キャッチが入った。とりあえず、おまえもしばらくは出歩かないように頼む。それから……ありがとう」

『はいはーい。ウサオさんに優しくしてあげてね!』

「だから、ウサギは」

 明るい余韻を残し、電話はぷつりと切れた。僕はため息まじりに、通話ボタンを押す。

「榊です」

『あ、よかった。先輩?』

「なんだ。月岡か」

 僕は思わず、ほう、と息を吐く。

『なんだ、ってなんですか。先輩。彼女からの電話待ちでした?』

「ちがうよ。藤堂と話してたから、月岡でほっとしたんだ」

『藤堂さんって、先生の親友で法医の先生でしたっけ?』

「うん。俺の同級生。狗田も同級生だったけどね」

月岡が藤堂のことを知っているのは正直、意外ではあった。親友、というところが引っ掛からなくはないけれど、訂正するのもバカらしいので、そのまま流す。

「月岡もPCR陰性だったね。よかった。……まぁ、明明後日の検査までは無罪放免とはならないけどさ」

『仕方ないんですけどね……でも、俺やっぱり納得できなくて……。うちが救急を止めなきゃならないのが』

「月岡……」

『理屈ではわかってるんです。でも、救急受け入れができない事態って云うのが、納得できないんです。俺たち、救命救急科ですよね? コロナ科じゃないんですよ? それなのに、コロナの所為で、本当なら受け入れるべき救急車を断らなきゃならないのが、本当に嫌で嫌で嫌で』

 月岡は吐き捨てるように、嫌、と繰り返す。

 その気持ちもわからなくはなかった。

 この新しいウイルスが国内に入ってきて、実際に診療にあたっている医者の大半は救命救急医だ。感染症内科や呼吸器内科が先頭に立っているイメージが一般にはあるようだけれど、違う。

 ダイアモンドプリンセス号の時にDMATが派遣されたのもそうだけれど、こういう予期せぬ災害に近しい事態に遭遇した時、最も使いやすいのが救急のリソースだからだ。よく、救命救急の人間は、浅く広くで何もできない、などと揶揄されるけど、その分、広範な疾患への対処ができる。それに、集中治療の領域も同時に行なっていることが多い。

それだから、今回の新型コロナウイルス感染症という、重症化すればECMOや人工呼吸器での集中治療管理を要する疾患の対応を半ばなし崩し的に、救命救急医たちが行わざるをえない状況になっているのだ。そしてそれは、コロナの患者を受け入れれば受け入れるほど、コロナ以外の救急患者の受け入れが制限される、ということに繋がっている。

『俺は、救急医っていう仕事にやりがいを感じてました。それは……コロナ患者だって患者に変わりはないです。でも、俺たち救命救急科はコロナを専門に診る科じゃないですよね? コロナのために、他の今すぐに助けが必要な患者を見捨てる、っていうのが、俺には納得できないんです』

「うん。おまえの気持ちも分からなくはないよ。……ねぇ、月岡はいい救急医に育ったね。きちんと患者さんのことも考えられる。狗田はあんな風に云っていたけど、集中治療の勉強も頑張ってるよね」

『でも、それはッ、コロナの為じゃないです。コロナ、コロナ、コロナ……コロナが一番優先されなくちゃならないんですか? 他の救急の患者より?』

 今、どの病院も、コロナ患者が増えた所為でてんてこまいだ。僕のアルバイト先がそうだったように、コロナの感染者が出て、僕たち同様、スタッフが自宅待機になったり、或いは、術後管理の為の病床をコロナ患者が占有してしまったりして、予定手術ができない病院もある。幸い、波崎中央医療センターは術後管理用の病床は別に確保されているから、中等症・重症のコロナ患者を救命センターが受け入れることで、手術は止めずにいけているけれど、それだって、この先、患者数が絶望的な数字まで増えて、救命センターだけで対応ができなくなれば、術後管理用のリカバリールームも使用しなくてはならなくなる。そうすれば、手術は止まる。

 ただ、今回の感染者増で、感染症内科と総合診療科の有志(とは名ばかりで、部長命令で無理矢理若手を出しているだけらしいけれど)が、軽症患者の受け入れを始めてくれた。

前線にあたる発熱外来も最初は断固として受け入れを拒否していた総合診療科が手伝ってくれるようになって、救急車で来る患者以外は診察してくれている。呼吸器内科は元々人数が少ないから、うちの病院では直接コロナ患者の診療にはあたっていないけれど、それでも、今までならば僕たちが管理していたコロナ以外の間質性肺炎の急性増悪や、重症肺炎の治療を引き受けてくれている。

「月岡、イライラするのはわかるけれどね、今回の軍曹の判断は致し方ないことだったと思うよ。他の科も手伝ってくれるようにはなったけれど、実際に救急で三次を診られるのは救命科だけだし、十人しかいない状況で、僕たち五人が抜けてしまったら、通常の診療だってできない」

『……わかってます。わかってるんですけど、悔しいんです』

 月岡の声が曇る。悔しさを隠そうともせず言葉を絞り出す月岡の後ろで、聞き覚えのあるバッハの旋律が揺蕩っている。

 正直、月岡がクラシックを聴くなんて意外だった。ピアノソロに編曲された版も有名なのだけれど、月岡の後ろから聴こえてくるのはヴァイオリンのか細い旋律だ。あんなにも頼りなく儚い音をずっと聞いているのだとすれば……と、僕はふと不安になる。

 月岡のように、純粋に救命救急医としての正義感や使命感の強い人間にとっては、コロナも勿論治療しなくてはならない病気ではあるけれど、そのために、本来自分たちが助けなくてはならない患者の診療を制限される、というのはどうしようもなく理不尽で、納得できないことなのだと思う。その歪みが、月岡を蝕んでいるんじゃないか、と。

『それと……先輩。俺、西から聞いたんです。西の具合も気になるし、先輩にかける前に電話で……』

「ん? なにを?」

『あの日のことです』

「ああ、先刻云っていた、月岡たちが夜勤だった日のこと?」

『はい。あいつ……狗田……は、救急外来にクレーマーが来ていたのを、そのまま西達に丸投げしてたんです』

「クレーマー?」

 救急外来にはしばしば、そうした患者が来る。基本的に、救急外来は来た順ではなく、重症患者や緊急性の高い患者から診ることになる。そのことで待ち時間が長くなることや、順番通りに診察が行われるわけではないことを、救急外来の外に貼り出してあるのだけれど、それでもクレームをつける患者は後を立たない。警察沙汰になることだってある。

「どんな人が来ていたの?」

『酔っ払いですよ。ウォークインだったみたいなんスけど、安堂さんが最初は対応してくれていて……。でも、いくらしっかりしていても、女性一人に任せるわけにはいかないし、って西が一緒に行ったらしいんです』

「待って。その人、なにが主訴で時間外受診したの?」

『……その時点では把握されてなかったんですが……おそらく味覚障害です』

 月岡の声に苦痛が滲む。

『捨てられていた問診票を見たら、飯がまずい、って書いてあったって……』

「それ、そもそも受診しに来た時点で、隔離しておかなくちゃまずかったんじゃない?」

『……はい。それが……病院に来た時点でべろべろに酔っ払ってて、マスクもしてなくて。勿論、救外にある体温測定の機械も消毒も無視して、いきなり、時間外受付に来て……。うちの病院のじゃない問診票を持っていたし、明らかにおかしいからって、警備員さんが止めたら逆上して……。それで、警備員さんと掴み合いになってしまったから、安堂さんと西が対応しに』

「なるほど……だから、狗田に対応を相談したかったんだね、西先生は。それにしても、その警備員さんや他の患者さんは大丈夫だったのかな?」

『警備員さんは無事だったみたいです。対応も、他の患者さんからひき離してしてくれたから、その辺りは大丈夫だったみたいなんですけど……。確かに、プリコーションしないで、なんの病気かわからない患者の対応をしたのは西と安堂さんの落ち度なのかも知れないですよ。でも、それは……そんなに責められることなんですか? 熱があるかどうかすらわからない人にまでフルプリコーションで対応するだけの物資の余裕もないっていうのに』

 ダイアモンドプリンセス号に乗っていたコロナ感染者が当時、テレビのインタビューで「まずい食事ばかりだった」と対応を非難する報道があったけれど、あれは味覚障害の所為だった、と後から話題になったことは記憶に新しい。つまり、その酔っ払いは……コロナに感染していたのだろう。

 そのことに先に気づいていれば……いや、僕だって、酔っ払いが暴れている、と云われたら、咄嗟にコロナ患者かもしれない、なんて思わないだろう。それで、フルプリコーションで対応するだろうか? きっと、おそらく、しない。今は、発熱患者に対応するための防護服もN95マスクも足りない。フェイスシールドは消毒して使いまわしている。こんな状況で、全ての患者にフルプリコーションで対応するなんてできやしない。

『先輩……俺、なんかもう、ぐしゃぐしゃで。救急を受けられないこともですけど、西のことも、安堂さんのことも……。何が正しくて、何が間違っているのか、わかりません。俺たちは、そんなに責められなくてはならないようなことをしているんですか? 俺たちがやっていることは間違っているんですか?』

 ずずっと、鼻を啜り上げる音がした。

こんなの分の悪い後出しジャンケンだ。彼らの対応を誰が責められる? 

名古屋で、コロナに感染した男が、他の人間にもうつしてやる、とキャバクラに行き、その所為で感染した人が出た、とニュースでやっていた。その酔っ払いに、名古屋の男のような気持ちがあったとは思いたくないけれど、それでも……僕たちはどこまで気をつければいいんだろう。無症状だったり、発熱していなかったりするコロナ患者だっている。

『俺、空回りしてますか? 先輩。俺たちが頑張ってるのって、無駄なんですか?』

 涙声になった月岡の言葉が突き刺さる。

 無駄じゃない。

 無駄じゃないと、思いたい。

『西が悪いんですか? 安堂さんが悪いんですか? 狗田……先生は悪くないんですか?』

「ねぇ、月岡。それは、誰も悪くないんじゃない? 軍曹の判断は妥当だったと思うし、西先生と安堂さんがそんな状況で対応してくれたことは、間違ってないよ。狗田の態度は決していいとは云えないけれど、それでも、あいつだって病棟の仕事をしてくれていた。誰のことも責められないよ」

 黙り込む月岡の後ろでは、ずっと、ずっと同じ旋律が繰り返し流れている。祈りにも似た悲しげな旋律。

『先輩は……優しすぎる』

 吐き捨てるように月岡が呟くのが聞こえた。

「僕は、優しくなんかないよ」

『俺はッ、コロナも憎い。西の電話を無視したあいつも憎い。今はなにもかもが憎いです』

 危険だな、と僕は月岡を危惧する。

 いつか、強すぎる正義感と使命感が、真っ直ぐすぎるあまりにポキリと折れてしまうんじゃないかと。

「四日。月岡、四日間だ。理不尽なことも腹が立つこともあるだろうけれど、復帰したら休んだ分まで頑張らなきゃならないんだから。まずこの四日間、心と体をしっかり休めようよ。おまえは僕と違って、今の救命救急科の中心メンバーなんだし、ね」

『……俺の心……休まるんですかね』

「さあ。それは月岡次第じゃない? あ、藤堂から送られてきた、抱き枕のウサギを貸してあげようか?」

『は? ウサギですか?』

「そう。五十センチくらいあるウサギの抱き枕」

『なんスかそれ』

 プッ、と月岡が吹き出す。泣いたカラスがようやく少し笑ってくれて、僕はホッとする。

『先輩は……やっぱり優しすぎます』

 先刻とは違う、途方に暮れた子供のような口調で月岡が呟いた。そんなことはない、と否定するより前に、月岡が言葉を繋ぐ。

『話、聞いてもらって落ち着きました。すんません。ぐしゃぐしゃな話で』

「いいよ。おまえのおかげで、西先生と安堂さんの感染経路もなんとなくわかったし。誰のことも、これで責めないで済む」

 それには答えず、小さく笑った月岡は、おやすみなさい、と静かに云った。おやすみ、と答えると、数秒の沈黙の後、電話が切れた。

 箱の上に座ったウサギのぬいぐるみを抱えあげてみると、藤堂の匂いがした。薄汚れてクタクタになったぬいぐるみのつぶらな瞳を僕は見つめてみる。刺繍糸でできた、ふたつの黒い瞳は、僕をただじっと、見つめ返していた。





 自宅待機の間、見るでもなく見ていたテレビでは、医療崩壊の危機と世界各国の様子を競い合うように報じていた。

 ロックダウンされた海外の観光地は……母の故郷でもあるパリもそうだけれど……普段ならば人で溢れかえっているのに、人影ひとつなくて、まるでジオラマの街並のようだった。法的な事情もあって、日本は罰則付きのロックダウンはできず、飽くまでも、各自の意志に基づいた外出の自粛要請にとどまっている。それでも、これだけ人の流れを抑制することのできる日本人はすごいのだろうな、と僕は感じた。

 一方で、営業を自粛している飲食店に泥棒が入っただとか、心ない貼り紙がされているだとか、そんなニュースを見てしまうと、へたれの僕は胸が痛んだ。火事場泥棒、なんて云うけれど、震災の後にも被災者が避難している間に、家々に泥棒が入ることがあったという。ただでさえ辛い状況にある人をどうして更に貶めることができるんだろう。

 人を呪わば穴ふたつ、なんて云うけれど、そんな心ない人たちを赦す寛容な気持ちには到底なれそうもないと思った。

 それから驚いたのは『医療崩壊の危機』とその単語ばかりが一人歩きしていて、実際のところが理解されていない、という現実だった。

 コロナ患者の受け入れが止まることを『医療崩壊』のようにマスコミは伝えているけれど、そうじゃない。コロナ患者を受け入れることで、その他の救急や重傷の患者さんを受け入れられなくなったり、予定手術が中止になったりすることが、今、目の前にある『医療崩壊』だ。それなのに、その辺りを有耶無耶に、ただ危機感だけを煽るような報道がされていて、訳知り顔の何も知らないコメンテーターは「それならばもっとコロナ病床を増やせばいい」と声高に主張していた。深く頷いたアナウンサーも「そうですね」と。それから「医療の一層の充実に期待したいと思います」と続けた。

 人も場所も医療資源も限られていて、僕たちはその中で精一杯やっているというのに、現場の苦悩なんてなにひとつ伝わっていないことに、僕は愕然とし、息苦しささえ覚えた。そんな簡単に医療体制が整えられて、それで一人一人の負担が減るならばどれほどいいか。

 実際は、何年もかけて削られてきた医療費のあおりを受け、それぞれの病院には余力なんてなく、病床数だって、行政の意向でどんどん削られてきたというのに。今更「医療には余力があるでしょう? ほら、もっと頑張って」なんて無責任がすぎる。

 そんな重症のコロナ患者の治療や、コロナ疑いの救急患者の診療に全く携わってもいない人間が無責任なことばかり云うことに苛立って、僕はテレビを消した。

 それからは、家にあった古い小説を読んだり、ネット配信の映画を見たりして、ただただ怠惰に過ごした。



二度目のPCR検査は、僕も月岡も、まりりんも那珂川先生も狗田も全員陰性で、晴れて無罪放免とあいなった。

 カンファレンスルームのソファには無精髭の浮いた佐々が倒れるようにして眠っていた。

 起こさないようにそっと奥の電子カルテを立ち上げる。

 重症患者の容態は、刻一刻と変わっていくから、四日間も空いてしまうとなにがどうなっているか、カルテを追いかけなくては理解できない。僕は救急外来だけを担当しているから(それも週に三日だけ)、病棟の患者を診ることはないのだけれど、それでも、できる限り、病棟患者のことも把握するようにしていた。

 ICUに居た鈴木さんの名前がなくなって、退院患者一覧に名前が移っている。その意味するところを察して僕は溜息をついた。カーソルを名前の上に持っていくと、赤文字で『死亡退院』と表示される。

 やっぱり、と思う一方で、他にできることはなかったのか、という悔いが生まれるのは、コロナの患者に限ったことじゃない。いつだってそうだ。どれだけ頑張って治療したって、全ての人を助けられるわけじゃない。僕たちは神様じゃないから。それでも、助けられなかった人のことは、いつまでも抜けない棘のように、僕たちの中に残り続けるんだ。良心のある医者ならば、きっとみんなそうだと思う。

 沈んだ気持ちのまま、病棟マップをHCUに切り替えたところで、僕は目を疑った。


   HCU1 西孝司


 慌ててクリックするとカルテが表示された。年齢、三十三歳。それは紛れもなく、研修医の西先生、その人だった。

 僕は壁に並んだモニターの中に、西くんの名前を探す。

 モニターの一番左、上から三番目。サチュレーションは九十パーセント。酸素を何リットル吸っていてこの数値なんだろうか。血圧は安定しているけれど、少し頻脈気味だ。もしかすると呼吸苦が強いのかもしれない。

コロナ肺炎ではHappy Hypoxiaと云って、酸素化が悪いにも関わらず、呼吸苦を感じにくいという特徴があるのだけれど、もしかすると、西くんの容態はそれより一歩進んでいるのかもしれない。

 電子カルテに目を戻すと、僕はカルテ記載を追いかける。

『四月二十日 発症四日目。呼吸苦増悪の為、緊急入院となる。CT上、両側胸膜直下のマリモ像と胸膜側から伸展する広範な肺炎像は新型コロナ感染に伴う肺炎として矛盾せず』

 西くんが入院したのは昨日のことだったようで、カルテにはその後に続けて、システマティックレビューが続いている。治療は、現状で標準とされているデキサートと、治験も兼ねているアビガンの投与が行われていた。震える文字で西くんの名前が記された治験の同意書が電子カルテに取り込まれている。

 酸素は既に五リットル。

 これで酸素化が保たれず、西くんの年齢を考えれば、気管挿管が適応になる。

 あのとき、シュークリームを頬張っていた西くんの顔が頭を過ぎる。

 なんで?

 どうして?

 彼は研修医として、いや、一人の医者として、真面目に診療にあたっていただけなのに。

 そこで僕は、いや、と自分に言い訳をする。

 彼には基礎疾患もあるが、まだ三十代。電子カルテで確認すると、三十三歳。この若さならば重症化せずに治る可能性の方が高いはずだ。

 落ち着け、落ち着くんだ。

 それなのに、どれだけ言い聞かせても、僕の胸に巣食った真っ黒な不安が消える気配はなかった。冷えた指先で検査データを開き、血液ガスの推移を見つめていると、トン、と肩に誰かの手が置かれた。

「先生」

 耳馴染みのいいソフトな声は、後田師長のものだった。隣の椅子に腰を下ろした彼女は大きな溜息をついた。後田師長にしては珍しい。名前は『後田』だけれど、あまりそういった後ろ向きな感情を表に出さない人なのに。

「えらいことになっちゃってるでしょ」

 後田師長の細い指が電子カルテの画面を小さく叩いた。

「そうですね……。昨日から今日にかけても悪くなってる」

「午後から挿管するって。さっき、軍曹が云ってたわ」

 いつになく感情を露わに、落ち込んだ様子で師長は眉を顰める。

「西先生、すごく一生懸命にやってくれてたし、心配。症状が重くなるまでずいぶんガマンしていたみたいで……」

 僕はその言葉に頷く。カルテに所見が書かれていたCTは昨日の入院時のものだったから、その時点であれだけの肺炎があれば、普通は相当苦しいはずだ。Happy Hypoxiaだったとしたって、五リットルの酸素を用いても、サチュレーションがあそこまでしか上がらないほどの肺炎だ。彼はどれだけ我慢したんだろう。

「実家は大阪だそうで、ご家族にも連絡したんだけれど、今はどちらにしても病院全体が面会禁止だし……。でも挿管になるならば、おうちの方と会っておいて欲しい気もしてるのよ。榊先生はどう思う?」

「……うん。この年齢だし、そうそう予後は悪くないとは思うけど、挿管する前に、ご家族と話をさせてあげたいよね。西くんの為にも。ご家族のためにも」

 挿管……気管挿管というのは、指ほどの太さがある管を主に口から気管まで挿入することだ。その管を人工呼吸器に繋いで、機械で換気を行うのだけれど、挿管チューブが挿入されている状態というのは(僕自身は経験したことはないけれど)とても苦痛だ。僕たちはその苦痛を和らげるために薬を使いながら管理を行うのだけれど、大きな人工呼吸器が繋がっているのだから、ベッドの上から動くこともできないし、気管にチューブが入っているから、喋ることもできない。

 それに、気管挿管が二週間を越えると、今度は気管切開と云って、喉の真ん中あたり……喉仏の少し下を切り、そこから直接、人工呼吸を行うためのチューブを留置するような手術が必要になる。と、いうのも、気管チューブをずっと口から入れていると、接している部分が潰瘍になったり、壊死したりしてしまうことがあるからだ。

 もちろん、気管切開まで至らずに人工呼吸器を離脱できることも多い。でも、気管挿管をし人工呼吸器で管理することや、ECMOを回すことは、最後の方法ではあっても、最善で最良の方法ではない、ということだ。

誰も彼もが、それで助かる、というものでもないことを、僕たちは嫌というほど知っている。

だから、西くんが……西先生が、挿管せざるをえないような状態になっている、というそのことが、重く、重くのしかかってくる。

「試験的にやっていたウェブ面会のタブレットを使って、ご実家と繋ぐことはできないかな。無理なら電話だけでも……」

「そうですね。ちょっと、軍曹に相談してみます」

 ありがとうございます、と少し疲れた顔に笑みを浮かべて、それでも、するりと椅子から立ち上がると、後田師長は足早に部屋を出て行った。

 僕も、西くんの様子を見にいこう、と電子カルテの画面を閉じかけた、その時だった。

隣の看護師控室から、ガシャーンと大きな音が響いた。その後に、なにかを叩きつけたのか蹴り付けたのかわからないけれど、ドーンとぶつかるような音。ソファで寝ていた佐々も寝ぼけ眼でぐるりと室内を見回す。

 僕は、殆ど条件反射の勢いで部屋を飛び出し、隣の部屋に飛び込んだ。

「どうしたの?」

 部屋の奥、壁に向けて並べられた机の前で、茶色に染めた髪の毛の生え際が真っ黒になった若い看護師が泣いていた。足元には粉々になったかつてはマグカップだったもの、が落ちている。崩れかけた化粧の下からは、疲れきった目元が覗いていた。

「もう嫌! なんでこんな目に遭わなきゃいけないんですかっ?」

 そう叫ぶと、彼女はテーブルを両手で叩きつけた。そのまま、獣が吠えるような声を上げ、両手で顔を覆い、彼女は号泣する。

 激しい嵐のように吹き荒れる感情に、僕はその場で足を止める。

しゃがみこむ彼女と目線を合わせるように、近くにいたベテランの古谷さんがしゃがむのが見えた。二人ともおそらく夜勤明けだろう。もうすぐ十時を回るのに、まだ残業していたのか。

 古谷さんは自分にも他人にも厳しいお局と呼ばれる類の看護師で、後田師長より十ほど年上だ。口は悪いけれど、仕事ぶりは真面目で、患者にはとても優しい。お局様は驚いた様子を隠しもせず、しゃがみこんだ若い看護師を真っ直ぐに見つめていた。

「あんたね、いきなり叫んだり喚いたりしても伝わらないわ。なにがあったの」

 その様子を見るに、若い看護師……沢口明菜という子で、看護学校時代、居眠りもしたことがないほど真面目な子だったらしい……がいきなりヒステリーを起こしたようだ。

「古谷さん、私、コロナじゃないです」

「そうね」

「私、コロナじゃないし、一生懸命コロナの患者さんの看護もしてます」

「そうね、頑張ってるわね」

「それなのに……なんであんな目に遭わなきゃいけないんですか?」

 悲鳴のような声で、しゃがみこんだ沢口さんが叫ぶ。わずかに上げられた顔は、悔しそうに歪んでいる。

「なにがあったの?」

 古谷さんのあかぎれだらけの手が、沢口さんの背を優しく撫でた。涙でくしゃくしゃに崩れた化粧を気にする余裕もなく、しゃくり上げつつ、彼女はぽつん、ぽつん、と言葉を絞り出す。

「私が……ナースで、この病院で……働いてるって知ってる人だと……思うんですけど、部屋の窓……割られて」

 泣きながら彼女の訴えた内容に僕は耳を疑う。

「コロナ看護師、出ていけ、って貼り紙されて……子供も、保育園に連れてくるな、って……そんなの仕事に来れなくなるし……それに、私……」

 沢口さんの背を撫でていた古谷さんの手がぴたりと止まる。

「そんなことがあったの? いつから?」

「一週間くらい……前から、貼り紙は……されていて、昨日の夕方、出てくる時……窓ガラスが……石で……」

 休憩室のドアのところで立ち尽くしたまま、僕は言葉を失くしていた。途切れ途切れに語られる言葉の一つ一つが僕に突き刺さる。

「あんた、そんなことがあったのに、そのまま勤務してたの?」

「……はい。コロナのせいで、人が足りないのはわかってますから。私が急に休んだら……迷惑をかけてしまうから。でも、帰ったら、ガラスが割れたままなんだろうな、って思い出したら、もう……我慢できなくて」

 中等症から重症のコロナ患者の看護には、通常よりも手間がかかる。夜間でも体位変換は必要で、ECMOや人工呼吸器のついた患者さんを一人で動かすことはできないから、二人は最低でも必要になる。しかもこれは、あくまでも『最低限』の話で、実際は、ICUのコロナ病床の重症患者三人を二人の看護師が担当し、HCUのコロナ病床の中等症患者を夜間は一人(日勤帯は二人)の看護師がみている。と、なると、三人(日勤帯ならば四人)はフルプリコーションでレッドゾーンにいなければならない。そのうえ、患者はコロナ患者だけではないから、それ以外の患者の看護だってある。残りのICU四床とHCU八床をそれぞれICUを二人、HCUを二人の看護師で管理している。はっきり云って、この人数で回すのはリスクがとても高くて、どこかのベッドの患者が急変した時に、介助に入る看護師がいると、それだけで、他のベッドの患者の管理に手が回らなくなる可能性だってある。なんなら、一人が急変している時に、もう一人別の患者さんが急変したら……。本来ならば背負わなくていいはずのリスクや精神的な負荷までも、コロナの所為で僕たちは勿論、彼女たちも背負いながら働いているんだ。

 それに、コロナが本格化してから、こういう負担の大きさや、感染のリスク、それから、学校や幼稚園、保育園が休みになって、子供を預けられず家庭を優先しなくてはならないことなどを理由に、依願退職する看護師が出始めていた。

 正直なところ、救命センターでの看護はかなりシビアで、専門的な知識は勿論。患者をきちんと観察できるだけの臨床能力が必要だ。新人の看護師は、先達たちからの指導を受け、二年から三年かけてようやく一人前になる。

 そんな人員が櫛の歯が欠けるように、一人、また一人と離脱していくのは、気持ちとしても辛いけれど、それより、実務的に、大変な痛手だった。いきなり「救命センターの人員が足りないから、じゃあ、あなた明日から救命センターで働いてね」と云われて働けるようなものではないのだ。そして、残された人たちの負担ばかりが増えていく。

 心ない人たちは「医療従事者の癖に、患者がいるのを見捨てて辞めていく」なんて云うけれど、大切な家族がいて、自分だって患者の治療にあたる中で感染するリスクがあって、そのうえ、コロナ診療に従事したからといって、ろくな手当もつかない現状で、辞めることを誰が責められるというんだろう。自分は安全なところで「医師のくせに、看護師のくせに」なんてことを偉そうに云っている人間には、わかるはずなんてない。

コロナ診療に従事する手当が先月から配られるようになったけれど、給与明細を見てびっくりした。一ヶ月に三千円。

 これが、コロナ診療での感染のリスクや過重労働に対する対価なのか、と。

結局、僕たちがやっていることにはその程度の価値しかなく、ひいてはその僕たちが守ろうと必死になっている命の価格なのか、と思うと、虚しくて、もうこれ以上、自己犠牲の精神だけでは働けない、という人が出てくるのも無理はないと思った。

 お金で換算するなんて、と眉を顰める人がいることは想像にかたくないけれど、善意だけでやっていくには、コロナ診療の負担は精神的にも肉体的にも大きすぎる。せめて、どこかで報われることを求めるのは間違っているんだろうか? 少なくとも、辞めてしまった人たちのうちの何人かは、目に見える形として報われていたならば、今もここで働いていてくれたかもしれない。

 そんな状況だから、あんなことがあっても、彼女は休めなかったのだろう。

「警察は呼んだの?」

 古谷さんのいつもより数段優しい声に、沢口さんが頭を振る。

「騒ぎになったら、もっとひどいことされそうで……段ボールを貼って出てきました」

「犯人はわかっているの?」

「……わかりません。疑おうと思えば、近所の人、みんなが私のことをいなくなればいいって思ってるみたいに思えてきちゃって……怖くて……惨めで……」

 悲痛な叫びを上げながら、しゃくり上げる沢口さんを古谷さんがぎゅっと抱きしめる。

「あんた、辛かったでしょう。ひどい。本当にひどいね。でも、あんたがそうやって無理してまで出てきてくれたから、昨日の夜は無事に乗り切れたのよ」

「……はい」

「ごめんね。無理させちゃって」

「人が……足りませんから。仕方ないです」

 どうにかして笑おうとした沢口さんの顔は僅かに歪んで、涙がこぼれ落ちた。こぼれた雫を追うように、彼女は俯くと、しゃくり上げる。

「でも、もし、子供にまで危害を加えられたらって……考えたら……。古谷さん。私、なんのために……頑張ってるのか……どうして、こんなこと」

 ぺたりと床に座り込んだまま、沢口さんは握りしめた拳で床を力なく叩く。

「私たち、なんで頑張ってるんですか。頑張ってるのに……どうして、こんな目に遭わなくちゃならないんですか? コロナの人の看護をしてるだけじゃないですか! 感染するのなんて、私だって怖い。でも、仕事だから頑張ってるのに」

 沢口さんの足元にこぼれた黒い珈琲の中に沈んだマグカップの残骸がまるで彼女の傷ついた気持ちそのもののようで、僕はいたたまれなくなる。

「一旦、看護師寮に入れるように師長さんに頼んでみようか?」

 古谷さんが優しい声で尋ねる。沢口さんは俯いて、ゆるく首を横に振る。

「嫌です。……私、間違ったことしていないのに、どうして私が逃げるみたいなことをしなくちゃいけないんですか?……悔しいです」

「そうね。悔しいね。悔しい。わたしだったら、我慢できないよ。あんた、よく我慢してたね」

 見えない『ウイルス』への恐怖。それが、人の心までも侵し、その恐怖を誰かに押し付けようとしている。普段ならば見えなかった、その人の本質が、歪みながら曝け出される。 

 みんな、誰かの所為にしたい。でも、誰の責任でもない。それならば、と、勝手に標的を探し出して、罪もない……それどころか、ウイルスと一生懸命戦っている人を攻撃する。その気持ちのなんて浅ましく、醜くて、悲しいことか。

 胸が、ずきん、と痛む。

「悔しいし、憎い。わたしたちはそんなことをされるようなことはしてないよ。でも、あんた、子供を守るのが先じゃないの? また石でも投げられたら危ないじゃないの」

「はい……でも、子供を保育園に預けないと、仕事に来れないし……」

「沢口、実家は遠いの?」

「……九州なんです」

「そりゃ遠いね。じゃあ、実家に子供を預けるのは無理ね。旦那さんの実家には預けにくいの?」

「……いえ、義母は優しいんですけれど、義母にまで迷惑をかけるのは……」

「でも、いま、そんなことを言ってる場合じゃないでしょう。子供の安全が第一でしょう。とりあえず、あんたの家は、そういうおかしな奴に目をつけられてしまってるんだったら、悔しいけれど、今は安全のために、旦那さんの実家に身を寄せるのもいいんじゃないかしら?」

「……悔しいです」

 堪えきれずに嗚咽する沢口さんの心の軋む音が聞こえるようで、僕は両手を握りしめる。ダメだ、ダメだ。引きずられちゃダメだ。

 僕は以前バーンアウトしてしまったことがある。患者家族からの言葉が最後の引き金を引いた。

 元々、救急という分野は、人の生死のすぐ間際にある。瀕死の外傷や、重症の感染症では、必ず命を助ける、なんてテレビドラマのようにはいかない。

 あの日、軽自動車で自損事故を起こして運ばれてきた二十歳の男の子は、搬入された時点でショック状態で、血圧も触れないほど低く、僕たちは必死で救命処置を行った。骨盤は酷く骨折をしていて、足の骨は片方の脛から突き出していた。勿論、骨盤がその有様だから、腹腔内の損傷も酷く、肝損傷と腸管にも損傷があるようだった。胸部では大動脈が外傷性に一部裂け、仮性動脈瘤を形成していた。彼は搬入時には言葉にならない悲鳴を途切れ途切れに上げていたが、徐々に意識レベルは低下していった。僕たちは、どうにか救命しようと、緊急手術を行った。駆けつけた母親は、息子の状態に取り乱し泣き叫んでいた。

 結局、その青年は、助からなかった。母親は、息子の亡骸に取りすがり、そして云った。

『人殺し! 息子を返して。こんな病院に運ばれなかったら息子は死ななかったかもしれないのに。こんな怪我をした上に、手術なんてされて無茶苦茶にされて。人の命をなんだと思ってるの、あんたたちのおもちゃじゃないんだから。息子を返してよ。あんたたち、訴えてやる。人殺し』と。

 忘れられない。あの一言一句を。

 冷静になれば、行き場のない悲しみや苦しみをただ誰かを責めることで、相手に転嫁してそれから逃れたかっただけなんだとわかるのだけれど、理性ではわかったとしても、感情的には理解できないし、理解したいとも思わない。僕は、それまでかなり無理な働き方をしていた所為もあったのだけれど、あの一件で完全に心が折れてしまった。そしてバーンアウトした。

 それは、今のこの状況ととても似ていた。

 新型コロナウイルスに対する恐怖や、自由に外出もできない抑圧を、誰かに転嫁し、少しでもその不安な気持ちから逃れようとしている。でも、それは、転嫁された側からすれば、到底納得できるものじゃない。

 特に、真摯に医者として、看護師として、患者と対峙していれば、命と向き合っていれば、それだけその言葉は鋭く心を抉り、突き刺さる。

 何故?

 なぜ?

 どうして?

 転嫁された側は理解なんてできるはずもない。必死で、命を救うために働いていればいるだけ……真っ直ぐに飛ぶ矢を叩き落とすように。強い推進力で進むものほど、心ない言葉にぶつかった時に受ける衝撃は大きい。

 僕は、他人事には思えず、沢口さんの受けた痛みを思う。

 沢口さんだけじゃない、今、この日本で必死にコロナと戦っている医療従事者たちのことを。

 ナゼ?

 ドウシテ?

 こんなに必死に頑張っているのに、そんな心ない言葉を、差別を受けなければならないのか、と。

 みんながみんな、感染者数の大幅な増加を不安に思い、緊急事態宣言で生活の自由が制限され、不平や不満を抱えている。生活の不安もあるのかもしれない。それは、僕たちだって同じだ。

 それなのに。どうして。

 

いけない。僕まで囚われてしまっては。


 古谷さんは、静かに沢口さんに寄り添っていた。

泣き腫らし真っ赤な目をした沢口さんは、僕に気づくと気まずそうな顔で会釈をした。僕もそっと頭を下げ返し、なにか彼女に欠けるべき言葉をと探したけれど、見つけられずに口ごもる。

 そんな僕に、いつもと変わらぬ風に古谷さんは片唇をあげて見せた。

「榊先生、ここはいいわ。わたしが一緒にいるし。あ、一個だけ先生にもできることがあるわ。泣いたら体力使うし、アイスでも買ってきてちょうだいよ」

 その言葉に、沢口さんは少しだけ笑う。強ばった頬をぎこちなく歪めて。

「わかった。クリーム系? かき氷系?」

 僕はそんな古谷さんの言葉にありがたく寄りかかる。

「わたしはクリームとチョコの濃〜いやつね。沢口は?」

「じゃあ、私も」

 そうして、僕は、逃げ出した。

この場から逃げ出すための理由を抱えて。

やっぱり僕は、卑怯な臆病者、だった。





十一


 午後。

 HCU1。

 普段ならば、HCUの各部屋と通路を隔てる大きなガラスにはブラインドが下されているが、今は完全に上まであげられ、部屋の中は丸見えだ。

 ガラス越しに見える室内では、ベッドの上に横たわり、ハイフローネーザルカヌラで高濃度酸素吸入を受ける西くんの前に後田師長がフルプリコーションで袋に入れたタブレット端末をかざしていた。声は聞こえないけれど、明らかにやつれた顔で、ひっそりと画面に笑ってみせている。 

 御家族だろうか。

 たとえネット越しにでも、会ってもらえてよかった。僕は思わず両手を祈るように組み合わせる。

 挿管になるほど重症化してしまった西くんの肺炎が、願わくば、早くよくなるように、と。そして、あの時は大変だったよね、とまた家族と笑い合ってほしい、と。

 レッドゾーンにはフルプリコーションの軍曹とまりりんが待機していて、その脇にはポリ袋が被せられた処置台が置かれていた。台の上には、挿管チューブやビデオ喉頭鏡、マッキントッシュ、それに、飛沫感染をできる限り防ぐための大きなプラスティックの箱のようなものが準備されていて、物々しい雰囲気を醸し出している。

 中に入るのは軍曹とまりりんの二人と、介助のナースが一人だ。おそらく、この流れだと、後田師長がそのまま介助につくつもりだろう。

 オープンな場所で挿管するのであれば、挿管時のトラブルにもすぐに手を貸すことができるのだけれど、感染リスクの高いコロナ患者の『気管挿管』に際しては、最も挿管手技に長けた者が最低限の人員で行うよう、ガイドラインでも示唆されている。気管挿管が一番上手な人、となれば、救命救急科では、集中治療科・麻酔科の出身の軍曹か狗田になる。

が、PCR検査が終わると同時に狗田は帰ってしまったので、必然的に軍曹がナンバーワン、になるから、当然と云えば当然の人選だった。

 ナースステーションの作業台では、月岡が手袋を嵌め、薬剤の準備をしている。仮面のような無表情は醒めて白く、きつく唇を噛み締めている。

 無理もない。可愛がっていた後輩がこれから挿管になるんだ。ほんの二、三回会った程度の僕だって、顔見知りがこんなことになるのは辛い。

 ……よくなってほしい。

 でも、重症化したコロナのミゼラブルな行く末も僕たちは見てきている。

 不安。

 理不尽なものへの怒り。

 そしてやっぱり、不安。

 そんな行き場のない感情が、波のように幾度も押し寄せてくる。僕はイエローゾーンから一旦、ナースステーションに戻り、月岡に声をかけた。

「月岡? 手伝おうか」

「あ、いえ。大丈夫です」

 月岡は片手にフェンタニルのアンプルを持ったまま、チラリと僕をみた。

 作業台には昇圧剤のアンプルや生理食塩水の小さなボトル。筋弛緩薬のバイアルが転がっている。プロポフォールのプレフィルドシリンジには延長チューブがセットされ、白い液体が満たされている。横にはフェンタニルの青い箱。空の注射器や針。

 救命センターに流れているオルゴールの音が空々しく上滑りしていく。

「俺が、やりたいんです。挿管には……入れないし」

 月岡の声は震えていた。「よくなるよ」なんて、そんな無責任なことは云えなくて、僕は無言で僕より薄い肩を軽く叩いた。思い詰めたような横顔で、月岡は頷く。

 視線を戻すと、後田師長がビニール袋に入れたタブレットを片手に部屋から出てくるところだった。

 イエローゾーンに待機して、万が一なにかが起きてしまった時に、外回りで物品を準備するのが僕の役割だ。

 ナースステーションとの間の引き戸を閉め、イエローゾーンに戻ると、ポーンポーン、と云うアラームが西くんの部屋の中から微かに聞こえる。

「よかったわ。ご家族とお話ししてもらえて。それにしても、やっぱりだいぶ辛そうね。ちょっと話しただけでも、息が切れていたから」

「サーチも喋るたびに下がってたしね」

 部屋の上部に設られたモニターを見上げ、まりりんが相槌をうつ。

「これは挿管するしかないよ」

「そうだな。できれば、ハイフローでやり過ごしたかったんだが。まりりんも榊も月岡も、今日勤務じゃないのに、ありがとうな」

 四日間、僕たちが自宅待機になっている間、ずっと日勤で病棟を守ってくれていた軍曹が、ゴーグルの奥で目を細めた。

「いえいえ〜。そもそも、こっちが迷惑かけたしね!」

 ね、とまりりんが僕を振り向いて、目だけで笑う。

「はい。軍曹にも他のみんなにもご迷惑をお掛けしました」

「それはこんな状況じゃ仕方のないことだからな。それより、明日からはまた救急の受け入れ、よろしくな」

 僕が頷くのと同じタイミングで、月岡がステンレスのバットに入れた薬剤を持ってやってきた。

「普段の……準備だけでよかったですか? 一応、西の体格も考えて、筋弛緩は多めにしてます」

「おう、ありがとう」

 イエローゾーンからレッドゾーンへと差し出された銀色のパットを軍曹が受け取ると、その顔は俄かに厳しさを浮かべた。

「さて、いいか? この後は、抜管できるまでは西とは話せないが」

 こんなとき、がんばれ、と云えばいいんだろうか。それとも、安心しろ、と云えばいいんだろうか。僕には正解がわからない。それでも、部屋の中から僕たちに気づいた西くんは、少しだけ笑って、僕たちに会釈をする。

 助けたい。助かって、生きて欲しい。

「あの、ええと、がんばろう、って。僕たちもがんばるから、って」

 僕はHCUの窓越しに西くんを見つめる。気の利いた言葉なんて探し出せなくて、もう何万回と使われたであろう、手垢のついた言葉を軍曹に託す。

 隣で俯いていた月岡は、顔をあげると真っ直ぐに窓の向こうにいる西くんを見て、手を振った。それから、力強く頷いて見せる。

「軍曹。西に『戻ったら約束守れよ』って伝えといてください」

 その言葉に、軍曹はククッと喉を鳴らす。

「なんだそれ。それは、生きて戻らなきゃならねェやつだな」

「はい……守ってもらわなくちゃ」

 冗談めかして云う月岡は、ひっそりと笑う。その歪な笑みが本当は泣いているように見えて、僕は目を逸らす。

「じゃ、行くか」

「おっけー」

 軍曹の合図でまりりんがドアを開けると、師長さんがカートを室内に入れる。

「なんかあったら中で手を振ってナースコールで伝えるから。とりあえずここにいてね」

 僕と月岡は、室内に入っていくまりりんの背中を見送った。



 挿管自体はスムースに終わり、十分も経たずに、軍曹とまりりんが外に出てきた。師長さんはまだ、西くんの身の回りを片付けてくれているようだった。

挿管された西くんの様子は外からは窺い知ることはできなかったけれど、表示されるサチュレーションの青い文字は九十五パーセントまで改善していた。

 無表情で隣に立つ月岡の背を軽く叩くと、ハッとしたように目を瞬かせた。

「すんません。ぼーっとしてました。よかった……無事挿管できたみたいで」

「うん。そうだね。それに、ちょっと楽そうになった」

 モニターを見上げた月岡の目から涙が一筋こぼれた。

「あいつ、よくなりますよね?」

「若いし……大丈夫だって、信じよう」

 涙を隠そうとも、拭おうともせず、月岡はそのまま、静かに言葉を並べていく。ぽつん、ぽつんと呟くように並んだ言葉は、小石が水面に波紋を描くように、静かに沈んでいく。

「……なんで、あいつなんですかね? 子供の時に病気になって、それでもちゃんと社会人になって、そこから医学部に入り直して……これから医者として自分のやりたいことができるっていうときに」

 病は、事故は、災害は理不尽だ。

 善人も悪人も、家族がいようといまいと、どんな人にも平等に降り掛かる。そんな平等なんていらないのに。

「あいつね、ものすごい自分のこと責めてたんですよ。電話したとき。この病院や、俺たち救急救命科の人間が悪く云われるんじゃないか、って。今回の感染の所為で救急が止まったことにも責任を感じてたみたいで、自分が一番苦しいだろうに、電話口で泣くんスよ。そんなの、誰も責めてないって云っても『ごめんなさい、ごめんなさい』って。それ聞いてたら、俺、つらくて」

「……そう、そうだったんだ」

 僕たちが自宅待機になった翌日の朝刊には、『波崎中央医療センター 研修医一名が新型コロナウイルスに感染。救急車受け入れを一時見合わせ』という記事が載った。記事には西くんの名前こそなかったものの、感染経路として、患者からの感染の可能性が高いということが書かれていた。有識者の見解として、研修医という立場から鑑みるに感染対策が十分にできていなかったのではないか、病院として研修医が感染しただけで救急を止めなければならないような脆弱な体制はいかがなものか、なんて、現場のことをなにひとつ知らない人間の勝手な憶測が書き立てられていたようだ。

 ようだ、と云うのは、僕自身はその新聞を読んでいないからだ。自宅待機の間、毎日「健康確認の時間だよ!」と頼んでもいないのに電話をかけてくる藤堂から聞いたのだ。藤堂にしては珍しく冷たい声色で、その有識者を馬鹿呼ばわりしていたから、記事の論調は推して知るべしだ。

 西くんもその記事を見たのだろうか。

 そして自分を責めたのだろうか。

 責める必要なんてない、君はきちんとプリコーションできていたし、君と同じ状況だったら、僕だって同じように感染したと思う、と伝えてあげたい。

「あの時、本当なら、狗田……先生が、救急外来の担当だったのに。せめて、電話に出てくれていれば……」

 俄かに怒りの色を帯びた月岡の声に、僕は「だめだよ」と重ねる。

「たらればじゃ、誰も幸せにはならないよ。狗田が電話をとっていても、結果は同じだったかもしれない。誰にも、その分岐点の先の未来はわからないよ」

「未来じゃなくて、現実っス。今のことですよ。今、ここで、西がこんなに苦しんでいるのに、今日だって、あいつ手伝いもしないで帰ったじゃないですか。俺も、あんな奴の顔見たくないんで、帰ってくれてよかったんですけど」

 それまで透明な言葉を紡いでいたのに、月岡の言葉は徐々に怒りと憎しみで濁っていく。

「月岡。おまえの思う正しさと、狗田の思う正しさは相容れない。僕は、おまえの気持ちがよくわかるし、狗田が電話さえとらなかったことを責めたくなる気持ちもわかる。でも、どんなに納得できなくても、狗田には狗田の正しさがあって、ああいう行動をしてる。それは僕の考える正しさとも違うから、僕にもあいつのことは理解できないよ。じゃあ、どれが本当に正しいの? って誰にもわかんないし、それぞれの立場で違う。違って当然なんだ。月岡と狗田が相容れないのは仕方ないと思うけど、だからって、どちらかだけが正しくてどちらかだけが間違っていて、どちらかがどちらかを断罪することはできないと思うよ」

 一瞬、月岡は酷く傷ついたような顔をして僕を見た。僕ならば、僕だけは、月岡の味方をしてくれる、ともしかしたら彼は思っていたのかもしれない。でも、それが月岡にとって良いことだとは僕には思えなかった。

「いいですよ。俺は俺が正しいって認めて欲しいわけじゃないんで」

「そんなこと云ってるんじゃない。そこで臍を曲げたらおまえが損するよ」

 月岡は子供のように目を逸らす。

「僕はさ、研修医の時から月岡のこと知ってるけど、おまえはいつだって一生懸命で、ちゃんと患者さんと向き合ってきたよね。一年目の時、チャラい子が来たなぁ、って思っていたら、中身はすっごくまともで。僕、すごく感心した。コミュニュケーション能力も高くて、羨ましかったよ。今回も、月岡が呼び戻してくれなかったら、僕は家で引きこもってただけだったと思う。ただね、月岡。おまえは、一生懸命で真っ直ぐすぎるから、きっと今回みたいに『許せない』って思うことが今までもいっぱいあったんじゃない? きっとこれからもある。その度に投げやりになっていたら勿体ないよ。だって、その間、おまえのいいところが見えなくなっちゃうんだよ? 僕は、月岡のいいところをいっぱい知ってるから、そんなの嫌だな」

「……それは、許せないことでも『許せ』っていうことですか?」

「違うよ。『許せない』と断じる前に、一呼吸おけ、ってことだよ」

「じゃあ、一呼吸置いても、許せないときは?」

「……そうだね。そんなこともあるよね。そんなときはどうしたらいいんだろう。僕にもわからないや。……ま、知ってのとおり、僕は一回壊れたくらい、世渡りは下手くそだからさ」

 ガラス玉のように、透明な眼差しで月岡は僕を見た。そこに浮かんでいたのは怒りではなく、困惑の色だった。

「先輩。先輩は、ずるいです。優しくて、ずるい」

「うん、そうかもしれない」

 すっかり落ち着いた波形で、数値も幾分安定した、HCU1のモニターを見つめて、僕は頷く。

 僕は、ずるい。

 あんなことを云ったけれど、僕にも答えなんてわからないんだから。

「月岡、西くんとなにを約束したの?」

 チラッと隣を見ると、真っ赤な目をした月岡と目が合う。月岡はふわりと笑って云った。

「内緒です」





十二


 西くんの容態は、そんな僕たちの願いや懸命な治療とはうらはらに、日を追うごとに悪くなっていった。発症から五日目に挿管。新型コロナウイルス感染症が最も悪くなるのが七日から十日目と云われているが、その十日を前にECMOの導入が検討されることになった。

 白衣を着て笑っていた若い研修医は、最重症の患者になってしまっていた。

 僕は、相変わらず救急外来を週に三回担当するのみだから、実際に西くんの診療には参加してはいないが、朝と夕のカンファレンスで、日々悪化していく容体を否が応でも知ることになる。

 腹臥位も試したが、ぼろぼろになってしまった彼の肺は回復の兆しを見せず、発症十日目になる明日、遂にECMO導入が決まった。



 救急車が途切れた隙に、院内のコンビニで買ってきたサラダとサンドイッチを食べていると、那珂川先生がいつになく不機嫌な顔をしてカンファレンスルームに戻ってきた。

 僕たちは西くんの感染が発覚して以後、カンファレンスルームでも二メートル以上離れて座り、会話も必要なこと以外は控えるよう、病院側から申し渡されていた。

 那珂川先生は僕の座るソファから二メートルほど離れたところに椅子を引っ張っていって、そこにどさっと座り「やってらんねぇ」と吐き捨てた。

「なにかあったんです?」

「ありありの大ありよー。今、コロナで面会制限かけてるじゃん? HCU3の大久保さんとこの息子! いきなり怒鳴り込んできてさ」

「えっ? 大久保さんの息子さんって、隔離されてたんじゃないんですか?」

「今日から外出可なんだと。それでまずは病院に乗り込んできたってわけ」

「なんのために?」

「俺らを脅すため」

 普段、飄々として感情を表に出さない那珂川先生は苛立ちを隠そうともせず、右足のつま先で床を小刻みに叩いている。

 大久保さんというのは、コロナ患者で、八十二歳のおばあさんだ。気管挿管されたが、一昨日、人工呼吸器から離脱。あとは呼吸状態が安定すれば、HCUから退室できる、といった程度まで回復してきている。

 この大久保さん。感染経路は件の息子からの家庭内感染で、息子自身は友人との会食で感染したというのだから呆れる。息子は軽症でホテルに隔離されていたが、息子から感染した母親の方は重症化して入院することになったのだ。

 大久保さんが救急搬送されたその日に電話をしてきた息子は「おまえら、うちの母親になにかあったらタダじゃ済ませないからな」と電話口で凄み、毎日大久保さんの状態を電話してこい、電話口に母親を出せ、携帯で母親の動画をとって送れ……など、モンスターペイシェントさながらの(いや、そのものか)要求を病院側に突きつけてきていたのだ。

 例えば僕たちが患者個人に雇われたお抱えの医者ならば、そんな要求に答えることもできるだろうけれど、現実には、僕たちは病院に勤務している医者で、相手はたくさんいる患者の中の一人だ。それを特別扱いすることは勿論ないし、どれだけ脅されようとそんなことできない。今は、IC(informed concentの略で、昔はムンテラなんて呼ばれていた患者や患者家族への説明のことだ)ひとつとっても、訴訟リスクを鑑みて、対面で行い、場合によっては録音も残す。だから、電話で毎日様子を報告しろ、なんてそもそも無理な話で、百歩譲って、状態が悪くなれば連絡する、と云うのが妥協点だろう。

 毎日電話することも、動画を撮ることも、特別扱いすることはできない、と説明しても「訴えてやる」「おまえら何様だ」「こっちには弁護士を立てる金だってある」などなど……電話口でも暴言のオンパレードだった。

「自分が親にコロナをお持ち帰りしたくせに、どの口が言ってんだ、って喉元まで出かかったわ」

「まぁ、今は面会も制限されてますし、あの息子さんもご自身がコロナにかかって隔離されているから、そもそも会いにも来れないから心配だったのかもしれませんけど。それにしても……よく我慢しましたね……。先生」

「だろ? 俺、大人よね。とりあえず、榊、コーヒー淹れてくれる?」

 僕はサラダをつついていたフォークを置き立ち上がる。

「なんかさ、俺たちがこれだけいろんなところで制約を受けてるのに、勝手に飲み会に行って、勝手にコロナに感染した奴に、なんで偉そうにされなきゃなんないのか、理解できないよな」

「たしかに」

 インスタントコーヒーの蓋を開けると、香ばしい香りが鼻をくすぐる。マグカップにぱらりと粉を落とし、ポットのお湯を注ぐだけでいい。これで数分間の満足が得られるんだから、便利なものだと思う。

 僕はマグカップを那珂川先生に手渡し、ソファに戻る。

「サンキュ。榊」

 那珂川先生は湯気の立つマグカップに口を寄せ、一口啜り、言葉を続ける。

「なんかさー、やってらんないわ。日本って国民皆保険じゃん。安い金額で誰でも最善の医療が受けられる。だから、勘違いする奴が出てくるんだろうな。助かって当然、患者は神様。ほんっとにやってらんねぇよなぁ」

 日本は国民皆保険が謳われていて、どれだけ高度な医療を受けても、保険の範囲内であれば、上限額も設定されているから、実際に負担する金額は少ない。これが仮にアメリカであれば、医療費は驚くほど高額になる。お金がなければ、診察を受けることもままならない。

 日本の保険診療ではほとんど全ての人が平等だ。小さな負担で、分け隔てなく医療を受けることができる。逆に云えば、誰が一番で、誰が特別で、なんてそんなものはない。標準化された医療を等しく提供するだけだ。いっそ、アメリカみたいに、高い金額を払えば、それだけいい医療が受けられるのならば、すっきり、はっきりとするんだろうけれど。  

 さらに付け加えておくならば、コロナの治療は公費で賄われている。空床管理もコントロールセンターが主体となって行われているから、患者側も基本的に病院を選べないし、病院側も要請されれば患者を受け入れなくてはならない。

 大久保さんの息子の訴えはどれもあまりにも的外れで、ただ診療に当たる人間の心を逆撫でするばかりだった。ただでさえ、コロナ診療で疲弊し、やりがいを搾取され続けている現場の人間に取って、それは通常の何倍も大きな負荷となってのしかかる。

「たしか、あの息子さん、自分の母親を最優先にしろ、とも云ってましたよね……挿管のICで先生が電話されたとき」

「そうそう。テレビかなんかで聞いた程度のくせに、ECMOをつけろ、とか、母親には一番いい医療を受けさせろ、とか。一番も二番もねーっつぅの。そもそも年齢で適応外だわ」

 那珂川先生は白髪混じりの髪をぐしゃっとかきあげて、深いため息をついた。つられて僕もため息をつく。

「ああ……テレビを見ていると、ECMOが最善で一番の秘密兵器、みたいに思いかねないですよね……。画面映えするからなんでしょうけれど」

「あー、もうやってらんねぇわ。いっそ、会食で感染した奴は受け入れません、くらいすりゃあいいんだ。なんで、やめろって言われてることをして感染した挙句、えらそーにできるんだか。理解できんわ」

 そういえば、一昨日、HCUに居た患者が、食事がまずいと暴れて、勝手に帰ろうと部屋を抜け出す事件もあった。この人も会食で感染したどこかの社長さんだった。

 どうしてだろう。

 自分だけは特別、自分だけは大丈夫。そんな風にどうして思えるんだろう? 

自分は特別だ、自分を一番に診察しろ、患者は神様だ、と。中には「診察させてやるんだからありがたく思え」なんてことを云う人までいる。

権利ばかりを振りかざす、その浅ましさと醜さが、僕は苦手だ。

「僕も理解できないし……理解したくもないです」

 僕たちだって人間だ。

 目の前で苦しんでいる人がいれば、命の灯が今にも消えそうな人がいれば、助けたいと思うのは当たり前だ。でも、そんな風に「診察させてやるんだから感謝しろ」なんて云われて、「はい、そうですね」なんて思えない。僕の心が狭いんだろうけれど。

 かといって、日本では医師法で『応召義務』と云うのが定められていて、僕たちは診療を求められれば基本的には拒否することができない。どれだけ嫌な奴が相手だろうと、どれだけ理不尽なことを云われようと、だ。

 ああ、だめだ。

 思い出すと苦々しさが心の奥底に降り積もっていく。

 僕は俯いて唇を噛む。胃が、キリキリと痛い。そんな僕をチラッと見て、那珂川先生が肩を竦めて見せた。

 一度、ハッと短く息を吐くと、少しばかり怒りの色が薄らいだ声が、微かな笑い混じりに言葉を紡ぐ。

「んな顔するな。それにしたってよ、緊急事態宣言って、ゴジラが上陸したくらいの事態なんだぜ。知ってた?」

「えっ? なんですか? それ」

「ほらな。榊はシンゴジラ見てないと思ったわ」

 那珂川先生は、おかしそうにクックッと喉を鳴らしている。

「え、シンゴジラ?」

「映画見ろ! ゴジラはわかるだろ? あれのハイパーバージョンのいかついやつが、日本に上陸すんだよ。そんときにさ、政府が緊急事態宣言出すんだわ」

「へぇ……」

「つまりな、今、日本中、東京がゴジラに蹂躙されるくらいの事態になってんだってこと。命の選別なんてとっくに始まってんだよ。それなのに、そんな危機感が伝わらない奴ってどうなってんだかねぇ」

「まぁ、ゴジラは目に見えますけど、ウイルスは目に見えませんから……危機感を持ちにくいのかもしれないですね。目に見えればいいのに」

「おい、榊。それはそれでホラーじゃね?」

 いつのまにか那珂川先生の貧乏ゆすりは止まり、言葉の棘も抜け落ちていた。

「ったくよー、早くコロナ収まんねーかな。俺も飲み会したい。旅行行きたい。温泉もいいなー」

「そうですねぇ。飲食のお店もみんな大変そうですし。ほとんどの人もお店も、自粛要請をきっちりと守ってますもんね。行きも帰りも、ほんと、街の中、ガラガラですよね」

「おー。俺も含め、みんながそうやって我慢してるわけだしな。早く緊急事態宣言を切り上げてもらって経済も回さなきゃなんないんだから、落ち着いてもらわないと困る」

「いつ頃、落ち着くんでしょうね。一年……二年くらいかかるのかな」

「さあなー。もっとかかるかもしんねぇな。……と、コロナは兎も角、俺の方は落ち着いたわ。サンキュな。榊。愚痴聞いてくれて。マジであのおっさんが次来るときは警察か警備員か呼ぶっきゃねーな」

「あ、いや。話を聞くくらいしかできませんでしたけど。すっきりしたんだったら良かったです」

「やっぱさ、人と話すのって、大事だよな。話してるうちに、案外落ち着くもんだな」

「確かに。人と話すことですっきりすること、ありますよね」

 そう考えると、あの四日間、毎日電話をくれた藤堂に少しだけ感謝してもいいか、と思った。僕の中にある不平不満は、もしかすると日々、藤堂と喋ることで解消されていたのかもしれない、と思う。

病院にもよるのだろうけれど、僕たちのようなコロナを受け入れている病院では、同居していない家族や恋人との会食はもちろん、会うことも禁止されていることが多い。月岡も嘆いていたけれど、一緒に住んでいない恋人にこの数ヶ月会えないでいる人もいる。会いたくても会えない淋しさだけじゃなく、会って話して解消されるストレスの捌け口すらない。それはとても……辛いことで、徐々に生活を、心を蝕んでいくんじゃないか。

僕は、月岡のことが心配になる。

「先生。月岡、大丈夫ですかね?」

「どうだろなぁ。月岡だけじゃなくて、佐々もかなり参ってるし、何気にまりりんも狗田も最近イライラしてるしな。子供の学校とか保育園とかが休みだろ? 子供のいる家も大変だぜ」

「そうか……そうですよね。僕、一人だから、その辺のことまで頭が回ってなかったな」

「ほんっと、コロナのやつ、クソだよな」

「そうですね」

 那珂川先生の言葉に、思わず僕は笑ってしまって、口元を抑えた。そうだ。クソ、なのはコロナウイルスだ。コロナウイルスそのものじゃなくて、人を、誰かを憎んでも仕方ない。

「ま、榊はいつも通りの『クロ様』でいてくれ」

「え? なんですか?」

「浮世離れして優雅」

「……いや、全然そんなことないですけど。地べたを這いずるようにして生きてますよ。僕」

「そう見えないってことよ。ま、わかんなくていいよ」

 釈然としないまま、僕は頷く。

「さて、明日はECMO導入か。仕方ねぇとは云え、なんとかなんねえかねぇ。明日の朝来たら、あいつ、ケロッとした顔で抜管されてるとか、ねえかなぁ」

「そうですね。西くん……よくなって欲しい、です」

「俺らは俺らにできることするだけだけど、あいつ、俺らより若くて、いい奴で……。辛いな」

「……はい」

 よ、と掛け声とともに立ち上がると、那珂川先生はマグカップ片手にやってきて、僕の肩にぽん、と反対の手を一度載せ、シンクの方へと向かう。

「ま、頑張ろうや。仕方ねぇしな」

 そのまま、シンクにマグカップを置くと、ひらりと手を振り、そのまま那珂川先生はカンファレンスルームを出て行った。

 僕は俯いて溜息をもう一つだけついた。

 食べかけのサラダが、ローテーブルの上で干からびかけていた。




十三

 

西くんが死んだ。

 初夏の気配をほんのりと纏った陽射しは柔らかく、若葉は青々とその生を謳歌するように繁る五月。世界は生命の伊吹に満ち溢れていた。そんな季節の入り口に。

 ECMOを装着し、肺を休め、どうにか呼吸機能の回復をと必死で治療を行なってきたけれど、僕たちの願いは届かなかった。僕たちは無力だった。

 ECMOを装着してから十三日目だった。

 以前、月岡が云っていた血栓傾向が顕著になり、三十三歳とまだ若い西くんは広範な脳梗塞を起こした。それが契機だった。それから、あれよあれよと云う間に、西くんの容態は悪くなり、そしてついに、二度と目を覚ますことのない、永遠の眠りについた。

 脳梗塞を起こした時点で、仮に生き延びたとしても、意識のない状態から回復しない可能性が高く、ご家族からはこれ以上の延命処置はしないで欲しいと云われた。できることを全てしてでも救いたかった命は、僕たちの掌から零れ落ちていった。

 精悍だった顔立ちは、ECMOの所為で浮腫み、倍ほどに膨れていた。体重も恐らく十キロ近く増えていたんじゃないだろうか。

 あの日、挿管の前に見えた、少しやつれた笑顔が、僕たちの見た最後の笑顔になった。

 普通ならば、亡くなった方のご遺体は、ご家族に会っていただいてから、葬儀社の人が迎えに来て、そして病院から帰っていくのだけれど、西くんはコロナだったからそれも叶わなくて、荼毘に伏されお骨になってからご家族に会うことになる。

 日本人は宗教観の所為もあってか、肉体に対する尊厳を強く抱く傾向がある。魂の存在より、今ここにある肉体の存在の方が重いんだ。息子の最後に会うことができないご両親の気持ちを思うと、僕はやりきれなかった。いや、むしろ、最後に喋ることもできず、パンパンに浮腫んでしまい、面影すらほとんどない彼と会わずに済んでよかったのだろうか。それでも……やっぱり、会いたいと、僕なら思うんじゃないかな。

 僕だけではなく、救命救急科全員がこの新型コロナウイルス感染症のもたらした最悪のシナリオに打ちひしがれていた。

 西くんが旅立ったのは十六時過ぎで、荼毘に伏す都合もあって、翌朝までは霊安室に安置することになった。HCUの壁越しに、西くんの友人らしい研修医たちが涙を流していた。ブラインドが降りた部屋の中は見えないけれど、それでも友人の死を悼む彼らの姿に、僕は西くんがどれほど人に慕われる人物だったのかを垣間見た気がした。

 そして、……西くんの死亡確認を行なったのは、よりにもよって月岡だった。月岡は……心停止と対光反射の消失を確認をした後に、その場で泣き崩れた。人工呼吸器の音だけが響き、命を失った体の中、人工的に送り込まれる空気で押し上げられた胸だけが静かに上下していた。月岡は、泣き崩れるという言葉そのままに、大声で叫んだ後、西くんの遺体に縋るようにしてへたりこみ泣いていたと、死亡確認に一緒に入った後田師長がその様子を教えてくれた。

 声をかけることさえ憚られるほどで、一旦出てきたの、と死後の処置を準備しながら、ポツンと云った。

 救急外来に向かう途中で、僕はその言葉に月岡のことが気になったけれど、フルプリコーションでなければ入ることのできない室内に様子を見にいくこともできず「そっか」とだけ答えた。こんなときにかける言葉を僕は知らなかったから。

 命はいつか終わる。

 人は誰でも必ずいつかは死ぬ。

 けれど……。けれど。



 その日、どうやって家まで帰ったのか覚えていない。

 荷物を放り出してそのままの格好でベッドに倒れ込む。汚いな、と思ったけれど、体は起き上がることを拒否していた。重たい。心も、体も。まるで鉛の塊になったようだった。

 僕は埃っぽいベッドに突っ伏したまま、ポケットからスマホを引っ張り出す。カーテンも引かず、電気もつけていない部屋は暗くて、スマホの画面だけが明るく光っていた。

 電話の着信履歴を呼び出すと、そこにずらりと並んだ同じ番号を三秒だけ見つめて、僕は発信のボタンを押した。

 出なかったら出なかったでいい。

 でも、僕はいま、どうしようもなく藤堂の声を聞きたかった。灰色の重たい鉛に変じた心が深すぎる海の底まで沈んでしまう前に、体と心を回る毒を。たとえそれが不可避で解毒できないものだとしても。

 呼び出し音が五回鳴ったところで、聞き慣れた明るい声がした。

『くろすけから電話なんて珍しいね! どうしたの? お腹でも壊した?』

「……なんでだよ」

『もしくは怪我でもした?』

「してない」

『んー。よし。くろすけ、ちょっと待ってて』

 聞き返すより前に、電話がぷつりと切れた。一方的な質問が二つ。時間にして一分に満たない。仕事中だったのか、と僕はスマホを持ったまま項垂れた。

 こんなときだけ藤堂に救われようだなんて虫が良すぎるよな、と僕はベッドに寝そべったまま自嘲気味に笑った。自分の身勝手さと愚かさに嫌気がさした。そして、藤堂からもあっさり見放された自分自身を持て余す。

 医者になってから何人もの患者さんの死に立ち会ってきた。それでも……やっぱり慣れることなんてできない。しかも、亡くなったのが僕より若い、知っている人だ、というのは想像以上のダメージだった。

 指一本さえ動かすのが億劫で、このまま眠ってしまえたら楽なのに、頭はやけに冴えていた。遅効性の毒のように染み渡った『死』の衝撃に心が悲鳴をあげていた。

 両親に電話をすることも考えたけれど、それはなんだか違う気がした。うちの両親は揃ってクリスチャンだから、肉体と魂についての感覚は一般的な日本人とは恐らく違う。それに、西くんのご両親の気持ちを考えれば考えるほど、この『毒』を自分の親に伝えることは憚られた。

 ベッドに転がったまま窓の外をぼんやり眺めると、いくつもの家の窓から溢れる灯りが並んでいる。そのひとつひとつに、他愛のない、けれどかけがえのない日常が詰まっている。生きている灯り、生きている証。そして、西くんの部屋には二度と灯りはともらないんだ。

 ただいま、と家に帰り、灯りをつけることもなければ、誰かと食卓を囲みその日の出来事を語り合うこともない。あの団欒の光の中に、彼はもういない。柔らかな灯りが漏れるいくつもの窓を見つめ、僕は、失われてしまった若い命のことを思った。

 どれくらいそうしていたんだろう。電気もつけずに暗がりでベッドに転がったまま、僕の思考は何度も同じところをなぞっては立ち止まる。身体中に彼の死という毒が染み渡っていくようだった。

 涙の一粒も出てこないまま、身動きすることさえできずにいると、突然、玄関のベルが連打され、ピンポーンではなく、ピンピンピンピン、と鳴った。

 荷物が届く予定もないし、悪戯か嫌がらせか、とも思ったけれど、仕方なくノロノロと体を起こす。

 インターフォンの画面は、連打された所為か黒く戻ってしまっている。僕は溜息をついて、玄関に向かう。「はい」と低く返事をすると、今度はドアがどんどんどん、と叩かれた。

 うるさいな。聞こえてるよ。と、心の中で悪態をつきながらドアミラーから覗くと、僕は思わず「はぁ?」と声に出していた。

 ドアを開けるや否や、隙間からにょろりと手が伸び、僕の頭をこれでもかというほど撫で回す。

「やあ! くろすけ。お待たせ!」

「え、いや……おまえ、なんで」

 戸惑う僕をよそに、ひとしきり人の頭を撫で回した後、藤堂は手にした紙袋を掲げて見せた。

「くろすけ、三歩下がって! ていうか、停電? 俺んちは停電してないけど! ここだけ停電? あ、それとも電気止められてるの? くろすけ、間抜けだからなぁ」

 僕が後ろに三歩後ずさると、藤堂が三歩前に進む。藤堂なりに『ソーシャルディスタンス』を気にしているらしい。それに気づくと僕は、少しだけおかしくなってしまって、強張っていた頬が僅かに緩む。

 僕は藤堂に背を向けると、すぐに行き止まる真っ暗な廊下を越え、リビングダイニングに向かう。いつの間にか微かな夕暮れの気配さえ消え、窓の外は藍色の夜に沈んでいた。

 僕から二メートルほど後ろを、藤堂の足音が追いかけてくる。

 パチッと乾いたプラスティックの音がすると、暗闇が追い払われた。

「なんだぁ。つくじゃないか!」

 藤堂が手当たり次第に、玄関からリビングまでの間にある全部のスイッチを押して行く所為で、トイレもお風呂も廊下も、全部の灯りがついていく。

 あはは、と笑いながら僕からソーシャルディスタンスを保ったまま部屋に上がり込んだ藤堂は、リビングのテーブルにどさりと荷物を下ろした。

 僕はカーテンを閉めながら、オレンジの塊が紙袋の中身を取り出すのを見て、少し慌てる。

「藤堂、待て」

 待て、と云われて聞くような賢くて従順な犬とは違って、藤堂は賢いが少しばかりおかしい人間だ。待つはずがない。

 鼻歌混じりに台所に向かうと、食器棚をゴソゴソと漁り始める。

「とりあえず、ごはんにするといい!」

「や、藤堂。ダメだから。うち、いま同居している家族以外と会うのも食事も……」

「安心しろ! 俺はくろすけにごはんを与えたら帰るっ。何故なら、俺はくろすけを保護するって決めてるからね! それに見たまえ! この立派なソーシャルディスタンス。くろすけはそこでステイだぞ」

 不躾極まりないことに、人をびしりと指差し、藤堂は手にした紙製のパックを重ねてカウンターの向こうに消える。

「とりあえず、くろすけがなんだか死にそうな声してたから、俺はくろすけを助けに来たんだもん!」

 確かに助けて欲しいと思った。でも、緊急事態宣言下で、病院からも人との接触を避けるように指示が出ているのに……と、僕は戸惑う。

「……も、もん、じゃない。ダメなものはダメなんだ」

「俺は妖精さんみたいなもんだから、あんまり深く気にするな! 禿げるぞ! くろすけ。どうせ袋ごと渡したところで、君はそのままテーブルの上にでも放置するつもりだろう。お見通しなんだからなっ」

 僕は行動を見透かしたような藤堂の言葉に一瞬言葉に詰まり、それでもどうにか言い返す。

「どこの世界におまえみたいなでかくてオレンジ色をした妖精がいるんだよ?」

 事態をいまひとつ飲み込めない僕を尻目に、藤堂はシャツの袖を捲り、怪しげな節回しで歌いながら、大皿を出し、その上に調理された肉やら野菜やらを手際良くのせていく。どうやら、どこかの店でテイクアウェイしてきたものらしい。

 混乱、困惑、動揺。

 それなのに、だめだと拒みきれないくらい、僕の心は参っていて、藤堂に救われたいとどこかで欲している。藤堂はもう一度僕に指をさして「ステイ!」と云うと、大皿とスープカップを持ってカウンターから出てくる。

 皿に盛られた鮮やかな色彩は、キャンバスの上に初夏の息吹が描かれているようだった。藤堂作と思われるパンが最後に皿の上に添えられると、藤堂は少し考えるように腕組みをして、満足げに頷いた。

「ほら、くろすけ。ごはんだ! 食べるがいい!」

 テーブルの上に置かれたお皿は一つ。スープカップも一つ。どう見たって一人分だ。唖然とする僕にマスクから覗いた目だけがにっこりと笑みかけ、藤堂はポケットからスマホを出しながら玄関に向かい歩きはじめる。

「え? 藤堂?」

「ちょっと待ってねぇ。あ、くろすけもスマホを出してきてテーブルに置いてね!」

 なにがなんだかよくわからないまま、僕はベッドの上に転がったままのスマホをとり、食卓に戻る。と、藤堂の姿は消えていた。

 玄関を見にいくと、靴も消えている。

 嵐のようにやってきて嵐のように去っていったその姿を探していると、スマホが鳴り響いた。ビデオ通話を要求する画面には藤堂の名前が表示されている。僕は慌てて通話ボタンを押した。

「藤堂。おまえ、なにやってるんだよ」

『美味しいごはんをくろすけに食べさせにきたんだよ!』

 スマホの画面の中、薄暗いところにぼんやりと藤堂の顔が浮かんでいるのが見える。マスクも外しているところを見ると、あれは車の中なのか。

 僕はもう一度ぐるりと室内を見回してから、狐につままれたような気分のまま、云われた通り、一人分の食事だけが置かれたテーブルに戻る。

『はい! 手を合わせて、いただきます!』

 自分は車の中でペットボトルのお茶を飲みながら藤堂が笑う。

 柔らかな薄緑色をしたフリルレタスにパプリカの赤・黄・橙が鮮やかに映えるサラダにはブラックオリーブとゆで卵が添えられていて、ニース風のサラダを意識しているようだった。一方で分厚い豚肉を叩いて伸ばし、パン粉を付けて焼いたカツレツはナイフを入れるとサクッと音がした。藤堂の焼いたものだろうクロワッサンは相変わらず店のものと遜色ない出来で、手にするとバターがふわりと香った。

 一瞬、僕の心は死という毒から解放され、その目にも美しい食事を美味しそうだと感じる。けれど、次の瞬間にはまだ若く未来のある彼の最後の笑顔が甦り、新鮮な野菜も色褪せたように感じ、手が止まる。そんな僕をチラリと見て、藤堂は鼻を鳴らした。

『コロナはふざけんなだけど、いいこともあるんだよ。これ、うちの近くのビストロがお持ち帰りを始めたんだ。すごく美味しいから、ちゃんと味わって食べてあげてね。くろすけに食べさせるためにセッティングしたんだし!』

 明るい部屋の中、美味しそうな香りのする食事。それを準備した当の本人はここにはおらず、小さな画面のなかだ。真っ暗な部屋で、心も体も押しつぶされそうになっていた先刻までの僕。ほんの数分、ものすごい勢いでやってきて、去っていった藤堂。

 藤堂は小さな画面のなか、面白そうにこちらを眺めている。こんな画面越しでも、一人で食べる食事ではなく、誰かと食事をしているような、そんな温かい気持ちが僕の心をふわりと撫でる。

「おまえの食事は?」

『俺の分もあるよ。車の中だとワイン飲めないじゃん? だから帰ったら食べるんだ』

 藤堂はいつもの調子で、僕の返事なんて待たずにペラペラと喋る。

『お皿の上、綺麗でしょ。このまえから、ラッキーカラーについて検証してるんだけどさ、ついでに色彩学についてもちょっとだけ勉強してみたんだよね。なんと、アリストテレスの時代から、色彩の与える影響については、考察がされてたみたいだよ。青いものは食欲を減退させる、なぁんて云うのも有名な話だよね』

 いつにも増して饒舌なのは、僕への配慮なのか、と一瞬頭を過ったけれど、いや、そんなはずはない、と思い直す。

 頭の奥はまだ麻痺したようになっているけれど、藤堂の勢いに押し負けたとは云え、食事を食べ、美味しいと感じていた。それは、僕が生きていることを嫌というほどに実感させた。

 藤堂は色と本能の関係について、楽しそうに語っている。僕はどこか上の空で、その話を聞くともなく聞きながら、一口大に切ったカツレツを口に入れた。

 暖かい食事。しっとりと柔らかく美味しい肉、カリッとしたパン粉の食感。正しく美味しい食事。久しぶりに食べた食事らしい食事に、僕は自分が生きているのだ、と云うことを痛感していた。

 現金なものだ。

 つい先刻まで西くんの死の重さに喘ぎ、いまにも溺れそうで、食事なんてとんでもないと思っていたはずなのに、今、こうして食事を食べている。藤堂のペースに巻き込まれた、だなんて体のいい理由までつけて。

 カツレツの最後の一切れを食べ終え、ごちそうさま、と両手を合わせると、藤堂も画面の向こうで両手を合わせる。おまえは食べてないじゃないか、と云うより早く、藤堂が「さて」と再び喋り始めた。

『それじゃあ、ここからはくろすけの告白タイムだ。お腹いっぱいで眠いなら別にいいけど』

 にっこり、と辞書を引いたら用例として出てきそうな笑顔を僕に差し向けた藤堂は、上に向けた掌を僕に向け、さあ、どうぞ、と促す。食事で満たされた所為で、冷たい海中を漂っていた僕の心は、波打ち際へと流されてきていた。僕は恐る恐るそれへ手を伸ばすと、聞いてもらいたくて、でも話すことも躊躇われて、とはいえ一人で抱えるには重すぎた死の毒をつまみ出した。

「……西くんが、亡くなったんだ」

 つまみ出した真っ黒な毒を、僕は先刻まで鮮やかな色に彩られていた食卓の上にポツンと落とした。落とした途端に、僕の胸はあの鉛のような重苦しさを思い出す。

『くろすけのところの研修医だったね。たしか』

「うん。酔っ払いのヤカラの対応をしてコロナに感染した子だよ」

『ふぅん……でも、若かったよね? 基礎疾患があったの?』

 頷くと、藤堂はもう一度「ふぅん」と相槌を打つ。

『レアケースだね。うちに回ってくるご遺体にも稀にコロナの人がいるけど、そんなに若い人は今のところ当たったことがないよ。……それでくろすけはそんなまっくろくろすけになって、俺に電話をしてきたの?』

 もう一度頷く。

「まだ三十三だよ。MRから再入学して医者になったところだったんだ。これからやりたいことだっていっぱいあったはずなのに。研修だって一生懸命やってたんだ。それなのに……なんで彼なんだ? 会食で感染した六十代の人だって助かったし、息子から感染した八十代の人だって助かった。どうして……どうして彼が死ななきゃならなかったんだ?」

 一度口にしてしまうと、堰を切ったように言葉が溢れ出した。俯くと、テーブルの上に涙がぽとぽとと落ちた。

 藤堂はそんな様子をただじっと、いつもと同じ面持ちで聞いている。僕はそれに甘え、心を蝕む毒を唇から吐き出していく。

 那珂川先生の言ではないけれど、人間は社会的動物で、こんなとき、誰かの存在が、誰かと言葉を交わすことが、救いになるんだと僕は痛感していた。あんなにも重く、指一本さえ動かすのが億劫で、どうやってこの水底から這い上がればいいのかと途方に暮れていたのが嘘のように。

 僕の話を最後まで黙って聞いてから、画面の中の藤堂は一度目を閉じ、ふぅ、と息を吐いた。

『人間ってさ』

 藤堂の低い声は、いつも明るく弾んでいるけれど、時々ゾッとするほど鋭く冴え冴えとする。僕は、切り込むようなその言葉に静かに頷く。

『不思議だよね。例えば、占い。この色が今日のラッキーカラー、って云われると、それだけでいいことがあるような気がしちゃう。色彩学的には、それが人に不安をかき立てるような色だったり、興奮させるような色だったりしても、だ。そう考えると、本能を凌駕するのが感情だってことになるよね』

 足を組み椅子の背もたれに体を預けると、藤堂は肩をひょいと竦めてみせる。

『少しポジティブな見方ができるだけで、物事の捉え方も変わるし、なにかを判断する時の選択も変わる。ラッキーカラーを身につけているからいいことがあるはずだ、という思いが、現実にいい効果をもたらすんだ。まあ、目下検証中だけどね!』

 ふふん、と偉そうに顎を持ち上げて笑い「で」と藤堂は更に言葉を繋げる。

『命の重さはみんな同じだ、なんて云うけれど、実際は違うよね。俺はその若者のことを知らないから、君が感じるほどの痛みを感じることはできない。勿論、だからと云って、死者の尊厳を軽んじているつもりはないよ。そうじゃなくってさ、知らない人が死んだって、くろすけはそこまで落ち込まないだろう? つまり、君が今こーんなに落ち込んでドン底丸出しになってるのは、くろすけにとって、そいつは他人じゃなくて、少しでも心を砕くような存在だったってことさ。不思議なものだよね。感情には重さがあるんだ』

「それは誰だって、知り合いが死んでしまったらショックを受けるだろう?」

『俺にはよくわかんないな。俺にはくろすけしか友達っていないし。でも考えてごらんよ。仮に知り合いだとして、殺してやりたいほど憎い奴が死んだとして、君は今みたいに落ち込むか? 落ち込まないだろ? 人によってはザマアミロと思うだろうね! もっと極論で云うと、だ。戦争や宗教なんかで相手を憎むように教えられてきて、その相手が死んだとして、じゃあ人は落ち込むだろうか? 或いは、稀代の大悪人だ、と教えられてきた相手が死んだ時に、人は落ち込むだろうか? 答えはノーだ』

「……その喩えは悪趣味じゃないか?」

『そぉう? 上手いこと云ったつもりなんだけど!』

「どこがだよ……」

『ま、その辺はさておいてさ。つまりね、くろすけが落ち込んでいるのは、その人が死んだっていう事実以上の重さでその「死」を捉えているからさ。そのことを理性的に理解すれば、くろすけの抱えている辛さは少し楽になるんじゃないかと思うんだよね』

「おまえの云うことはわからなくはないけど、それでひと一人の死の重さが軽くはならないよ。僕はやっぱり、彼の死が許せない」

『許せなくても、くろすけが許さなくても、死は不可逆だよ。ゾンビにも幽霊にも天使にもなれないんだ』

 僕は俯く。頷くことはできなかった。

 わかっている。わかっているんだ。西くんが死んでしまったという揺るぎない事実は変えようもないし、それは僕にとってどれだけ大きく重たいものだったとしても、一つの「死」だって云うことは。

『いいよ。くろすけはそんな風に割り切ることができる奴じゃないもん。くろすけのいいところでもあり、悪いところでもある。でもね、俺はくろすけがまた壊れちゃうのはイヤなんだ。だから全力で、どんな屁理屈をつけてでも、俺が君をそこから引きずりあげてやる』

 そっと目を上げると、小さなスマホの画面の中に藤堂の笑顔があった。

 うふふ、と笑う藤堂に釣られて、僕も少しだけ笑ってみた。泣き笑いの変な顔になっていたんじゃないかと思う。

「あ、藤堂。そう云えば、なんでいきなりうちに来たんだ?」

『えっ? 今更?』

「いや……僕、てっきり仕事中に電話をかけちゃったかと思って……」

『だって、普段電話なんてしてこないくろすけが地の底から響くような声で電話してきたって云うことは、君の一大事ってことでしょ? そこは助けに行かなきゃって思うじゃん?』

「……思わないだろ……普通」

『えーっ。思うよ。俺、妖精さんだもん』

「はぁ?」

 藤堂に救いを求めたのは間違いじゃなかった。痛いよ、助けて、と訴えていた僕の心に、でかい図体をした妖精は、解毒剤を塗り込んでいった。僕は、ほんの少しだけ笑う。折角拭った涙が、またこぼれそうになって、僕は慌てて瞬きを繰り返す。

『なにがあったかまではわからなかったけど、くろすけが俺に電話で助けを求めるくらい精神的に追い詰められてることは推測できたからさ! だから、とりあえず来ちゃった』

 可愛い女の子が「来ちゃった」と云うような軽さで云うと、藤堂はいつもと同じように笑った。

 その笑顔に、僕は首を縦に振る。

西くんの死をただの死ではない猛毒に変えたのは僕自身で、そして、その毒の所為で溺れそうになっていた僕を救ってくれたのは藤堂だった。僕は、少しだけ軽くなって、少しだけ痛みの和らいだ心を抱えて、ありがとう、と藤堂に云った。





十四


 翌日、僕は鳴り響くスマホの音で飛び起きた。

 画面に表示された時間は八時を少し過ぎたところだった。

『クロ様? おはよう。楠だけど』

 スマホから飛び出てきたたのはまりりんの声だった。今日は休み……だと思っていたのは、僕の勘違いだったか……それとも、またなにかあったのか。このところ、椛谷が急に辞めたり、西くんが亡くなったり、とどうにも気持ちの落ち着くいとまがない。

 まりりんの声は固く強張っていて、寝起きの僕はその冷たさに目が覚める。すぅっと息を吸い込む音が聞こえる。

一瞬の躊躇い。そして。

『落ち着いて聞いてね。狗ちゃんが、死んだ』

 耳から入った音が、意味を持った言葉として認識されるまでの空白。僕は、知らずに息を止めていたようで、「え?」と聞き返すのと一緒に大きく息を吐き出した。

「事故ですか? 病気ですか?」

 まるで救急隊みたいに尋ねる僕にまりりんの硬い声が答える。

『違うの。狗ちゃん、殺されたみたいなの』

 語尾が震えていた。

 僕は、ベッドの上に座り込んだまま、返す言葉を失っていた。



 なにがなんだかわからないまま着替えて車に飛び乗り、病院に向かう。

 波崎中央医療センターのロータリーには、何台ものパトカーが赤色灯を回し、停まっていた。そこに見覚えのある車が紛れ込んでいる。

 藤堂だ。

 藤堂がいる、ということは、監察医が呼ばれている、ということとイコールだ。つまり、異状死体がある、ということになる。

 狗田の死、が俄かにはっきりとした輪郭を持つ。

 駐車場に車を止め、足早に正面玄関に向かう僕に、声をかける人があった。

「あれ? あのときのセンセイじゃないですか? 榊センセイですよね?」

 僕は足を止めるとその声の主を見つめた。

 膝の抜けたグレーのズボンに腕まくりしたアイロンのあたっていないシャツ、埃まみれの合皮の靴。以前、とある事件でお互い顔見知りにならざるを得なかった刑事で世良という。短く刈り上げた髪の毛といい、筋肉質で太い首といい、いかにも警察官、といったいでたちだ。僕はこの押し付けがましく、相手を疑っていることを隠そうともしない警察という人種が苦手だった。

「なんだ、センセイ、今はここの病院にお勤めですか?」

 世良の言葉にどう答えようかと悩んでいる僕を衝撃が襲った。

「くーろーすーけー。よかったぁ。つやつやしてる!」

 ぎょぇ、と鳴き損なった蛙のような声をあげたのは、突然襲いかかってきたひょろ長い白衣の生き物にシャツの後ろ襟を掴まれて、首が締まった所為だ。

「は、離せ。藤堂。死ぬ。窒息する」

「ああ! ごめん、ごめん。思わず猫を掴む勢いで掴んじゃった」

 悪意の「あ」の字もない笑顔で藤堂がひらひらと手を振る。

「ソーシャルディスタンス。離れろよ」

 しっしっ、と手で追い払うと、藤堂は後ろに三歩だけ下がった。寝起きばなにもたらされたバッドニュースと、唐突な藤堂の襲来に「昨日はありがとう」の一言を云うタイミングを失う。藤堂はと云うと、三歩僕から離れたものの、その場でとんでもない提案をする。

「あははー。ごめんごめん。あっ、それより、世良さん。くろすけってば、関係者のはずだし、一緒に行こうよ! 死んだのって救急の人だよね?」

「は?」

 お断りだ、と口を開く前に「またですか」と世良が半笑いでめんどくさそうに首を捻るのが見えた。

「だって、俺たち病院の中のこと、全然わかんないし、一緒に行くほうがいいじゃん」

「そっちがよくても、僕はよくない。上司に呼ばれてる。急いでるんだ、一応」

「えー。どうせ同じ理由で呼ばれてるんだから、一緒に行こう」

「理由、ってそっちは仕事だろ。こっちは……」

 抗議する僕の言葉なんてどこ吹く風で、藤堂は先に立ってさっさと歩き出す。

「急いでるんなら、俺たちも急がなくちゃ、ね。はい、行くよ。世良さんも!」

 鼻歌こそ歌わないまでも、大股で軽やかに歩を進める藤堂は、このところ見慣れてきた頭のてっぺんから爪先までオレンジ色で、かろうじて白衣だけは羽織っている。この男がこれから不審死のご遺体の検案をするなんて、誰が想像するだろう。

 病院の正面玄関にも警察の姿があった。自動ドアが開くと同時に、三人の警察官の六つの目が一斉に僕たちに注がれる。居心地の悪さに目を逸らす僕とは対照的に「おはよう」と愛想良く彼らに声をかける藤堂、それに鷹揚な様子で手をあげる世良……と、三者三様に彼らの前を通り過ぎ、救命センターの入り口に辿り着くと、ミシュランのマスコットによく似た……こちらも記憶にある……大柄な若い刑事が手を挙げるのが見えた。

「世良さん、藤堂先生、ここです」

 彼もまた、僕に気がつくと、少し驚いたような顔をする。確か名前は細井だったか。

「センセイ、今こちらで働いていらっしゃるんですか?」

 その問いかけに渋々頷くと、あちゃー、とでも云うようにミシュラン……いや、細井刑事は僕を憐れむように見た。

「センセイも波乱の星の下に生まれてるみたいですね」

 全く嬉しくないその評価を肩を竦めてやり過ごし、ガラス製の大きな自動扉の前に立つ。扉には『救命救急センター』と記されている。 

入り口のすぐ右手にはMRI室が、MRI室との間には『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた非常扉のような鉄扉がある。普段は関係者が出入りする時以外は閉ざされている扉が、今は完全に開けられ、そこに見覚えのある立ち入り禁止の赤いテープが貼られている。チラリと覗いた当直室前の廊下には鑑識業務を行なっているらしい作業服を着て白いキャップを被った人影が三つばかり見えた。

「ふぅん。あっちが現場?」

 藤堂がひょいと奥を覗く。

「ええ、あの奥の当直室が現場です。なかなかすごいことになってますよ」

「おい、細井」

「あっ、すんません。センセイもいらっしゃったんでした」

 余計なことを云うな、と世良から小突かれた細井が大きな体を丸める。

「センセイもついてねぇよなぁ。いや、むしろ憑いてるのかもしんねぇか」

 ぼそりと呟いた世良を睨むと、悪びれる様子もなく、にたりと笑う。

入り口のインターフォンを押し、少し待つと女性の声が「はい」と平坦な声で応えた。救命センターに入るには、このインターフォンを押し、中から開けてもらうか、職員しか知らない暗証番号をテンキーで入力するしかない。

「この関係者入り口は普段はどうなってるんですかい?」

 今は開け放たれている鉄扉を指差し、世良が僕に尋ねる。こう云うところは、ベテランの刑事らしく抜け目がないな、と僕は妙なところに感心しながら返答する。

「ここは鍵があって、普段はそれで開けないと出入りできないんです。内側からはこう、回す鍵なんですけど」

 僕の返答に世良が溜息をつく。

「病院ってのは、どうしてこうもごちゃごちゃとしてんだか。で、このえむあーるあいっていうのは?」

「核磁気共鳴画像法って云って……組織によって磁気の歪み方が変わるんですけど……」

「要は体の輪切りが細かくわかる装置だよ!」

 横に立っていた藤堂がにゅうっと顔を覗かせて僕の説明を遮る。

 内側からロックが解除され、自動扉が開き、待合室前の廊下に入ると、奥から後田師長が足早にやってくるのが見えた。

「おはようございます。あら? 榊先生もご一緒だったんです、か?」

 そう云いながら、大きな目を更に見開いて、オレンジ色をした白衣男をまじまじと見つめている。それはそうだろう……。こんなおかしな生き物が突然目の前に現れたら誰だって驚く。

「こちらが救命センターの師長、後田さん」

 僕が紹介すると師長さんは「よろしくお願いします」と頭を下げたが、その間も藤堂をじっと見つめたままだ。

 その視線に気づいているのかいないのか、それともそんな風に見られることに慣れっこなのか、当の本人は動じる様子もなく、いつもの調子で微笑む。ボサボサに伸びた癖っ毛の所為で目元は隠れて見えないが、あの目は不謹慎にも輝いているはずだ。世良も慣れたもので藤堂が口を開く前に仕事の話を餌に誘導する。

「藤堂先生。まずはご遺体を見てもらいましょうかね」

 それを契機に彼らとは距離を取るべく、一歩下がって僕は回れ右をする。

「じゃ、僕は呼ばれているんで」

 警察と藤堂の背に声をかけ、救命センターの奥に向かおうとすると、藤堂が勢いよく振り返る。

「えー。くろすけ行っちゃうの? じゃあ、帰りは一緒に帰ろうよ」

「……い、や、だ。僕も車だし、このコロナ禍、同居の家族以外とは……」

「ちぇ。くろすけのケチ!」

 頭を抱えたくなるような子供っぽい言い草に僕は溜息をつく。

藤堂はどこまで行っても藤堂だ。

呆然としていた後田師長は目を白黒させながら、この混沌を撒き散らす男を見上げ凍りついている。

「すいませんが、看護師さんは一緒に来てもらってもいいですか?」

 藤堂の背を押し案内する細井刑事が肩越しに後田師長に声をかけると、彼女は弾かれたように「はい」と返事をし、三人の後を追いかけていく。僕は四つの背中を見送ると、カンファレンスルームへと向かった。



 カンファレンスルームには、救命救急科の医師『ほぼ』全員が揃っていた。ほぼ、と云うのは、勿論。死んだ狗田以外、という意味だ。

 普段は夜勤専門で働いている田奈上先生と杉本先生も来ていて、週三回の日勤でしか働いていない僕は、帰ってきてから初めて顔を合わせた。それに……。

 狗田とやり合って突然辞めてしまった椛谷も電子カルテ前に腰掛けていた。以前同様、完璧なメイクをし、以前とは違いきっちりと巻いた長い髪を垂らしている。椛谷は、長く伸ばして春らしいパステルカラーに染めたネイルの指先をマスクの口元に当てた。

「あんな奴、死んでよかったじゃないですか。ねえ? 榊先生。先生も、あの人のこと嫌いだったでしょ?」

 辛辣な言葉を笑顔で告げる椛谷のパステルの指先が、僕にはまるで毒の滴る魔女の尖った爪のように見える。

「いや……別に僕は……」

「ごめんなさい、偽善者の榊先生にはそんなこと言えっこないですね」

 反応を面白がるような粘着質な眼差しから僕は目を逸らす。そう云えば、僕は元々、彼女が苦手だった。気の強さも、利用できるものはなんでも利用するような計算高さも。僕が来るまでに周りの人ともやり合ったのだろう。空気がどことなく刺々しい。

 椛谷から逃げるように僕は部屋の真ん中あたりの椅子に腰を下ろす。パイプ椅子がギィッと嫌な音を立てた。

 それを合図にしたかのように、凍てついた雰囲気を軍曹の低い声が叩き割った。

「全員揃ったな」

 軍曹、と呼ばれるに相応しい厳しい眼差しが室内をぐるりと見渡し、全員の顔を確認する。

「端的に伝える。狗田が死んだ。恐らく、何者かに殺されたと思われる」

「バチが当たったのよ」

 いい気味だと言わんばかりに椛谷が茶々を入れる。それには答えず、軍曹は続けた。

「発見されたのは今朝八時前。血ガスの結果を看護師が報告しようと電話したが、何度かけても出ない、と佳野に報告があったのが七時半。佐々は救急外来でCPA対応中だった。看護師と佳野の二人でトイレと当直室を回り、第一当直室で狗田が死んでいるのを発見した。これで間違いはないな? 佳野」

「はい。古谷さんから『狗田先生がPHSに出ない』と報告を受けたので、一緒に探しに行ったんです。三十分以上、何度かけても出ないのは流石におかしいと思ったので。第一当直室だけ鍵が閉まっていて、ドアをノックしても返事がなかったんで、夜間警備員室に行って合鍵を貰いに行きました。当直室の前のところで、ちょうどまりりんが出勤してきたので三人で一緒にドアを開けました」

 佳野先生は、青ざめた顔で覇気なく答え、深々と溜息をついた。釣られたように軍曹も溜息を吐く。

「狗ちゃん、かなり執拗に刺されてて」

 まりりんがぼそりと呟く。那珂川先生は両手の指を手持ち無沙汰に組み合わせては解きながら、まりりんのつぶやきに問い返した。

「……そんなに?」

「うん。パッと見ただけで死んでるってわかるくらい」

「いい気味」

 みんなの沈鬱としたムードとは相容れない笑み混じりの椛谷の声が重く澱んだ室内に響く。

「おい、椛谷! 流石に言い過ぎだろ」

 椛谷とは元々同期だった月岡が、口さがない言葉に苛立った様子で声を荒げた。月岡は昨日会った時より、十も歳をとったんじゃないか、と思うくらい疲れた顔をしていて、目元には隈が浮かんでいる。

 僕ですら西くんの死にあれだけのショックを受けたんだ。元々仲が良かった月岡が受けたダメージは計り知れない。

「みんな疲れているところ悪いんだが、警察から全員を集めるように指示があった。このあと、それぞれ事情聴取を受けることになると思う。悪いが協力してくれ」

 室内の空気が一段と重くなる。

 そのとき、パタパタとナースシューズの足音が近づき、後田師長が厳しい表情で入ってきた。

「軍曹。すいません。ちょっとどなたかの手を貸していただけません? 警察の方が、レッドゾーンに入りたいって云うんですけど……」

「レッドに? なんで?」

「そこにドアがあるからだそうで……」

 その言い草に僕はなんとなく引っかかる。

「……それ、もしかして……オレンジの……」

「ええ、榊先生のお友達の」

 先刻のやり取りを思い出したのか、目元がおかしそうに緩むのを見て、僕は喩えではなく頭を抱えた。

 藤堂だ。

「……すいません。僕の知り合いです。あんなだけれど法医の医者で……。僕が行ってもいいですか?」

「任せた。そのお友達がおかしなことをしないように気をつけてくれよ」

 藤堂の制御が僕ごときにできるとは全く思えなかったけれど、僕は頭を下げると後田師長の後を追った。





十五


 救命センターから一旦出て、開けっ放しになっている『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた鉄扉へと向かう。

 赤いテープの前に立った制服警察官は、不審げな眼差しを僕に向けたが、草臥れた合皮の靴にシューカバーをつけ、白いキャップを被った世良が廊下の奥から小走りにやってくると、テープの端を捲って中へ入るよう促された。

「ああ、すんませんね。センセイ。いつものことなんですけどね……藤堂先生が……」

「あっ! くろすけ! ね。だからこっちに最初から来ればよかったのに〜」

 本人と同じくらい自由な伸び放題の癖っ毛は世良とお揃いの白いキャップに納まっているが、藤堂が頭を振るたびに右に左にふわふわと揺れる。

「おまえなあ、ここは病院なんだ。しかも、いま、救命センターでは中等症と重症のコロナ患者を受け入れているから、ゾーニングしている。スタッフだってフルプリコーションでなければレッドゾーンには入れないし、レッドから出る時は、プリコーションの着脱にも注意が必要なんだ。解剖のときだって、感染防御してるだろう?」

「うん! 俺たちも解剖の時は、コロナだってわかってたらドライでやるんだよ」

 世良に手渡されたシューカバーをつけ、頭にキャップをかぶると、規制線の奥に向かう。

 東日本大震災以降、病院や官公庁では率先して節電が行われたが、今も、スタッフ専用通路などは最低限かそれ以下の照明しか設置されていない。この病院は東日本大震災より二十年以上前に建て替えられているからこのスタッフ用の通路にも蛍光灯をつけるソケットは三つあるが、一箇所にしか蛍光灯は設置されていない。一番奥はガラスの非常扉になっていてそこからの採光があるから、昼間に至ってはその蛍光灯すらつけないままだ。おかげでスタッフ通路は常に薄暗い。

 今日は第一当直室と第二当直室の間にある蛍光灯が珍しくついていて、いつもよりはだいぶ明るく見える。第一当直室の前ではまだ警察の鑑識官と思しき人たちが床や扉を丁寧に調べているところだった。

 第一当直室の扉は閉められていたけれど、その奥には狗田の遺体がまだ眠っている……そう考えると、胸がずきんと一度鳴った。

「例えば、このシューカバーをするのだって、キャップをかぶるのにだって、手袋をするのにだって意味があるだろう?」

「うん。むかーし講義で習ったよね」

 僕の記憶にはないけれど、藤堂のことだから覚えていたのかもしれない。興味津々、といった様子の藤堂はあちこちを見回しては落ち着きのない動きをしている。容疑者に藤堂が含まれているならば、誰が見たって一番怪しい動きをしているのは藤堂だろう。が、彼は容疑者ではなく監察医だ。

「わかったら、僕が指示しながら一緒に入るから。世良さんもそれでいいですか?」

「警察としても中の様子は見せてもらわんと困るしなぁ。なんだ、そのプリントなんたらってのは、そんなに面倒なんですかね?」

「プリコーションです。感染に対する防護のことですよ。……きちんとできていないと、感染することもあります。コロナは、接触感染もあるって云われてますし、脱ぐときは特に気をつけてください。それから、物を触った手で顔……目や鼻や口を触らないように気をつけてください」

「お、おう。そうか。そうだな……この向こうに、コロナの患者がいるんだよな」

 世良の小さな瞳が僅かに落ち着きなく揺れる。

 それはそうだろう。誰だって……コロナが怖い。未知の感染症。基礎疾患やリスクのある人間にとっては致死的ともなる病。恐れるなという方が無理だ。

 後田師長の許可は取ってきてある。……というより、師長に頼まれて来たわけだから、彼らをレッドゾーンに案内するのが僕の仕事だ。

 手術室同様、足で蹴ればセンサーで開く自動扉を開けると、右手には更衣室、左手には器材庫がある。器材庫は本来、ナースステーションから通路を通って、そのまま入ることも、こちら側のスタッフ通路から直接にも入ることができたのだけれど、ゾーニングのために現在は更衣室前の扉とスタッフ通路側の扉には鍵がかけられ、通行できないようになっている。

 更衣室は元々はリネン室だった部屋で、足で開ける自動扉はついていないため、右手の肘を引き戸の取手に引っ掛けてドアを開ける。

「入ってください」

 促すと物珍しそうにキョロキョロと周りを見回している藤堂と、不安げな様子を覗かせた世良が順に中に入る。大の男が三人も入ると更衣室は随分と狭っ苦しく感じられた。

 僕は、スクラブ一式にN95マスクとフェイスシールド付きの不織布マスク、ビニール手袋を二セット、ビニールの防護衣を二人に手渡す。

「着るときはそれほど心配はいりません。まず、その紺色の服に着替えてもらっていいですか? 患者さんに直接接するわけじゃないんで、それほど心配はいらないと思うんですけれど、私服だと衣類にウイルスが付着する可能性もあるんで、念の為」

「わぁ。くろすけとお揃いだ」

 満面の笑みでスクラブを着た藤堂はひょろりと縦に長いせいで、スクラブのズボンからくるぶしが丸見えになっている。

 ウイルスや細菌は床に付着することも多いのだけれど、不幸中の幸いで、今日はシューカバーをつけているからこれでいいだろう。

 着替えた衣類を清潔な物品が置かれている棚の上に置き、次はフルプリコーションだ。

「最初に一旦、キャップを外して、N95マスクをしてください。それからもう一度キャップをかぶってしまっていいです」

 解剖の時にも着用しているのだろう藤堂は案外と手早くマスクをつけ、キャップをかぶりなおす。僕ははみ出していた藤堂の髪の毛をキャップの中に押し込みながら説明を始める。

「ビニール手袋を一枚つけてから、防護衣を着てください。親指を通す穴があるんで、そこに親指を通して。防護衣の後ろにある紐を適当に括ってください。脱ぐときに紐のところは千切るから、固結びでもなんでもいいです」

 手袋をした両手で防護衣を広げた藤堂は、その水色の安っぽいビニールを広げ、しみじみと呟く。

「こんな薄っぺらいんだね。解剖用のやつの方がしっかりしてるかも」

「資材が不足し始めてから、看護師さんが処置に使っていたものを使うようになったから……。元々は個包装のもっと厚手のやつだったんだけどね」

「そっかぁ。そう云えばテレビでどっかの県でゴミ袋で代用して、ってやってたっけ」

「まぁ、そこまで切羽詰まってないのが救いだけれど」

 二人が防護衣をつけ終わるのを待ち、続きだ。

「そうしたら、目からの感染もあり得るんで、このシールド付きマスクをN95の上にしてください。最後にもう一枚手袋をつけたら完成」

「こ、これでいいんですかね?」

「あっ、世良さん似合ってる!」

 こんな格好に似合うもへったくれもあったもんじゃないだろう、と心の底で毒づき、世良の防護衣の裾をぎゅっと下に引っ張って伸ばす。

「ああ、ありがとうございます。センセイ」

「警察の方達にリスクを背負っていただくのは心外なので、ドアの開け閉めは僕がしますね。世良さんと藤堂はなるべく周りのものに触らないようにしてください。ここを出るとすぐにレッドゾーンです。通路の真ん中に赤いビニールテープが貼ってあるんで、それよりナースステーション側には行かないようにしてくださいね。そっちはイエローゾーン。フルプリコーション以外の人も出入りするエリアになるので」

「はいっ!」

 藤堂が両手を胸の前で組み合わせ、優等生のような顔をして返事をする。実際に成績だけはよかったはずだからあながち間違ってはいないが。

「それから、患者さんの部屋には絶対に入らないでください。患者さんのプライバシーもだけれど、このレッドゾーンに面した部屋の患者さんは全員、コロナの患者さんなので」

「わ、わかりました」

 藤堂は遠足前の子供のように落ち着きなく、一方で世良は緊張のせいか右手と右足が一緒に出ている。

「じゃ、行きましょうか」

 僕はもう一度更衣室のドアを腕に引っ掛けて開け、レッドゾーンの手前にある自動ドアのセンサーに爪先を差し入れた。

 一見、なんら変わりのない病室の引き戸が奥に向かって五つ、左手には器材庫の扉と合わせて四つ。入り口はどれもピッタリと閉ざされ、中の様子を観察するための通路側の窓にはブラインドが下されている。

 唯一、誰もいないHCU1の部屋だけは、ブラインドが上げられ、がらんとした真っ暗な室内の様子を窺うことができる。

「手前から、HCUの1から5、左側の器材庫の奥が手前からICUの1から3になります。本来なら、ICUの方がより重症度の高い患者が収容されるんですけれど、重症のコロナ患者が増えてしまって、ICUの三室と、HCUの1から3が挿管患者、ICUの1とHCUの1でECMOを回していました。昨日、HCUの患者さんが亡くなったので、いま、HCU1は空室です」

 そう、ここは西くんの部屋だった。昨日、僕が帰るときにはまだこの部屋で覚めることのない眠りについていた。霊安室が空いていなくて、朝、この部屋からご遺体を移動したそうだ。今は清掃、消毒をして、ここから七十二時間は基本的にはこの部屋を使用できない。

「中を見せてもらうことはできますかね?」

「やめておいた方がいいかと。この部屋は陰圧個室ではないところを、今回コロナ患者が増えて受け入れられる部屋を増やさなくてはならないので、急遽ゾーニングして使えるようにしたんですが、オゾンや紫外線で使用後の消毒をするような設備もないし、七十二時間は使用できないんです。つまりは……感染のリスクがあるので、立ち入らない方がいい」

「はぁ……で、その陰圧個室ってのはなんなんですか?」

「部屋の中の方が外よりも気圧が低くできる部屋で、結核みたいな空気感染する病気は陰圧個室で管理するんだっけ?」

 両手を胸の前で組み合わせたまま藤堂が可愛らしく首を傾げ、僕の説明を補う。可愛らしい仕草をしてみせたところで、している当人が藤堂なのだから可愛くはない。

「藤堂の云った通りです。例えば結核は、結核予防法に基づいて、入院治療ができる病院がそれぞれの都道府県で定められていて、陰圧個室が準備されています。ここの病院も、救急で搬入された患者が結核を含めた感染症である可能性はないとは云えないので、ICUの1から3は陰圧個室になっています。当初はICUの1から3だけをコロナ病床に当てていたんですけれど、それでは追いつかなくなって……。なので、HCUの部屋は陰圧個室にはなっていないし、消毒設備もないので、こうして患者が退室してから七十二時間……つまり、生体の外でウイルスが感染力を有すると想定される間は立ち入り禁止にしているんです」

 世良はもう一度「はぁ」と相槌を打った。藤堂は廊下に面した大きなガラス窓から室内をまじまじと見つめている。

「本来ならこの病院は感染症法で定められた感染症指定病院ではないんです。だから見ての通り、衝立が置いてありますよね? あれは、ここが本来、感染症病棟などではないところを、一般患者と接触しないようゾーンを分けて、少しでも安全に治療をするための苦肉の策なんです。あそこより向こうにはこの格好で行くことはできませんし、あそこからこちらにこの格好にならずに入ってくることはできません。それにこの、赤いビニールテープより向こうにこの格好で出るのもいけない」

「へぇ。云われなかったらわかんないね」

 藤堂は平均台でも渡るような足取りでHCUの前の通路を奥に進んでいく。

「あ、藤堂。衝立に触るなよ。あと部屋を覗くのも禁止だからな」

「はーい」

 HCUの2と3、4と5の部屋の前にはナースステーションからの引き戸がある。上半分がガラスになっていて、そこからは向こうの様子が見える。藤堂はそれぞれの引き戸のあたりで立ち止まると、ガラス越しにナースステーションの様子を見つめている。

「普段はここのドアも開けっ放しなの?」

「コロナでゾーニングされる前はね。今も鍵はかかっていないけれど、常に閉めておかなくちゃならないし、一旦フルプリコーションになったら、この格好でこっちから戸を開けることはできない」

 へぇ、と云いながら、藤堂はナースステーションに向かって手を振る。

「あ、こら。余計なことをするなって」

「えー。だってなんとなく目が合ったんだもん」

「ああ、もう」

 云わんこっちゃない、とぼやくより前に、ナースステーション側から引き戸が開けられる。

「どうしましたか?」

 顔を出したのは看護師の沢口さんだった。

「ごめんね。こちら、監察医の先生と警察の人。レッドゾーンの中も見せてくれって云うから案内していて。呼んだわけじゃないんだ。忙しいのにごめん」

「いえ。それならいいんです。見慣れない人だなぁとは思ったんですが」

 軽く会釈をすると、扉がすうっと閉まる。云っておかなかった僕が悪かったな、と藤堂を見上げる。

「ここで誰かを呼んでも聞こえないし、物品が足りない時なんかは、ここから手を振って人を呼ぶか、患者さんの部屋にあるナースコールを押して外と話すんだ」

「そっかぁ。それじゃあ、気軽に手も振れないんだね」

 普通の人はそんなに手を振る機会もないと思うけど、という一言は飲み下す。

 それぞれの部屋の前に置かれた、感染マークの書かれたゴミ箱や物品ののった処置台を避けながらHCU1の前まで戻る。

 世良はその場に立ち尽くしたまま、じっとHCU1の室内を眺めていた。

「病院もいろいろあるんですなぁ。それにこの……マスク。案外痛いですねぇ。こう、この耳のあたりとか」

 N95マスクのゴムが食い込んだあたりを手袋の手で触ろうとするのを、僕は止める。

「世良さん。顔は触らない方がいいですよ。僕たち、レッドに入ってからどこにも触ってないと思いますけれど、人間って無意識にどこか触ってしまってることもあるし」

「おっと、そうだった。どうにも忘れちまいますな」

「はい。でも、看護師さんは休憩時間以外、一日に何時間もこの格好で患者さんたちを看護してくれているんです。僕たちは必要なときにこの格好になって診察をすればいいですけれど、看護師さんはそうもいかないので」

「そりゃあ大変だ……」

「この格好、暑いしねぇ。蒸し蒸しして。あ、ねえねえ、ここの部屋はどうなってるの?」

 藤堂が器材庫を指差す。

「器材庫には元々、救命センターで使う器材をしまってあったんだけど、コロナでこんなゾーニングをすることになってからは、コロナ患者用のエコーや輸液ポンプ、呼吸器を置く部屋になってる。この部屋はフルプリコーションになってから、患者に接するまでの間にしか入れないんだ。患者さんに使用していたものはこのレッドゾーンの中を運んできて、レッドの中で次亜塩素酸かアルコールで消毒して、乾燥。次に入ってきたまだ病室に入っていないフルプリコーションの人間がこの部屋の中にしまう、っていう流れになってる」

 扉の上半分を占める大きなガラス窓から中を覗き込んだ二人は、へぇとか、ふぅんとか云っている。

「元々はスタッフ通路と更衣室前のドアも器材庫への出入りに使えたんですけど、今はそっちの二箇所は鍵をかけてあって、レッドゾーンからしか出入りできなくなっています。感染防御のために」

 決して広いとは云い難いレッドゾーンを今度はICU3の部屋の前まで行って戻ってきた藤堂は「ふぅん」ともう一度唸った。

「なんかさあ、テレビで『コロナ受け入れ病院が』なんて云ってるけど、感染症専門病棟じゃないところをこんな風に使ってるんだねぇ。テレビの撮り方じゃわかんなかったなぁ」

「うん……。大体テレビに出てくるのは大学病院や感染症指定病院だしね。実際に今受け入れている病院の半分以上はそんな病院じゃないから、ここと同じように他の病棟をゾーニングして使ってるんだと思うよ。ゾーニングするには、それができるような病院自体の構造も必要だし、きちんとみんながフルプリコーションで安全に対応できるための練習も必要だから、どこの病院でもコロナ患者を入院させて、なんて云うのは無理な話だと思う」

「なるほどね」

 ひととおり好奇心が満たされた様子の藤堂は、もう落ち着きなくソワソワと辺りを見回している。

「じゃ、戻ろうか」

 藤堂が余計なことをし始める前にレッドゾーンからは出てしまいたい。

 HCU1の前に置かれた感染用のゴミ箱の前で、僕は両手で防護服の前を持つ。

「じゃあ、今度はプリコーションを解くんだけど、この防護服や手袋には全てウイルスが付着して汚染されている、と思って。手袋をしたまま、防護服の前を摘んで、グッと引っ張ると背中で括った紐と首のところの紐が千切れるから、その状態で、防護服を裏返して、そのまま両手でぐるぐると巻いていって。そうすると、表側がどこにもつかないでしょ?」

 藤堂の方は「はぁい」と返事をすると、僕の真似をして器用に防護服を脱いでいく。世良はと云えば、恐る恐る防護服を引っ張ったせいで、首のビニールが伸び、なかなか千切れない。

「世良さん、首のところちょっと痛いかもしれないけれど、グッと力を入れて前に引っ張るとちぎれると思います」

「あ、ああ。センセイ、すいませんね。どうにも不器用でいけねぇ」

 ぐるぐるまきにした防護服から今度は両袖をひっくり返して抜き、そのまま裏返った二枚目の手袋で丸めた防護服を持つ。

「これで、防護服は脱げます。藤堂はそれでオッケイ。世良さんはゆっくりで大丈夫ですよ」

 足踏み式になっている感染症のゴミ箱を開けると、防護服を捨てる。箱の中には数枚の防護服が捨てられている。夜勤のスタッフが脱いだものだろう。もたもたとしながらもようやく防護服を脱いだ世良も、遅れてゴミ箱に丸めた青いビニールを入れた。

「そうしたら、そこのアルコールジェルの下に手をかざして、まだ手袋を一重にしていると思うので、手袋の表面を消毒してください」

「手袋を消毒するんですか?」

 世良が不思議そうにビニール手袋をした手を見つめている。

「先刻、脱ぐときに表側を触っている可能性もゼロじゃないですし。念のため、かなぁ」

「はぁ……手間がかかりますなぁ」

 両手に落とした透明なジェルを手を擦り合わせて手袋の表面に塗り込む。

「そうしたら、シールド付きマスクの紐に小指を引っ掛けて外して、同じ要領でキャップも両手の小指で引っ張りながら外してください。ゴミはまたここに」

 親指と人差し指でゴムを引っ張りかけていた世良はピクリと動きを止める。

「小指ですか?」

「今日はまぁ、他の指も触れていないと思うんでいいですよ。親指から中指までの三本は使うことの多い指なので、ここでも安全を最優先するならば小指なんです」

「うへぇ」

 そのあとに「めんどくせぇ」と云う心の呟きが聞こえた気がした。

「で、今日は最後に履いてきたシューカバーを外して、手袋を捨てて、手を消毒したら終了です。N95マスクはレッドゾーンを出てから外します」

 藤堂は手早く装備を脱ぎ終えると、両手をアルコールジェルの吹き出し口にかざしている。腐っても法医学者。最低限のことはできる分、世良より余程手慣れている。

「藤堂、そこのキックセンサー、足で開くから、更衣室前の洗面台のところでN95を外して、手を洗って消毒してて」

「はぁーい!」

 子供のように返事をした藤堂の姿が扉の向こうに消えるのと前後して、世良がやっとシューカバーを外し終える。

「いやぁ、センセイ。すいませんね。慣れないことで時間かかっちゃって」

 少し申し訳なさそうに眉を寄せる世良は、基本的には悪い人間ではない。そのことは前回とある事件で世良と初めて会った時にも感じた。

「いえ、慣れている方が怖いです。僕たちも看護師さんたちも、コロナの受け入れが始まってから、フルプリコーションの仕方を覚え直しましたし」

「はぁ。でもあれですね。コロナを受け入れている病院は、みんなそういう感染症の専門のところばっかりかと思ってたら、そうでもないんですねぇ」

 センサーを蹴って扉を開けると、世良、僕の順にレッドゾーンから出た。





十六


 スタッフ通路に出ると、細井刑事が僕たちを待ち構えていた。

「世良さん。遅いですよ」

 自動扉の前で落ち着きなくウロウロと歩き回っていたミシュランのマスコットによく似た巨体が駆け寄ってくる。

「おお。細井。すまないなあ。この中、なかなか大変でなぁ」

「取り調べも始めなくちゃならないし……あ、鑑識の畠山さんが呼んでました」

「あん? 畠山さんが? 藤堂先生。先生も一緒に来て下さいよ」

「えーっ。俺?」

「畠山さんが呼んでるってこたぁ、先生もきっと呼ばれますよ」

「ねえ。くろすけ『行かないで〜っ』って俺を止めて! 俺、ドナドナされちゃう」

「……おまえ、仕事だろ。行けよ。そもそも、行くなと止める理由がない」

「くろすけのけち」

 世良に背中を押されながらも未練たらしくこちらを振り返る藤堂に一度手を振る。

 第一当直室の前は変わらず物々しい様相で、たくさんの人の姿の向こうには、狗田がまだ横たわっているのだろうと思われた。

 遺体がどんな状態なのか窺い知ることはできなかったけれど、西くんが昨日亡くなったばかりなのに、また誰かが死んだ、と云うことがあまりにも現実感に乏しくて、扉の向こうにある藤堂の白衣の背中をぼんやりと見つめた。

 僕は藤堂の背から目を逸らすと、開けっ放しの鉄扉に向かい、制服を着た警察官にお辞儀をして規制線の外に出た。

 外来受付からは、いつもと同じように、呼び出しのアナウンスや、案内の音声が聞こえてくる。若い研修医の死も、優秀な集中治療医の死も、それはわずかばかりの非日常で、日常は今日も続いているのだ、と僕は思い知る。尤も、その日常もコロナのせいで、以前とは違うものになってしまっているけれど。

 カンファレンスルームに戻ろうと踵を返しかけた時に、後ろから「あの……」と躊躇いがちな声が僕を呼び止めた。振り返ると、目を真っ赤に泣き腫らした白衣の女の子が立っている。名札を見ると『研修医 室生響子』とあった。

「君は、西くんのお友達かな?」

 研修医らしく長い髪を一つに括り、薄い化粧をした、殆ど少女と云っていいようなあどけなさの残る彼女は、小さく頷く。

「西先生と同期の室生と云います。あの、救命科の先生ですよね?」

「うん。非常勤だけれど。どうかした?」

「……あの、ええと……」

 彼女は言葉を探しているようだったが、語尾が僅かに涙に掠れていた。こんなところで泣いている女の子と二人で立ち話をするのもなぁ、と僕は彼女を見つめた。

「君もあまり時間はないだろうけれど、よかったら、ちょっとお茶でも飲もうか」

 弾かれたように顔を上げる彼女に頷いて見せると、つぶらな瞳から滂沱の如く涙が溢れ出した。

「泣くのは座ってからにしよう。君はお医者さんなんだから、患者さんがびっくりしちゃうよ」

 素直に頷いた彼女はポケットから出したハンカチで目元を拭った。元の顔立ちがわからないくらい腫れぼったい目元は真っ赤になっていて、一体どれだけ泣いたんだろう、と思いながら、僕は彼女を伴って院内のコンビニに向かう。院内のカフェも食堂も緊急事態宣言で営業を見合わせていて、頼みの綱のコンビニまで時短営業している始末だ。

「ごめんね。コンビニの珈琲で。カフェでお茶ひとつできないなんて、不便だよね」

 ホットのカフェラテを二つ買い、僕は彼女の顔を覗き込んだ。

「研修医室でもいい? 救命のカンファレンスルームよりはそのほうが話しやすいよね?」

 彼女がもう一度頷くのを確認して、僕たちは研修医室へと向かった。



 研修医室は外来の奥、救命センターとは反対側の棟の五階にある。

 ドアには今この病院で研修をしている研修医たち十二人の顔写真が貼ってある。思い思いのポーズをとる研修医たちの茶目っけたっぷりの写真の中には、西くんの写真もあった。僕は写真の中の笑顔から目を逸らす。

 室生さんがドアを開けると僕が研修医だった頃と殆ど変わらない景色が広がる。古い事務机と、どこかの医局のお下がりだろう古いソファ、大きなスチール製の本棚には誰が置いていったものかわからない教科書が詰め込まれている。

「ここは変わらないなぁ。僕が研修医だった頃と」

 そう云うと、室生さんは驚いたように僕を見上げた。

「先生もこの病院で研修されたんですか?」

「うん。もう十年以上も前だけどね」

「……じゃあ、先生は私たちの先輩なんですね」

「そうだね。僕は救命科の榊。今は非常勤で働いているから、救命科にローテートするまでは会うことはないから知らないよね」

 スプリングが意味をなしていない草臥れきったソファに腰を下ろすと、カフェラテをひとつ、室生さんに差し出す。

「ええと、室生先生、でいいのかな?」

「はい。あ、でも、先生……は、恥ずかしいので、やめてください……。あと……私、知ってます。先生のこと。すっごい美形の先生がいる、って聞いていたんで」

「美形、って……そんな大層なもんじゃないし、ただのおじさんだよ。それにこの顔で得したことは一度もないよ。それより……僕も研修医の初めの頃、先生って呼ばれるのが恥ずかしかったよ。今じゃすっかり慣れちゃったけどね。それより、僕に話があったんでしょ? 流石に、泣いている女の子と立ち話するわけには行かなかったから。ごめんね。研修医室にお邪魔してしまって」

「いえ……私の方が……。先生、私服ですし、今日はお休みの日ですよね。用事があって病院におられたのに……すいません」

「うん。用事はあるけど、そのときにはピッチが鳴るだろうし。大丈夫だよ」

 僕は念の為ポケットに突っ込んできたPHSをかざして見せる。室生さんの強張っていた表情がほんの少しだけ緩んだ。腫れぼったい瞼を瞬かせると、微かに笑むように目を細める。

「室生さんは……西くんのことで僕になにか話したかったのかなと思ったんだけれど。違ったかな?」

 彼女は目を見開いて僕を見上げてから、「はい」と頷く。

「西先生のご遺体、もう病院を出られたんでしょうか?」

 ご遺体、と云う単語を口にする時だけ、彼女はぎゅっと眉を顰める。

「どうだろう。もうHCUにはいなくなっていたよ」

 釣られて僕も眉を寄せる。先刻、レッドゾーンで見た、閉ざされて暗い部屋を思い出すと、胸がずきんと痛む。

「霊安室か、もしくは葬儀会社の人がもう連れて行ってしまったか……ごめんね。僕にもわからない」

「そう……ですか。間に合わなかったんですね……」

 彼女は立ち上がると、厚みのある白い封筒を持ってきた。大切そうにそれを胸元に抱えたまま、彼女は俯き、歌うようにするりと言葉を紡いだ。

「私、西先生のこと大好きでした」

 甘やかな言葉とは裏腹に、両手で封筒を強く握りしめたまま、堪えきれずに室生さんは嗚咽を漏らす。

「西先生、きっと、たくさん……思い残すことがあったと思うんです。自分が苦しんだ一型糖尿病の患者さんの……悩みを聞いてあげたいんだって、云ってました。研修医同士なのに、頼りになって、いつも相談にのってくれて、愚痴も聞いてくれて。私……私たち……」

 震える声で伝えられなかった想いを言葉にする彼女を僕はじっと見つめた。見つめるしか、できなかった。

 握りしめた封筒に涙が落ち、じわりと滲む。

「その封筒は、君から西くんへの手紙なのかな?」

「これは……私たち研修医全員から……西先生への……。よくなって戻ってきてくれるって……思っていたから」

 雨粒が降り地面を濡らすように、涙が封筒に落ちるいくつものシミを作る。

「抜管されたら、渡そう、って……みんなで話していたんです」

 二度と来ない未来。彼女たちが描いていた明日。西くんの生きていた世界。

 僕は彼女が手にした封筒を見つめる。白く分厚い封筒には、彼女たち、西くんとともに歩んできた研修医たちの思いが詰まっている。

 どうすればいいんだろう。

 どうしてあげればいいんだろう。

 本来ならば、棺に一緒に入れてあげたいのだけれど、いまの感染防御の体制では、家族ですらご遺体に触れることも会うこともできない。もし仮に、西くんのご遺体がまだ院内にあったとしたって、赤の他人の僕がのこのこと棺に手紙を入れに行くことは到底出来はしない。それは、室生さんも同じだ。

病院では、重症化したコロナの患者さんはレッドゾーンに隔離されていて、そこに入ることができるのはフルプリコーションの医療従事者だけだ。流石に、最後にひと目、ご家族にお顔を見せてあげたい、とフルプリコーションで部屋の窓越しから患者さんの様子を見てもらう、という案もあるにはある。が、実現していないのが現状だ。

 僕はしばらく思案して、ある可能性に思い至る。

「ねぇ、室生さん。その手紙、西くんのご実家にお渡しするのじゃダメかな?」

 涙でぐしゃぐしゃの顔を弾かれたように挙げた室生さんは、二度ほど唇を動かして、声にならない答えを紡ごうとする。

「西くんのご実家に書類を送らなくちゃいけないはずなんだ。それと一緒に同封して送るんじゃ、ダメかな?」

 死亡診断書や入院に関わる様々な書類をおそらく今日、病院から送るはずだ。急げば間に合う。もし、間に合わないなら、こっそり電子カルテを覗いてでもご家族宛にこの手紙を送ればいい。

「……いえ。いいえ! そうしてください。先生……ありがとうございます」

 涙の跡がくっきりと残る封筒を彼女は僕に差し出すと、深々と頭を下げた。

「じゃあ、送る書類と一緒に入れてもらうよ」

 僕は少し湿った分厚い封筒を受け取ると、頷き返した。





十七


 僕の事情聴取が終わったのは十六時を回るか回らないかという頃だった。僕の聴取は案外あっさり終わって、というのも、狗田が死亡したと思われる時間のアリバイを藤堂が証明してくれたからだ。つまり、狗田が死んだのは、昨晩、僕と藤堂がスマホ越しに会話をしながら食事をしていた頃だったという。

 スマホの履歴を見ると、僕が藤堂に電話をしたのが十九時。藤堂がうちに押しかけてきて食事を置いて出ていき、僕のスマホにビデオ通話の着信が入ったのが二十時過ぎ。そこから一時間ほど、ああでもないこうでもない、と話しながら食事をしていた。その間、僕も藤堂も画面から消えることはなかった。

 そんなわけで、僕の事情聴取はごくごく短い時間で終了した。



 一方で、椛谷は出てくるなり、悪口雑言の嵐だった。椛内は狗田とのトラブルがあって病院を辞めているから、狗田が殺害されたとすれば動機がないとは云えない。だから勿論、事情聴取も厳しかったのだと思うのだけれど、出てくるなり開口一番「死ねよ、クソジジイ」と叫んだ。

 あまりの強い語調に驚く僕には目もくれず、杉本先生に不満のたけを声高にぶつけはじめた。

「警察ってほんっとぉに不愉快ですよね。すっごいムカつくんですけど。緊急事態宣言で家族以外との会食は禁止ってなってるから家で子供と旦那と過ごしてたって言ったら、それはアリバイにならないとか、バカなのかしらね」

 人のいい杉本先生は浅黒く日に焼けた顔を少しばかり困ったように傾げる。

「あぁ。それは確かに困りますよね。俺は昨日は田奈上先生とコントロールセンターだったんで……そこは救いがあるんですけど」

「一人暮らしとか、どうするんでしょぉね。人殺しみたいな扱いされるのって、名誉毀損で訴えられないのかしら」

 椛谷は肩に垂らした茶色の巻き髪を指先に絡めてはほどき、解いては絡めながら、苛々と言い募る。

「そんなひどいことを云われたんですか?」

「私が犯人、とまでは言われませんでしたけどぉ『殺したいと思ったことはありますか?』って言われたんで、はい、って答えたら、しつこく、その時間、何をしていたとか聞かれて。朝から来て、もうこんな時間ですよぉ? 家のことだってしなくちゃならないのに。あぁ、もう嫌ンなっちゃう」

 心底嫌そうに溜息をつくと、椛谷は高級ブランドの鞄を引き寄せて、スマホを取り出した。

「大体、人間誰だって殺したい相手の一人や二人いると思いません?」

 スマホにネイルが当たるたびにカチカチと微かな音を立てている。

「殺せるものなら、殺してやりたいくらいだったけど。ねえ、榊センセェ?」

 椛谷の視線が僕に絡み付いた。唐突に敵意すら感じるような冷たい眼差しが投げつけられる。

「先刻も云ったけど、僕は狗田のことは苦手だったし、好きではなかった。でも、能動的に嫌いだと思うほどの感情は抱いていなかったし、殺したいと思ったことはないよ」

 挑みかかる強さで僕を睨む椛谷の目を見つめ返して、僕は出来る限り静かに答えた。静かにしている水に触れてはいけない、とうたったのは確か高村光太郎だったか。けれど、そんな僕のささやかすぎる抵抗なんて、なんの力も持たなくて、椛谷は、鼻で嗤った。

「センセェはほんと、偽善者ですよね。昔っから。月岡はバカだからセンセェの外面に騙されてますけどぉ、私たちが狗田みたいな奴を殺したいほど憎いって思ってることだって、本当はバカにしてる。その自分だけは違うっていう取りすましたところ、大嫌いです」

「そっか。別に……僕のことを嫌いでも仕方ないんじゃないかな。それにね……馬鹿にはしていないよ。理解はできないけれど、ね」

「ほら! そうやって。自分だけは違うって取りすました顔をして。センセェだって、そのキレイな面の皮を剥がせば私たちと同じ、誰かを嫌ったり憎んだりする人間のはずなのに」

 別に僕は外面を取り繕ったつもりもないのだけれど、と云いかけて、代わりに溜息を零す。なにを云ったところで、聞く耳を持たない人間にはなにも伝わりはしないだろう。僕は単に、人を嫌いになるだけの熱量がないだけだ。なにかを嫌いになるには、それだけのエネルギーが必要だ。

「センセェだって嬉しいくせに。どうして私だけ? 自分の感情に素直になってなにが悪いのよ。大体、コロナコロナでストレスフルなのに。あんな奴が死んだのなんてどうでもいいじゃない。犯人に感謝したいくらいよ」

 ひとしきり僕に絡んだ椛谷の怒りの矛先は、再び警察へと向かう。

 僕なんかより、今の椛谷の方が、余程外見の美しさに執着しているようにも思えて、ただ虚しくなる。どれだけ美しく外見を飾ったとしたって、その皮の下に潜むのが獣ならば、静かな水面を揺らさない、穏やかな獣になればいいと思うのは僕だけなのだろうか。

 指先のささくれを爪で摘んで千切ると、微かな痛みを感じた。

 田奈上先生が聴取から戻り杉本先生が入れ替わりで部屋を出ると、合わせて椛谷も席を立った。

「さぁって。私も帰ろぉっと。もう二度と、こんなところには来ないわ。先生方、さようなら」

 彩った唇の端を持ち上げ、僕たちに笑みかけると、椛谷はブランドのロゴが入ったマスクを引き上げ、ヒールを鳴らし去っていった。まるで、黒々とした嵐のように。



 今日日勤の、軍曹、まりりん、那珂川先生、月岡の四人の聴取は日勤が終わってからになる、と細井刑事が伝言に現れ、目が合うと僕に会釈を投げた。

 伝えておくよ、と返すと、細井刑事は大きな体を丸め、僕にもう一度お辞儀をした。その姿に、記憶の中のおぼろげな西くんの姿が重なって見えた。

十五分ほど待てば日勤から夜勤への引き継ぎ時間ということもあって、僕は月岡を待つことにした。

今朝、ここで会った時にも碌に話せなかったし、昨日は昨日で、月岡は西くんの死亡確認の後は、会えないままだったからだ。

 僕でさえ、あれだけショックだったんだ。朝の憔悴しきった月岡の様子を思い出すと、僕は心配せずにはいられなかった。

コロナがなければ、帰りにどこかで話を聞くこともできたのだけれど、今は職場の外で誰かと一緒に食事をすることすらままならない。なんなら、職場の中でも、向かい合わせに座らない、だとか、食事中は言葉を発しない、だとか、席はひとつおきに、だとか……仕方ないことなのだけれど、そんな決まりごとがあって、ヘタをすると、一日中、仕事の会話以外、ろくすっぽ会話もなく一日が終わることもザラだ。

 僕は昨夜、藤堂に救われた。

 あいつなりに『緊急事態宣言』と『僕の良心』の許すだろうギリギリのラインに駆け込んできて、溺れかけていた僕の心を力づくで岸まで引き上げてくれた。

 そもそも僕は人付き合いがあまり得意ではないし、一人でいても大丈夫だ、なんて思い上がっていた。だけど、昨日も……そして、以前こんなことがあったときにも、一人では到底耐えきれなくて、藤堂に助けてもらった。 

人間には一人で『大丈夫』ではないときもあるんだ、とだから僕は知っている。

 僕に月岡のなにがわかるんだ、と云われれば、全く以てその通りで、月岡の気持ちを支えられるかもしれない、だなんて僕の思い上がりかもしれないけれど、それでも、僕は月岡が心配だった。

 だから、もし、月岡が誰かの支えを必要としているのならば、マッチ棒くらいの力しかなくても、月岡の話を聞いてあげたい、と僕は思った。

 マグカップに入れたティーバッグの紅茶は、渋みが強くて香りが殆どしない、渋い茶色のお湯のようだったけれど、それを啜りながら、僕は月岡を待った。

 実質、待っていたのは五分ほどだ。

「先輩、まだいたんですか?」

「ああ、月岡。お疲れ様」

 今日もコロナ部屋を担当していた月岡は、シャワーを浴びたばかりなのか、まだ乾ききっていない髪に着替えたばかりのスクラブ姿だった。パイプ椅子にぼんやりと座っていた僕を驚いたように見つめてから、月岡はスッと目を逸らす。

 コロナ患者の担当者は、大概シャワーを浴びてから帰る。今日は早めに患者が落ち着いて、シャワーを浴びてきたんだろう。

「月岡、すごく無理してそうだから、顔見てから帰ろうかな、って思って」

 カンファレンスルームに入ってきた一瞬以外、目を合わせようとしない月岡の胸元を見ながら僕は話す。

「本当は昨日、話せたらよかったんだけど、僕、自分のことでいっぱいいっぱいで……」

 病院にはくだらないジンクスがいくつもあるのだけれど、そのうちの一つに『人が死ぬ夜は一人じゃなくて、二人死ぬ』なんていうものがある。曰く、一人で死ぬのは寂しいから、他の状態が悪い患者も一緒に連れて行ってしまうのだ、なんて、まことしやかに云われている。だから、僕は、西くんが狗田を連れて行ったんじゃないか、なんて密かに思っていたけれど、それは言葉に出さず、月岡を見つめた。月岡は落ち窪んだ瞳をきょときょとと彷徨わせ、それから足元に視線を落とした。

「先輩、なんで……」

 俯いたまま月岡がぽつりと呟く。

 小柄な体はこの数日で更に痩せたように見えた。

「月岡、ごはん食べてる? なんだか、昨日は西くんのことがあったし、今日はまさかこんなことになるなんて思ってなかったし……僕、昨日はすごいショックでね。もう本当にダメダメだったんだけど。月岡の方がもっとショックだよな、って思って」

「……人の心配してる場合ですか?」

「うん。まぁ、そうなんだけどさ。でも、月岡、最近痩せたでしょ。今日はすごい隈だよ。余計なお世話かもしれないけれど、心配になっちゃうよ」

 スクラブの襟元からは浮き出た鎖骨と、銀色のチェーンが覗いている。

「大丈夫? って訊いたら、月岡は気を遣って『大丈夫』って云いそうだから、いい言葉が見つからないんだけど。僕でよければ、話くらいなら聞くよ。泣き言でもなんでもいいよ?」

 恐る恐る、と云った風に目を上げた月岡は、堪えるように眉を寄せた。

「朝もそうだけど、先輩は……優しすぎるんですよ。もっと自分のことだけ考えてればいいじゃないですか。なんで、怒らないんですか? なんで、優しくするんですか? なんで?」

「なんだろう。……わからないけれど、ここで月岡のことを放っておいたら、僕が後悔しそうだから、っていう偽善かもしれない」

「……ッ、それは偽善じゃないでしょ! 馬鹿ですか。先輩」

 苦しげに顔を歪めた月岡は両手で顔を覆うとその場にしゃがみ込む。

「あんた、馬鹿か。ほんと」

 指の隙間から嗚咽が漏れている。

堪えていた感情と涙が一気に溢れ出したようだった。時折しゃくり上げながら、体を震わせて泣いている月岡の背中は、やっぱり以前よりも小さくなっていた。

 椅子から立ち上がると、錆びたスチールがキイッと軋んだ。僕は月岡の前にしゃがみ、濡れたままの頭を軽く撫でた。

「仕方ないじゃん。月岡はかわいい後輩だからね。僕もキャパシティが広い人間じゃないから、聞いてあげられないときもあるかもしれないけど、できる限り、話くらいなら聞くからさ」

 意味をなさない声で返事をして月岡は頷いたようだった。

「遅くなってごめんね」

 月岡はそれから暫く、溜め込んでいた思いを吐き出すように泣いた。僕はただ、そんな月岡の隣にしゃがむ。そんなことしかできないけれど、泣きたいだけ泣けばいいと思った。

泣いて、泣いて、カンファレンスルームに戻ってきた那珂川先生の声がするなり、月岡はきまり悪そうに顔をあげた。涙が一筋、頬を伝って落ちていった。

「じゃ、申し送りが始まるだろうし、僕はもう帰るね。あ、那珂川先生もお疲れ様でした」

 なにか云おうとするかのように、月岡は唇を動かしかけて、目を伏せた。それもまた、ありなのかな、と僕はそれ以上は訊かず、那珂川先生に会釈をしてカンファレンスルームを後にした。




十八


 狗田と僕、そして藤堂は大学の同期だった。いわゆる旧帝大ではない、国立の中堅どころの医学部の同級生だ。

一学年八十人。一年生から二年生の教養課程の間は二クラスに分かれていて、藤堂とは一年生から同じクラスだったけれど、狗田は別のクラスだったから、そんな人がいることすら僕は二年間知らずにいた。

 三年生になって基礎医学の講義が始まると、階段教室などの大きな教室での合同授業が講義の半分ほどを占めるようになって、一、二年生の頃には関わることのなかった同級生とも席を並べるようになった。

 狗田、という奴が同級生にいる、とようやく認識したのは四年生の五月だった。

 薬理学の実習の時だ。狗田のことは知らなかったが、藤堂とは一年生からの腐れ縁であの日も同じ班で実習をしていた。

今でも覚えている。ラットにβ-blockerを投与して、心拍数の変化を測定する実験だった。基本的な動物実験の手技の獲得が目的だから、この実験でラットの病気を治そう、だとかそんな高尚な目的は勿論なくて、僕は実験のあとにラットが殺されるということを知り、呆然としていた。

 今思えば当たり前のことで、実験用のラットは人為的に繁殖させられ、場合によっては遺伝子の組み替えもなされているから、実験室の外に逃がすことはできない。でも、僕は……そんな学生が手技を学ぶために小さな命が犠牲になるのがあまりにもショックで、自分の手の中にいる小さくて暖かい鼠をケージに戻せずにいた。

 と、藤堂が自分の分のラットと僕の手の中にいたラットを白衣のポケットにつっこんで、両手で蓋をした。白衣のポケットの中でラットが動くたびに、ポケットがゴソゴソとするから、そこに何かがいるのは一目瞭然だった。

 素知らぬ顔で実験室から出ようとした僕と藤堂を捕まえ、講師の先生に報告したのが狗田だった。

 狗田の云うことはあまりにも正しくて、それは先生から諭された言葉と一言一句同じだった。

 曰く、命は大切だが、人為的に作られたラットは自然界に出すことはできない。それが生態系を損なう原因となりうるからだ。

 家で飼う、と食い下がった藤堂を冷笑した狗田の顔を僕は今でも思い出す。

 狗田は昔から原理原則をきっちりと理解し、それに従い行動する人間だったから、当時から藤堂とはそりが合わなかったのだろう。ことあるごとに、狗田は藤堂に食ってかかっていたっけ。

 藤堂は自分の好奇心や興味がまず全ての行動の基軸になるような奴だった。本音と建前の本音の部分だけで生きていて、人にどう思われようが無関心で、僕には少し危うく見えた。自分が面白いと思えば、笑いながら地雷だらけの場所にだって踏み込みかねないような、そんなところがあった。

 僕はと云うと、フランス人の母親そっくりの明らかに日本人らしくない顔立ちの所為で、物心ついた頃から嫌な思いをすることが多くて、人と関わるのがあまり好きではなかった。打算的な人間、下心のある人間、そんな人たちが多かったからかもしれない。いっそ、藤堂のような裏表もなく、忖度もしない人間といるのが楽だった。それに、藤堂は放っておくと自分の好奇心の赴くままにいなくなってしまいそうで、その危うさが僕には放って置けなかった。

 卒業して、僕はこの病院の研修医になり、藤堂は臨床には進まず法医学へ、狗田は大学病院の研修医に、と道が別れた。正直ホッとした。

 僕は目立つことも嫌いだし、人と争うのも嫌いだったから、ことあるごとに藤堂を目の敵にする狗田が苦手だった。

 初期研修の二年間が終わって、僕はそのまま波崎中央医療センターの救命救急科に残った。最初は救命救急科と集中治療科は違う科だった。救命救急科で働き始めて七年目に、二つの科が合併されることが決まった。正確には、集中治療科が麻酔科から切り離され、救命救急科に組み込まれたのだ。この時、僕は狗田と再会した。

 狗田は昔と変わらず、原理原則に忠実で、勤勉だった。毎日一本必ず論文を読み、自らも一年に最低一本は論文を仕上げる、というアカデミックな活動も怠らないという姿勢には好き嫌いの枠を越え、素直に感心した。誰に対しても厳しく接していたから、まりりんですら「経験則での治療ではなくて、エビデンスに基づいて行うべきではないですか」と、キツイ物言いをされていた。

 狗田のことは苦手だったが、殺されたときいて衝撃は受けた。けれど、心のどこかで仕方がない、と思う自分もいた。正義は時に暴力だ。狗田の振りかざす正義はきっと諸刃の剣だった。誰かにとっての正義が必ずしも他の誰かの正義ではないことだってある。どれだけ正しく見える原理原則だって、間違っていることもある。

 それに狗田の投げつける強すぎる言葉は、人を傷つける。人を傷つければ、恨みを持つ人間だって現れる。だから……。

 僕はそこまで考えて、溜息をついた。

 僕は最低だ。死んだ人間を悪く思う、だなんて、やっていいことじゃない。

そうだ。狗田は死んでしまった。殺されてしまったんだ。

 西くんの苦しみに苦しみ抜いた闘病の末の死に比べて、言葉だけしか手渡されていない狗田の死は、まだ僕にとってどこか現実感がなかった。

 でも。

 殺されていい人間なんていない。

 たとえ、僕が狗田を嫌いだとしても、それで狗田が死んでよかった、だなんて思えるはずもない。椛谷のように、誰かを殺したいほど憎めば話は違うのかもしれないけれど、でも、狗田にだって狗田の人生がある。家族もいる。友人もいる。誰かの人生を強制的に「死」で以って終わらせることは、その周りの人の人生にだって波紋を広げる。

 狗田は何故、殺されなければならなかったんだろう。

 僕は膝を抱えた。

 確かに狗田を恨んでいたり、嫌っている人間は相当数いただろう。

 自分にも厳しいが、それ以上に他人に対しても厳しい狗田は、看護師たちコメディカルに対しても厳しかった。上司にも同僚にも部下にも。いっそ分け隔てないその態度は僕にとっては潔くさえ感じられたけれど、そうではない人だっていただろう。

 けれど、殺されるほどの恨みを果たして買っていたんだろうか。

 ぼんやりと考えていると、電話が鳴った。

 こんな時間に電話をしてくるのは藤堂くらいしかいない。通話ボタンを押すと同時に、場違いに明るい声が飛び出してきた。

『やあ、くろすけ。今日はちゃんとごはん食べた?』

 普通の挨拶だとか、相手がなにをしているかだとか、そんなものは全てすっ飛ばして、藤堂は云いたいことを云いたい順に云う。

「……あとで食べるよ」

『君、そうやってまた食べないつもりでしょ。よし、じゃあ俺が今から……』

「いや、いい。おまえだって今日は忙しいだろ」

 狗田の事件があったんだから、と言いかけて、語尾を飲み込む。

「……お茶漬けかなんか……あとで食べるよ」

『あっ、胡麻味噌に漬け込んだ鯛の切り身の瓶詰めが売ってて、それでお茶漬けすると最高なんだけど、くろすけ、食べる?』

「……持ってこなくていい。それから来なくていい」

『えーっ。美味しいのに。ところでさ、今日の被害者って、俺もしかして知ってる人?』

 藤堂のペースに頭を抱えそうになった僕を襲った第二の衝撃に、危うくスマホを取り落としそうになる。

「は? 藤堂。おまえ、もしかして、狗田のこと覚えてないの?」

『うーん。あんまり興味ないっていうか』

「興味がないにも程があるだろ。藤堂、散々嫌がらせされてたよね? 大学のとき」

『俺、どうでもいい人とかどうでもいいこととか、すぐ忘れちゃうんだよね。そっか、やっぱり知ってる人だったか!』

 あっけらかんと笑う藤堂に、僕は唖然とする。僕の中では鮮やかすぎるほどくっきりと残っている大学の頃の思い出は、藤堂の中では遥かに霞んだ朧げなものになっているのかもしれない。

「おまえ、四年のとき、ラットを持って帰ろうとして、狗田の密告で先生から怒られただろう?」

『ネズミは覚えてるよ! くろすけがネズミが可哀想って云うから、じゃあ持って帰ろうって思ったんだ!』

 覚えてるのはそっちか! と僕は呆れて頭を振る。

「じゃあ、卒試のとき、おまえの答案だけゴミ箱に捨てられてたのは?」

『覚えてない!』

「卒業祝賀会でワインをかけられたのは?」

『あっ! あそこのホテルのワインはよくなかったよね。あの頃は美味しくないなぁと思っただけだったんだけどさ、あれって、ワイン自体がいまいちなのもあるけど、多分保存状態が悪いからだと思うんだよね。あの後、気になってワインの勉強したんだけど……』

「いや、ワインの味じゃなくて、ヘラヘラしてたら狗田にぶつかって、赤ワインを頭からかけられてただろう?」

『そうだっけ?』

 僕は、今度という今度こそ脱力した。

 云いながら、思い出せば思い出すだけ、藤堂は容疑者のひとりになってもおかしくないほど、狗田から色々な嫌がらせを受けていたことに気づく。尤も、大学を出たのは十年以上前のことだから、今更そんなことで相手を殺すメリットなんてないだろうし、なにより、藤堂は狗田の存在すらろくすっぽ覚えていない。

『へぇ。そっかぁ。ちょっとだけ見覚えがあるような気がしたんだけど。あの人、なんかすっごい恨まれてたのかもしれないよ』

「え?」

 どう云うことか、と尋ねるのも憚られ、僕は言葉を飲み込む。

『あっ、そうだった。俺、くろすけにお願いがあるんだ』

 あっけらかんと云う藤堂に、僕は嫌な予感がした。そして僕の予感はえてして当たる。





十九


 二日後。

 僕は波崎医科大学に来ていた。

 僕たちの母校。そして、藤堂が現在准教授として籍を置いている大学だ。

 ゴールデンウィークも明けたというのに、学内は閑散としている。緊急事態宣言で、オンライン授業ばかりだからね、と藤堂が云っていたのを思い出す。

 僕の記憶にある十年ちょっと前には講義の予定などが貼り出されていて、いつも学生がたむろしていたピロティーにも誰の姿もない。

 コロナの時世、入構するのに体温を計り、症状の有無や、この一週間での会食の有無などを書類に記入し、来校の目的と面会相手についても詳らかにして、ようやく、母校に入ることができた。

 国立大学も御多分に洩れず、節約と節電のために日中は廊下の電気を消しているため、ただでさえ講義がなく、人気のない校内は昼間だというのに暗い。

 しんとした廊下を歩くと靴音がやけに響く。僕は基礎医学研究棟のエレベーターのボタンを押しながら、そこに記された教室の名前を目で追った。懐かしさと不思議な淋しさが交互に胸を行き過ぎていった。

 四年生の夏休み、それぞれ基礎医学の教室に二ヶ月配属され、人によっては短期留学させてもらったり、人によってはその後の研究者としての礎となるよう、その教室の研究を手伝ったりする、というカリキュラムがこの大学にはあった。

 僕はアカデミックな世界にはあまり興味がなくて、生理学教室の畑の世話、というなんの役に立つのかわからないことをして過ごした。あの畑の芋は遺伝子組み換え実験の産物だ、なんてまことしやかに囁かれていたっけ。

 そんなことを思いながら、古くて遅いエレベーターの到着を待った。

 法医学教室は僕がお世話になっていた生理学教室の一つ上の階にあった。たまに藤堂との待ち合わせで覗きに寄ったことはあったけれど、殆ど縁のない場所だった。

 教室名を記す木製のプレートを眺めながら廊下を進み『法医学教室』と書かれた部屋の前で僕は足を止めた。



 僕の嫌な予感は大いに的中した。

 緊急事態宣言下で人と会うことも避けるべき時だと云うのに、個人情報保護と機密保持の問題でデータ類は持ち出せないから、と藤堂に呼び出されたのだ。法医学教室に!

 開け放たれたままになっている法医学教室の扉から中を覗き込むと、入ってすぐ右の通路から藤堂がヒョイっと顔を出した。

 勢いよく顔を出すものだから、ぶつかりそうになり、僕は慌てて足を止める。

「急に顔を出すなよ。危ないなあ」

「えーっ。だって待ってたんだもん」

 藤堂に手を引かれ、僕は隣の部屋に詰め込まれた。

「ここ! 俺の部屋」

 教授室は二部屋続きだが、その半分。個室ひとつ分が准教授の藤堂の部屋だった。部屋の片面を占める本棚にはぎっしりと本が詰まっていたが、その半分ほどは、法医学とは関係のなさそうな藤堂がその時々に興味を持ったのだろう雑多な本だった。中にはファッション誌や女性向けと思しき雑誌まである。

よくある事務机ではなく、大きなダイニングテーブルが置かれ、書きかけの書類や付箋のついた本、学生時代に使っていたようなノートにパソコン、小ぶりなティーポットと食べかけのプリンが置いてある。

 本棚とは反対側の壁に沿って置かれたダイニングテーブルの奥、開け放たれた窓の前には座り心地の良さそうな椅子がひとつ。その周りの散らかり具合を見ると、そこが藤堂の巣になっているのだろう。手前には昔懐かしい学校机とセットになっていた椅子が二つ並べてあり、一応、学生などがきた時には対応ができるようになっている。学生のものらしいレポートには青いボールペンで手書きのコメントが記入されていた。

「教授とか秘書さんとかは?」

「んーと、教授は自宅からオンライン授業だって〜。秘書さんも緊急事態宣言の間は用事がない限り来ないし、院生もお休み。助教の先生とか講師の先生とかは探せばその辺にいるかもしれない。あ、解剖のあるときは、来るけどね〜」

 さして興味もなさそうにテーブルに置いていたプリンをスプーンですくいながら、藤堂は首を傾げる。

「やー。でも迎えに行かなくても来てくれてよかった」

 藤堂は、あははと笑っているが「迎えにいく」ではなく「拉致する」の間違いだろう、と心の中でそっと悪態をつく。

 僕は勝手にふたつ並んだ椅子の片方に腰を下ろすと紙袋をテーブルに置いた。

「で、藤堂。なんの用だったの?」

「うん。ちょっと待ってね」

 食べ切ったプリンのカップを流しに置いて戻ってきた藤堂は僕の隣の椅子に座る。

 隣、と云っても二メートルほど間を空けているところを見ると、一応、世の中の常識を踏まえたソーシャルディスタンスを意識してはいるようだ。

 相変わらず目がチカチカするようなオレンジ色をしているが、それにも随分と慣れてきた。

「この前殺された人の件なんだけどね。えっと……なんとか云う……」

「狗田のこと?」

「そうそう。その人さ、ものすごい恨まれるような人だった?」

「……どうだろう。僕はあいつからは嫌われていたし、苦手だったけど、仕事はできる奴だったよ」

「仕事ができるのと、恨みを買っているかどうかって別の次元の話じゃない? 仕事ができても嫌われてる人もいっぱいいるし、仕事ができなくても人から好かれる人もいるでしょ」

 些か語弊のあることをサラリと云う藤堂に苦笑しながら、僕は頬に手を当てた。

「正直、狗田は劣っていると判断した人間からは仕事を取り上げたり、自分の思うように動かない人間にはキツくあたったりしていたから、好きじゃない奴は相当いたと思うよ。パワハラで看護師からも何度か病院に訴えが上がってもいたと思う」

「それって殺したいくらいだったのかなぁ? くろすけはそのイヌなんとかって人を殺したいと思った?」

「苦手だったけど、殺したいなんて思わないよ。関わらなければいいだけだし」

「まあ、そうだよねえ。殺したいってどんな気持ちかわかんないけど、感情発露の形態としては、相当強い感情が必要だよねえ」

 藤堂は腕組みをすると、うーん、と唸る。

と、扉の方から、忙しない足音が聞こえてきた。振り返ると、藤堂の部屋の入り口に、一見不機嫌そうな世良とマッチョなミシュランのマスコットのような細井の二人が顔を覗かせていた。

「ああ。センセイ来てくれましたか」

 予期せぬ世良と細井の出現に、僕は目を瞬かせる。「個人情報保護」というのは、警察の情報、ということなのか? とうっすらと頭の片隅で思い至ったけれど、時すでに遅し、だ。しかし、それは確かに「扱いに慎重を期さなくてはならない」情報だろう。個人情報保護、どころの話ではない。

「いや、藤堂先生から聞いた時はどうしたもんかと思ったんですけど、どうせそっちにも参考人聴取だなんだ必要だし、いっそ捜査協力してもらった方が藤堂先生もおとなし……おっと……やりやすいかと思いましてね。お呼びだてしてすいませんね」

 細井が入るスペースがあるのかと心配していると、細井はニコッと人好きのする笑顔で微笑み、扉のところで立ちどまる。

 つまりは、と僕は今日呼び出された理由に合点がいった。一言で云えば、都合のいい情報源かつ藤堂のお守り、もしくはストッパーと云うことか。

 僕は、深々と溜息をつく。

「まあまあ、殺されたのはセンセイの同僚の人でしょう? こちらとしてももう少し人間関係だなんだ、伺いたいところで。中の状況はよくわからないんでねぇ」

 世良の言葉に、僕は一抹の反発心で聞き返す。

「……はぁ。でも、僕が犯人かもしれないじゃないですか?」

「可能性は限りなくゼロに近いようですがねえ」

 世良は、眼鏡の奥の目を細めて僕をチラリと見た。その爬虫類のような目に、僕は思わず体を強張らせる。

「大体、センセイ、被害者がどうやって死んでいて、凶器がなんだったかご存知ですか?」

「……えっと、いや……」

「あの部屋のどこで死んでいたかは?」

「……それも……」

 僕は口ごもり、知りません、と小声で付け足す。

「しかも、センセイ、犯行推定時刻に藤堂先生と一緒だったんですよね?」

「一緒じゃないです。オンラインで顔を見ながら食事をしてただけです。それにそもそも、犯行推定時刻が何時頃なのかも知らないですよ、僕は」

 そこだけははっきりと訂正する。

「俺は嘘、つかないよ!」

 唐突に藤堂が横槍を入れる。

「おまえがつかなくたって、僕が犯人で、意図的に知らないって云うことだってできるじゃないか」

 ティーポットを片手にゴソゴソとしていた藤堂はきょとんとした顔をする。

「くろすけ、犯人でもないのに犯人になりたいって、君は変わってるなぁ。反抗期かな」

「は? 犯人になりたいわけじゃない。ただ……どうして僕なのかって」

「だって、君は内部の状況もよく理解できているうえに、犯人である可能性は極めてゼロに近い。ていうか、君が犯人だったら、俺、自分が解離障害か妄想性障害抱えてるのかなって心配になっちゃう。それに、なにより、俺が呼んだんだから」

 苦笑いを浮かべた世良が、まぁまぁ、ととりなす。

「いやあ……普通の反応だと思いますけどねぇ。勿論、センセイが犯人ではないと断定はできませんしね、知っていることを知らないと嘘をつくことだってできることくらい百も承知ですよ。だが……先程も申し上げましたがね、このまえのレッド? でしたか? あんなことひとつとったって、こっちは知らないことばかりですし、まぁ、そんなわけでね、すんませんけど、捜査に協力してやってくれませんか?」

 捜査に協力、じゃなくて、ていのいい内通者になって、藤堂の手綱を引っ張っておけ、の間違いじゃ? と小声で毒づきながら、僕はもう一度溜息をついた。それでも、世良の云うことには一理ある。救命センターの中、というのは、特にこのご時世では、外部の一般の人には想像し難いことも多くあるだろう。医療の世界というのはもともと専門性が高いうえに、救命センターというある種、外部からは閉ざされた場所で起きた事件ならばなおのことだ。

 おざなりに頷くと、世良がホッとしたようにいからせていた肩を下ろすのが見えた。

藤堂は、自分が撒いた種だと云うのに、鼻歌混じりで不揃いのティーカップに紅茶を注いでいる。僕は不思議の国のアリスのおかしなお茶会を思い出して、なんだか諦めにも似た気持ちになった。

「あ、細井くん。紅茶飲む?」

 扉のところに立っているミシュランくんにティーカップを手渡し、藤堂は僕の隣に陣取る。そして、あろうことか世良に奥の席を勧める。

 藤堂は俄かに楽しそうに目を輝かせると、世良が椅子に腰掛けるなり声を上げた。

「そんなわけで、全員揃った? じゃあ俺からね!」

「待った」

 勝手に場を仕切ろうとする藤堂を僕は慌てて制した。そもそも、僕は、狗田がどこでどんな風に死んでいたのかも知らない。話を聞くにしろ、聞かれたことに答えるにしろ、まずはそこからだ。

「世良さん。申し訳ないんですけれど、狗田の死因や現場の状況についてうかがうことはできますか? そもそも『それが』オンラインではやりとりができない理由ですよね?」

 僕は呼び出された理由を盾に主張する。

少なくとも、事件のアウトラインだけしか知らずに、藤堂のおもりをしながら、世良たちに情報だけ渡すのは癪に触る。どうして僕が? という気持ちにだってなる。

「おっと、そうですね。じゃあ最初にこちらからお話ししましょう」

 おい、と世良が小さく目配せすると、細井が大きな体を丸めて、中に入ってくる。ダイニングテーブルと本棚の間の狭い通路に大きな体を捻じ込んで、殆どぴったりはまり込むと、茶封筒から写真を取り出した。

「こちらが、現場の写真です」

 机の上の雑多なものをどうにか端に追いやって、空いたスペースに広げられた写真に僕は息を飲んだ。

 写真の中の狗田は、口を半開きにし顔の下半分は血まみれで、喉は切り裂かれ、内側の赤黒い肉が覗いていた。薄らと見える管状のものは気管だろう。右の掌にはナイフが深々と刺さり、昆虫の標本のようにベッドへとぬいとどめられている。

 鋭利な刃物(おそらくは右手に刺されていたナイフだと思う)で切られたような深い傷が、胸骨より左側……第五肋間あたりだろうか……に、走り、赤黒い血が周囲を染めていた。それから、肋間に沿って、ナイフで刺した傷がいくつも点在して……。僕は思わず口元を覆う。

「それからこれが現場に落ちてましてね」

 世良が示した写真を見て、僕は今度という今度こそ「うわあっ」と叫んでいた。

 そこに写っていたのは、恐らく、切り取られた舌の一部だった。

 頭がクラクラするような狗田の亡骸に、僕は壁にもたれて、天井を振り仰ぐ。

「くろすけ、大丈夫?」

「あ、うん。ごめん。ちょっと驚いちゃって」

 そう云えば、まりりんはあのとき「どう見たって死んでいる」って云っていた。僕は今頃になってその言葉がいかに正しかったかを痛感していた。この遺体を、最初に発見した佳野先生や古谷さん、まりりんの衝撃は今の僕より何倍もひどかっただろう。

 僕は写真をそっと裏返し、ふぅ、とひとつ息をつく。

「……ごめんなさい。大丈夫です。続きを教えてください」

 身を乗り出し、よしよし、と僕の頭を撫でる藤堂の手を退かせ、僕は座り直す。心配そうに僕を見る細井にも、貼り付けた作り笑いを差し向けて、続きを促した。

「見ての通り、被害者はベッドの上で亡くなっていました。部屋中血まみれでしたが、争った形跡は一切ありませんでした。被害者は特に抵抗もせず為すがままに刺されたようです」

 いくら寝ているところを襲われたにしたって、そんなことがあるんだろうか、と僕は首を捻る。

「死因は失血死。心臓を刺されているんですが、それが妙でね」

 写真を示そうとした世良が、僕をチラリと見て手を引っ込める。

「まぁ、さっき見てもらったように、心臓をひと突きって言うんじゃなく、心臓が見える状態にしてから突き刺してるようなんです」

「左第五肋間の傷には生活反応があったんだ。生きてるうちに皮膚を切って、肉を切って、心臓をきちんと確認してから刺してるみたいなんだよね。普通なら、ぎゃーとかやめてーとか云うじゃん? いくら眠剤を飲んで寝ていても起きるよねぇ?」

 藤堂は頬杖をついたまま僕を見て、いつもと同じ調子で続ける。

「完全に死亡してから、っていう傷は右の掌だけ。順番はわかりにくいんだけど、傷の形状から見ると、致命傷になってる部分が最初だと思う。刃物って徐々に切れなくなっていくでしょ? だから、一番鋭利で綺麗なところが最初の傷だと仮定するとそうなる」

「藤堂先生のおっしゃった通りで、まぁ、有り体な話なんですがね、こりゃあ、よっぽどの恨みがあっての犯行だろうと」

 世良の爬虫類のような小さな目が僕をチラリと見る。

「そんなわけで、内部の人間関係やら、なんやらの聞き込みもしなきゃあならないんです」

「はぁ……」

 はぁ、以外の言葉が出てこない。僕はただの非常勤救急医で、犯罪の専門家でもなければ、法医学の人間でもない。どこにどう貸せる知恵があるんだ、と途方に暮れる。と、そんな僕に先回りするように、世良が猫撫で声で云う。

「専門的なことはこちらが調査するんでいいんですよ。先生にはちーっと教えていただきたいこともあるんです」

 世良が「おい」と声をかけると、再び、細井が茶封筒からA4サイズの紙を取り出した。

「で、こっからは、藤堂先生への報告でもあるんですが、被害者の血液から、ブロチゾラムとロク……ん? クロ……ああ、ロクロニウムの成分が出ました。ブロチゾラムはごく少量で、枕元に同名の空のヒートが落ちていたため、被害者が自分で服用したものの可能性が高いとこちらは考えています、ですが……」

 それまで子供のように頬杖を付いていた藤堂は「ふぅん。やっぱり出たね」と相槌を打つ。

「ええ。藤堂先生のおっしゃる通りでした。案の定、薬剤の成分が検出されました」

「ロクロニウム……筋弛緩剤」

 思わず呟くと、細井が頷く。

「センセイのところの病院でも使っているんですか? この、ロクロクなんとかいう薬を」

「はい。今はほとんどの病院で挿管するときや、全身麻酔のときに使われていると思いますよ。むしろ、他の筋弛緩薬を使うことの方が少ないと思います」

「なるほど。それはそんなに簡単に手に入るものなんですか?」

「いえ、筋弛緩薬は普段は鍵のかかったところに保管されています。勿論、医師の処方がなければ使うこともないし。それに量も管理しているはず……」

「ほお」

 いつの間にか取り出した手帳に世良は僕の言葉を書き留めている。

「麻薬ほど厳密ではないですけれど……麻薬は残量も全量返品ですから……でも、ロクロニウムも、使った量や残った量もチェックしているはずです」

「なるほど。じゃあ、その筋弛緩薬を手に取ることができる人間は、薬剤師、看護師、医師、くらいなもんですかね?」

「だと……思います」

 答えながら僕は眉を顰めた。普通、手術の時には、筋肉の動きを抑える筋弛緩薬、痛みをとる麻薬、それに眠らせるための鎮静剤の三つを使い、患者の苦痛を最小限に抑える。だけど、今回の犯罪が、もし、本当にブロチゾラム程度の睡眠剤での鎮静下に行われたのだとすると。……それは殆ど拷問だ。

「このブロなんたら言うのは……ええと、こちらで調べたところ睡眠薬、ですかね」

「はい。ブロチゾラムは短時間作用型の睡眠導入剤で、実は僕たちみたいな交代勤務をしている人間は睡眠リズムが狂いやすいから、使用している人も多いんです。ブロチゾラムの他には超短時間作用型のゾルピデムを使っている人も多いかな。昔は、ハルシオン……トリアゾラムを飲んでいる人も多かったんだけど、今は制限が厳しくなってしまって、ブロチゾラムやゾルピデムを使ってることが多いと思います」

「つまり、このブロチゾラムについては、被害者が習慣的に飲んでいた可能性が高いっていうことになりますかね」

「そうだったのかも……しれません。でも」

「でも、なぁに?」

 藤堂は先刻からじっと僕を見つめている。心の奥底まで見透かすほど真っ直ぐに。僕は、少しだけ目をあげ、藤堂を見つめ返した。やっぱりこれは云っておくべきだ、と思った。

「この犯人が、医療従事者で筋弛緩剤を使う立場にある人だとすれば、これは酷い拷問みたいなものだと思う。ロクロニウム……筋弛緩薬の効果で抗うこともできなければ、叫ぶこともできない中、鎮痛作用のある薬剤が投与されていないのならば、痛みも感じて、そのうえ、痛みがあれば睡眠剤を飲んでいたって目を覚ます。意識のある状態で、痛みと恐怖を感じながら、狗田は……被害者は……殺されたんだと……思う」

 言い切ると、胸が痛んだ。胸元を押さえ、大きく息を吐き出すと、藤堂がフッと目を細めた。

「この遺体は」

 いつになくシンとした声が喋り始める。

「体内の血液の大半が失われているから、直腸内温度の低下は通常より速い。一方で、死後硬直が殆ど見られなかった。死斑もこの状況じゃアテにならない。それにしても、死後硬直が他の所見とあまりにも整合性がとれないから、なんらかの薬物の使用を俺は疑ったんだ」

「……なるほど。筋弛緩作用のある薬が使われたかも、って思ったのか」

「うん。クラーレで死ぬときみたいにね」

「クラーレ?」

「えー。薬理学の授業でちょっとだけ出てきたじゃん。矢毒の成分だよ。まぁ、クラーレで死ぬ場合、呼吸筋の麻痺から呼吸停止する。筋弛緩作用のある薬物を投与された遺体は、死後硬直の程度が死後の時間経過と合致しないことがあるんだ。もっとも、この犯人が、クラーレを塗った毒矢で獲物を射殺すように、相手を薬物的作用で窒息死させようとしたのかどうか、はわからないけれどね」

 ひょい、と肩を竦めた藤堂がマスクを引き下げ、紅茶を啜る。

 世良は相変わらず爬虫類のような目で僕と藤堂を順に眺めてから手帳をパタンと閉じ、小さな溜息をついた。

「まあ、犯人をとっ捕まえて、その辺りのことは聞きましょうや。このあと、警察は、ロクロニウムの入手経路と入手可能な人間の特定、それから、もう一度防犯カメラの解析にあたります」

「うん。俺の方もまたなにか思いついたら連絡するねぇ」

 藤堂はひらりと手を振る。世良は慣れているのか、そんな藤堂を横目で見て会釈を返す。

「まぁ、そんなわけで、榊センセイもまたよろしくお願いしますよ」

 曖昧に頷く僕をよそに、藤堂は優雅な仕草で紅茶を飲んでいた。

そして僕の中には、狗田を殺した顔のない殺人者の影が住み着いた。拷問のようなやり方で狗田を殺した人間が……もしかするとあの救命センターの中にいるのかもしれない。 

ふと顔のない影が嗤った気がした。





二十


 狗田が死んで、救命救急科の人手不足は僕が来る前……いや、それ以上に悪化した。僕は現状、週に三日の日勤のみ、という契約で働いているから、狗田が入っていた夜勤をカバーすることは出来ない。夜勤の人数を三人から二人に減らすことで、どうにか救急体制を維持していくことになった。

 幸いなことに、コロナの感染者数は人流の抑制で大幅に減っていて、新規患者数は一桁で推移している。コントロールセンターからの入院要請はまだあるものの(当初、軽症だった患者が重症化したりするせいだ)救急外来でコロナが陽性になる患者も減っている。

 五月十四日には三十九の県で緊急事態宣言が解除された。僕たちの暮らす波崎市はまだ解除の対象ではなかったけれど、それでも、自粛続きの毎日の終わりが見えたようだ、と囁き合う声が聞こえた。

 狗田の殺害現場になった当直室の前にはまだ警察官が立っていて物々しい赤いテープが貼られたままで、流石に、隣の部屋で狗田が殺されたこともあり、第二当直室を使うことも憚られ、夜勤のときには一人は第三当直室、一人はカンファレンスルームのソファで眠るようになっていた。

 欠伸を噛み殺しながら出勤すると、いつもまりりんが座ってなにがしかのおやつを齧っているソファでは、軍曹が眠っていた。

 足音を立てないよう注意を払っていたのだけれど、気配に気づいたのか、軍曹が薄く目を開けた。

「あ、ごめんなさい。起こしちゃって……」

「ああ。おはよう。もうすぐ申し送りだし、どうせ起きるところだ」

 軍曹はソファの上で身を起こすと、首を一度回して大きく伸びをする。

「コロナで受診控えもあるのか、夜も落ち着いていたぞ」

「そうですね。最近、昼間も発熱以外の不定愁訴系の受診は減ってます」

「このままコンビニ受診が減ってくれればいいんだがなぁ」

 事実、いわゆる『コンビニ受診』と呼ばれる、軽症で緊急性のない救急での受診は緊急事態宣言以後、大幅に減っていた。悲しいことに、コンビニ受診は、救急受診の半数以上を占めているというデータもある。救急ならば待ち時間が少ないはずだ、とか仕事があるから普通の時間には受診できない、だとか……それぞれに言い分もあるのだろうけれど、救急を受ける側からすれば、勘弁してほしい、と云うのが本音だ。

病院に行ってコロナの人がいたらうつるかもしれない、と受診控えをする人がテレビでインタビューを受けていたけれど、これくらいならば受診しなくても、と云う閾値がコロナへの恐怖心の分、上がったように思える。

「どうでしょうね。人間って忘れていく生き物だし、感染者数が減れば、また自己本位な受診も増えるんでしょうね」

 お湯を注ぐだけのインスタントコーヒーを入れ、軍曹に差し出す。立ち上がりながらマグカップを受け取った軍曹は部屋の奥の指定席へと移動する。

「狗ちゃんがあんなことになっちまったし、落ち着いたらまた今後のことを相談しないといけねぇなぁ」

「……そうですね」

 心の奥が、ぐいっと重たいもので突き上げられるように感じて僕は言い淀む。

「大学からの派遣もこのまま引き上げだろうしな。大学は大学でコロナの受け入れをしなきゃぁなんねぇし、コロナが第一波だけでおさまるたぁ思えねえよな」

「はい……。人出が戻ればまた感染者は増えますよね」

「ワクチンか特効薬でも出ねぇ限りは、どうしようもねえよなあ」

 軍曹は乾パンの缶を開けると、ガリガリと齧りはじめる。僕は自分用に入れた紅茶を抱え、ソファに腰をおろした。

「どれもそんなすぐには無理じゃないですかね?」

 おはようさん、と大きな欠伸をしながら入ってきた那珂川先生が会話に参戦する。おはようございます、と返し立ち上がろうとすると、手で制される。

「ぶっちゃけ、この人数でいつまでも回すのは無理でしょ。大学から人を貰うか、新しい奴を増やすかしないと」

 自分でコーヒーを入れながら、那珂川先生は淡々と、みんなわかっていてそれでも言葉にできないことをさらりと言い放つ。

「俺も子供のことで無理を通してもらってるんであんまり言えた立場じゃないんですけどね、この状況が続くんだと、職場を移ることも考えないとなって、思ってます」

「おいおい。那珂川。薄情な奴だな」

 那珂川先生が後ろを通り過ぎざまに、僕の頭をコツンと軽く小突く。

「こんな人手不足のなか、狗田を殺した犯人、誰なのかねえ」

 サラリと呟いた那珂川先生の言葉に、空気が一瞬凍りつく。それはきっと、誰もが思っていて口にできない一言だったからだ。

 殺されていたのが第一当直室で、スタッフしか出入りができない場所であったこともあって、狗田を殺したのは、救命センターの誰かだ、と僕たちは薄っすらと互いを疑っている。人を救うために働いているはずの僕たちのなかの誰かが、狗田の命を奪ったのに違いない、と。

 その疑心暗鬼も、僕の……僕たちの心の重荷になっていた。

「まあ、なにか進展がありゃ、こっちにも連絡が来るんじゃないか?」

 ガリッと乾パンを噛み砕いた軍曹が苦々しげに答える。

「敵を作りやすい奴だったとは言え、まさかなあ」

「こんな状況だったからでしょ」

 モニターの下の壁に凭れて、那珂川先生が溜息まじりに吐き出した。

「コロナコロナで仕事はクッソ忙しい。かと思や、医療従事者に感謝を、なんて口先ばっかでおかしな言いがかりをつける奴は山ほどいる。精神的にも肉体的にも参ってるうえに、パーッと飲みに行くこともできない。そりゃあ、普段より心の余裕もなくなるってもんでしょ」

 その言葉に僕は頷く。

「それ、わかる気がします……。僕、独身で一人暮らしなんですけど、このまえ、西くんが亡くなって、一人でどうしようもなく落ち込んじゃって……。人と会ったり、話したりすることって、面倒なことばかりじゃなくて、実はすごく助けられていたのかもなぁって実感したところです」

「ああ。なるほどな。だが、家族がいれば家族がいたで、余計な気遣いもしなきゃならねぇから、それはそれで大変だぞ。なぁ、那珂川?」

「まぁそうですねー。うちは子供が病気持ちなのもありますけど、帰ったら玄関前で消毒、その後、風呂直行。俺の洗濯物だけ別で洗濯。頭の先から全部キレイに洗ってからやっと部屋に入れる感じですわ。嫁はオゾン消毒用の二十五万もする機械を買うとかなんとか言い出す始末ですよ。もうね、俺、家じゃバイ菌扱いですよ」

「うちも那珂川んとこほどじゃねぇけど、万が一にも家族にウイルスを持って帰らねぇようにって気を使ってるな。榊みたいに、苦しくても誰にも頼れない辛さはねぇけど、同居の家族がいればいたで、それはそれでストレスにもなる」

「ホント、このウイルス滅びてくんねぇかなあ」

 那珂川先生の言葉に、僕は不謹慎だけれど、少しだけ笑ってしまった。釣られたように軍曹も頬を緩める。

「そんくらいの気持ちでいりゃぁ、まあ、やっていけるんだろうが、なんで狗ちゃんを殺しちまったんだかなぁ……犯人ってやつは」

 と、モニターの画面を流れていた波形が乱れ、アラームが鳴った。

「おっと、ちょっと見てくる。みんな揃ったら先に申し送りを始めていてくれ」

 言い残し軍曹が足早に部屋を出ていくのを僕たちは見送る。那珂川先生はフッと息をついて、僕を見た。

「おい。榊。おまえは人を殺すような奴じゃねぇから言っとくけど、気をつけろよ。人を殺すくらい、精神的に余裕のねぇ奴が身の回りにいるってことだからな」

 思ってもいなかった言葉に、僕は背筋を伸ばして頷く。

「誰がなんの為に狗田を殺したのかもわからないんだ。他人のことより、自分のことを優先して身を守れよ」

 はい、と答えながら、僕は那珂川先生に頭を下げた。那珂川先生はそれきり口をつぐむと、モニターをじっと見つめていた。





二十一


 警察も捜査を続けている様子だったが、狗田殺害の犯人はようとして知れぬままだった。一週間と経たず、藤堂から呼び出された僕は仕事上がりに再び母校に来ていた。

 准教授室に入ると、僕は思わず我が目を疑った。

 藤堂がオレンジ色ではない格好をしている。

クリーム色のシャツとダークグレーのハウスチェックのパンツにウエストコートという、藤堂にしては恐ろしくまともな格好で革靴まで履いている。

「くろすけ〜。待ってたよ」

 嬉しそうに両手を広げる藤堂から一歩退いて、僕は頭のてっぺんから爪先まで三度ほどまじまじと眺めてしまう。

「……どうしたの? その格好」

「いいでしょ! ブリティッシュトラディショナルスタイル」

「ああ……うん。オレンジよりはだいぶいいけど……」

「オレンジはね、検証が終わったからもういいの」

「……あ、ああ、そうなんだ」

 悲しいかな、最近あのオレンジの塊に目が慣れてしまっていた所為か、普通の格好に驚いてしまった。

「ラッキーカラーの結果、知りたい? 知りたいよね?」

「……いや、別に……。それより事件のことで僕を呼び出したんじゃないの?」

 はい、と椅子を引き、僕に座るよう促すと、藤堂は紅茶を入れ始める。聞くか聞かないか、なんて返事を待つわけもなく、まともなのは格好だけ、の男は勝手に喋り出す。

「まず! 今回俺は、オレンジ色という、色彩学的には、エネルギーや感情、開放感っていう意味合いのある色でこの実験にトライしたんだけど、普段より開放的な気持ちになるか、って云われると答えはノーだった」

「……それは、オレンジ色を見た側への影響じゃないのか……?」

 それに、そもそもその色を身に付けなくても藤堂はエネルギッシュだし、開放感に常々満ち溢れている。

「おっ。くろすけ。鋭い。それもひとつだね。ただ、色彩学の本を見ていると『色を選んだときの心理』が色には現れるっていうから、選ぶときにはその色彩が持つイメージでもってまずは選択を行う。楽しい気持ちの時は暖色系を、感情的に落ち着いているときには寒色系を選ぶ、なんて云われるね。とはいえ、色彩が持つイメージで選択し、身につけた段階で、その色彩自体が選んだ本人に与える影響は少ない、と俺も考えた。むしろ、影響が出るのはその色を目にする側の人間になるんじゃないかって!」

 柔らかい香りが立ち上る紅茶がティーカップに注がれ、隣に藤堂が腰を下ろす。僕はマスクを外し、小さく息を吐いた。

 藤堂が更に言葉をつづけようと口を開きかけたところで「どうもすいませんねえ」と世良が顔を覗かせた。

「どうもどうも。お呼びだてして悪かったですねぇ。センセイ方にちょっと見ていただきたいもんがあってですねえ。それにしたって、驚いたでしょう? 藤堂先生の変身っぷり。仮装でもしてるのかってくらい、格好が変わっちまってるでしょう」

「ええ。まぁ、驚きはしましたけど……藤堂なので」

 いひひ、と物語の魔女のような笑いを漏らした世良は、体を横にして本来藤堂が仕事をしているのだろう奥の席に向かい、額ににじんだ汗をハンカチで拭う。

「センセイが居てくれると助かりますわ。色々なところで。しっかし、マスクをしてると、これくらいの季節でも汗が出ますな」

 言外に藤堂のお守りだと云われ、反論するより前に、藤堂が話を混ぜっ返す。

「犬だったら熱中症だね!」

「……犬はマスクしないでしょ」

 僕の呟きはあっさりと黙殺され、世良がテーブルにノートパソコンを置いた。

「今日はこいつを見て、ご意見をいただきたくてお呼びだてしたんですわ」

 世良の声に重なるように、慌ただしい足音がすると、ミシュランくんによく似た若い男がそれこそ息を切らせて顔を覗かせた。マスクをした顔は上気していて、一階から階段を駆け上がってきたのかもしれない。

「世良さん、待ってくださいって」

 遅れてやってきた細井は、前と同じく入り口のところで立ち止まっている。

「おせぇぞ。細井」

「こ、これがないと再生できないじゃないですかぁ」

「おお。悪ぃ悪ぃ」

 細井刑事が差し出したUSBを受け取りノートパソコンに差し込み、世良は電源を入れる。お馴染みの起動音がして、画面が明るくなると、手早くカーソルを動かし、世良はひとつのファイルを立ち上げた。

「こいつはあの事件のときの防犯カメラの映像なんですがね」

 テーブルの向こう側から身を乗り出した世良は、僕と藤堂の方に画面を向け、ぐい、と押してよこした。薄暗い、ホラー映像のような画面が表示されている。

「……あの、僕がそんなものを見てしまってもいいんですか?」

「意見をいただくには、見てもらうしかないでしょう」

 だからこの部屋に呼び出されたのか、と合点が行く。確かに、一般人を呼び出して警察署で防犯カメラの画像を見せることはできないだろうが、今回、狗田の遺体の司法解剖を行なった藤堂のところならば、ということか。

「これはどこの防犯カメラなんですか?」

 確か、第一当直室と第二当直室のある、あのスタッフ専用通路には、防犯カメラが二つある。緊急時以外殆ど使うことのない非常用の外に通じるガラスの扉と、MRI室の隣に出る鉄扉、それに先日世良達を案内するときにも入った更衣室や器材庫へと入る扉、そのうち、MRI室との間にある扉を出たところにひとつ。それから、非常用扉のところにもうひとつ。

「あー。これはあの、ほら、外に出られる扉のとこですわ。こう……この角度が、完全に外に向けてついてるもんでねぇ……まったく、内向きにつけておいてくれりゃあいいものを」

映されているのは、世良の云うとおり、外と出入りもできるガラスの非常扉だった。日中はここから陽が差し込んで、この廊下も少し明るくなるのだけれど、夜の画像だけあって、画面は尚更暗い。

普段は鍵がかけられていて、スタッフが出入りに使うことはないのだが、万が一、ここからの侵入者があるときに備えて、外向きに防犯カメラが取り付けられている。その向きが反対を向いていれば、と世良が嘆くのもわからなくはない。反対側を向いて防犯カメラが付けられていれば、狗田の殺害されていた部屋から出てきた犯人の姿も映されていただろうに。

僕は暗い画面に目をやった。

「あの晩のもんなんですが、どうにも奇妙な幽霊みたいなもんが映ってましてね。よく見といてくださいよ」

 藤堂は目を大きく見開いて画面をじっと見つめている。格好が少しばかりまともになろうが、中身は変わらない。『幽霊』という単語に興味津々、と体中から伝わってくる。

 無声映画を見ているようだった。

音声まで記録はできない監視カメラの画像は、暗いせいで灰色と黒の微妙なコントラストで夜を切り取っている。唯一、色を感じるのは非常口を示す緑のランプの灯りだ。殆ど動きのない画面をしばらく見るうちに、薄暗い画面が一瞬白っぽく光った。

「え? なんだろう?」

「……多分、現場から犯人が出てきたとこだと思うんですがね、この直後。見ていてくださいよ」

 食い入るようにモニターを覗き込んでいると、ドアのガラスに白っぽい……それも縦に長い……ものがふわりと映り、消えた。

「これです! これ」

 世良が手を伸ばし、画像を止める。

「見えましたか?」

 藤堂は世良の手を退けると、もう一度そこだけをリプレイし、ふぁ、と子供のような声をあげた。

 白っぽいものはいわゆる幽霊と云われて思い浮かべる真っ白なものではなくて、輪郭の曖昧な白っぽい物、だ。それが、映ったり消えたりしながら、ふわふわと移動している。

「こいつが犯人じゃねぇかって思ってるんですが、いかんせん、ガラスへの映り込みでこの暗さじゃあ、拡大しても解像度はたかが知れていて……」

 世良は別のファイルを開いて、僕たちに見せる。先程の白っぽいものを拡大しているようだが、粒子が粗くなるだけで、白っぽい、という以上のことはわかりそうにない。

 目を凝らしてみても、例えば顔がどうとかそんなものの判別は難しそうだった。

「殆ど灯りのないところでの映り込みなんで、鮮明じゃないんですよ。これでなんかわかるこたぁないですかね?」

 世良は小さな目を数度瞬かせた。

 動画をもう一度最初から再生しながら僕は思いつきを言葉にのせる。

「なんか白っぽい服を着てる、とかですか?」

「そう見えますよねえ」

「白衣を着ていた……のかな?」

「ああ、確かに。病院の中ですし、それは可能性としてありますね」

 手帳に目を落としていた細井がサラサラとメモを取る。僕の隣に陣取った藤堂は、不満げに「うーん」と唸った。

「……白衣かぁ。病院じゃみんな着てるもんね。葬儀屋さんも着てるし」

 それにしたって、防犯カメラの映像では、白っぽいものが映るのは一分にも満たない……ほんの僅かな時間だ。

「これ、実際に映ってるのは……二十三秒か」

 映像を戻して、じっと見つめていた藤堂が呟く。

「ほんの二十数秒程度で消えちまうって、まるで幽霊みたいでしょう? どこに消えたってなもんですよ」

「……うん。そうだねえ」

 頬に片手を当てた藤堂は、人差し指を小さく動かしている。考え込むときのこいつの癖だ。

「しかも、このカメラは外向きに付けられてるって先刻もお話ししましたがね、犯人が外に出る姿は映ってないんです。非常扉があるんだから、そこから外に出たならばわかるんですが」

「……カメラがあることを知っていたってことですか?」

「まぁ、そういうことでしょうねえ。じゃなきゃ、一番手近な逃亡経路でもある非常扉を通らない理由がわからない」

 世良と僕のやりとりを黙って聞いていた藤堂が間延びした声を挟む。

「ふぅん。つまり、ここにカメラが付いているのを知っている人間が犯人って云うこと?」

「いえいえ、そうとも言い切れないんですがね。カメラの場所なんて、まあ、云ってみりゃあ見ればわかることですから、それで犯人が決まるわけじゃないです」

 藤堂は再び不満げに「うーん」と唸った。世良は藤堂の様子を伺い、動画を止めると、救命センターの見取り図をパソコンの画面に表示する。

「この非常扉以外に、現場から外に出る扉は、あのMRI室の前を通って、救命センターから出て、病院の玄関から出るしかないんですが、MRI室の前にも防犯カメラが着いていて、そっちにもこの時間帯に通った人間の姿は映ってないんです。もうひとつ、ここの扉は前に藤堂先生と世良さんが入らせてもらったコロナの人たちの部屋ですね」

 細井がメモを繰りながら説明する。

「更に、です。被害者が殺されていた部屋の窓は病室の窓と同じように十センチしか開けられないようにストッパーがつけられているので、そこから外に出ることはまず不可能だと思います」

 大仰な仕草で首を振る細井に僕は頷いて見せる。

「いまは、感染対策でレッドゾーンになっているエリアにも、オーバードーズの患者さんや精神的疾患のある患者さんが入院することもあって、動けるようになると興奮して部屋から抜け出す人たちもいるし、場合によっては自殺を図る人もいるんです。その人たちの安全の為に、窓から出入りできないように、救命センターの窓は全て、ストッパーが着いているんです」

 隣で頬に手を当てていた藤堂が声を上げる。

「十センチもあれば、そこから血で汚れた物を捨てることくらいはできそうだよね? 人間が出入りはできなくても」

 どう? と小首を傾げた藤堂に、世良は顰めっ面のまま首を横に振る。

「残念ながら、窓の外からは、犯人の遺留品と思しきものはなにも見つかっていません。凶器のナイフも遺体に突き立てられたままでしたしね」

「ふぅん。じゃあ、犯人が仮に先刻、君たちが話していたように白衣を着ていたならば、その下には血塗れの服を隠していたことになるよねえ。だって血液が付着した衣類は見つかってないんでしょ? あ、でもそっか。全裸でイヌっぽい人を殺して、シャワーを浴びてから服を着てもいいのか」

「……全裸で人を殺す……って、それちょっと変態っぽくないか?」

 藤堂の言葉にその様子を想像して、僕は思わず口を挟む。

「変態だったのかもしれないじゃん。それに合理的だよ。汚れたら洗えるんだもん」

 僕たちのやりとりを聞いてた世良が片手を上げる。

「あー……藤堂先生。それは無理です。あの部屋には浴室がついていましたが、使用された形跡もありませんでしたし、血液反応も見られていません。それから部屋の入り口に向かって、僅かではありますが、血液がこぼれた跡が残っていました」

「そっかぁ。じゃあ、犯人は白衣の下に犯行の時に着ていた服を着てたのか、もしくは、白衣を着て犯行に及んだのか、ってことか。でも、おかしくない? 本当に白衣やその下に着ている服が血塗れだったなら、誰だって気づくでしょ? 犯行推定時刻は十九時半から二十一時半頃。筋弛緩薬の所為で幅はこれより縮まらないんだけど……。その時間って人っ子ひとりいないわけじゃないでしょ? そんな格好してたら誰かに見つかるよねぇ」

「……その時間だと消灯前だし、少ないなりに院内に人はいるはずだ」

「じゃあ、なんで誰も犯人を見ていないんだろう? それにそもそも、現場から外に出るための扉のところについている防犯カメラには、犯人が外に出るところも映っていない。っていうことは、犯人は透明人間? そんな素敵な生き物なら、俺も会いたいね。でも、もし透明人間じゃないなら……犯人はどこへ消えたのかな?」

 つまり、と一度言葉を区切った藤堂は、マスクをしていてもわかるほど楽しげに、ニヤリ、と笑ってみせた。

「密室殺人、ってことになるね」

 一瞬の沈黙が流れた。

世良は苦々しげに顔を歪め「そういうことになっちまいますね」と吐き出す。

「ふふふ。なっちゃっていいのかな? 人間の肉体っていう物質がそんな簡単に消えるはずないじゃない。そんなに簡単に消せたら完全犯罪が山積みになっちゃうよ! それに、そんな魔法があるなら、俺も魔法使いになりたいもん。犯人はどこへ消えたのか……うふふふふ」

 いささか気味の悪い笑い方をしながら、藤堂は両手を広げた。それこそ、魔法でも使うように。

「よし! 実験しに行こう!」

「いや……先生。検証と言ってくださいよ」

 はぁ? と云う非難の声はやっぱり黙殺され、僕は退勤したばかりの職場へとリターンすることになった。





二十二


 犯行現場になった第一当直室に至る通路は、今日もやっぱり暗がりに沈んでいた。時間も犯行があったと推定される二十時頃で、あの日もこんなに暗かったのだろうか。

 先刻、世良に見せられた防犯カメラの映像と、いま目の前にある景色は似ているのに、どこか全く別のもののように見えるのは、カメラで映したものと、現実の僕の目が映すものとの違いだけなのだろうか。

 犯人役を、と指名された僕はロッカーから持ってきた白衣を羽織り、ぼんやりと犯人のことを思い浮かべていた。もしも、本当に犯人が医者や看護師の中にいるとして、人を救うべきこの場所で人を殺すことに躊躇いはなかったんだろうか。いや、それ以前に、どんなにか細い命の糸でも、どうにか助けようと日々戦っているなか、どうして人を殺そうと思ったんだろう。

 第一当直室のドアを世良が開ける。扉が開くと、マスク越しにもすえたような臭いがした。これは、狗田の死の臭いだ。

手袋をした世良が電気をつけると、明るさに目が眩む。僕は見るともなく室内を見てしまう。まだ事件の名残が色濃い室内には、テープが何箇所にも貼られていた。青いシートがかけられた当直用のベッド。壁には変色した大きな血の跡が残っている。床にも乾いた血溜まりの跡が黒い底無し沼のように広がっていた。胸がどきんどきんと音を立てる。

僕は慌てて室内に背を向け、目を閉じた。これ以上、考えない。考えてはいけない。

「藤堂先生、そっちの準備はいいですかい?」

 扉から顔を出し、世良が通路に声をかける。写り込みを避けた位置で腰に手を当て仁王立ちになっている藤堂が呑気な声で「いいよ」と答えるのが聞こえた。

 世良が部屋の扉を閉じると、更に臭いがキツくなる。えづきそうになるのを必死で耐える僕に世良が声をかけた。

「そうしましたら、ドアを開けてあっちの方に向けてお願いしますよ」

 僕はどうにか頷いて、ドアを開けた。

 吐きそうになる。

 犯人はどうだったんだろう。人を殺してここを歩いて。達成感? それとも。

 扉が閉まると通路は闇に満ちた。

 明るい室内から暗い通路に出ると、数秒、暗がりに目が慣れるまで立ち止まる。緑色の非常扉を示す灯りと、ガラスの向こうから射しこむ仄かな街灯の光。非常扉の向こうに街灯はないから、おそらくその向こうの植え込みのところから射しこんでいるのだろう。本当にほんのりとした明るさだ。

「どの辺りまで行ったのかな。犯人は」

 徐々に暗がりに目が慣れると、僕はふらふらと非常扉の方へと向かう。

「っと、ストップ。それだと、くろすけ本人が防犯カメラに映っちゃう」

 第一当直室の前に戻ろうとした僕の腕を藤堂が掴む。僕と藤堂の姿がガラスの非常扉に映る。僕の姿は白く比較的はっきりとしているのに対し、ダークグレーのスリーピースを着た藤堂はどことなくぼんやりと映っている。

「あ、ごめん。どこを歩けばいい?」

「うーん。少なくともこの扉から外に出たところは映っていないから、行くとすればやっぱりこっちかな? そもそもこの扉は開かない」

 藤堂は自動扉、と書かれた硝子の扉を手で叩いてみせた。施錠された分厚いガラスはゴン、と重たい音を返すばかりでピクリとも動かない。

そこから九十度のところにある更衣室やレッドゾーンへと繋がる、手術室の入り口にあるような扉の前面に設られた大きなタッチボタンには警察が指紋を採取したのであろう跡が僅かに残っていた。けれど、この扉はキックセンサーがついているから、必ずしもこのタッチボタンを押さなくても開けることができる。閉まるときも自動だから扉に触れる必要はない。それに、この扉は施錠されていない。ただ……。

「こっちには更衣室とレッドゾーンしかないけれど……」

「でも、人間っていう『質量と体積を持った物体』が犯人ならば、現代科学じゃ瞬時に消失することはできっこないもん。幽霊なら別だろうけど! あ、霊魂に質量があって、だからそれも『物体』だって云うのはナシね」

 藤堂の口調はあくまで楽しげだ。人の死、その残渣が漂うこの場所で、どうしてそんな風に? と一瞬、僕は戸惑う。こういう奴だとわかってはいるけれど、時々わからなくなる。藤堂という男のことが。

 僕の腕を掴んだまま、ガラス扉の前に立っていた藤堂は、突然「ん?」と眉を顰めた。

「ちょっと待って。くろすけ。なにかが違う」

 非常扉に浮かぶ薄ぼんやりとした白い姿をじっと見つめていた藤堂は節ばった長い指を頬に押し当て黙り込む。

「なんだろう。なにが違うんだ?」

 珍しく真剣な顔をした藤堂がブツブツと口の中で呟く様子を僕たちは黙って見つめた。

数分、それが『たった』だったのか、そうでなかったのかはわからないけれど、僕には随分と長く感じられた。

 ようやく口を開いた藤堂は、冴え冴えと冷たい目で非常扉を睨んでフッと嗤った。まるで『面白い』とでも云うように。

「ちょっと後でもう一回、先刻の防犯カメラの画像を見せてもらっていい? とりあえず、いまは、画像データを撮り溜めよう。くろすけ、いいよ!」

 その声を合図に、僕は今度は部屋の前から更衣室に向かう扉まで、部屋の前から非常扉とは反対側へ。真っ直ぐに、或いは、少しカーブしたり、通路の隅に沿い直角に曲がったり。いろいろなパターンで歩いてみた。

 速く。遅く。

 大股で。小走りに。

 そうして、十分ほど歩き回ったところで、藤堂が「はい、終わり!」と暗がりから声をかけた。

「これだけデータが取れたら十分だと思う。データの分析は警察のお仕事だね」

 そう言い放って藤堂は両腕を胸の前で組む。

「まあ、分析は警察にお任せだけど、この方向に歩いてきたなら、このガラス扉から外に出るか、こっちの更衣室に入るしか選択肢はないよね。もしくは……」

 消えるか、と藤堂が低く呟くのが聞こえた。





二十三


 その晩。

 僕は、法医学教室で一晩を明かす羽目になった。帰る、と云う僕と、帰らないで! と駄々を捏ねる藤堂の攻防は、勿論、僕が負けた。

 殆どの基礎医学講座の明かりが落ちた校舎の中を歩くと、やけに足音が響く。灯りの落ちた場所、と云うのは病院でも学校でもなんとなく怖いんだな、と思う僕の隣で、藤堂は通路沿いのガラス窓に映った僕たちの姿をじっと見つめていた。

「……違う。やっぱり、違う。何故だ?」

 掌を頬に押し当て、指先をトントンと揺らすのは考え込む時の藤堂の癖だ。

 随分と古びた埃っぽい廊下は、僕が学生の頃と殆ど変わっていないようにすら見える。

国立の大学も節電のために通路の電気は基本的に落とされていて、まだ研究をしている部屋から漏れる光だけが僅かな灯りになっていて、闇の更に奥深くまで続く通路のようだ。その点は第一当直室の前と大差ない。

 無言で先に立って歩いて行った藤堂は、一際明るい光が漏れている薬理学教室の開け放たれた扉の前で足を止めた。

「ここは……蛍光灯。外は……四階だから」

「藤堂、どうしたんだ?」

 なにを気にしているのか、僕にはさっぱりわからず、隣に立って窓に映った僕たちの姿を見つめる。まるで鏡のようにはっきりと映し出された僕たちがそこにいた。

「うん、違うんだよ。くろすけ。見てごらん。外が真っ暗だと、室内の光が煌々としている場合、鏡と同じくらい明瞭に像を結ぶよね。色も形も。だけど、あの画像では始終、薄ぼんやりとした幽霊みたいな映り方をしていた」

 そういえば、と僕はあの白というか灰色っぽいものが動く様子を思い出す。

「おまえ、まさか……本当に幽霊だとでも?」

「ふふふふ。それはそれで俺としては楽しいんだけど! でも、残念ながら違うだろうね。あの通路は外に街灯もあって、その光が僅かに入ってきているから、内側にある非常灯の明かりとの落差はここに比べて小さい。だから全体に映り込んだ姿が不明瞭なことは理解できるんだよ。とりあえず、俺の部屋で紅茶でも飲もう」



 藤堂は紅茶を淹れながらも上の空で、ケトルが沸騰を知らせても、頬に手を置き、ぶつぶつと呟いていた。代わりに紅茶を淹れてやると、ん、と小声で返事をして再び考え込む。

 こうなると納得するまで藤堂はアウトオブオーダーだ。

 僕はクラシカルなアールグレイを楽しみながら、藤堂がおとなしくしている間に、いままでに得られた情報を頭の中で整理していく。

 まずはひとつめ。狗田の遺体からはロクロニウムが検出されている。ロクロニウムの入手経路は? 入手経路がわかれば、誰が入手したかもおそらくはわかるんだろう……。正直なところ、医療従事者以外がロクロニウムを入手するのは困難だと思う。だとすれば……やっぱり僕たち救命センターで働く人間の中に犯人がいるのだろうか? 那珂川先生も云っていたように、僕の、僕たちのすぐ身近で犯人は何食わぬ顔をして働いているんだろうか? 医者、看護師……或いは、薬剤師? 薬品に触れることができる人間で、相応の知識があれば……僕は厭な考えを頭を振って払う。

 ふたつめ。仮に犯人が藤堂の示した経路を通って更衣室に入ったとして、犯人の脱いだ血塗れの白衣はどこに消えたんだろう。処置などで白衣に血がつくことはあっても、血塗れになった白衣、なんて、はっきり云って異常だ。洗濯に出せるはずもないし、捨てたとしか考えられない。少なくとも僕が犯人だったならば、被害者の血に濡れた白衣なんて一刻も早く脱ぎ捨てたいと思うだろう。レッドゾーンのゴミ箱まで警察は調べたと云っていたから、他のゴミ箱だって調べているに違いない。ゴミ箱に入っていなかったのならば、どこへ? 

 みっつめ。犯人が更衣室に入り白衣を脱いだ、として……。犯人はレッドゾーンに入ったのか? それとも、もう一度目立たない格好に着替えて当直室側の通路に戻ったのか?

 白衣の下がどんな格好だったのか知らないけれど、ロクロニウムを入手することができた人間……つまり、警察は僕たち医療従事者を疑っているのだけれど……だったと仮定して、夜勤の人間ならば兎も角、日勤や休日の人間が救命センターにいれば、それはそれで目立つだろう。

例えば、既に病院を辞めている椛谷が犯人だったとして、誰にも見つからずに現場になった当直室からレッドゾーンを経由して救命センターに入り、そこから外に出た、と考えるのは非現実的だ。それくらいならば、防犯カメラに映らずに、当直室前通路から外に出た、とする方がまだ現実味がある。

互いに顔も名前もほぼ知っている。そんななか、敢えて人から見られる恐れのあるレッドゾーンを経由して救命センターの中を通過し、外に出る必要があるだろうか? 

いや、そうか。夜勤の人間が犯人ならば、そのまま何食わぬ顔をして勤務を続けた可能性だってあるのか……。

 よっつめ。仮に犯人が救命センターの関係者だと仮定して、どうして狗田を殺さなくてはならなかったんだろう。警察は、古谷さんのことを疑わしいと云っていたけれど、治療方針が合わないからって相手を殺していたんじゃぁキリがない。他の可能性は? 

色恋沙汰? いや、狗田は結婚していたはずだ。

とはいえ、結婚しているからといって、恋愛をしない、と云うこととイコールにはならないのはボンクラの僕にだってわかる。

金銭問題? あってもおかしくはないけれど、狗田はお金に困っているようには見えなかった。誰かにお金を貸していて……という線ならばありうるのだろうか? 

あるいは……殺されるほど恨まれるようなことを狗田がしていた可能性は残念だけれどゼロじゃないだろう。狗田が大学時代、藤堂に対してしてきた仕打ちを思い出すと、他の人に対してもひどいことをしていないとは言い切れない。

 そこまで考えたところで、藤堂がふぅーっと息を吐き出すのが聞こえた。チラリと横目で見ると藤堂はいきなりジャケット、シャツと脱ぎ始める。

「えっ? おい、藤堂。どうした?」

「うん、ちょっと待ってね」

 まだ夜には肌寒いと云うのに、いや、それ以前に勤務先でもある法医学教室でいきなり半裸になった藤堂は隣の部屋に消えていく。

「くろすけ。こっちに来てよ」

 声のする方に行くと、水色のスクラブの上を着た藤堂が窓の前に立っていた。

「これさあ、水色じゃん? くろすけの病院で使っているプリコーションも水色だったよね」

 ほら、と指差された窓に目をやると、そこには『きちんと』水色の服を着た藤堂がいた。

「この部屋は蛍光灯の白色灯だから、こんな風に色がはっきりと明確に映し出される。じゃあ今度はこっち」

 藤堂に腕を取られ、廊下のどん詰まり、非常灯のところまで連れていかれる。廊下の電灯は勿論点いていないから、病院の当直室前の廊下と条件は殆ど同じだ。僕は何の気なしに窓に目をやって、あ、と唇を開く。

「あの通路はここと同じで、内側からの光は非常灯の緑の光だから、水色のものを着ていると、こんな風に白っぽい……というか、あの暗さだから灰色っぽく映る。サングラスをかけて物を見ると、レンズの色で見え方が変わるのと同じさ」

 なるほど、と頷く僕の横で、藤堂は再び頬に手をやる。

「だから、犯人が着ていたのは白衣じゃなくて水色の……おそらく防護服だ」

 藤堂は硝子に映った自分自身を冴え冴えとした眼差しで見つめていた。

「もし、防護服を着ていたのならば、更衣室への扉からレッドゾーンに入ることもできるよね」

「で、でも、そんな血塗れの格好でいれば、すぐにおかしいって気づくよ。百歩譲って、

その下に着ていた服が血塗れで、それを隠すためにフルプリコーションで外に出たのならばわかるけれど。」

「だったら、下に着ていた服はどうするつもりだい? 血塗れの服の上からあの防護服を着れば、防護服の内側には血液が付着するし、防護服を脱いだら結局は血塗れってことだよね? その服はどうするんだ? どう考えたって、犯行時にフルプリコーションだったと考える方が自然だよ。だってあの格好はそもそも、そうした汚染から身を守るための格好だよね? 返り血で汚れることを予見していたならば、フルプリコーションで……防護服を着て、犯行に及ぶのは理解できる行動だよ」

「じゃあ……もし、犯人がフルプリコーションで狗田を殺して、血塗れのまま更衣室に入ったのなら、どこかにその防護服や手袋、キャップを捨てたってことか? もしくは持って帰った? とか?」

 だらりと両手を脇に下げ硝子に姿を映したまま、藤堂はくすりと嗤った。

「やぁだな。そんなの持って帰るってマニアすぎるよ! くろすけはほんっと、時々、思いもよらないことを云うよね! そういうところ好きだけど。レッドゾーンのゴミ箱には入ってなかった、って警察が云っていたはずだよ。感染リスクのあるレッドゾーンのゴミ箱まで調べているんだから、更衣室や他の当直室のゴミは全てチェックされていると考えるのが妥当だ。レッドゾーンには他に物を捨てられる場所はないの? 俺たち部外者が知らないような」

「そんな場所ないよ。感染管理のためのエリアだよ? 不要なものは極力置かないようにしているはずだし、持ち込みの物品だって最小限に抑えなくちゃならない。ゴミ箱は各部屋の前と中に一つずつ。中身が溜まった時点で、蓋をして更に外でゴミ袋に入れてから廃棄してるんだから。分別しないで曖昧な状態でなにかを廃棄できるような場所はないよ」

「ふぅん。そっかぁ。じゃあ、ますます不思議だね。犯人は、血塗れの防護服でどこに消えたのか、さ。或いは……血塗れのままどこかに消えたの、か」

 言葉とは裏腹に、笑いを消した眼差しで硝子に映った姿を藤堂はじっと見つめていた。その視線の先になにがあるのか、僕にはただ夜の闇しか見えなかった。





二十四


 午前中には伺います、という世良からの電話で帰るに帰れず、藤堂が持ってきていたヴィクトリアサンドケーキを朝っぱらから二人で食べる。ガツンとくる甘さとラズベリーの酸味にぼやけた頭が目を覚ます。大学は相変わらず閑散としていたけれど、窓から見下ろす並木道は青々とした若葉の生命力に満ちている。

 僕は窓を開け、春の名残りの少しくすんだ青い空を見上げ、深呼吸をした。

 コロナ以降、気の滅入るようなことばかりだ。それでも、僕たち人間の営みが立ち止まっていても季節は変わる。こうして、冬が終わり、春も過ぎ行き、梅雨の雨の向こうには夏が覗いている。

 春の柔らかな芽吹きも美しいけれど、夏へと向かうこの季節には、健やかな美しさがあると思う。深く息を吸い込むと肺の隅々までこの季節に満たされるようで、僕は大きく息を吸い込んだ。

 ふ、と隣に気配がして、ソーサーごとティーカップが差し出される。

「ありがとう。ねぇ、藤堂。世良さんたち、なんの用か聞いてる?」

「聞いてないけど、昨日の実験の結果とか、聞き込みで浮かんだ人に関することとか、じゃない? 俺に先に詳しい話がなくて、くろすけに直接電話が入ったって云うことは、君の周囲の人間やあのセンターについて尋ねたいってことでしょ」

 一定の説得力がある言葉に、僕は頷く。確かに『僕に』電話がかかってきた以上、用事があるのは僕に対して、なのだろう。

 僕は救命センターで働く同僚や看護師の顔をうっすらと思い出す。

 みんなこのコロナ禍、必死で働いている。

 感染者の治療は、医療従事者側だって感染リスクと隣り合わせだ。それだけでも精神的負荷だと云うのに、物理的にもフルプリコーションでの勤務はハードだし、レッドゾーンでの勤務とそれ以外での勤務を兼ねられない以上、人手不足も深刻だ。

 それでも……みんな、戦っている。誰かの命を救うために、みんな立ち止まらずに働き続けているんだ。

 それなのに。

 僕は。

 俯く僕の頭を、藤堂が犬にでもするみたいにぐしゃぐしゃと撫で回した。

「くろすけはさ、優しすぎるよ。どうせ『仲間を売るみたいだ』とかなんとかウジウジ考えているんだろ? 仲間のそぶりをした殺人犯……そいつはただの人殺しだ。君が情をかける必要はない」

 撫で回していた手が、ぐいっと僕の髪を握ると、無理矢理俯いた顔をあげさせられた。

「痛ッ」

「いいか! くろすけ。俺は犯人を見つけるんだから! 君も前を向け。真実を見ろ」

 髪の毛を掴まれたまま頷くにも頷けず、僕はただ窓の外を真っ直ぐに見つめた。



 十一時前に、世良と細井がやってきた。

「今日は、先日の検証の結果と、榊センセイに伺いたいことがありましてね」

 出された紅茶を啜り、赤い箱に入ったショートブレッドをバリバリと食べながら世良が話し始める。

「昨日歩いてもらったデータと犯人と思われるガラスの写り込みを署に帰ってから分析してもらったところ、犯人の身長は一五五センチから一六五センチ程度とのことです。藤堂先生が仰っていたように、現場をでた犯人は、救命センターの中に入って行ったと考えられます。……が、あの部屋の出入り口にはシューカバーの跡が多く、足跡からの追跡は困難と考えられます」

「ふぅん、逆に、部屋に入るまでのところには足跡はなかったの?」

 細井が「ぐひゃ」と妙な声をあげる。

「藤堂先生……なぜそれを?」

「俺たちもあのあと検証したんだよ。ね? くろすけ」

「……ああ、うん」

 藤堂はそこで昨夜、僕に披露した推理と実証実験について語った。

「つまりさ、犯人が着ていたのは、防護服。きっとフルプリコーションで犯行に及んだんだと思うんだ。だとすれば、シューカバーを着けていたっておかしくないよね?」

「そ、その通りです。実は、更衣室までの足跡に犯人のものと思われる靴跡はなかったんです」

「靴跡はなくてもシューカバーの跡は残っていたんじゃないの?」

「それが……」

 細井がチラッと世良を見ると、苦虫を噛み潰した、という言葉そのものに顔を顰めた世良が、深々と溜息をついた。

「面目ない。我々もゲソ痕……靴跡を保存するためシューカバーを着用して現場に入るんですが……それが仇になっちまいまして……」

「なるほどね。森の中に木が隠れちゃったってわけか」

 あはは、と藤堂はこの状況に不釣り合いな笑いを漏らす。

「幽霊みたいだね! 足跡のない犯人なんて。ま、足があるからシューカバーをはけるんだけどさ!」

 発言の内容とは裏腹に優雅な仕草でカップに唇を寄せた藤堂は首を傾けた。

「血痕は? 結構な出血量だったと思うんだけど。血液の付着した足跡はなかったの? 解剖所見から考えると、犯人は、わざわざ手術でもするみたいに切り開いてから心臓を刺しているはずなんだ。胸腔内にも勿論、血液は溜まっていたけど、開胸された箇所からも相当量の血液が噴き出したはず。犯人は比較的短時間に他の箇所を同じ凶器で刺していると思われることからも、ナイフを抜けば刺入角に合わせて血液は噴出するよねぇ」

 確かに、あの部屋の床や壁に残されていた血痕からは相当な出血があったと考えるのが妥当だろう。が、僕はそこでふと疑問に思う。藤堂の云う『胸を切り開いて』というのが、左の肋間から開胸する方法だとすると、それは僕たちが心肺停止の患者に行う、直接心臓を揉む、という手段とよく似ている。いわゆる開胸心臓マッサージというやつだ。

 開胸心マは左第四肋間或いは患者の体型によっては第五肋間から胸壁を切開して、そこに開胸器を掛け、直接心臓を手で揉む。外傷性心肺停止の患者で、通常の心臓マッサージでは十分な効果が得られないような場合に行うのだけれど、交通外傷などの場合、心筋に損傷が及んでいることもあって、そんな時には損傷のある箇所を指で押さえて止血しながら、心臓を揉む。だが、記憶にある限り、その時にある程度の出血はあっても、噴き出した血液で僕たちが血まみれになったことはない。

「だけどさ、藤堂。開胸心マをするとき、心筋に損傷があっても、胸壁が障壁になって、血液が噴出することはあまりないよ」

「くろすけが云うことにも一理あるね。流石、救急医。ただし、ね。君の云うのは『助けるため』に行う場合だ。この犯人は相手を『殺すため』に行なっている。ナイフの刺入部は創部から直線上にあって、ナイフを引き抜いた際に一定の出血があったの考えるのが妥当だ。だから、ナイフを引き抜いた時には、それなりの勢いで出血があったはずなんだ。まあ、そのあとは肺が邪魔をして出血した血液は胸腔内に貯留したんだろうけれどね」

「壁の血痕の高さも藤堂先生の説明で矛盾のない位置にありました」

「遺体の開胸された位置と壁の血痕の高さを直線で結んだ間に犯人が立っていたと仮定して、身長が一五五センチから一六五センチの間とすれば、大腿部より下に血液を浴びていたと云うことになる。ただ、この犯人はあの高さのベッドに寝ている被害者の胸をわざわざ開いてから心臓を刺している。となると、切り開かれていた位置を立ったまま切ることは難しい。床にしゃがみこんで犯行を行なったのならば、それこそ全身に返り血を浴びていた可能性もある。とはいえ……被害者に掛けられていた布団には血液を拭ったような跡が残っていたし、大量の血液が染み込んでいたから、滴るほどの血液を浴びたわけではないのかもしれないね。全ては憶測だけれど」

 藤堂の言葉に、眉間に皺を寄せたまま、世良が吐き出す。

「……警察で感染の廃棄物も含め持ち帰って調べたんですが……現場で被害者に掛けられていた布団以外、廃棄物からは被害者の血液が付着したものは出ておらんのです。仮に、レッドゾーンでしたか? コロナ患者のいる部屋の前まで防護服姿で入ったとしたならば、脱いだ防護服を感染の箱に捨てるのが普通でしょうが、箱の中にはありませんでした。まるで幽霊ですよ。足跡もなく……いや、あるにはあるんでしょうがね……見つけられてねぇだけではありますが……消えちまっている」

 僕は、先日、西くんの幽霊が狗田を連れて行ったように思っていたのを指摘されたようで、背筋がぞわりとする。

 あの日はまだ、西くんの遺体もHCU1の部屋にあったから、コロナ対応をしている部屋で空き部屋もなく、そこに隠れることも不可能だ。

 血塗れのフルプリコーションを脱げば、何食わぬ顔をしてナースステーションに戻ることもできただろうけれど、そのためには、一旦、更衣室を経由して救命センターの外から入らなければならず、これも救命センター前のカメラにその時間帯に誰も映っていないことから、あり得ないのだろう。最後に、万が一、非常扉を開けて外に逃げたと仮定しても、それならば何故、そもそも一度更衣室の方へ入って行ったのかもわからないし、よしんば外に出られたとしても、外からの侵入に備えているカメラにその姿が映るはずだ。それに、あの非常扉は常々施錠されていて、外に出ることができたとも思えない。

「それで、です。こちらも関係者にいろいろとお話を伺ったんですが、いずれも決定的な証言ではなくてですねぇ、難航しています。あの被害者は、かなりあちこちで恨みを買っていたようですなぁ。正直なところ、身長が一五五センチから一六五センチの間となると、なかなか絞り込むのは難しいんですよ。体の大きな男性や大変小柄な女性以外なら、ほとんどがその範囲に入ってしまいます」

 それはそうだろう。でも、そう仮定すれば、身長一五〇センチのまりりんは犯人から除外されるし、僕(僕の身長は一七七センチだ)より少し低い程度の佐々や佳野先生は一七〇センチほどあるはずだからこちらも除外される。看護師でも、すらりとした長身の後田師長も一七〇センチはありそうだから対象から外されるだろう。

 けれど、大半の看護師や、小柄な月岡、ずんぐりむっくりとした田奈上先生はおそらくその範囲に該当するんじゃないだろうか。

 身長だけでは犯人ではないだろう人間を少しばかり除外できるだけで、犯人が誰かを特定することはできないのだ。

「まず……看護師の中には被害者からのパワハラを訴えている人間が複数名おりました。中でも、古谷実花子と云う看護師は被害者のことをかなり悪し様に言っていたという証言が複数あります」

「古谷さんは……口は悪いけれど……」

「我々にはさっぱりわかりませんが、患者の治療方針で揉めたそうですね。それもかなり激しく」

「治療方針で揉めることなんて、しょっちゅうですよ。そんなことで人を殺すなんてあり得ないです。古谷さんはそんな人じゃないです」

 僕は思わず世良に食ってかかる。

 口は悪いが、傷ついた後輩の話を仕事終わりの疲れた時にも聞いてあげるような人が、そんなことくらいで狗田を殺すとは到底思えない。もちろん、これは僕の先入観だけれど。

「まあまあ、センセイ。ひとつの可能性ですよ。他にも何人か名前が上がってます。あの派手な……元々センセイのところにいた女医さんもですし」

 女医、と云うのは椛谷のことだろう。けれど、辞職した椛谷が救命センターにいればそれだけで違和感があるはずだ。椛谷が犯人というのは的外れのように思える。

「あとは、センセイのところの若い先生もひどいパワハラにあっていたようですね。ええと、月岡先生でしたかね」

「……そんな。確かに、月岡は狗田からかなり厳しく扱われていましたけど、だからって誰かを殺すような奴じゃないです。使命感が強くて熱いところがあるから、ぶつかることはよくありましたが。それに、狗田は確かに横柄でしたが、仕事はできました。自分がする方が安全だし速い、って云いながら人の分まで仕事をしていることもありました」

「だから、殺されないはずだ、と?」

 メガネの奥にある世良の小さな瞳が光る。

「現実に殺されてますよねえ、狗田って人は。それが事実なんですよ。みんながセンセイみたいにお優しいわけじゃないんです」

「僕は……別にそんなつもりじゃ……」

「それから、研修医にも評判は悪かったようですね。苦情が病院側に挙げられていたようですよ。動機のある人間だけならばいくらでも見つかりましたよ」

「仕事関係の人間だけが容疑者なわけじゃないですよね? もしかしたら通りすがりの強盗が金銭目的に……とか、あとは……」

「仮に、百歩譲って動機が金目当てや痴情のもつれだとしても、筋弛緩剤を手に入れることができる人間は医療関係者に限られるのでは?」

「まぁ、そうだねぇ。一応、筋弛緩作用のある薬物は植物からでも精製はできるし、知識さえあれば、化学的に合成することもできるとは思うよ。ただし、今回、被害者の血液から検出されたのはロクロニウムで、その他の不純物の含有は見られていないから、医薬品として販売、流通している薬剤が用いられたと考えるのが妥当だよ」

 頬杖をついた藤堂は、眠そうに目を瞬かせ、世良の弁を後押しする。

 僕は返す言葉をなくす。

 世良の云うような『動機』くらいで、人は人を殺すことなんてできるんだろうか。そんな瑣末なことで。

「容疑者候補はそんなわけで山程いるんですが、実際にあの部屋に入ることができる人間は限られます」

 世良は先程の刑事然とした顔を隠し、草臥れた中年といった風体に戻る。

「実際のところ、あの部屋に研修医や他部署の人間が入ることはできるんですかね?」

「……鍵さえあれば入ることはできると思うんですが、部屋を出て更衣室の方に向かったとなると、難しいんじゃないかと思います」

 僕は俯いたまま言葉を選ぶ。選びながら、躊躇う。狗田を殺した犯人は、やっぱりどれだけ目を逸らしたところで、救命センターの中にいるんだ。一緒に働いている人たちを疑うなんてしたくない。でも、言葉にすればするほど、その事実が重くのしかかってくる。そして、厭と云うほどに思い知る。僕は、心のどこかで疑っていたんだ、と。

「フルプリコーションでレッドゾーンにいれば、誰だか識別もしづらいと思いますが……そこからナースステーションに戻ったのなら……救命センターに居て『おかしくない』人でなければ、みんな気づくと……思います」

 なるほど、と世良が唸った。細井は例によって見た目に全くそぐわない几帳面な文字でノートにメモを取っている。

 退屈そうにスコーンを齧っていた藤堂は、ふぁあ、と欠伸をする。

「世良さんが云うのは正しい。人間ってびっくりするくらい身勝手な理由で、人を殺すよね。俺は別にどうでもいいけど。でも、今聞いてる限り、動機がある人間がいっぱいいるって云っても、それって五十歩百歩じゃん。それなら、犯人がどうやって消えたのか。血塗れのフルプリコーションはどこに消えたのかを探す方が手っ取り早いんじゃない?」

「ああ、まあそうなんですけどね、その犯人の行方も着ていた服の行方も、皆目見当が……」

 藤堂の言葉に、世良は少しばかり困ったような顔をする。それを気に留める素振りすら見せず、藤堂は今度は僕を見つめる。僕は投げかけられた視線から目を逸らすと、救命センターの人々の顔を思い浮かべていた。

 犯人は、誰なのか、と。





二十五


 家に着くと、疲れが一気に押し寄せてきた。藤堂に持たされた食料品の入った紙袋をテーブルに置くと、ソファに体を預ける。クッションがひとつフローリングに転がっていったけれど、拾う気にもなれなかった。

 僕の頭の中では、様々な色をした細い糸がぐしゃぐしゃに絡まっていた。

 古谷さんや月岡が容疑者だということ。

 互いが互いを疑わずにはいられない現在の状況。

 犯人はどこに姿を消したのか、という謎。

 二つの死。

 どうしてなんだろう。

 人はコロナを、死を恐れて、たくさんのものを我慢して、犠牲にしている。それほどに『死』が怖いくせに、どうして人を殺すんだろう?

 感情も理性もごちゃ混ぜになり、僕はどうしようもなくなって、両手で髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

……いくら僕が愚か者でも、犯人が救命センターの人間だっていうことくらいは、今日の話から嫌というほどわかった。それなら、犯人なんていっそ見つからない方がいいんじゃないか。

 吐き気がした。胃がキリキリと痛んで、僕は体を丸める。

 と、着たままだったジャケットのポケットでスマホが震えた。

 どうせ藤堂だろう、と画面を見ると、楠毬子、と表示されていた。僕は少し躊躇ってから通話ボタンを押す。

『……あ、クロ様?』

 物陰から顔を覗かせる子供のようにまりりんが僕に呼びかけた。その恐る恐る、といった様子に、僕は、まりりんの中の不安を感じとる。いつもより低いトーンで囁くような声色。まりりんは、狗田の遺体を発見した三人のうちの一人だ。写真で見ただけの僕でさえあれだけのショックを受けたんだ。実際にあの状態で横たわっていた狗田を見てしまったら……。

「先生。どうされたんですか?」

 僕は努めて平静な口調で応える。

『クロ様、いま、家?』

「はい。用事があって大学に顔を出して、そのまま泊まりで……いま帰ってきたところです。先生は? 今日は休みでしたよね?」

『うん。休みだったんだけど、ちょっと近くまで来ててね。クロ様、少しだけ会えないかな? ちょっと外ではしづらい話でね』

 僕は部屋を見回す。

 女性の上司と部屋で一対一……というのはどうなんだろう、と少し逡巡し、わかりました、と返事をする。そんな世間体より、わざわざ僕に電話をしてくるような用件の方が大切なことに思えたからだ。

「先生、いまどちらですか? 迎えに行きます。うちでもいいですか? ……おかしなことはしませんから」

 そう云うと、まりりんがクスッと笑う。

『クロ様にそんな甲斐性があると思ってないから大丈夫。じゃあ悪いんだけど迎えに来てもらっていいかしら?』



 駅でまりりんを拾い、うちに戻ると、外はすっかり暗くなっていた。日が長くなったとはいえ、十八時を回ると夜が立ち込める。

 まりりんに温かい紅茶を出すと、藤堂の持たせてくれた紙袋に入っていたジャムの挟まったケーキを添えた。

「クロ様、女子力高いね」

「……いえ、これは友達がくれたんです」

「えっ、彼女の手作り?」

 愛想のない無地のお皿に置いたケーキを目の高さで観察しながら、まりりんはにぃっと笑う。思ったより元気そうで、少しホッとする。

「彼女じゃないですよ。男だし。変人の友人が作りました。料理の腕は確かだから、多分美味しいんじゃないかとは思いますけど」

「へぇ〜」

 面白そうにニヤニヤとしながら、まりりんはフォークで切ったケーキを口に運び破顔する。人が美味しそうに物を食べてくれるのって、実は幸せなことなのかもしれないな、なんてふと感じる。

 僕は、まりりんがテンポよく、女王の名を冠したお菓子を口に運ぶのをぼんやりと眺め、そして気づく。ああ、だから藤堂も、僕に食事を食べさせたがるのか、と。

 ケーキを食べ切ると、まりりんは紅茶を一口飲んで、ふぅ、と吐息を漏らした。

「ありがとう。人心地ついたわ」

「それはよかった」

「実はさ、ちょっとクロ様に聞いてもらいたい話があってね。正直、この話を誰にするのがいいのかわからなくて」

 両手でティーカップを抱えたまりりんは、少し迷うように視線を彷徨わせた。

「実は、ね。つっきーのことなんだけど、最近様子がおかしいのよ」

「……月岡が?」

「うん。クロ様とは殆ど勤務が被ってないから、最近の様子知らないでしょ?」

 云われてみれば、事情聴取のあった日の夕方に月岡を捕まえて話して以来、僕は月岡に会っていなかった。ちょうど月岡の夜勤明けの日に僕が休みだったり、僕が休みの日に月岡が日勤だったりして、顔を合わせるタイミングがなかった。

「ミスも増えてるし、ずっとイライラしてるかと思ったら、突然青ざめて謝ったり。と思うと、無言で涙ぐんでたり。クロ様が休養に入った時よりもっとずっとおかしくて」

 僕もバーンアウトしたとき、同じようにイライラして集中力を欠いた。涙も止まらなくなった。身に覚えのある精神的な変調に、僕は眉を顰める。

「僕も……確かにそうでした。それで、ある日、仕事に行こうと思っても体が云うことを聞かなくなっちゃって……」

「……だよねぇ。つっきー、やっぱり危ないよねぇ?」

「はい……。月岡は西くんとかなり仲がよかったみたいだし、狗田が死んだ穴を埋めるのに勤務も無理して……大丈夫でしょうか?」

「うーん。大丈夫かどうかはわかんないわね。ただ、一人で仕事を任せておくのが危ないかもしれない、と思うくらいにはやばそう」

「……それってすごく重症じゃないですか」

「なんだろう。あの子、熱意だけはあったじゃない?」

 だけ、ではないかもしれないが、救急を止める、と云われた時の反応を思い出しても、熱意のない月岡、と云うのは想像できない。

「その熱意すらなくなりかけてるっていうか」

「そんなことって……あるんですか?」

「別に、長い時間仕事をすれば偉いってもんじゃないのよ? そりゃあ、昔は病院にいる時間が長い方がやる気がある、みたいな概念がまかり通っていたけど。でも、今のつっきーは、任された仕事だけ時間内に形を整えてるみたいな……一歩踏みこんでどうにかして助けようっていう気持ちが見えないのよ」

 僕は、言葉を選べずに口ごもる。

 それは、助けようとして、助けたいと思っているのに、患者の無理解で傷つけられたからじゃないのか、と思ったからだった。僕にはわかる。これ以上は患者には踏み込まない、と線を引いた僕には。

「あの子、相談できるような人も周りにいないんじゃないかと思って」

 確かに、この自粛生活の中で、僕は、藤堂から殆ど無理矢理のように押し付けられるコミュニュケーションに幾度となく救われた。あいつがいなかったら、今よりもっと深くて暗い穴に落ち、そこから上がれなくなってしまっていたかもしれない。普段は鬱陶しくもある藤堂だけれど、そう悪くない、と今の僕には思える。

 新型コロナウイルスが今まで当たり前だったものを奪い、人との触れ合いは大幅に減った。逆説的だけれど、そうした機会を失ってみて初めてわかった。僕ははっきり云って、人とコミュニュケーションをとるのはあまり好きではなかった。散々、嫌な思いをしてきたからなのだけれど、そんな僕でさえ、このコロナ禍、ひとりきりで抱えきれない思いを持て余した時には、誰か……というか、藤堂に助けてもらった。ああ、人間ってやっぱり社会的動物で、時として誰かのことが必要になるんだ、と。

 月岡にはそんな人がいたんだろうか。僕はもっと、月岡に心を砕くべきだったんじゃないか。

「もっと……月岡のこと気にかけてあげたらよかった。まりりんに云われるまで、月岡の様子がおかしいことにも僕は気づけなくて……」

 まりりんの丸い瞳が僕を見つめる。

「それは気負いすぎよ。そもそも、コロナの所為で、勤務が同じ人以外とは会えないでしょ。そんなことまで気にしてると、クロ様、禿げるわよ。でも……そうね。つっきー、クロ様のこと大好きだし、懐いてるわよね」

 そこでまりりんは、なにかを思い出したように「あ、」と声を上げた。

「そういえば。那珂ちゃんあたりが言ってた気がするんだけど、クロ様、つっきーの彼女って知ってる?」

「いえ。でも、それなら彼女に話を聞いてもらっていたのかもしれないですね」

「どうだろう。どの子なのかわからないけれど、つっきーの様子を見る限り、どうも研修医と付き合ってるんじゃないかって噂が去年あって」

「……研修医の先生?」

 西くんが亡くなった時に、声をかけてきた室生響子の顔が頭を過ぎった。

「一年ちょっと前からつっきーが幸せオーラをまとってて、ついにつっきーにも春が来た、って救命センターで一時期話題になったのよ。嬉しそうに指輪を眺めてたりしてね。コロナが始まる前の忘年会の時に」

「あいつ指輪なんてしてましたっけ?」

「あれよ。外科医と一緒でチェーンに通してペンダントにしてるのよ」

 ほら、とまりりんも自分の胸元からチェーンに通した指輪を出して見せる。

 僕は、月岡の痩せた首元にチェーンが覗いていたのを薄らと思い出していた。

「確かに……このまえ、月岡がネックレスみたいなものをしてるなぁって思いました。あれは……狗田の件で事情聴取があった時だったかな」

「つっきーから彼女の話、聞いたことある?」

「……ええと、僕が聞いたのは、コロナの所為で恋人にも会えない、って」

 僕の言葉に、まりりんが三度きっかり瞬いてから俯く。

「困ったなぁ。つっきーまで燃え尽きちゃう前になんとかしてあげたいのに。つっきーの彼女、どの子なんだろ」

 眉を八の字にする様子に、僕は安堵する。いつものまりりんだ。

「その『彼女』を見つけてどうするんです?」

「つっきーの家に押しかけ女房するようにけしかけるの」

「……それはなんていうか……ショック療法みたいな感じですね」

「え、違うわよぉ」

 まりりんはからりとした気持ちのいい笑い方をして、手を振る。

 僕は、復帰した日に、月岡とまりりんがソファに並んで座っていた姿を思い出していた。僕にとって、まりりんは大切な上司で、月岡は大切な後輩だ。

 冷めた紅茶を一息に飲み干すと、そんな大切な上司に僕は微笑みかける。

 今度は心から。

「僕、まりりんのことも心配だったんで、今日、会えてよかったです」

 僕の台詞にまりりんが目を丸くする。

「え? あたし?」

「はい。狗田の遺体、ご覧になられたんでしょう? 僕も、写真だけですけれど……見て、すごいショックだったから」

 だから、まりりんが精神的に参ってるんじゃないかと思って、と呟くと、彼女はほんの僅かに歪んだ笑みを覗かせた。

「そうねえ。ショックはショックだったかな。知ってる人間のあんな姿、誰だってショックよね。でも、あたし、東日本大震災の時にDMATで出て、もっとショッキングなご遺体はたくさん見ているし。冷たいかもしれないけれど、精神的におかしくなるくらいのダメージは受けてないの」

 救命医や法医学者は、時として、想像を遥かに越えた悲惨な状態の患者さんやご遺体と向き合わなくてはならないことがある。それは僕だって身に覚えはあった。それでも、狗田のあの姿はショックだった。

「……先生、強いなぁ。流石ですね」

 僕は、心からの尊敬を込めてまりりんを見つめた。小さな体で誰よりパワフルに動き回るこの人は、やっぱり根っからの救急医なんだ、と感じる。

「あたしはさ、どんな姿で死んでいても、死は、死。そう思うことにしてるの。重症外傷で手とか足とかが千切れてるのも、重症熱傷で元の顔さえわからなくなってるのだってさ、あたしたちは治療するわけでしょ? なんで死んでしまった途端に怖がるんだろう、って思ってね。どんな姿になっていたって、人間なんだもの」

 ふっ、と目を細めると、まりりんは照れ臭そうに頬を染めた。

「やだなぁ。男前にそんなに見つめられたら照れちゃうわ」

「あっ、あ……すいません」

 なんだか僕まで妙に照れて慌てて視線を逸らす。その仕草に、まりりんは可笑しそうに笑う。

「ほんと、クロ様、好きだわ」

「いや……あの」

「あ、安心して。惚れた腫れたの『好き』じゃないから」

「わ、わかってますよ」

 完全に面白がっている様子のまりりんは人の悪い笑みを浮かべている。

「月岡の話をしてたのに」

「そうそう。つっきーの話だったわね。でもほんと、実務レベルでミスが出てるから、なんとかしなくちゃなんないのよ」

「……タイミングを見て、僕もちょっと月岡と話をしてみます」

「うん。お願い。薬品の破損もやらかしてくれちゃってて、安全管理から怒られてさー。破損することぐらいあるのにね」

「そんなに高い薬を?」

「高いわけじゃないんだけど、うちらが扱う薬って、あれでしょ。このまえはプロポフォールのアンプルを落として破損、そのまえは、エスラックスをシリンジに吸うときに零しちゃって破損届けを出してたの。で、軍曹とあたしのところに安全管理からありがたーいお言葉が、ね」

「……え?」

 僕は耳に入ってきた単語が逃げようとするのを慌てて捕まえ、聞き返す。

「エスラックス、ですか?」

「うん。らしくないでしょ。まあ、零したものを吸えとも言えないし、新しく処方し直していたけれど。しかも二回目でさー。一回だったら安全管理も出てこなかったんだろうけど、短期間で二回だからねぇ」

 エスラックス。一般名でロクロニウム。狗田の血液からはロクロニウムが検出されている。その符合に僕の心はざわめいた。



 翌日、後田師長にお願いして、この一ヶ月余りの注射薬の破損届を見せてもらい、僕の疑念はある確信に変わりつつあった。

 その確信は、今までの不安や二人の死の重さより、もっとずっと重く、僕にのしかかった。でも、僕には『その理由』がいまひとつはっきりと理解できずにいた。それに、まだ解けていない謎もあった。

 もし、犯人が僕の思うとおりの人だったとして、どうやって外に出たんだろう。確かに、全ての仮定を満たしている。けれど、証拠らしい証拠はなにもなかった。





二十六


 五月二十五日。

 ついに全国の緊急事態宣言が解除された。

 救命センターにはまだ人工呼吸器を離脱できないコロナの患者は居たけれど、連日入院先の決まらない感染者の受け入れを求めて、コントロールセンターからの電話が鳴り続けることは無くなった。

 一旦止まっていた待機的手術も徐々に再開され始めた。

 この幾分、穏やかな日々は一時的なもので、コロナが消えてなくなったわけではなく、緊急事態宣言が解除されれば、また緩やかに感染者が増えるだろうことは容易に予想されたけれど、それでも、このわずかばかりの休息に似た時間に僕はホッとしていた。

 初夏の爽やかな日差しが柔らかな木々の葉で戯れる季節。

 警察に伝える前に相談したい、と持ちかけた僕に、藤堂はあっさり「いいよ」と答えた。

 僕は藤堂が送りつけてきたウサギの抱き枕と食料品を持たせてくれたときに入っていたタッパーを大きな紙袋に放り込み、迎えにきた藤堂の車に乗った。

 誰かと車で出かけるのも随分と久しぶりだ。尤も、藤堂とは事件のことで時々顔を合わせていたし、用もないのに三日とあけずにオンライン通話を仕掛けてくるから、コロナの前より顔だけならばしょっちゅう見てはいたけれど……それでも、緊急事態宣言が解除された、という事実は少しばかり僕の心を軽くしてくれていた。

 窓を開けて走ると、風の音に会話は吹き飛ばされ、消えた。僕はそれをいいことにぼんやりと窓の向こうを過ぎていく景色を見つめていた。これから藤堂に相談……いや、告発になるのかもしれない……しようとしていることを、ただ頭の中でなぞる。

 正しさは時として、残酷な刃になる。

 僕は、ただ正しさを振りかざして、誰かを傷つけようとしているだけなんじゃないか、と幾度も自問する。

 目を瞑り、口を閉じてしまえばいいんじゃないか。真実を見つけることになんの意味があるんだろう。

 けれど、日本の警察は優秀だから、僕が見つけたこんなちっぽけな事実なんて、どれだけ隠したところですぐに見つけてしまうに違いない。そうすれば、遠からず、真実は白日の下に晒されてしまう。

 そうなってしまうまえに、僕は真実を見つけ出したかった。余計なお世話かもしれないけれど、自首することで少しでも罪が軽くなるならば、或いは、僕が真実を見つけることで少しでもその人の心を救う(なんて思い上がりだと思うけれど)ことができるならば。

そう思ったからだ。

 車庫に車を入れ、降りた足元には雑草が茂っていた。「この季節はすぐ伸びちゃうからなぁ」と呟く声はどこか遠い。

 コロナが日本国内にやってきてから半年ぶりくらいに訪れた藤堂の家は、妙に懐かしく僕を迎え入れてくれた。

 おかしな鼻歌を歌いながら藤堂が台所に消え、僕は真っ暗な応接室のカーテンを開ける。

 眩いほどの初夏の陽射しが室内を満たした。

 庭では生い茂った生命の暴力の中、朽ちかけた薔薇が一輪咲いていた。

薔薇らしいゴージャスさはなかったけれど、そこだけポツリと紅い花は、凛として美しかった。

 このコロナ禍で僕たちは、人間のいろいろな側面に出会ったように思う。

 僕たち自身、未知のものであるコロナウイルスへの恐怖心を抱えながら、殆どスクランブルに近い状態で目の前にいる患者に向き合ってきた。感染症指定病院ではなくても、三次救急を受け入れるレベルの施設は、ECMOを必要とする重症患者の受け入れのために、救命病棟やICUの病床をコロナ受け入れのために提供し、診療にあたった。それでも『医療崩壊なんてしていない、騒ぎすぎだ』と冷たく突き放すテレビのコメンテーターに怒りを覚えた。

 一方で、医療従事者に感謝を、と謳い、ブルーインパルスが空にそれを描き、地元の企業などからは差し入れもいただいた。自分たちだって大変なさなかに、病院の近くにある焼肉屋さんが差し入れてくれた焼肉弁当を食べながら、僕は泣きそうになった。院内のコンビニは時短営業になり、食堂も閉まっていた頃のことだ。

 緊急事態宣言が出て、全ての国民が外出の自粛を要請され、テレワークへとシフトする中、そこにいる患者を治療しなくてはならないから僕たちは病院に出勤せざるを得なかった。それなのに『医者や看護師だけは自粛もしていない』なんて、帰り道に駅まで歩いているだけで病院に投書があった。

 コロナ診療をしている、というだけで、逆に『コロナ出ていけ』と家に石を投げ込まれた人もいた。

病院で働く僕たちだけじゃなく、少しでも収入を得るために、と持ち帰りのお弁当販売を始めたお店に閉店後『この店は自粛していない。潰れろ』なんて心ない落書きをされているのも見かけた。

 経済的に困窮して自殺を図る人や、精神的に追い詰められた人も診た。

 みんな……それは僕たち医療従事者も含めて、全ての人が、コロナの所為で多かれ少なかれ疲れているんだと思った。

 自粛生活、コロナの恐怖、経済へのダメージ、未来への不安。そんなものを、みんな誰かの或いはなにかの所為にしたいのだろう。或いは、誰かを傷つけ、貶めることで、優位に立ったような気持ちになることで、不安を代償したいのだろう。……それは人の弱さだ。

 だけど、じゃあ、弱いからって……、人を傷つけることは許されるんだろうか? 弱さは誰の所為でもない。自分の所為じゃないのか?

 あの薔薇は、誰も傷つけない。

 ただそこで凛と咲いている。

 周りに仲間がいなくても。

雑草に埋もれながらも。

 僕もそうありたい。でも、そうあることが叶うんだろうか。

 今、目の前でうっすらと見えそうになっている真実から……目を、逸らしてはダメだ。

 ふ、と溜息をついた時、内開きのドアが遠慮なしに開いた。両手に皿を持った藤堂が足で蹴り開けたのだ。

「くろすけなにしてるの? なんか面白いものでも生えてきた? 個人的にはマンドラゴラが生えたら引っこ抜いてみたいんだけど」

「……植物園レベルのものがその辺に自生するわけないだろ」

「えーっ。願望だよ。マンドラゴラってさ、引っこ抜くときに絶叫するんだって! その叫び声を聞いた人は死んじゃうっていうんだよね。実際は、根っこにアルカロイド系の毒が含まれてるんだけどさ」

 いつものように笑顔でとんでもない注釈を加えながら、藤堂はローテーブルに持っていた皿を並べる。

 コンソメの香りだ。

 白い深皿には刻んだ野菜の彩りが綺麗なリゾットが盛られている。

「まずはごはん食べよ。世の中はコロナ太りだって云ってるのに、なんでくろすけは痩せていくんだか。これだったらお腹に優しいから食べられるでしょ?」

 暖かくて優しい食事に、空腹感を思い出す。

「なんか、お腹空いた感じって、こんなだったな、そう云えば」

「どんだけ不健康なんだ? くろすけは。ちょっと第二波が来るまえに人生についてよく考え直す方がいいよ。俺と」

「なんでおまえと考えなきゃならないんだよ」

「えっ? だって俺、くろすけの保護者だし」

「僕はおまえに産んでもらった覚えも育てられた覚えもないんだけど」

 どうでもいい軽口を叩きながら人と食べる食事は、こんなに美味しかったのか、としみじみと感じ入る。

 滋味のあるスープをしっかりと吸い込んで柔らかくなった米を、みじん切りの野菜と一緒に口に運ぶ。体の奥からじんわりと温かさが広がる。

「……美味しい」

「うふふふふ。珍しく、くろすけに褒められちゃった!」

 はいはい、と藤堂をあしらい、そう云えば、と思い出す。

「そう云えばさ、オレンジ色の実験の結論ってなんだったの? 途中までしか聞いてなかったよな」

「あ、そっか。えっとね、……要は、ラッキーカラーって何色であれ、色彩学的な意味合いは関係なくて、『その色のものを所有することで、そこになんらかの責任の転嫁をすることができる』っていうのが重要なんだ、っていうのが俺の結論」

「ん……? それはどういうこと? 持っていて悪いことが起こったのならば、そのものの所為にするっていうのはわかるんだけど」

「つまりね、『この色を持っていたからいいことが起こった』っていうのは、ひっくり返すと『この色を持っていて、起きた事象は自分にとっていいことのはずだ』とも云い換えられる。原因と結果の逆転が自動的に起きているんだ」

「……なるほど」

「人間って不思議だよね。すぐに責任や原因を転嫁しようとする。それが集約化されたのがラッキーカラーとかラッキーアイテムとかだよ。だって考えてもごらん。もし、ラッキーアイテムが、三千万円くらいするアクセサリだったら、誰が手に取る? そんなものは容易く手に入らないから意味がないんだ。意味があるのは、容易く手に入るものを持つことでそこに責任や原因を転嫁できることなんだ」

 藤堂の説明はすとんと僕の中に落ちた。

 人は容易く、自分以外のものに責任や原因を求める、とは、僕がつい先刻思っていたことにも通ずる。

「なんだか……浅ましいな」

「またぁ。くろすけはすぐそうやってネガティブになるんだから。アンニュイな表情は美形がすると色っぽくていいと思うけど、もうちょっと前向きでもいいと思うよ。俺は」

 ぱくぱく、とテンポよくリゾットを食べていた藤堂の皿は空っぽになっている。僕はまだ半分ほど残っているそれをゆっくりと口に運ぶ。

「僕は……嫌だな。そうやって、人の所為にするのもされるのも」

「ま、くろすけらしいね。でも、明らかに原因と結果が明白な場合、その結果に対して、原因は責任を負うよね。それに、世の中、いろんな事柄がそれぞれに原因であり結果であって、そういういくつもの繋がりの上で一つの事象が生じているから、絶対にダメ、とも云い難いんだけどね」

 ゆっくりと食事をする僕を眺め、藤堂はふわぁ、とあくびをする。本当に、子供のような男だ。

「ウサオさん、気持ちよかった?」

「……いや、流石に、人の枕では……」

「えーっ。癒し効果抜群なのに! 別に盗聴器とかGPSとか仕込んだ危ないやつじゃないんだよ!」

「そういう問題じゃないだろ……。っていうか、その発想やめろよ。とりあえず、返す。気持ちだけ、ありがとう」

 それから藤堂は、僕がスプーンを置くまで、いま興味を持っていることをあれこれと喋り続けた。適当な相槌を打つ僕に怒りもせず。

 ようやく、一皿分のリゾットを食べ終えると、久しぶりの満腹感を覚える。

 ごちそうさま、と両手を合わせる僕に、藤堂はンフフと含み笑いで云った。

「さあ、謎解きの時間だね!」



 僕たちの前には現時点で解くべき課題が三つあった。

 まず第一に、ロクロニウムを持ち出した犯人とその方法。第二に、血塗れのフルプリコーションの行方。第三に、犯人はどこへ消えたのか、だ。

 僕はこの第一の問題について、一つの答えを見つけ出していた。できることならば、見つけたくはなかったのだけれど。チクリ、と胸が傷んだが、僕は痛みから目を逸らす。見つめるべきは、痛みじゃない。真実だ。

「ロクロニウムを持ち出したのは、多分……うちの若手、月岡だと思う」

「ふぅん。なんで?」

「このまえ、うちの上司が来て、最近、月岡の様子がおかしいって云うんだ。ミスが増えてる、って。それで、薬品の破損届を師長さんに見せてもらったら……プロポフォールの破損が一回、ロクロニウムが二回あった。ロクロニウムは狗田の事件の前と後に一件ずつ。それに……カルテを見直してみたら、月岡がリーダーで挿管した症例が二つあった。片方はそれほど体格がいい人ではなかったのにロクロニウムが二本使われている」

「必要な量以上を処方して、残りをくすねたって云うこと?」

「……残念だけど、その可能性はあると思ってる。それに、破損、って云ってもね、詳しい話を上司から聞いたら『シリンジに吸うときに零した』って云うんだ。それでね、思い出したんだ」

「なにを?」

「西くんの挿管のとき、月岡が薬剤を準備していたんだけど、僕たちは普通、挿管の時には、プロポフォール、ロクロニウム、フェンタニル、ネオシネジンなんかを準備するんだけど、あの時、月岡が手に持っていた生理食塩水の二十ミリリットルのアンプルは殆ど空だったんだ。普通、ネオシネジンを希釈するには九ミリリットルの生理食塩水があればいいんだ。それ以外の薬剤は全て原液のまま使う。だから……もし、ロクロニウムを一バイアル五ミリリットルから少し別のシリンジに確保して、それから減った分を生理食塩水で補ったとしたら? そうすれば、ある程度のロクロニウムを確保することも可能だったんじゃないかって思うんだ。しかもね、西くんは体格がよかったから、あの時も月岡の手元にはロクロニウムのバイアルが二本あったんだ」

「じゃあ、仮にだよ。くろすけ。それぞれのバイアルから一ミリリットルずつ筋弛緩剤を抜いたとして、その日には二ミリリットル確保できるよねぇ。俺、臨床はポリクリで終わってるからわからないんだけどさ、残りの八ミリリットルで挿管には問題はなかったっていうこと?」

「できなくはない」

「ふぅん」

 藤堂は腕組みをし、頬に手を当てる。考えるときの彼の癖だ。

「筋弛緩剤を入れすぎると勿論、呼吸筋も動かなくなるからそれで死んじゃうよねぇ。その人はどれくらいの量を注入したんだろう」

「それはわからないけれど、ロクロニウムの入手は患者に使用するものから少しずつ抜いて、代わりに挿管に影響がでない程度の生理食塩水を補ったんだと思う」

「整合性はあるね! でもさ、その手口なら他の人でもできそうじゃない?」

「できなくはないけれど、破損の届け出や挿管に関わる……ロクロニウムを手に入れることができる頻度を考えると、一番怪しいのは……残念だけど、月岡なんだ」

「くろすけの話が事実だとすると、急がなくちゃいけないねえ」

 僕はその言葉に顔をあげる。

「どうして?」

「だって、呼吸停止しないくらいの筋弛緩剤ってそんなにいっぱいじゃないんでしょ? あの犯人は筋弛緩で呼吸を止めて殺そうとすればできたのに、そうしなかった。それは、敢えて、体が動かない状況で嬲るようにして殺そうとしたからだと俺は思う。つまり、さ。犯人の手元にはまだ残りの筋弛緩剤があるって云うことになる。しかも、事件の後にも破損した、って報告をしてたんでしょ?」

 その人、まだ誰か殺すつもりなのかなぁ、という藤堂の呟きがグワンと耳の奥で鳴った。

「月岡がまだ誰かを殺すつもりだっていうのか?」

「もしくは、自分が死ぬつもりか、だね」

 息を飲んだ僕に、藤堂は肩を竦めて見せる。すうっと周りの空気の温度が下がったような気がする。

「そんなことになったら、どうせまたくろすけは特大ショックを受けちゃうだろうし、急がなくちゃ」

 狗田の事件が起きてから、もう二週間以上が経過している。もし、今、月岡が誰かにロクロニウムを注射していたら? 或いは、自分自身に? ゾッとして、鳥肌が立った。

「でも……動機が……なんで月岡は狗田を殺したんだろう。それに月岡が狗田以外の誰かを殺そうとしてるんだとしたら……」

 救命科の仲間の顔が頭をよぎって、僕は慌ててそれを打ち消す。

「動機なんて本人にしかわかんないよ。だから、まずは、それ以外の埋められるところを埋めようよ! じゃあ、次は俺の番ね」

「あ、ああ。うん」

 なんで、なんで? と心の中で繰り返す声を遮るように、息を一つ吸い込む。

そんな僕の様子をチラリと横目で見た藤堂は足を組み替え、無精髭の生えた顎を指の背でなぞった。

「犯行時に着ていた防護服の行方、さ。おそらく犯行現場に残されていた血痕から、犯人が全く返り血を浴びずに犯行を行ったとは考え難い。じゃあ、その血塗れになった防護服をどうやって始末したか、だよね。犯行現場からレッドゾーンまで、ゴミ箱は全て警察が調べたけれど、そこから大量の血液が付着した防護服は出てきていない」

 普通の処置では防護服に血液が大量に付着することはまず、ない。仮にCV留置やECMO導入のように観血的な処置を行ったとしたって、そんなに大量に出血させることはないし、血液が防護服に飛び散るほどの勢いで出血するのは動脈を穿刺でもしない限りあり得ない。処置の際に敷く覆布が血液で汚染されることはあるだろうけれど。でも、そもそも、防護服と覆布では形も違うし、素材も違うから(手術着は覆布と同じ素材のこともあるけれど、いま、僕たちが着用している防護服はビニールだ)それを間違うこともないだろうし、誤認するように仕向けることも不可能だろう。

 それにそもそも、血液が付着していたとして、狗田の血液と合致しなければ意味がない。

「窓だって腕一本分しか開かないし、外にも捨てられていなかった。勿論、他の部屋に放置だってされていなかったわけだし……」

「あるんだよ。捨てられる場所が。正確には……捨てる、というより隠した、のかなぁ」

 んー、と唸った藤堂はソファの上で膝を抱えた。

「ただね、防護服だけを隠したって、外には出られなかったはずなんだ。俺たちが最初に見たのは、あのガラス扉の方の映像だけだったじゃん? もうひとつの、MRIの前にある防犯カメラの映像は見てなかった。だから、あの後、世良さんに頼んで見せてもらったんだ」

「それで? そこに血塗れの防護服の犯人の姿が写っていたとでも? 隠した場所は本当は全く見当違いの方向だったとでも?」

「それは映ってないって世良さんが云ってたじゃん。そう、それどころか、あの夜、あのMRI室の前にある扉から出ていった人はいなかったんだ。正確に云えば、遺体と遺体を運ぶ看護師だけがあの扉から出ていった」

「……つまり、遺体を運ぶ看護師ならば外に出られたっていうのか? それじゃあ、月岡がロクロニウムを持ち出したっていう事実と合わないじゃないか。月岡には共犯がいたっていうのか? もしかして……」

 僕の頭に古谷さんの顔が浮かび、慌てて頭を振る。なんの根拠もない推測で人のことを疑う自分自身が心底厭になる。

「おお! 共犯! それも悪くないね。でもさ、くろすけ。俺ねぇ、思いついちゃったんだ。今更、立証するのは難しいんだけど、犯人が血塗れの防護服ごと救命センターから誰にも見つからずに外に出る方法をさ!」

「は?」

 僕は思わず眉を顰める。

「うふふふふふふふふふ」

「な、気持ち悪いなぁ。なにさ」

 気味の悪い含み笑いを漏らして藤堂は鼻を鳴らした。

 遺体を運ぶ看護師以外、救命センターからは出ていない。月岡の姿も勿論、救命センター前のカメラには映っていなかった。それなのに、どうやって救命センターからあの血塗れの格好で外に出たというんだ? 全く矛盾している。

「犯人は透明人間になった、とか云うなよ。藤堂」

「透明じゃないけど、見えない状態で救命センターから出たんだよ」

 悪戯をする子供のように目を爛々と輝かせ、藤堂はうっそりと微笑んだ。ゾッとするほど妖しく。

「犯人は、遺体の包まれた納体袋に一緒に入っていたんだ!」

 藤堂の台詞に僕は一瞬、口をぽかんとあける。藤堂がおかしいのは今に始まったことじゃないが、いよいよネジが外れたのかもしれない。

「は? だって、あの晩、運び出されたのは西くんのご遺体だけだ。西くんはコロナだったんだぞ。その納体袋に入るなんて自殺行為だろう」

「甘いな。くろすけ!」

 伸ばされた手が、僕の鼻をつまむ。

「ひゃんひゃお」

「よーっく思い出してよ。コロナの患者さんの納体袋はどうなっている?」

「どうなってるって、銀色の普通の……」

 僕は思わず「あっ」と声を上げた。

「納体袋は二重になっているんだよ。くろすけ。これは解剖に回って来たご遺体からの推測だから、実際に病院では違うのかもしれないけど、一枚目の納体袋にご遺体を納めて、その上にもう一枚同じ袋を被せているんだろう? そしてその上で、病院を出る段階で棺に入れて火葬場に行くんじゃないかい?」

 藤堂の言葉に、僕は口をぽかんとあけ頷く。そうだ。コロナ患者が死亡した場合、二次感染を防ぐために納体袋にご遺体をシーツごと包んで納め、更に、その袋ごと、同じか或いはさらに強度の高い納体袋に包んで、葬儀会社が持ってきた棺に納めるのだ。

 確かに。二つの納体袋の間に入るのであれば、感染リスクはあるものの、直接ご遺体と同じ納体袋に入るよりは遥かにリスクは低くなる。

 もちろん。納体袋を開けて中を覗こう、なんていう不届きな人間も「コロナ患者」からの「感染リスク」を鑑みれば、いるはずもないだろう。

「……その通りだ。葬儀会社の規定でそうなっているはずだ……」

「つまり、こうさ。犯人は血塗れの格好のまま、ご遺体のあったHCU1の部屋に入る。もう亡くなられている方の部屋はモニターされていないから、入ったところで誰にも見つからない。しかもだ、HCU1の部屋の入り口は、このセンターの構造上、ナースステーションからは殆ど見えない。柱があるからね。そうして、霊安室に向かう前の納体袋の外側の袋をあけ、その中に入り、内側からファスナーを閉める。これは俺が実験してみたけれど可能だったよ。で、霊安室に向かう遺体と一緒に、救命センターを出たんだ。あとは、血塗れの防護服は納体袋の中に隠して、霊安室で納体袋から出て、何食わぬ顔で帰れば誰にも見つからないよ」

 確かに、小柄な月岡であれば、ECMOの所為で随分と浮腫んでいた西くんの納体袋にひっそりと入り込むことは不可能ではないように思われた。コロナ患者の遺体を搬出するときは、患者に触れていたリネン類ごと納体袋に納める。多少形が歪になっていたとしても、動き回っていたりさえしなければ、気にも止めずに搬出されたとしたっておかしくはないのかもしれない。

あの日は他の病棟で亡くなられたかたが霊安室に安置されていて、そのかたのご家族が迎えに来られて霊安室が空くのが夜の二十二時頃だった。だから、人手の多い日勤から夜勤への申し送り前に納体袋にご遺体を納めて、ストレッチャーに移してあったはずだ。だとすれば、看護師はご遺体の入った納体袋をストレッチャーごと押すことはあっても、他の寝台に移乗することもないし、酷く重たい納体袋に気づかなかったとしてもおかしくはない。

 けれど……。

 僕はどうにかして反論を捻り出す。それが月岡のためなのか、それとも、僕自身の保身のためなのか分からなかったけれど。

 わかっている。僕は……自分がただ傷つきたくないだけなんだ。だからこの事実から目を逸らしたいだけなんだ。

「それでも、感染のリスクがあるから二重にしているのに、そんなハイリスクな場所に好き好んで隠れるっていうのか? しかも、狗田が殺されて、幽霊みたいなものがガラス扉に映っていたのが、二十時半頃だろ? 納体袋が救命センターを出たのが二十二時とすれば、一時間半もご遺体と同じ袋の中にいたっていうのか?」

 藤堂は目を細めて僕を見た。

そして、云った。

「好き好んで、いたんだと思うよ。多分」





二十七


 警察は既に動いていた。

 藤堂の仮説を聞いた世良が手配し、霊安室を隈なく調べたところ、拭き取られた血の跡が床から見つかった。そして、病院を二十三時に出る月岡の姿も病院の出入り口にある防犯カメラに映っていたのだ。僕たちは昼夜関係なく勤務があるから、そこに月岡が映っていても誰も不思議には思わなかった。残業していた、と云えばそれで済むからだ。

 証拠が揃いそうだ、という世良に頼み込み、僕は一時間だけ猶予を貰った。万が一、月岡が逃げたり、自殺したりしそうになれば、すぐにでも取り押さえる、という条件付きで。



 病院の駐車場の裏にある小さな緑地帯に月岡を呼び出す。人目のあるところは避けたかったし、それに、世良たちの目が届くところでなくてはならなかったからだ。

 電話で「話があるんだ」と告げると、月岡は疲れた声で「わかりました」とだけ答えた。

 ツツジの赤紫と白がまだ若い緑の中、鮮やかだ。駐車場のロータリーに向けて延びる小径沿いにはいくつかのベンチが並んでいる。もう少し前の季節には満開の桜が観られたのだろうけれど、今は青々とした葉桜だ。ベンチに座ろうとする僕に藤堂は「毛虫が落ちてくるからやだ」と子供のように駄々を捏ねた。

 自首を勧めるのは勿論だけれど、正直、月岡のことが純粋に心配だった。僕にとっては殺人犯である前に、可愛い後輩だったから。彼がそんな過ちを犯すほどに追い詰められていたのならば、何故、気づくことができなかったんだろう、とそのことに胸が痛んだ。

 夜勤明けの月岡が向こうからやってくるのが見えた。元々小柄だった体は、更に細くなり、遠目にも羽織ったパーカーがダブついているのがわかる。臙脂色のパーカーは救命救急科のスタッフが揃いで作ったものだ。

 月岡は、僕の隣にひょろ長い人影を認めると一瞬足を止めた。

 僕は、月岡の方に歩み寄り「ごめん」と声をかける。チラッと藤堂を見上げると、少しだけ驚いた顔をして「なるほど」と小声で呟いてた。藤堂がなにに驚いていたのか分からなかったけれど、僕は月岡に視線を戻す。

「ちょっと友達が一緒でごめん。どうしてもついてくるって聞かなくって……。変人だけどいい奴だから、話をする間、ここにいてもいいかな?」

「……別に、今更どっちでもいいですよ」

 月岡らしくない投げやりな態度。

 拗ねた子供のように逸らされた視線。その顔を僕は見つめる。

「それより、月岡。顔色悪いよ。ごはん、食べてる?」

「食いたい時には食いますよ。言われなくても」

「おい、き」

 横から身を乗り出し、口も出そうとする藤堂の口をマスクごと押さえ、睨むと、藤堂はおかしな唸り声をあげる。珍獣かなにかか……こいつは。

「あのね、月岡。嫌な話をするんだけど、そのまえにね。僕は、月岡のことを本気で心配してる。今のおまえの態度もおかしいし、顔色も悪い。かなり痩せたし、なにか精神的に参ってるように見えるんだ」

 無理、してるんじゃない? と、問いかけると、月岡は顔を歪めた。それは見たくもないものを目の前にした時のように苦々しげで、幾分かの憎しみすら感じた。

「無理? してない方がおかしいですよね。こんな……コロナ、コロナでこっちはリスク

と隣り合わせできつい勤務をこなしてるっていうのに、くっだんねぇことを抜かす奴ばっ

かりで。月三千円のコロナ手当? 馬鹿にしてますよね。俺たちはこれだけ、やり甲斐と

善意を搾取されてるっていうのに。使命感だけで、どれだけ……どれだけ我慢すりゃいい

んですかね。緊急事態宣言が解除されても、病院命令で人ともろくすっぽ会えない。外食

もできない。こんな状況でストレスがない人なんています?」

 語調は強いが、疲れ果てた顔つきのまま、月岡は言い放つ。その言葉は僕自身も感じていたことだったし、実際、何度も憤りを覚えたことだったから、僕は素直に頷く。

「うん……そうだね。それは僕もそう思う」

けれど、月岡はそんな僕を蔑むような目で見返す。

「はっ。そんなこと言って、隣にいるお友達と会ってるじゃないですか。現に。今」

 冷たい眼差し。歪んだ笑い方。

 全部、普段の月岡には似つかわしくなくて、僕は悲しくなる。病院に帰って来て欲しいと、何度も電話をしてきた時の、明るい月岡の声じゃない。まるで別人のようだ。

「うん……ごめん」

「こっちは……病院の……国の言うことを聞いて、会いたい奴に会うのを我慢してる間に、二度と会えなくなっちまったんですよ。この責任って誰がとってくれるんですか? 病院ですか? 国ですか? それとも先輩がとってくれるって言うんです?」

 月岡が云っているのは西くんのことだろう、と推測するのは容易かった。だとすれば、僕は月岡を慰める言葉を持たなかった。なにを云ったって、嘘になってしまうからだ。

 天国からおまえを見ている、だとか、苦しみから解放されたんだから、だとか、そんな上っ面の言葉をどれだけ重ねたところで、西くんが死んだという事実を覆すことなんてできやしない。彼は二度と、生きて月岡と話したり、笑ったりなんてできないんだから。

 月岡の言葉が痛い。

太い杭を体に打ち込まれるように、重い痛みが僕を貫いていく。

「……ごめん。その責任は僕にはとってあげられないよ」

「だったら、そんな偽善じみたことばかり言うのはやめてもらっていいですか? もうそういうの、腹一杯なんですよ。真面目にやればやっただけ、真面目にやった人間が損をする。なんでですか?」

 俯く僕の横で藤堂の影がのそりと動く。あっ、と思った次の瞬間には藤堂が口を挟んでいた。

「世の中、なんでも思う通りになんかいかないんだぞ! 理不尽だらけ。君の方こそ、馬鹿じゃないか? ちなみに、俺は自粛疲れなんてしなかったもんね。普段はテイクアウェイできないお店のごはんもお持ち帰りできるし、お取り寄せもね! いいことだってあったぞ。君の目に入ってなかっただけでね!」

 月岡が藤堂を睨みつける。身長の差を感じさせないような鋭い威圧感に、僕は思わず藤堂と月岡の間に体を割り込ませる。

「ごめん。月岡。藤堂は悪い奴じゃないんだ。ちょっと遠慮とか忖度とかができないだけで、気を悪くしたらごめん」

「こら。くろすけ。先刻からなんで君が謝る。謝る必要ないじゃないか! 俺は謝らないよ! だって悪くないもん」

「藤堂、黙ってろって。話がややこしくなる」

 苛立った様子を隠しもせず、月岡は藤堂を睨んでいた瞳で僕を射抜く。

「なんなんですか。仲良しごっこを俺に見せるのに呼び出したんですか?」

「違うよ。僕は、本当に、月岡のことが心配で。それから……真実を教えて欲しくて、おまえを呼んだんだよ」

「真実? なんの?」

 歪んだ笑み。

 月岡。おまえはそんな顔をするような奴じゃないのに。似合わない卑屈な笑い方がただただ悲しくて、僕は、ようやく躊躇いを振り切る。どれだけ月岡を心配に思おうと、月岡自身がそれを拒否している今、心を砕けば砕くほど、回り道をしてしまう。それでも、その言葉が月岡を壊してしまわないように、軽く息を吸い込んでから、できるだけ静かに尋ねた。

「……狗田を殺したのは、月岡なのか?」

 痩せてすっかり細くなった肩が揺れた。

目を見開いたのは一瞬で、月岡は憎々しげに吐き捨てた。

「は? 証拠でもあるんですか? ないでしょう? そんなもの」

 嘲りをまざまざと瞳に映し、月岡は痩せた肩を竦めて見せる。けれど、その言葉とは裏腹に、歪めた口元と絶望の色を映した瞳は、月岡が狗田を殺した犯人だ、と僕に伝えていた。僕は俯く。

「……そうだね。おまえが犯人だって証明できるような物的証拠はないよ」

「じゃあそれは、俺へのただの誹謗中傷ですか?」

「違う。おまえのことを悪くなんて思ってない。ただ、僕は……」

 心配なんだよ、と呟いた僕の声は、ぽつんと土の上に落ちた。背中越しの藤堂が、ふぅ、と吐息を漏らすのが聞こえた。

「くろすけ。君は馬鹿だな! 自分だって精神的に参ってるくせに、どうしてこいつのことなんて心配するんだ。それは生物としての生存本能に反してるぞ。ちゃんと寝て、食ってさえできないような状態で、他人より自分を守るのが普通だろ? 本当にくろすけはおかしな生き物だ。興味深いけどね! でも、俺には理解できないよ」

 藤堂は少し怒ったような強い口調で云うと、ぐい、と僕の腕を引っ張り、月岡から引き離す。反論するより前に、藤堂は尚も偉そうに言い放つ。

「それから、そこの君! 君は更に馬鹿だね。俺は理解なんてしてあげないからな。俺はくろすけとは違うから、君のことは許さないぞ! ちょっとしたら多分、君のことなんて忘れるけど」

 はじめのうちは、藤堂の勢いに気圧されていた月岡は、徐々に怒りが込み上げてきた様子で、眼差しに剣呑な光が浮かべた。月岡はぎらりと目を光らせ藤堂を睨み据える。そんな視線をものともせず、藤堂は飄々とした様子で月岡を見下ろす。一六〇センチそこそこの月岡と一八〇センチを越えている藤堂が向かい合うと、頭ひとつ分ほどの身長差がある。

「あんた、先刻からなんなんだよ。俺と先輩の問題に口挟まないでもらえます?」

「やだ。だって、これ、全然、君とくろすけの問題じゃないじゃん! ただの殺人事件だもん」

「……っ、だから! 俺が殺したって証拠でもあるんですか? え? ないですよね。それでどうして俺が殺したなんて言えるんですか? 先輩も。あんたも」

「安心したまえ。君が犯人だって、いろんな矢印が君を指してるから!」

 それ、なにひとつ安心じゃないし、殺人事件に「ただの」なんてないし、と心の中で僕は呟く。そんな僕の心中を察することなんて勿論なく、藤堂は偉そうに胸を張る。

「証拠もないのになにをどうやって、俺に濡れ衣を着せるつもりですか?」

「俺が君に今から着せるのは濡れてないから大丈夫だよ」

 にっこり笑った藤堂は月岡の鼻先に指を突きつける。

「ひとつ。死んだ人の体から検出された筋弛緩薬を君は手に入れることができた」

「はぁ? そんなの俺以外にだってできるはずでしょう」

「そうかもね。だからこれだけでは君が犯人だって言い切ることはできない。それは正解だ! いいねぇ。そうそう、そうやって思う存分、言いたいことを云うといいぞ。俺が楽しいから」

「おい、藤堂」

 後ろから藤堂の腕を掴み、あまりにも傍若無人な言葉に抗議してみたけれど、これも勿論、軽く首を傾げて微笑むだけでスルーされる。

 こんな状況でそんな笑顔を見せるおまえの方が余程……と、僕はやっぱり月岡だけじゃなくて、藤堂も危うい崖の端に立っているように感じてしまう。

「医療用として病院に卸されているロクロニウムの成分だそうだよ。くろすけから聞いたけれど、この病院でも使用されているだろ? 君ならば破損したって云って、使用するときにその一部をくすねることだってできたはずだ」

「それは俺にも『可能』だっただけであって、俺以外の人間では『不可能』だったわけじゃないですよね。なんなら先輩にだってできたはずだ。この病院で一日にどれだけの薬品が破損されていると思います? それに、仮にロクロニウムが使用されたとして、ロクロニウムを一番多用するのは手術室じゃないですか? 救急で使うのはほんのごく一部ですよ」

 月岡が冷ややかに言い放つ。まるで僕の知らない他人のような表情と言葉に、胸が痛む。

「うん。でも、君には『可能』だった。これがひとつめの矢印」

 うふふ、と再び藤堂が笑い、月岡の前に差し出した指を二本に増やす。しんとした緊張感は凍りつくようだと云うのに、藤堂は自分だけは常春の園にでもいるかのように、楽しげだ。そのアンバランスさはどこか常軌を逸していて、僕はそう……怖い、と思った。

「次はふたつめ。君の身長は一六〇センチくらいかな? ガラスに映った影から推定される身長の範囲に合致してる」

「ガラス?」

「そう。ガラス。君だってどこであのなんとかいう人が殺されたかくらいは知ってるでしょ? その現場の近くのガラスにね、犯人だと思われる人の姿が映っていたんだ」

 藤堂の言葉に、月岡は目を細め、はっ、と息を吐いた。

「随分曖昧な言い草で人を犯人扱いするもんですね。その人の身長がいくつくらいって推定されてるのか知りませんけど、それだって、同じような背丈の人間なんて他にいくらだっているでしょう。そりゃあ、俺は男にしてはチビですけどね。俺の身長のことをそんな風に言われるのも不快だし、そのうえ、その映っていた人影が犯人かどうかさえわからないのに」

「身長のことだけを云えば、君が云うように、殆どの女の人と君を含む、背の小さな男の人はみんな犯人候補さ。そのとおりだ!」

「それならば、あんたの言っていることは俺を犯人だと言うには不十分すぎるでしょう。あの救命センターでは看護師の人数の方が多い。その大半は女性だ。彼女たちも全て容疑者ということになる。あんたの言い草だとね」

「いやぁ。実にいいね! そう。そうなのさ! 全部が曖昧。曖昧なのに、全部が君を指してる。学問において、ただひとつの正解が最初から提示されるのなんて、テストの答えだけなんだ。あとはぜーんぶ、曖昧の果てにあるそれ以外にないっていう推測や憶測を証明した結果なのさ。だからね、矢印が君を指す、それを集めることは無意味でも無駄でもない。わかるかい?」

 楽しげな藤堂と、凍てついたように表情のない月岡。僕は、なす術もなく二人を見つめる。

 月岡の顔の前に突き出した指を、藤堂は三本に増やす。

「いい? 次はみっつめね。みっつめは、君の姿が夜中の二十三時に救急外来の近くの防犯カメラに映っていたこと。その日、君は昼の勤務だったのに、そんな時間になにしてたの?」

「残業してただけだと言ったら?」

「その日、君が残業していた形跡はないよね。電子カルテの履歴からも、看護師からの証言でも、ね」

「電子カルテを触らない仕事なんていくらだってあるし、人の記憶なんて曖昧なもの、どれだけ信じられるっていうんです?」

「うん。それもその通り。人間なんて適当で曖昧なものだっていうのには同感だよ。でも、曖昧さをいくつも重ねた先に、答えがあるって先刻も俺は云ったけど、統計学の辨図みたいなものだよね」

「重症患者が搬送されたり、たくさんの患者が一度に来れば、帰る時間なんて決まってないようなものですよ。ねぇ、そうですよね。先輩」

 突然名前を呼ばれ、僕は顔を上げた。射抜くような月岡の視線が痛い。もうやめてくれ、と心の底で祈りながら、僕はゆるりと首を振る。

「……そうだね……。そんなこともある。でも、あの日は……そんな重症の患者も来ていなかったし、救急外来も閑古鳥だった。だから……僕は、西くんが亡くなったって聞いて、すぐに救命センターに戻ることができた」

 そんな僕と月岡のやりとりを聞いていた藤堂の瞳はやっぱりどこか楽しげで、この場には酷く不釣り合いで、心の表面がざわつく。

「想定の範囲内の悪あがきじゃあ面白くないよ。他に云うことはないのかい? ねえ、君。君はそんな退屈な言い訳、本当にしたいの? 君にとって、そのなんとか云う奴を殺したことは、君にとって隠さなくちゃならないようなことなのか?」

 月岡は、虚をつかれたように目を見開く。

 ほんのわずかの後には眉間に皺を刻んで藤堂を睨みつけたけれど。

「だって、君があの人を殺したの、衝動的じゃないでしょ。予め、準備して、計画を立てて、それで実行してるよね? ナイフを持ち込んだのも、筋弛緩薬を準備したのも、現場から抜け出した方法だって。あれは周到に考えられた殺人だ。それなのに、どうして隠すの? それだけ殺したかったんでしょ? だったらなんで、殺したのは自分だ、って云えないんだ? 君にとってその殺人は恥ずべき隠さなくてはならないことなのか?」

 意味がわからない、と続ける藤堂に、おまえの方が意味がわからない、と僕は頭を抱える。説得にしてはあまりにも破綻していて、どこからつっこめばいいのか皆目見当がつかない。おかしいのは、こいつだ。

 チラリと盗み見た月岡の横顔はまっさらな紙に描かれた下手くそな線画のように無表情で、なんの感情も読み取ることはできなかった。

 藤堂は、ふぅ、と小さな溜息をついて肩を竦めてから、指を四本立てて月岡の前に突き出した。

「じゃあ、よっつめね。よっつめは、君がわざわざ逃げる方法を考えていたこと。しかも、その方法を使うにはあの日しか犯行を行うことができなかったってことさ。君は亡くなったコロナ患者の納体袋に一緒に入って外に出ることを思いついた。コロナ感染者の納体袋は二重になっているからね。これを実行するには、納体袋がそこにある時じゃないとできない。それはコロナで亡くなった方がいる日でなくてはできないよね」

 突然。月岡が大声で笑った。

「あははははは。あんた、馬鹿ですか? いつ人が亡くなるかなんてわからないのに、そんなこと計画的にできるはずないじゃないですか。俺は神でも悪魔でもない。西が……あいつがいつ死ぬかなんてわかるはずもない。確かに、あいつの命は殆ど尽きかけていたけれど。あんたの言ってることは矛盾している」

 笑っているのに、まるで泣いているみたいだった。

 藤堂はそんな月岡を……憐れむように見つめていた。先刻まで楽しげに笑んでいた目を細め。それは……子供の頃、パリの教会で見たステンドグラスの天使の眼差しに似ていた。

「逆さ。計画的にあのコロナ患者が死んだとすれば、なにひとつ矛盾なんてない」

 藤堂の声が低く告げた言葉に僕は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

ぐわんぐわんと耳鳴りがする。

 いま、藤堂はなんて云った?

 ケイカクテキニ、

アノ

コロナカンジャガ、

シンダ?

 え? どういうことなんだ? 月岡が西くんのことも殺した?

 僕は混乱する。

「君はその日、その亡くなった人の担当だったって聞いたよ。つまり、君にならば、その人の最後の命の灯火を吹き消すことだってできたんだ。ほとんど尽きかけていた、っていうその人の命の灯火を、ね」

 目が回る。

 意味が、わからない。いや、わかりたくない。足元がぐらつくような錯覚に陥る。

 月岡が、

 西くんを、

 殺した?

 僕は青白い顔のまま立ち尽くしている月岡を見つめた。月岡は、顔を歪め、は、は、とひび割れた声で笑った。俯く首元で銀色のチェーンが陽射しを反射する。紐の切れかけた操り人形がそれに抗うようにぎこちなく、どうにか倒れないようにするような仕草で、月岡はガタガタと震える膝を両手で押さえていた。

「あんた……あんたに何がわかる。あんたみたいに幸せそうに生きてるやつに」

「うん? 云ったよね。俺は君のことなんて理解しないって。だから、わかんないよ」

「あんたはどうせ、自分の大事な人間を失ったことなんてないだろう? 家族を、失くしたことなんて」

 あっ、と思ったが遅かった。

 藤堂は早くにご両親を亡くしている。正確に云えば、お父さんは事故か事件か自殺か今もってわからないそうだが死亡、お母さんは十五年経った今も行方不明のままだ。僕は、月岡にもこれ以上傷ついて欲しくはなかったけれど、藤堂にも余計な傷を負って欲しくはなかった。

 が、僕の心配なんてよそに、藤堂はふふん、と鼻を鳴らす。

「生憎だったな! うちの父親は死んだし、母親は行方不明、兄弟もいない。恋人もいない。嫁も子供もいない。ついでに犬も猫もトカゲもいないぞ! 友達だって、くろすけだけだぞ!」

 どうだ、とでも云いたげに顎をくいっと持ち上げる仕草に僕は溜息をついた。わかりにくいが藤堂は藤堂で傷つくことだってあるはずだ。たとえ今は乗り越えていたとしたって、他人が勝手に踏み込んでいい領域の話ではない。それから……それは胸を張って云うような内容じゃないぞ、と心の底から指摘したい。

「じゃあ……榊先輩が死んだら?」

「は?」

 唐突に出された自分の名前に、思わず声が漏れる。月岡が何を云っているんだか、理解がついていかない。

 と、項垂れていた月岡と目が合い、次の瞬間には恐ろしい勢いで僕に掴みかかってきた。なにか光るものを振りかざして。

 咄嗟に身を引き、頭を庇う僕の横で、藤堂が足を蹴り上げるのが見えた。

「馬鹿の王様はっ、ロバの耳!」

 グエッと声を上げたのは月岡で、彼が倒れ込むと同時に、僕の足元に銀色に光るメスが飛んできた。僕はヒヤリとしながら、それを靴で踏みつけた。

 藤堂の繰り出した一撃は、月岡の腹に命中したようで、月岡は細い体を折り曲げて地面の上でえづいている。

藤堂は明からさまに眉を寄せ、珍しく不機嫌さを全面に、深々と溜息をついた。

「君、本当の本当に馬鹿だなぁ。いいか、そのロバの耳を引っ張って伸ばしてよーく聞いておくんだぞっ。くろすけは俺のたったひとりの友達なんだからな! 君にはあげない」

 気づくと、世良と細井が茂みからこちらへ駆け寄ってくるところだった。世良は僕の横でかがむと、靴で踏みつけていたメスをハンカチに包んで透明な袋に落とし込む。

「センセも藤堂先生も、無事ですか?」

 世良の言葉に頷きながらも、まだ唖然としている僕の目の前で、細井が月岡の痩せ細った手首に銀色の輪を嵌めようとしていた。

「ま、待ってください」

 僕は慌てて、細井の太い腕に手をかける。そして、まだ地面に転がったままの月岡を見つめた。襟元からこぼれた銀色のチェーンには指輪がひとつ淋しげに光っていた。

「月岡、お願いだから。本当のことを云ってよ。こんな形で終わるのは……嫌だろう? 自首すれば……罪も少しは軽く……」

 まだえづきながらも、月岡は幾分呆れたように僕を見上げた。

「……あんた……なんで、そんな」

「だってさ、月岡はずっと頑張ってきたじゃない。救急医として、たくさんの人を助けてきたよね。もし、おまえが本当に狗田を……殺したのなら、理由があるはずだよね。勿論、どんな理由があったとしても、人を殺してはいけないと思う。でも、ね。人を助けてきたその手が、誰かの命を奪ったのなら、理由を……僕は、知りたいよ」

「……なんで、あんたは……先輩は、そんな綺麗事ばっかり。もう……俺は……」

 白かったサージカルマスクは地面で擦れて黒く汚れ、痩せこけた頬を涙が伝い落ちた。



 後ろ手に拘束された月岡は、細井に伴われてベンチに座った。大柄な細井とガッチリとした世良の間に座る月岡は、少年のように細く、頼りなく見える。

 どこか呆然と、憑き物が落ちたような顔をした月岡は、乾いた声でぽつ、ぽつ、と話し始めた。

「俺は……人を助ける仕事をしているはずなのに……狗田を殺しました」

 隣に立つ藤堂が、退屈そうにあくびをするのを肘で小突く。

「俺の大切な家族は、あいつの所為で……」

 見開かれた瞳は、空虚で、どこまでも黒く光をうつそうともしない。

「家族?」

 世良と細井が怪訝そうに視線を交わすのを見て、藤堂が肩を竦めた。

「コロナで死んじゃった若い子でしょ?」

「……そんな情報……おい、細井、そんなネタ上がっていたか? 兄弟なんていたのか?」

「い、いえ」

 藤堂が溜息をつくのと、月岡が「はっ」と息を吐き出すのは同時だった。

「ほんと……嫌んなりますね。あんたたちは。いつだってそうだ。自分たちの価値でしか物を見ようとしない。あいつは……西は、俺のパートナーだった。家族になろう、って約束もしてた。恋人だった」

 驚いて目を見開く僕を、月岡はせせら笑う。 

「なに驚いてんですか? そんな奴、世の中にごまんといます。先輩の周りにだっていたでしょう? 言い寄られてたじゃないですか。まぁ、あんたは受け入れやしないだろうけど」

 偏見はないつもりだったけれど、月岡の恋人が「彼」だったことに僕は少なからず衝撃を受けていた。てっきり、室生響子が月岡の恋人なのかと思っていた僕は、完全に固定観念に囚われていたと云うことになる。

「去年、西が研修医でこの病院に来て『俺と同じ』だって、なんとなくわかって、それから付き合ってたんですよ。勿論、誰にもバレないようにですけどね。今でも日本じゃ、同性愛は差別の対象だ。LGBTQの権利の拡張? そんなこと言いながら、マスコミは面白がって報道してるけれど、あれだって十分に差別だ。俺たちを晒し者にしてるだけだ。ゲイっていうだけで気持ち悪い、なんて言われたりね。逆に、わかった顔をして野次馬根性で関わられたり。そんな雑音に邪魔されたくなかったから、俺たちはカミングアウトはしてませんでしたけれど。海外でならば結婚式だってあげられる。西の研修が終わったら、二人で海外に行って……結婚しようって約束してたんだ」

 それが、と月岡が吐き捨てるように云う。

「新型コロナウイルスがやってきて、海外に行くのはおろか、同居家族以外とは会うな? あいつは研修医寮に入っていたし、俺がその部屋に入り浸るわけにも行かないし、俺の部屋で二人で暮らすのも、理由がつけられない。俺たちは家族になるはずだったのに……」

 コロナのせい。

コロナの、コロナの、コロナの……!

 僕は緩く首を振る。そんな僕の肩を一度軽く叩いた藤堂は、ふん、と鼻を鳴らす。

「でもその人の息の根を止めたのも君だろう?」

 藤堂の声に弾かれたように顔を上げた月岡は、次の瞬間、深く項垂れ体を震わせた。

「そうです……そうですよ。もう、見ていられなかった。声も聞けない、目も開けない。笑いかけてもくれないし、俺を抱きしめもしない。ただ心臓が動いているだけで呼吸さえ十分にできずに、あいつは『生かされて』いた。コロナ部屋の担当になるたび、俺がどんな気持ちだったかわかりますか? あんたに。あんたたちに!」

 月岡の悲痛な叫びが耳を刺す。

 医療には限界がある。そのことを僕たちは嫌と云うほど知っている。手を尽くしても助からない命があることを。それから、命の重さも。

「挿管が決まったとき、西から電話があって、もし自分がただ機械で生かされるだけの体になるならば、もう治療はやめて欲しい、と言われました。俺は……こうなったのは狗田のせいだと思った。あいつさえ、西の電話に出てくれていれば……西はコロナに感染することもなかった。殺してやりたいと……最初に思ったのは、そのときです」

 震える声は涙の色を孕んで、濡れ、零れ、落ちる。

「どうして、あいつだったんですか……。他の爺さんも婆さんも良くなっていくのに、どうして」

 あらゆることを、僕たち救命科は行った……はずだ。それでも西くんは……。そのことを誰より一番近くで、目の前で見せられてきたのは月岡だ。コロナに感染し、日々重症化していく最愛の人を月岡は診療していたのか。

「あいつがあいつでなくなって、ただ生かされているだけのものになっていくのが、俺には耐えられなかったんですよ。だから……」

 だから、西くんの命の灯火を吹き消し、その日にしか実行できない方法で、狗田を殺したのだと、鈍い僕にもようやく理解できる。

「……あいつの体は、親の元にも帰れず、そのまま火葬されてしまう。最後に触れることすらできないまま」

 遠くを見つめた月岡の頬を涙が一筋だけこぼれ落ちた。

「三十三年間生きてきたことなんて嘘みたいに。声も言葉も笑顔も、なにもかもが。二度と会えない。二度と戻ってこない。俺たちの描いていた明日も。もうずっと、ECMOを回し始めた頃から、孝司は……。でも、俺は……終わらせることが……。最後に……二人だけで」

ああ、そうか、そうだったのか。だから、昨日、藤堂はあんなことを云っていたのか。

僕は俯く。

 月岡は彼のことを心から愛していたのだろう。でも……。

 僕にはまだ、納得できないことがあった。

「月岡、西くんはコロナで亡くなった。仮におまえが最後の引き金を引いたとしても、僕には彼の主たる死因は『新型コロナウイルス感染症』だったと思うよ。確かに、狗田のとった行動の結果、彼はコロナに感染することになったのかもしれない。でもそれは……」

「コロナの所為だって言いたいんですか?」

 笑い混じりに月岡が溜息を漏らす。嘲るような声色が僕にはただ、悲しい。

「うん。コロナの所為だよね!」

 そんな僕の気持ちの揺れを、藤堂の明るい声が差し貫く。藤堂はいつもブレない。でも時々それが、僕には痛い。真っ直ぐに僕を突き刺す。

「知ってるかい? 昔から伝染病……ペストが流行したときも、天然痘が流行したときも、直近だとスペイン風邪が流行したときだってそうだけど、病気がぜーんぶ悪いのに、人間はすぐに人間の所為にするんだ。目に見えない脅威に対する恐怖を、目に見える誰かに転嫁し攻撃する」

確かにそうだった。

 コロナウイルスの流行が始まって、悪いのは実際にはウイルスそのもので、その感染を如何にして防ぐかこそが論点とされるべきなのに……。

 人が人を攻撃する様を、この数ヶ月、僕だって嫌と云うほど見てきた。医療従事者に対し攻撃する人。お店を閉めながらもどうにか生活の糧を得ようとテイクアウトの販売を行う店への誹謗中傷。罵詈雑言の書かれた貼り紙。マスクが欠品すれば、販売しているドラッグストアの店員に詰め寄る人もいた。感染者を出した家の壁には心ない落書きがされ、石まで投げ込まれたという。

 どれも、人が人にしたことばかりだ。そしてそれは、藤堂が云うように、歴史の中で繰り返されてきた。

「ラッキーカラーってあるだろう? あれは色彩心理学的には全く正しくない。ただ添えられている文言に意味がある。つまり、色そのものの本質とは無関係で、そこに添えられた自分にとって都合のいい目に見える理由だけを人間は欲しがるんだ。それと同じだよ。ウイルスの所為にしたところで、自分の持て余した感情の捌け口にはならないからね! つまり、君は、自分のやり場のない怒りをぶつけるため、目に見えないウイルスに代えて人間を据えたのさ。君はいっそ清々しいくらいに、歴史の中の先人たちと同じことをしたまでだ。ペストに感染した人間を通報したり殺害したりした中世の人間同様、ウイルスという目に見えないものにはぶつけられない恐怖や怒りといった感情を、人間にぶつけたんだ。実に愚かだね」

 流石に言い過ぎだ、とジャケットの袖を掴むと、藤堂の冴え冴えとした瞳が僕を射抜く。

「事実を自分の都合のいいように解釈して、攻撃すべき対象をすり替えているだけなのさ。くろすけ。君も事実から目を逸らしちゃダメだ」

 僕は二の句を継げなくなり、空気を噛み、口を噤む。人は、愚かで……浅ましくて……狡くて。どうしようもない空虚さが波のように足元へと押し寄せてくる。

 けれど、僕にはもうひとつ、どうしても月岡に確かめたいことがあった。

 どれほど間違ったって、どれほど愚かだとしたって、月岡はやっぱり、僕にとってはかわいい後輩だったから。

 爪先から這いあがろうとする黒い靄を振り払うように一度大きく息を吐き出して、僕はできるだけ静かに月岡に問いかけた。

「……月岡が西くんと愛し合ってたんだ、って云うのは理解できた。でも、ね。月岡。それならばどうして……あんな殺し方で狗田を……?」

 愛が動機ならば、なにをしてもいいと僕には思えない。あんな残酷な殺し方を、なぜ?

「ああ……アレですか」

 僕の問いに、月岡はふわりと薄絹のような笑みを纏う。

「別に、なんでもないことなんです。見たかったんです。生きている肺が呼吸をするたびに動くのを。心臓が動いているのを。それが動かなくなるまでを見届けたかったんですよ」

「……なんで? どうしてそんな残酷なことをしたんだ? 筋弛緩が効いて体が動かない状態でも、鎮痛剤が投与されていなければ、痛みは感じる。叫べない、振り払うこともできない。生きたまま恐怖と激痛の中で殺されるって云うことが、どんなに酷いことか、おまえだって想像くらいできるだろう?」

 なんで……と、繰り返す僕を、月岡の顔にぽっかりと開いた二つの穴が見つめる。なんの感情の色もなく。

「わかんなくなっちゃったんですよ。孝司がいつから『死んでいた』のか。『生きている』って、どういうことなのか。心臓が動いていれば、肺が動いていれば、『生きている』んですか? それが止まれば死ぬんですか? 動いていたって『死んでいた』かもしれない。だから、見たかったんですよ。人が死ぬところを。ちょうど狗田を殺さなくちゃならなかったから、見ていました。それだけです」

 なんの感慨もなくプラスティックみたいに無機質な言葉が並べられていくのを、僕は呆然と見つめていた。

「舌を……切り取ったのは?」

「言葉で人を傷つけ、嘘をついた人間の舌は抜かなくちゃ」

 後悔なんて微塵も感じさせない平坦な声が答える。

 月岡は……とっくに壊れていたんだ。

 命は重い。

 でも、この仕事をしていると『生きている』ということが、どういうことなのかわからなくなることもある。たとえ、二度と自らの意志で目を開けることさえなくても、心臓さえ動いていれば、それは『生きている』のか。なにが『生きている』意味なのか。わからなくなる。その月岡の言い分は、痛いほどによくわかった。でも……。だからと云って。

 涙が、出た。不覚にも溢れたそれに気づいた藤堂が、少し首を傾げてから、僕の頭をぽん、と一度撫でた。

藤堂は僕の隣で仁王立ちになったまま「だけどさ」と例によって場にそぐわない軽い調子で口を挟む。

「俺にもひとつだけわかんないことがあるんだよね。全ての矢印は君を指していた。動機も大体そんなことだろうとは思ったんだけど。君が隠れたのは……実際は彼と同じ納体袋の中だったのかい? それとも、外側の袋の中?」

のろりと視線を動かした月岡は掠れた声のまま答える。

「外側ですよ……。どれだけ触れたくても、孝司は……コロナだったから」

「ふぅん。そっか。なんだ、君はやっぱりただの殺人犯じゃないか」

 興醒めした、とでも云わんばかりに藤堂は溜息混じりに呟いた。

「俺は君が男か女かも知らなかったけど、そのなんとか云う人の恋人だろうとは思ってたし、あの晩、現場から出ていったのはご遺体とそれを運ぶ看護師だけだった。ならば、その納体袋の中に君が隠れていたと考えるのは自然だ。でも、君が本当に彼を愛していたのなら『内側の』袋の中で、最後に彼に触れたかったんじゃないか、って思ったんだけど、ね。『外側』か。君は最後には自己保身を選んだ。その程度だってことか」

 僕は……。もう一度、世界がひっくり返されたような感覚に襲われる。待て、待って、藤堂。それじゃあ……。

 それはまるで、立ち入ることを禁じられたレッドゾーンのようだった。

「君は、彼のことを隠れ蓑に、コロナを言い訳に、ただそのイヌとかネコとか云う人を殺しただけだ。君はただの人殺しだ」

 藤堂は珍しく真面目な横顔で静かに呟いた。

「愛のために復讐した、ならば、シェイクスピアだって納得しただろうに」

 初夏の風は、なにもなかった頃と同じ季節のような顔をして、青々と茂った若葉を揺らし、言葉をかき消した。


 そして、月岡は逮捕された。





二十七


 月岡が狗田を殺害した犯人だった、と云う事実は、報道規制のおかげでそれほど大きく取り上げられることはなかった。曰く、コロナ禍での精神的な極限状態がもたらした悲劇、として、藤堂があの日云ったように責任は転嫁された。ただし、今回は良い方に。

 僕たち救命救急科と救命センターの人間には狗田殺害の犯人が逮捕されたことだけは伝えられたけれど、犯人の名前までは明かされなかった。とはいえ、月岡が救命救急科のリストから名前を消したから、おおよそ全てのスタッフは月岡が犯人だったと察したことと思う。あれだけ一緒に戦ってきたのに、みんな『月岡直』という人間が最初からそこにいなかったかのように、誰もその名前を口にすることは無くなった。

 そして、僕たちスタッフにさえ公表されなかったのは、西くんの命のともしびを最後に吹き消したのが月岡だという事実だった。既に遺体は荼毘に付されていて、証拠もなにもないことから、警察はこの件については、証拠不十分として処理することとしたのだ、と後から聞いた。

 月岡が離脱し、人手の減った救命救急科はこのままでは立ち行かない状況に追い込まれた。波崎中央医療センターは一旦、三次救急の受け入れを中止することになった。仕方のないことだけれど。

そんななか、那珂川先生は六月いっぱいで退職した。この状況下に退職する那珂川先生のことを軍曹が非難するのを見て、僕は少しだけ、軍曹に親しみがわいた。仕事を辞めるという判断を責めたことに共感したのではなく、いつだってどっしりと構えているように見えていた軍曹にも、分別を越えて感情を表に出すことがあるんだ、とそのことに。そうか、この人だって当たり前だけれど、人間なんだな、と。

 僕はと云えば、椛谷、月岡、狗田の三人が抜け、更には那珂川先生まで抜けてしまい、どうしたってこれから救急を回せないところまで追い込まれた波崎医療センターの常勤に復職することになった。軍曹とまりりんから頼み込まれたのも理由の一つだったけれど、救急で運ばれてくる、本当にギリギリのところで踏みとどまっている命を一つでも繋ぎ止めたい、だなんて理想を思い出したからだ。

 それはもしかすると、偽善だ、と笑われるようなちっぽけな理想かもしれない。それでも、この現場で必死にもがき、戦っている人たちがいることは、嘘じゃない。



***



 救急車が途切れた隙にカンファレンスルームに戻った僕は、レターボックスの扉が半開きになっていることに気づく。そう云えば、最近、中身を持ち帰ることすら怠っていたな、とレターボックスを開けると、厚みのある白い封筒が落ちてきた。何処の製薬会社かと社名の入っていない封筒をひっくり返し、僕は目を見開いた。



***



 あれから毎日のように迎えに来る藤堂に根負けして、僕は藤堂の家に間借りすることにした。最近の言い方をすればシェアハウス、なのかもしれないけれど、持ち家に転がり込んだのだから、シェアではなく、間借り、が正しいように思う。もしくは居候だ。

コロナ禍が落ち着いたわけではないし、おそらくこれから第二波、第三波と繰り返していくのだと思うから、正直なところ感染リスクを考えると、一人暮らしの方がいいことくらい理解している。

 ただ、やっぱり今回の事件で、僕の心は随分と摩耗してしまっていて、自分でも情緒不安定だ、と自覚できるほどで、それだから、藤堂の誘いを受けることにした。

 なにより、六月から救命科の常勤に復職するに当たって、僕が不安定なままではいられないから、打算的かもしれないけれど、藤堂に甘えることにした。

 人との生活は面倒と云ってしまえばそれまでだけれど、一人きりでは倒れてしまいそうなときに助けてくれる誰かの存在は、それを補ってあまりある、と僕は今回痛感した。それが家族であれ、友人であれ、恋人であれ。 

そう考えると、会いたい人に会うことすら憚られるこのコロナ禍というのは、とても厄介で、ただの感染症としての恐ろしさ以上の重さで社会にのしかかっているように思える。 

疾病としてだけではなく、社会的にも経済的にも、そして、精神的にも。さまざまな影響があるんだ。

 月岡は確かに間違ってしまった。けれど、月岡自身の心も、壊れてしまっていた。

 原因は決してコロナだけではないとは思う。でも、コロナ禍でなければ、あの事件は起きなかったんじゃないか、と思うとやりきれない。

 月岡だけじゃない。コロナ禍で仕事や生活、家族を失った人もいる。命を断った人もいた。感染拡大を防ぐための生活がもたらす閉塞感や孤独は時として人の心を蝕む。経済的に困難に陥る人もいる。誰もが……それは、僕や藤堂だって例外ではなく、なんらかの形で影響を受けている。

 でも。

 それを誰かの所為にするのは、間違っていると僕は思う。

社会の変容、それは事実だ。

事実だけれど、それは決して『誰か』の所為ではない。その『誰か』だって、否応のない時代のうねりのなか、変わらざるをえなかっただけなのかもしれない。

 物だらけの応接室、ソファの上で膝を抱える僕の隣に藤堂が腰を下ろすと、ソファごと体が揺れた。

「今日のおやつはザッハトルテ!」

 ローテーブルの上には艶やかなチョコレートコーティングが施された小ぶりなケーキが二つ置かれている。

「や〜。今までお取り寄せができなかったお店も、コロナで通販を始めたからお取り寄せが捗るのなんのって」

 ティーカップに注がれた透き通った紅から湯気が立ち上っている。

 嬉しそうに笑う藤堂は、ティーカップにふうふうと息を吹きかけている。

 どこまでもマイペースで平和な藤堂の横顔を見ながら、僕はふと思う。

 受け取る側次第で、物事は意味を……価値を変えるのかもしれない。熱すぎる紅茶も。コロナ禍で変わった社会も。

色の持つ意味とは別に、その日のラッキーカラーで人の気持ちが変わるように。

「あれ? ねえ、くろすけ。なにこの封筒。不幸の手紙?」

「……そんな大判の不幸の手紙って、なにが入ってるんだよ……」

 手渡された鋏で封を切ると、小さな封筒が二つと薄いケースに入ったCDRが一枚、手の中に落ちてくる。

送り主は、大阪に住む西くんのご両親だった。

 藤堂はあまり興味もなさそうに、ザッハトルテを口に運んでいる。

 白くよそよそしい便箋には、几帳面な青いインクの文字が並んでいた。

 西くんの親御さんのものだろうその文字を見つめていると、心の中に柔らかな悲しみが静かに積もっていくようだった。

 昔から体が弱く、持病もあった西くんが、一度は社会人になったものの医師を志すと決めた時、自分たちは大反対したこと。こんなことになるかもしれない、と思ったこともあったということ。それでも、息子はたくさんの仲間に恵まれ、愛する人もいたのかもしれない、ということ。そして、治療を行ってきた僕たち救命センターの人間への感謝の言葉と、コロナ禍での僕たちへの気遣いの言葉で手紙は締めくくられていた。

 丁寧な文字。温かい言葉。そして、隠しきれない悲しみが青い文字には滲んでいた。

 僕の手からCDRを取り上げた藤堂は積み重なった本の下から引っ張り出したノートパソコンにディスクを読み込ませる。

 数秒の沈黙。

 パソコンのちんけなスピーカーはノイズを吐いてから、ゆっくりと旋律を奏で始めた。それは、まるで嗚咽するように歌うヴァイオリンの旋律だった。

「これ……」

 便箋の最後の一枚は広い余白の中に『追伸』と書かれていた。



『追伸

 息子はずっとヴァイオリンを習っていました。私どもの手元に残された息子の生きていた証です。よろしければ聴いてください。息子がよく弾いていた曲です』



 僕は、その曲を知っていた。

 『シャコンヌ』

 正確には、バッハの無伴奏ヴァイオリンの為のソナタとパルティータ第二番の最後の曲。

「これ……西くんが弾いていたんだ……」

 月岡の電話の後ろでずっと流れていた曲。この曲を聴きながら、月岡は会えない最愛の人をもしかするとずっと思っていたのかもしれない。

「ねえ、くろすけ。知ってる? この曲はね」

 バッハが亡き妻に捧げた鎮魂の曲でもあるんだよ、という藤堂の声は遠い音楽のように僕の中に響いた。

美しく物悲しい旋律が昼下がりの室内に広がる。それはまるで、祈りのように。



                                      完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

熱病〜2020年の記憶 赤木冥 @meruta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ