ほんの僅かに

増田朋美

ほんの僅かに

その日は、雨がやたら降って寒い日であったが、何故か交通量が多くて、結構たくさんの人が道路を歩いていた。何故かわからないけど、いろんな人が、繁華街を歩いていたので、本当に富士市も人が多くなったなと思われる日であった。そんな中でも、障害のある人もいるし、中には病気などで動けない人もいる。そういう人たちもいて社会なんだろうなと思うけど、中にはそれを考えられない人もいる。

その日、杉ちゃんは製鉄所で、水穂さんにご飯を食べさせようとしていると、ほら、ここよとあのサザエさんの花沢さんのような声がして、浜島咲が、一人の女の子を連れてやってきた。女の子と言っても、すでに30を過ぎている女性であるが、ちょっとなにかわけがあるような女の子で、年齢より少し幼く見える。

「ああ、彼女はね、加藤ゆりさん。あたしと苑子さんのお琴教室に、昨年から通ってくれているの。それでちょっと今日は、彼女のことで相談に乗ってほしくて、ここに来たのよ。お願いできるかしら?」

咲は、明るく、隣にいる女性を紹介した。

「そうなんか。それでお琴教室に通う前は何をしていたんだ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「まあ、あんまり口に出していいたくないけど、長らく病院に入院していたんだって。それで、去年の夏に病院を出て、今年から、自宅で暮らし始めたんですって。まあ、ご家族と一緒に過ごせるようになったのはいいんだけど、それだけでは、つまんないから、苑子さんのお琴教室に通い始めたんですって。そういうことで、今日は、ゆりさんのことについて、ちょっと相談に乗って貰えないかと思って、ここにきたの。」

咲は、できるだけ軽い口調で言った。

「そうですか。そんなに長い間入院していたということは、もしかしたら、精神的なことでしょうか?」

と、水穂さんが言うと、

「ええ正しく!右城くんよく分かるわねえ。正しくそうなの。彼女、13歳で入院して、33歳でここに帰ってきたんですって。まあ、精神疾患にはよくあることよね。」

咲は、にこやかに言った。

「まあ確かに、中には50年くらい入院している人も珍しくないっていいますからね。それで、本題はなんですか?」

と、水穂さんが言うと、咲は、彼女にほらちゃんと言ってと言った。咲に促されて加藤ゆりさんは、小さく頷き、

「はい。実は、家族に勧められて、新しい病院に行こうと思ったんですが、新しい先生に診察してもらって、いきなり、25年間飲み続けてきた薬を、古いからやめてしまいましょうと言われたんです。」

と言った。

「古いからやめてしまおう?」

と、杉ちゃんが言うと、

「まあ確かに、そうですよね。古い薬は、効くかどうかも疑わしいことだってありますし、新しい薬のほうが、精神的に楽になれるのではないかと思うこともありますよ。」

水穂さんがそういった。

「でも、私、入院していたときもそうだったんですけど、その薬のおかげで暴れないでいられたことも確かなので、新しい薬に変えてしまうことは、とても不安なんです。」

と、加藤ゆりさんは言った。

「まあ確かに、そうかも知れないですけど、でも新しい薬で、また元気になれると考えれば、それに期待できるのではないでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「期待するって、何に期待するんでしょう?もう学校に行ける年齢でも無いし、病気のせいで受験もできなかったし、中学校だって行けなかったし

、もう無い無いばっかりで。」

加藤ゆりさんは言った。

「まあ、もし勉強し直したいという意思があるんだったら、通信制の高校でまなび直すことだってできないわけじゃない。とにかく何もしないでヘラヘラしていたらまずいから、それよりもなにかしようという意思を示すことじゃないかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも、できることは無いし。」

とゆりさんは言った。

「それはどうかな。だってお琴を始めたんでしょ。まあ確かに、疲れやすいとか、そういう事はあると思うけどね。だけど、なにかしてみるのは悪いことじゃないと思うよ。親御さんだって健在なんでしょ。それなら、親御さんだってなにかしてくれたほうが、いい気持ちになるんじゃないのかな。やっぱりさ、若いやつが、家にいつまでも居るってのは、ちょっと変だよね。それよりも、家の外に行って、明るく楽しくやっていたほうが、ご家族にとっては気持ちいいことだぞ。」

杉ちゃんがいうと、

「でも、行くところなんてどこにも。」

ゆりさんはそういった。

「もし可能であれば、この製鉄所を利用してもいいぜ。ここで勉強したり、仕事をしているやつも居る。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも私、勉強できなかったから。成績が悪くて、親には散々叱られましたし、もう教育とかそういうところには、、、。」

とゆりさんはいう。もし、再度教育を受けられたなら、彼女がどれだけ救われるかと思うのであるが、ゆりさんのように、教育機関に不満を持ってしまう人も多いのだ。そうなると、改めて、教育機関がいかに無責任であるかということに気がついてもらいたいものであるが、偉い人はそれに気が付かないらしい。

「そうですか。確かに学校というところは、辛い気持ちしか残らなかったという人も少なくありません。それは、ゆりさんが心の傷を癒やすことから始めればいいです。病院に入院してもそれは、解決できなかったということですよね。」

水穂さんが優しくそういった。

「大丈夫ですよ。そういうふうに、長期入院しても、心の傷を解決できなかった方は他にもいらっしゃいますから。」

「でも、そうなると、本当に居場所が無いよなあ。家にずっといるのも嫌だろう。それなら、通う場所があればまた違うと思うけどね。でも、お前さんは勉強はしたくないか。」

杉ちゃんがそう言うと、ゆりさんは申し訳無さそうに頷いた。

「それなら、ゆりさん、水穂さんの世話をしてもらえないかしらね。ご飯の支度とか、布団の手入れとか、枕元の整理をするとか、そういうことね。」

いきなり咲がそういう事をいい出した。

「無理です!私、介護の仕事なんて、全くしたことがありません!」

ゆりさんは驚いた声でそういうのであるが、

「じゃあ、勉強のつもりで、ちょっと水穂さんの世話をしてもらえばいいじゃないか。どうせ、介護というものは、誰でも直面するものでもあるぜ。それを体験させてもらうことは悪くないだろう。もしかしたら、机の上の勉強よりも、いいかもしれないぜ。なあ、どうだ。お前さんここで女中さんとして働いて見ないか?」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「でも、医療とか介護は、一番正しい仕事だから、それについて、親に恩返ししてって担任教師怒鳴られて。」

とゆりさんは言った。

「はあなるほど、長時間隔離されていたせいで、心の傷ついたところばかり、向き合わされていたんだな。それなら、新しくなにか仕事したほうがいいよ。そういう仕事に甲乙つける教師が馬鹿なんだ。そういう事は、もういいとして、水穂さんの世話係として、ここで働いてもらおう。」

杉ちゃんはでかい声でそう言って、すぐに車椅子を動かして、どこかへ行ってしまった。

「大丈夫です。ゆりさん。杉ちゃんは、ちょっと良い方は乱暴だけど、悪い人ではありません。だから、気にしないでここで働いてください。それに、ずっと同じ時点で止まっているより、動いたほうが早く回復するというのは確かなので。それに誰も悪いようにはしませんから。」

水穂さんが優しくそう言ってくれたので、ゆりさんは少し涙をこぼして、

「はい。わ、わかりました。」

とちょっと嫌そうなでも、やりたい気持ちもあるような声でそういった。それと同時に杉ちゃんが車椅子を動かしながら、箒を持って戻ってきて、

「これで庭を掃いておくれよ。」

にこやかに彼女に言った。

「わかりました、やってみます!」

ゆりさんはそれを受け取って、庭を丁寧に掃除した。学校で外掃除を任されていたと、彼女は言った。その時に、いじめがあって、外を掃除するときに、何も与えられなかったという。そういう事は、誰かに相談してみたりしなかったのかと杉ちゃんが聞くと、水穂さんが、それができたら精神疾患にはかからないと言った。

「そういうことだったら、ここでは、一生懸命庭掃除をやってもらおうかな。ゆりさん、お料理したことある?おかゆとか、そういうものを作ってあげてよ。」

咲がそう言うと、

「ええ。調理実習では、手を出すなと言われました。私が包丁を持つと、バイキンがつくからって。」

とゆりさんは答えた。

「はあ、それって完全にいじめじゃないか。学校の先生に相談もしないでよく耐えていたね。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。学校の先生が、なんとかしてくれようとした直前に、病気になって、入院したんですよ。」

ゆりさんは言った。なんだかそれも皮肉なところである。そうなる前に、本当は、彼女をなんとかしてくれたら良いのになと思うのであるが、ゆりさんはそれに耐えられなかったのだろう。

「そうですか、まあ、とりあえず病院で20年間治してもらって、その後で第二の人生をあるきましょう。これからは、もう少しこちらで明るく生きていきましょう。」

水穂さんに言われて。ゆりさんはハイと小さい声で言った。そして、なにかを忘れ去ろうとしているかのように、一生懸命庭を掃除し始めた。

「ああ良かった。ゆりさんがここを気に入ってくれて良かったわ。あたしたちも、彼女が、少しでも前向きになってくれるように、頑張って斡旋をしてあげなきゃな。」

と、咲もにこやかな顔をして、ゆりさんを眺めていた。

それと同時に、一台の車が製鉄所の前に止まった。そして、鶯張りの廊下が音を立ててなって、

「あーあ、連休も終わったというのに寒いなあ。なんでこんなに寒いんだろう。全くよ、日本の気候は最近はおかしなものばかりだ。なんでこんなに、寒いんだろうな。」

と富士警察署の刑事課長である、華岡保男警視が、入ってきた。

「おい、杉ちゃん。風呂貸してくれ。もう警察署は寒くてたまらんのだ。それにうちの風呂は狭くて洗い場がないし、風呂に入った気にならない。貸してくれ。」

「ああ良いよ。風呂はしばらく使ってないから、お湯を入れることから始めてね。」

杉ちゃんがそう言うと華岡は言わなくてもわかるといって、製鉄所の浴室へ直行した。もともと製鉄所で間借りをするための人のために浴室を設けてあるのだが、少なくとも、自宅の浴室の二倍はあるので、ゆっくり憑かれるのだった。華岡が、でかい声で鼻歌を歌いながら、風呂に使っているのをきいて、ゆりさんは、なんだか楽しそうですねと言った。

「まあ、警察なんて、一度事件が起こると、なかなかお風呂にも入れませんからね。それでここのお風呂に入りたがるんじゃないですか。」

水穂さんが苦笑いすると、

「それなんとなくわかります。私も、入院していたときは、お風呂に入りたくても入れませんでしたし。」

と、ゆりさんは言った。

「そうなんだねえ。まあ、ここで風呂貸してなんていうのは、きっと事件の捜査に行き詰まって、逃げたくなったときだ。」

杉ちゃんはそう解説した。確かにそのとおりなのだ。華岡は、つきがーでたでーた、つきがーでたー、なんて歌を歌いながら、楽しそうに風呂に入っているようである。それが終了したのは、40分近くたってからだった。

「ああー!いい気持ちだった。やっぱり風呂は良いねえ。杉ちゃんありがとう。」

そう言いながら、華岡は杉ちゃんたちの方に戻ってきた。

「また事件ですか?華岡さん。」

水穂さんがそう言うと、

「おう。なんだか胸糞悪くなるような事件が起きてしまった。こんな事件があって良いものかどうか。なんだか、日本の子供の将来が心配になってきたよ。」

と華岡は言った。杉ちゃんがどんな事件なのと聞くと、

「はい。あのねえ。精神障害のある子供さんが、母親に置いてきぼりにされてしまって、餓死したという事件だ。なんでもその子は女の子で、幼稚園に入ろうと思っても、障害のあるせいで、断られていたそうだ。」

華岡はそう答えた。

「精神障害ね。それはどんな障害だったわけ?知的障害に近いものかな?それとも、読み書きが全くできないとかそういうことか?」

杉ちゃんが聞くと、

「まあ、いわゆる、発達障害みたいなものかなあ。4歳の女の子だが、感情をうまく表現できなかったり、電車に乗って一番先に降りたいなど、こだわりも強い子だったようだ。」

と、華岡は答えた。

「それでは、ご家族は誰かいなかったの?そういう女の子だったら、親御さんが一緒に住むとかそういう事すると思うけど?」

咲が華岡に聞くと、

「そうなんだけどね。始めは、父親と母親と一緒に暮らしていたそうだが、女の子が発達障害とわかると、両親が離婚してしまって、女の子は、母親と二人暮らしだったそうだ。」

華岡は、そう答えた。

「無責任だなあ。障害があるってわかってからのほうが、一世一代の大勝負だぜ。それもわからないで逃げちまうのか。」

と、杉ちゃんがでかい声で言うと、咲も無責任な親が増えたのねといった。

「それで、母親は、何でも水商売でもして生活費を稼いでいたそうだが、異性交流が始まったと同時に、子供が可愛いと思えなくなり、それで、子供を殺害にいたったんだって。母親は、女の子が死んだとき、交際相手の家にあそびにいってしまって、自宅には、ずっと帰っていなかったらしい。俺たちが、子供の遺体を発見したとき、部屋はドアと窓全てにガムテープが貼られていて、逃げられないようになっていた。アパートの大家が家賃滞納を催促に行ったときに子供の遺体が発見されたのだが、その時にならないと、近所の人が、気が付かなかったのが、俺はびっくりした。」

華岡は、大きなため息をついた。

「そうなんだねえ。まあ親も確かに子供を殺してしまった事は悪いけどさ、近所の人も、放置しないでもらいたかったね。子供さんを母親から、守るためにもね。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですね。でも、それは、健康な子供さんであるからできることですよね。先程華岡さんがいった、発達障害というものがあると、いい子ではなくて、悪い子と評価されて、その子にできるだけ近づかないようにするようになるんじゃないかな。それは、正常な反応なのかもしれないのですが。その小さな女の子が、近所の人達に迷惑をかけたとか、そういう事はありませんでしたか?」

水穂さんが華岡に聞いた。華岡は、腕組みをして、

「うん、確かに、あったらしいよ。例えば、女の子が、近所の人に挨拶をされて、相手の顔を見て逃げちゃったりとか、そういうエピソードはあったらしいから。其のあたりはまだ捜査中なんだがね。障害があるというか、見えない障害があるというのは、なかなか理解を得にくいものだからな。」

と杉ちゃんに言った。

「やっぱりそうですよね。ある程度、近所の人とか、そういう人の援助を受けるには、日頃から態度が良くて、親の言うことに従う子であるとか、個性があっても学校の成績が良いとか、そういう条件がついてきますよね。だから、近所の人から、手助けをもらうというのは、非常に難しいところではないかと思いますね。」

水穂さんが「そうなるための条件」を言った。それを、庭の草むしりをしながら、加藤ゆりさんが、聞いていた。

「そうなんだよねえ。俺もそう思ったよ。ちょっとでも違うところがある子は、すぐ爪弾きにされちまうのが、日本社会ってもんだぜ。」

華岡は、やれやれという顔で言った。

「僕もスーパーマーケットにいって、アジフライの袋詰とかしてくれとかいうと、逃げられちゃうもんな。まあ、僕みたいに、全部が違うやつじゃなくてもほんのちょっと違うんだなっていう人間に、日本人は免疫が無いんだよね。まあ、そんなところか。」

杉ちゃんが、華岡に言った。それを加藤ゆりさんは草むしりをしながら聞いていたが、杉ちゃんの其の言葉を聞いて、涙をこぼしてしまった。彼女がそうしているのを気がついた水穂さんが、

「杉ちゃんも華岡さんも、その話はやめてやってくれますか。ゆりさんが可哀想になってしまいますから。」

と、杉ちゃんたちに言った。

「でも、それが現実だ。現実の話は、嘘偽りなく伝えてやったほうが良い。だって、彼女は、その社会の中で生きていなかければならないんだぜ。それを変えてくれるやつなんてどこにもいやしない。そうなってしまうのはしょうがないとして、そういう世界で生きていくために、耐えてもらわなくちゃ。」

杉ちゃんが、そう言うと、

「でもそういうことであっても、今日だけはやめてくれますか。ゆりさんが、本当に可哀想ですから。確かにそのとおりかもしれませんが、でも、ゆりさんは今日、ここで働き始めたばかりなんですから。」

と水穂さんは言った。咲が、右城くんって本当に優しいのねと小さい声で言った。

「せっかく、ゆりさんは、新しい薬に切り替えられることもできたし、ご家族と一緒に暮らすこともできるようになって、そして、今日ここで働こうとしてくれたんですよ。だから、今日はその大事な記念日です。そんな日に、事件の話をしてしまうのは、酷だと思いま、、、。」

水穂さんはそう言いかけてまた咳き込んでしまった。それを咲が、もう、右城くんたら、と言いながら背中を叩いて内容物を出しやすくしてやったりした。ゆりさんは、水穂さんもなにか事情がある人なんだとここで初めて悟ってくれたようだ。しばらく、草むしりをやめて呆然としていた。

「それでは、俺、捜査会議があるんで、ひとまず帰るわ。」

と、華岡が、でかい声でそう言い、杉ちゃんに見送られながら、製鉄所から出ていった。水穂さんは、咲から薬をもらって、なんとか楽になってくれたようだった。ゆりさんは、なにか感じ取ってくれたようで、水穂さんの様子を眺めていた。

「結局の所、人間に変えられることなんてほんの僅かなんだよな。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ほんの僅かに 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る