08 甘井さんはこれからもずっと僕を困らせる
あの公開処刑事件から、甘井さんの僕への態度が軟化した。
消しゴムを落とせば拾ってくれるし、ボーっとしてしまった授業で当てられても教えてくれる。気づかなかった肩の糸くずを取ってくれることもあれば、ノートと睨めっこし難しい顔をしていたら声をかけ指南してくれる。
あれだけ辛辣だったのがまるで嘘みたい。ちょっと自意識過剰かもしれないが、接し方が他の男子たちより近いような気もする。なにせちょこちょこ話かけてくれるようになったのだ。
こんな可愛い女の子に交流できたら、僕だって気分がいい。勘違いだけはしないように気をつけながら、よき隣の席のクラスメイトとして過ごしていた。
あれから一切困ったことがない。
だから僕は油断していたのだ。
それは授業中のこと。昨日家で使った消しゴムを、そのまま忘れていることに気づいた。
「ごめん、甘井さん。ちょっと消しゴム貸してくれない?」
かつてのように顔色を窺うことなく、甘井さんに助けを求めた。
このくらいきっと、笑って貸してくれる。僕はそう信じていたし、甘井さんはやはり笑顔で頷いてくれた。
問題なのは、その笑顔に遅れてなにかを閃いたような顔をしたことだ。
彼女の手は卓上の消しゴムではなく、かけられているバッグに伸びた。
「はい、どうぞ」
悪戯っ子のような顔で、甘井さんはそれを渡してきた。
「……パン?」
六枚切りの厚みを持つ食パンが、一枚だけ包装されたものだ。しかも生食パンの名を冠したちょっといいやつである。おそらくコンビニで買ってきたお昼ごはんなのかもしれない。
消しゴムを求めたはずが、なぜか食パンを渡された謎。
これでどうしろという目を向けると、甘井さんは素知らぬ顔で黒板を見ている。
わけのわからぬまま食パンに目を落としていると、
「こら、真中くん。授業中にパンを食べようとしない」
担任のあやこ先生に見咎められた。その声音は怒っているというよりは呆れていた。
「お腹が空いたなら、せめて休み時間に食べなさい。残りたった十分も待てないの?」
「いや、これは……消しゴムを使いたくて」
「その食パンが消しゴム代わりだと言いたいの? あのね、今は数学の授業。美術の時間じゃないのよ」
見苦しい言い訳は止めなさいというようにたしなめられると、教室中がドッと湧き立った。あやこ先生が上手いことを言ったと褒めるように、拍手するものもいる。
衆人環視に置かれた僕は、ただただ困ってしまい狼狽える。
そして甘井さんがパンを渡してきた真意にも気づいた。
パンを消しゴムとかけたのだ。昔の絵描きは、パンを消しゴム代わりにしていたから。
つまり甘井さんは授業中に大喜利を始めたのだ。
あまりにもくだらなすぎると肩を落とそうとすると、
「遅刻遅刻ー」
間の抜けた弾むような声が聞こえた。星宮さんであった。
また、教室は笑いの渦に包まれた。
なにがそんなにおかしいのかと思ったら、
「あー、ルカ子ちゃん転校してこないかなー」
「食パンくわえてるルカ子ちゃんにぶつかりてー」
「わたしもぶつかりたーい」
「俺、明日真中の家の近くの曲がり角で待機しとくわ」
「抜け駆けは許さんぞ。ルカ子ちゃんのファースト衝突は俺のものだ」
やんややんやと、授業中にも関わらず盛り上がるクラスメイトたち。みんな僕のことをニヤニヤと見てくるのだ。
星宮さんの言った意味がわかった。
僕と食パン、そして遅刻をかけ、遅刻する食パン少女を連想させたのだ。ミス・青碧の称号を冠した僕は、可愛い女の子というイメージがみんなの中で根付いているのだ。
あの大舞台は打倒する甘井さん。そんな使命感があったから恥など捨てられたが、こうして女の子いじりされるのは恥以外なにものでもなかった。
僕は顔を真っ赤にさせ、視線から逃れるように俯いた。
そしてクラスの注目を一手に集めながらも、僕はその視線に気づいた。
甘井さんである。
口元を押さえながら、これでもかとその目はニタニタと笑っていた。なにかゾクゾクとしたものが走ったように身震いすらしている。僕の困った姿に楽しさを通り越して、気持ちよさすら覚えているかのようだ。
やられた……。
かつては辛辣さで僕を困らせてきたが、その手口を変えたのだ。まさに油断していたところをパクリ。好物の困った顔を引き出して、甘井さんに召し上げられてしまった。
一体彼女がどんな感情を持って、僕を困らせたいと駆り立てるのか。
その真意に気づくのは、これからもう少し先の話。
「もー、授業中になにをしてるの、ルカ子ちゃん」
来年のミスコンでやり返されて、僕たちが結ばれた後の話だ。
それまでの間、手を変え品を変え、ひたすら甘井さんに困らされることになるのだが、それはまた別の話である。
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