02 甘井さんを助けたはずなのに困ってしまった

 甘井さんに困らされたといえば、その週の休みのこと。


 その日はハルたちと待ち合わせをしていたのだが、早めについた僕は駅構内から出て、ウロウロしながら時間を潰していた。


 休日の街は相変わらず人が多い。これだけ人が溢れていたら、クラスメイトとすれ違っても気づかないかもしれない。


 そう思っていたのだが、視界の端にその顔が映ると、つい二度見した。


 甘井さんだった。いつも見る制服とは違い、白いワンピースに身を包んでいた。それが新鮮であり、あまりにも綺麗だったのでつい目を奪われてしまった。


 そして彼女の魅力に惹かれたのは、僕だけではなかった。


「君、可愛いねー。ひとりー?」


「えっと、友達と待ち合わせてるので……」


「相手は男ー? 女の子だったらみんなで遊びに行かない?」


「あの、困ります。急いでるので」


「いやいや、釣れないこと言わないでさ、ちょっとだけだから」


 甘井さんは男ふたりにナンパされていた。腕などを掴まれるような真似をしていないが、甘井さんの行き先を塞いでいるのだ。


 周囲も気づいているだろうが、触らぬ神に祟りなしを体現していた。誰も彼も見てみぬふりして、通り過ぎると甘井さんのことなどなかったかのように忘れるのだろう。


 さすがにこれは、見過ごせなかった。


「ちょっと、困ってるじゃないですか」


 横から割って入るように声をかけた。


「あ、なんだよおまえ。この子の知り合いか?」


「そうじゃねーなら引っ込んでろよ」


 赤の他人が首を突っ込んできたと思ったのだろう。男のひとりはどっか行けと言うようにしっしと手を払った。


 どうやら知り合いなら、引っ込まないでいいらしい。


「この人は――」


「ルカくん!」


 ぎゅっ、と柔らかい感触が腕に絡みついた。


 何事かと思ったら、甘井さんが僕の腕にしがみついてきていた。


「彼氏です! この人、わたしの彼氏です!」


「え?」


 急展開に驚きを隠せなかった。


「いやいや、嘘言っちゃいけないよ」


「こいつもなんか、驚いてるじゃん」


 男たちも面食らったようだが、すぐに笑い飛ばした。


「嘘じゃないです。毎日のように隣にいてくれる大切な人です」


 甘井さんはたしかに嘘は言っていない。席が隣だから毎日のように一緒である。


「彼は幼なじみで、生まれたときからずっと一緒で、お風呂も一緒に入ったし、ちゅーだって何回もしてきたんですから」


 抱きつく腕に力が入った。豊満な谷間に僕の腕がフィットする。


「あ、甘井さん……う、腕が」


「ルカくんはそんなわたしの大大大大大好きな、世界で一番大切な人です! その間に入る隙間は誰にもありません!」


 やけになったように畳み掛ける甘井さん。吐息のかかる距離でそんな風に言われたら、胸がいっぱいでドキドキしてしまう。


 男たちは必死な甘井さんを鼻で笑った。


「へー、そうなんだ。だったら証拠に、ちゅーして見せてよ。そしたら俺たちも引き下がるから」


「もし嘘だったら、俺たちとこれから付き合ってよ」


 自分勝手な条件を、彼らは突きつけてきた。どうせできないだろうと心でほくそ笑んでいるのだ。


 困ったことだ。こういうときにこそ、あのふたりがいてくれたらと心から思わずにいられない。追い払った先で、『おまえの顔、覚えたからな』なんて捨て台詞を吐こうものなら、僕の危険の芽を摘むため地の果てまで追いかけ懲らしめる。実際、そのようなことがこの前にあった。


 そう悩んでいると、右頬になにかが触れた。三秒ほど柔らかな感触が張り付いて、離れるとき『ちゅっ』という音が聞こえた気がする。


「付き合ってるのは嘘ですけど、この人が好きなのは本当ですから」


 挑戦的な笑みを男たちに向けた甘井さん。その顔が僕に向くと、そこには恋する乙女がいた。


 時間が経って、理解した。


 どうやら僕は甘井さんに、ほっぺにちゅーをされたのだ。


 それに気づいた瞬間、左手で右頬を押さえてしまった。こういうときどんな顔をしたらいいかわらず、困ったように狼狽え、甘井さんのから顔を背けてしまった。


「あーあ、わかったわかった。俺たちが悪かった」


「こんなの見せられたら、口説く気も失せる。どうぞお幸せに」


 そう言い残したナンパ男たちは、あっさりとその場から去っていったのだ。


「ありがとう、ルカくん。助かっちゃった」


 完全に彼らの姿見えなくなると、甘井さんが感謝してきた。もう彼氏のふりをする必要がないのに、まだルカくん呼ばわりだ。なにより腕から離れようとしないのが困った。


「い、いや、別に――結局僕、なにもしてないし」


「ううん、こうやって助けに来てくれただけで嬉しかったよ。ルカくんが来てくれなきゃ、まだ絡まれたと思うから」


「それなら、よかったけど……」


「お礼にもう一回、しよっか?」


「えっ?」


 いきなりの提案に、つい声が上ずってしまった。


「お礼って……な、なにを……?」


「女の子にそれを言わせるの?」


 甘井さんは人差し指を、僕の頬をなぞるように這わせた。


 その艶めかしい感触に震えた。


 そんな様子の僕に、甘井さんはくすくすとおかしそうにする。


「それとも、こっちにしてほしいのかな?」


 今度はその人差し指が、僕に唇に触れた。


「ルカくんがどうしても、ってお願いしてくれるなら……いいよ?」


 囁きかけるように、甘井さんは甘い声で言った。


 つい、甘いさんの唇に目を奪われた。


 瑞々しい、柔らかそうな桃色の唇。カラーリップでもしているのか、どこかしっとりとして見えた。


 甘井さんとキス。それを考えただけで、頭が茹だるように熱を持った。


「ふふ、ルカくん顔、真っ赤っ赤」


 するとその唇の端は、ニヤっと上がったのだ。


「そういう顔もいいな」


 その目は大岡裁きのときに見た、ニタニタとしたものだ。


 なんだからかわれているのかと思ったら、ふいにその唇がこちらに近づいてきた。それは僕の口にたどり着くことはなく、耳元に近づいた。


「可愛い」


 吐息を漏らすように、ちゅっ、と耳下に唇が触れた。


 心がゾクッ、っとした後に胸がキュッ、って締め付けられた。


 慌てて頬に触れると、甘井さんが僕の腕を開放した。


「今日は助かりました、真中くん。また学校で」


 バイバイと手を振りながら、甘井さんは駆け足で去っていった。


 まるで何事もなかったかのように、僕の気持ちを置いていってしまった。


「なんなんだよ、もう……」


 僕はうずくまると、しばらくその場から動けなかった。


 その感触は今日一日張り付いて、ずっと上の空だった。

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