第8話

 生き残っていた。


 血だらけで。今にも死にそうだけど。まだ、今は。生きている。


 そのまま、街を、歩く。彼女に、会えるかもしれない。見つけられるかもしれない。今なら。今だったら。


 携帯端末は動かない。食われた記憶の揺り戻しなのか、街自体が水を打ったように静かだった。雨の音だけ。


 怪物を、倒した。街中の記憶は、たぶん戻る。そして、それよりも先に。


 相貌認識が、できるようになった。自分の顔が分かる。他人の顔が分かる。今なら、彼女の顔も。分かるかもしれない。見たことないけど。これが初めての、他人の顔。


 身体は、重かった。雨はまだ止まない。身体の感覚はなかった。ただ、歩ける。歩けるなら、動ける。ぼうっと、そんな、意味のないことを考えていた。頭に血が回っていないのかもしれない。


 目の前。


 四角い額縁の前に、立ち尽くす女。


 彼女だった。


「ここに、絵があったの」


 街中の人間が沈黙しているなかで、彼女はここで、ただの額縁を眺めている。それも、記憶を失う前に描いたであろう絵の、そのなれの果てを。


 彼女の記憶は、戻らないかもしれない。なんとなく、そう感じた。自分の相貌認識は戻ってきたのに。彼女との日々が、戻ってこないのか。


 さすがに、立っているのが、しんどい。血を流しすぎた。

 座り込んで、彼女のほうを見る。


 顔が綺麗かどうかは、分からなかった。雨に濡れて、なんか、かなしそうな表情だというのだけが。分かる。相貌認識、あまり戻ってくる意味もなかったな。


 記憶が戻らなければ。彼女と会うのも、これが最後かもしれない。


 意識がなくなるまで、せめて。彼女の隣にいようと思った。雨に、血がにじんで。自分の周りだけ、ちょっと暗い。

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